ACT.04-00_ Vol de nuit sanglante.【chapter.04~08】
4(八月一六日/午後七時三七分/『骨船』ゲオルギウス号客室区画中央部大広間『禊の間』)
ゲオルギウス号客室区画中央に位置する大広間は、主に夕食に使われる場所だ。
プラエセプトゥム=クゥム=ヴェリタス修道会の信条を引用するのであれば、彼等にとっての食膳の祈りの時間は同時に自身の力の不足を顧みる場でもある。生きていく上では欠かせない食事という行為それ自体が、自分が主の教えを解することのできない不完全な存在であると知り、最終的にはそれ自体が不要となることを目指し個々が邁進の礼を述べる……という感じらしい。
まあ傍から聞いていれば、あからさまにも程があるような脳筋思想だ。それは手っ取り早く言えば『入信して身体と精神を鍛えれば食事なんて要らなくなるぜ☆』的な安易かつ無根拠なものでしかない。それでも信条の破綻が起こらないのも一つの謎か。
「何だか申し訳ないですね、夕食にまで一緒しちゃうなんて……」
そんでもって件の『禊の間』。
枢機卿が座るにはやや質素なテーブルを囲んで、数人の円卓騎士と聖術師、それに加えてヘクシス=ゼノン=バルディウス司祭枢機卿と『勇者』が会食に勤しんでいるのがそこだ。
時間はヴァティカン基準での午後七時。聖職者の夕食としてはやや遅めの時間帯なのだが、起きている間のほとんとを武術の訓練……分かりやすく言えばトレーニングに費やす彼等にとってはこのぐらいが丁度良いらしい。かく言う彼女も食事のリズムは意外にもプラエセプトゥム=クゥム寄りなので、普段と変わらない時間に腹を満たせるのが有難かったりする。
「招いたのはこちら側である故気に病む必要はない、と弁。来客に備えてゲオルギウス号には十分量の食糧を備蓄しているし、万が一のために機内で植物を栽培するための施設も容易している、と説明。唯一の懸念は肉類だが……こればかりはどうしようもない、と苦言……」
「閣下とか見た感じ全然ベジタリアンとかじゃなさそうですしね」
「当然と言えば当然だが……プラエセプトゥム=クゥムにも一部菜食主義に傾倒する連中がいる、と補足。ただし基本的に教会の教えは肉食を禁じてはいない。精神を鍛える一環としてのものだとはいえ武に依るは肉体、我々にとって必要なのは特に肉類を食べることであるしな」
「……豚は不浄。……牛は清浄。鳥は……うーん」
「むがが関係ない私はただ肉を食らうのみ筋肉を付けるにはとにもかくにも肉を喰って訓練の繰り返しが最も効果的であるからして私は肉を食らうのであるガツガツガツガツガツ」
「……まったく、何故『修道院長』閣下の前であってもこいつらは……げふんこの二人はこの調子なの……。閣下、申し訳ございまん。このアトーシャが人選を誤ったばかりにこのような醜態をお見せしてしまって……」
それで同じテーブルに座る他の人達のラインナップなのだが……こう、やたら背がデカいくせして皿の前で首を捻っている黄金柏葉円卓騎士と、体格的にさほど大きくないのに人一倍かっ喰らっている少年と、それと腰回りは細いのに胸はやたらと成長している眼鏡のおねいさんが一名。
誰を見ても個性的が過ぎるのだが、少なくとも『勇者』からすればこう言うしかない。
「……ここって閣下のお食事の場ですよね?」
「そうであるが、それが何か? と疑問」
「何か、こう言っちゃ失礼かも知れませんけど……とてもお傍に置いておくような人には見えないのが一緒にいるのはどういう理屈なんですか? 人数も結構少ないみたいですし、閣下の身の安全を考えたらもう十数人ぐらいは同じ部屋にいても良い気がするんですが……」
「おや、『勇者』様はアトーシャと同意見なのですか? しかし申し訳ありません、この二人については閣下のご指示があったもので、アトーシャとしてはとても閣下の傍に侍らせるような者ではないと散々申し上げていたのですが……はぁ」
「教会に属する者としてはそれも一理ある意見だな、と外より返答」
小さく切ったサイコロ状の牛肉を口に運び、ゆっくりと味わった後でヘクシスが言った。
「だがプラエセプトゥム=クゥムとはそのような場所につき、と弁。真に主の教えを解する道は、肉体を鍛えるその道筋において無我の境地を得ること一つのみ。力はただ他者を傷付けるためにあるのではなくむしろ自身が主の教えを知り、結果として聖ゲオルギウスが成し得なかった救済を可能とすることである、と結。『勇者』殿もそれは分かるであろう」
「救済、ですか……」
「表面的な態度が人の内面を映しているとは限らない。むしろ人は自らの醜さから目を背け、自分の思っている自身と他人から見られる自身との間の溝を埋めるために仮面を身に付ける。その場その場に応じ、自らが最も良い目で見られるように顔を書き換える訳である、と弁」
「……閣下はそういう理屈でこのような二人をお傍に置くのですか……。アトーシャに反抗する気はございませんが……ですが、もう少し常識的な人間を選んだ方が良いと思われるのです」
「「人の身を見て自分を顧みれバーカそのおっぱいで聖職者は無理だっつってんだろ」」
「……この食事を最後の晩餐にしてやりましょうか具体的に言うと表に出ろ」
何かテーブルの一角でギスギスした雰囲気が漂っているが、流石にヘクシス閣下の前だからかお互いに自重しているらしい。
何だかんだ言いながらも食事に没頭している様子は、聖職者のそれと言うよりかはむしろ『ギルド』に属する家族のような感じがする。人が少ない分アモル=クィア=クィスク修道会の夕食に比べるとやや寂しい気もするが雰囲気自体はそれと似たものだ。
心地良い、と素直に思える。
実家のような安心感、あるべき場所にいるような感覚、まさに文字通りなのだ。
「……そのように感じているのであれば僥倖、と本音」
「サラっと読心パート2しないで下さいよ」
「読心も何も『勇者』殿の顔に出ている。勘違いはしないで頂きたいのだが、吾輩としては貴官がそのように思っていること自体、嬉しいことなのであるからな」
「嬉しい? 逆じゃないんですか? プラエセプトゥム=クゥム=ヴェリタスの信条を見た時にはこう、もっと厳格でガッチガチなイメージがあったんですけど」
「それも間違ってはいないな、と返答」
何故だか、ヘクシス枢機卿は否定しなかった。
本人も本人で大きめの皿に盛られた……(枢機卿団なんかから見ればただの暴食の産物にしか思えないであろう)分厚いステーキにかぶり付き、ついでに銀のグラスに注いだワインを飲み干しつつ続ける。
「……『勇者』殿。貴官は今の修道会の有り様についてどう思っている?」
「どう? どうって言われましても……私がよく知ってるのはアモル=クィア=クィスクとジュディチュム=イノミエ=デイぐらいですし。閣下は知ってるかもですけど、私達のトコもこんな感じですね。ついでにジュディチュムの方は年中異端盗伐と内部告発に忙しい感じで、何だかあまり纏まっているようには思えないんですが」
「それも重要ではある。だが問題は信条に関してだ、と補足」
「信条が、ですか」
「ああ。修道会の設立に関しては貴官も熟知しているだろう。教会の支配体制に関わる枢機卿が自身の地位の盤石なることを望んだ時に欲するモノ、簡単に言う所の味方。それが修道会だ。そうして特定の信条を見旗として修道士を寄せ集め、枢機卿は自らの解釈によって作られた新しい信仰を軸として足固めをしていく。六大修道会の一つにまでのし上がれば発言権も大きくなる故、修道会を作ることは枢機卿にとって出世街道の必須通過点とも言えるだろうな、と弁」
教会の行政に関しては、基本的に教皇が直接的に行うことが原則となっていたはずだ。直轄統治教会領は元々教皇領という扱いであったし、領土の拡大に伴い条件付きで支配権を譲渡している委任統治領という存在こそあれ、現在も名目上の支配者は教皇だと見て間違いはない。
ただ六大修道会を始めとする修道会の台頭、つまり枢機卿の権力拡大に伴い、それも怪しくなりつつある。
現在の徹底した異端排斥政策の提唱者も、『勇者』の行動指針の決定を担っているのも。先の『ピネウス=アンテピティス』事件の黒幕とも言える連中も、ひいては今回の第五回ヴィエンヌ公会議を招集したのも、全て同じ修道会だった。
『主の名の下の裁き』。
現在の教会が聖書に記述がない選民思想的な政策に傾倒しているのも大体こいつらの思惑だ。『修道院長』たるエヴォルド=ディルミック=ルブルムヴェル司祭枢機卿もかつては反対派から常時批判を浴びていたらしいが……今では彼に対して反抗的な態度を見せる者も、直接的に対立姿勢を作ろうとする者は少ない。
「だからこそ思ってしまう。それこそ現在の教会を蝕んでいるものの正体だとな」
「……、」
食事の手を止め、ヘクシスの言葉に集中する彼女。
外野の三人はそんな事には構わずに相変わらず騒いでいるようだが……今はそちらの音を耳に入れている場合ではないか。
「主の教えを正しく解さない者、そもそも主の存在自体を知らない者に対してその信仰を広めること、それが当初のジュディチュム=イノミエ=デイの目的だった。それが現在は……エヴォルド枢機卿の私利私欲の権化、教会支配の腐敗の象徴と化している。……ここまでは良いな? と確認」
「……はい」
「それが昨日今日に始まっていれば良かった。エヴォルド枢機卿の代になって始まった堕落ならまだ取り返しは付いた。そうでないからこそ今の教会がある。主への信仰を軸として魂の安寧を願うはずの教会がこうなったのは……主の子が没し、その教えの拡大のための組織たる教会が作られた当時からでないと説明が付かんだろう」
『救世主』の死をもって人の原罪は浄化された。
聖書の記述に従うのであればその通りになるにも関わらず、教会に従わないか教会の教えを正確に解さない者を片っ端からぶっ殺してきたジュディチュム=イノミエ=デイが、かつては平和的に布教を行う修道会だった……などという話はにわかには信じ難い。
ただし、だ。
世界の運行が全て聖書通りなのであれば、そもそも『勇者』がいていいはずがない。
聖書のどこにも『魔王』はいないし、そもそもエレメント論でさえ原典に近い聖書には記述がなかったとかいう風の噂もいくつか存在する。データソースが不確かな場合が多いから鵜吞みにするのは危険ではあるが、それでも彼女は信じたくなる時がある。
火のない所に煙は立たない、から。
「それ故だ。もしも教会が……いいやエヴォルド枢機卿が本気で『借名無神者』の廃絶を考えているのであれば、ここで考えを変えておくべきだろう、と警告」
「けいこく?」
「自らによる自らのための教会を作るつもりであればそれもまた僥倖。だが、六大修道会の一角を担うジュディチュム=イノミエ=デイと言えど戦力としてはこちら側と対等、円卓騎士団を加えれば直接的な戦力としてはこちらが上回っていることを忘れるべきではないのである、と宣戦布告……」
「……、何か言いたげなお顔してますけど大丈夫ですか?」
「いや、何でもない。それより先程の質問に答えていなかったな、と確認」
……とか何とか言いつつも、銀細工のワイングラスをミシミシと音を立てつつ握り潰しているので恐らく本人は本気なのだろう。
「本来修道会があるべき姿は吾輩にも分からん。だが教えの拡大を焦るあまり自ら聖書の記述に背いてしまっては、それは単なる愚者の集まりでしかない。そこに属する者が正しい意味で『居心地が良い』と思えるようにすること、それこそ吾輩に託された仕事だ。これまでのプラエセプトゥム=クゥム=ヴェリタス同様、厳格な戒律の下で鍛錬に打ち込むのも悪いとは言わんが……だからこそ、今はまだ完全な改革に踏み込むことはできない。まずは彼等の反応を見、その上で彼等がどう判断するかに任せるのが最良の手だ、と持論。この自由を新たな信条とするか、これまで通り戒律に忠実な鍛錬を信条とするか。吾輩はそれを見ているだけで良い」
いっそ教会の政策から手を引いているかのような口振りだった。
これだけ聞いていれば、今から教会の体制が大きく変わろうとしている時に何を呑気な、という否定的な意見も出てくるだろう。
それでも良いと、遠回しにそう告げているのだ。
自分が関わるよりかは、その下に立つ者に判断を委ねたいと言っているのだ。
「吾輩も齢を重ねている。エヴォルドはまだジュディチュム=イノミエ=デイの椅子にしがみ付いているようだが、吾輩はそこまでして己の権威を保ちたいとは思わん。例え教会が残る世界の半分を鎮められたとしても、そこに禍根の種を蒔いてしまっては意味がないからな、と弁」
自分自身の地位に拘りがない。
例え枢機卿という立場にあったとしても、それによって傷を負う人間がいてはならない。
主の教えを広めるにしても、まず本人達がそれを受け入れなければ意味がない。それ故に元々の信仰を捨てさせてまで教会の教えを植え込むことは、単なる大量虐殺よりもタチが悪い。
一見して信条とは真逆にも見えるそのスタンスこそ、この不器用な『修道院長』の『願い』なのだろうか。
「……何だか似てますね、アストレア閣下に」
「あの年齢詐称B……げふんげふんごほん、アストレア=アルティス=アストラーニュか」
ヘクシスは綺麗に折られたハンカチで口を拭いつつ答える。
『禊の間』の壁、飛行船に備えられるものとしては異様に大きな窓。彼が視線を向けたのはその外だ。
「お互いに目指している場所は似ている。だが……今回のヴィエンヌ公会議においては敵同士になってしまうかも知れんな」
「敵、どうし……」
「吾輩は『借名無神者』を完全に廃絶し、その後ジュディチュム=イノミエ=デイが介入する余地を残さないようにするのが目的。だがあの野郎共は『借名無神者』が欠片まで散り散りになろうとその残滓をかき集めて自分達の都合の良いように使い潰そうとする連中だ。地位があるだけの吾輩が勝てる見込みはあまりないと言っても構わんだろう、と弱音」
「同じ六大修道会の一角でも発言力があまりに違うって、そういうことですか。今の教会の体制に深く関わっている連中の方が意見にも強身が増すって……」
「ああ。だからこそ、プラエセプトゥム=クゥム=ヴェリタスはアモル=クィア=クィスクとは違う意見に立たなくてはならない。貴官の所の『修道院長』は『借名無神者』の存続という立場に立っているのだろう? 細かく解体されて目を届かなくさせられるよりは、現在の体制のまま自分達の監視の内に入れておいた方が未然に防げる悲劇も減るという理由で、と看破」
「……察しが良いんですね、閣下は」
彼女も否定はしなかった。
今回の議題たる『借名無神者』の存続については、言い換えればこういう問題だ。
法的にはグレーゾーン、しかし実態はほぼ違法という組織がある。
これが表舞台から完全に見えない闇のわだかまりと化すのを知っていながら、事の流れに全てを任せて組織を消し去るか。
それとも違法な組織であるという点こそ変わらないものの、とりあえずこれ以上『見えない』悲劇の発生を防げるように組織を残しておくか。
どちらを選ぶにせよデメリットが付いて回る。今後アモル=クィア=クィスクが察知できない範囲で惨劇が起こるという事態を回避するか、目先の違法を駆逐して今後の十年二十年、いいや百年単位で見通した時に予測される悲劇の数は無視するか。
信条に従うか、それとも信仰を捻じ曲げてでも最大多数の絶対幸福を取るか。
二つの修道会の対立軸とはこのようなものなのだ。
「連中が六大修道会の中でも最初期から存在していることを考えても、連中を教会の支配者層から抜き取ることは難しい。六大修道会に属する修道会が時と共に変遷していく中で唯一ジュディチュム=イノミエ=デイだけが変わらず同じポストに座っている……そんな奴等の陰謀を外から防ぐことは、恐らく不可能なんです。だから」
「企ての目を摘み取るのではなく既存の選択肢を少なくしていく、あるいは増加しないよう楔を打ち込む、か……確かに理屈は通っているな、と感嘆。連中に新しいカードを手に入れさせずに手の内を読み取るには問題ないだろう。ただし」
再び顔を『勇者』に向けるヘクシス。
そこで一旦区切りを入れ、匂わせるように話を突っ込む。
「……あの『修道院長』は、アストレア=A=アストラーニュ司祭枢機卿は本当にそれで構わないと? 『借名無神者』が残り、アモル=クィア=クィスクの目の届く領域に残ったとしても、それがジュディチュム=イノミエ=デイに対する有効打たり得るかどうかは分からんぞ」
「それは、……アストレア閣下も承知の上です。そのはずです。ですけど、長い目で見れば連中の独裁に対して少しは歯止めを掛けられる、例え連中に対して明確な効果が見込めないとしてもその第一歩にはなる。教会の体制を維持しつつ六大修道会の最古参を打ち倒すためにはこれが最適解だと、……」
「……最適解、か……」
初めて、だった。
ヘクシス=ゼノン=バルディウスの声色に、何かが混じるような感覚があったのだ。
怒り?
アモル=クィア=クィスクが消極的な姿勢しか見せないことに。
戸惑い?
アモル=クィア=クィスクが『最適解』に従って行動していることに。
あるいは、悲しみか?
アモル=クィア=クィスクがそんな手段にしか頼れていない、今の状況に。
どれも違う。
具体的な答えは彼女でも分からない。目の前でこうして会話をしていても、ヘクシス枢機卿の目の奥にある思いは掴み取れない。エレメント知覚なんて手段を伴っても、だ。
「二つの修道会、お互いが目指す方向性は似ている。だが共通の敵を得てもなお、やはりアモル=クィア=クィスクと同じようには進めないな、と弁」
「……、」
言葉に、彼女は答えない。
何となく言いたいことはある。
それを言ってはならないと、何故かそう思えて仕方がない。
「人は最適解を求める。主は我々をそういう風に作ったからだ、と弁。故に今回のアモル=クィア=クィスクの見解を否定するつもりはないし、吾輩としてはアモル=クィア=クィスクの意見も尊重している。だが、最適解が常に最適とは限らない。その結果が予測されうる中で元も適当であったとしても、それによって引き起こされる別の悲劇があっては意味がないからだ」
「……、」
「アモル=クィア=クィスクとは相容れないと言ったな、と確認。それ故にアモル=クィア=クィスクには迷惑を掛けるつもりはない。だからという訳ではないが……もし少しでも吾輩に賛同できる部分があるなら、会議の終わりには『勇者』殿に頼みたい」
「……、何を、ですか?」
「今はまだ話せん。だがその時に頼れるのは恐らく『勇者』殿か、あるいはもう一人ぐらいしか候補がいないのでな、ひとまずここで伝えておきたかった。それだけのことだ」
さてと、と小さく呟き、ヘクシス枢機卿が腰を上げる。
壁に掛けられた時計を見上げれば、時刻は八時を回っていた。
『骨船』の航路が予定通りなら、到着はあと三時間後になる。シャワーでも浴びたら一応『聖剣』のメンテナンスでもしておくか……、などと考えていた時だった。
ヘクシス枢機卿が耳に指を当てていたのだ。
典型的な『胸外送話』のサイン。素振りからして話し相手はゲオルギウス号の船長の側近のようだが……漏れてくる音とヘクシス枢機卿の言葉を合わせて会話を推測すると、こんな感じだった。
「……進路上に雲だと? 規模は?」
『ゲオルギウス号の耐久力ならば全く問題ないレベルだそうです、閣下。私が申し上げられる立場ではないことは重々承知していますが、安全を考慮すると針路を変えて迂回した方が間違いありません。ですが時間の都合を鑑みると、雲をやや掠めることにはなりますが予定通りの到着時刻になる、と』
「吾輩としては多少遅れても良いから安全航路で……と言いたかった所だが、確かにヴィエンヌ公会議への到着に遅れが生じるのも問題だな、と弁」
『「ギルド」が内部で待ち伏せている可能性もありますが、彼等の小型~中型貨物船では長時間は隠蔽できない。その前に機体の限界が来て空中分解を起こすのが関の山だと。一応内部の確認のために「ノアの白鳩」を送っていますが、今の所は』
「ふむ……ちなみに今も操船はアーサーが担当しているのか? と質問」
『そうでうすが、……閣下、何か問題がありましたか?』
「その逆だ、と断言。アーサーは吾輩が直々に見越した実力者であるし、同時に長年の友でもある。操船の腕について心配する必要はない。貴官も信頼してみてはくれんか、と依頼」
『了解、……しました。では航路は現状維持、速力及び結界の展開体制は通常航行時を第一とし、到着は予定通り本日一一時丁度。時刻厳守の上、ゲオルギウス号はヴィエンヌまで直行いたします。では、私はこれにて』
「分かった。アーサー船長に宜しく言っておいてくれ、と再び依頼」
そこまで会話を行い、ヘクシスは耳から指を下ろす。彼は赤と白の法衣を整えつつ、彼女の方へ顔を向けつつ。
「……申し訳ないが、このゲオルギウス号の船長より伝言があった。進路上にかなり分厚い雲があるが時間の都合から針路の変更は行わないらしい。雲の中に『ギルド』の連中が紛れている可能性はほぼないそうだが、風の強さによっては少々揺れるやも知れぬな、と忠告。就寝の際にはくれぐれもベッドから転落などしないように。貴官の仕事はゲオルギウス号がヴィエンヌ公会議の場に到着するまでだという話なのでな、と釘刺し」
「心得てます。リディアスの奴からはそういう約束だと聞いてますし、『勇者』一人じゃ少し心許ないからも知れませんけど……精一杯の務めはするつもりですから」
「では、されど一人、と言っておこう。例え一人であろうと信頼できる人間が吾輩の近くにいるというのは、何にも代えがたい安心感をもたらすものなのでな、と本音」
そんな風に言いつつ、小さな微笑を浮かべていた。
信条としての戒律に縛られない自由な修道会という意味では、例え自分が高位にあろうと気兼ねなく悩みを打ち明けられる、相手も気楽にその相手をできる、そんな場がある方が良いのだろう。
……そこで、一つ引っ掛かったことがない訳ではなかったが。
「そう言えばですけど、例のジャスパーとかいう騎士……あいつも閣下のお考えのような感じなんですか? これまでのプラエセプトゥム=クゥムに縛られない自由な……的な」
「ジャスパー=ケリュール=アペリンティアか? あれの性格は元々のものだが、うっかり吾輩の今後の施策を話してしまったばかりに悪化してしまってな、と苦言。女たらしの気質は前にも増して酷くなっているがそのクセして不幸にした女性が一人もいないらしいから、くれぐれも『勇者』殿は注意してくれたまえ」
5(八月一六日/午後七時五五分/『骨船』ゲオルギウス号右舷主翼内ドラコ=インフェクトレム聖堂)
「……おいおい、当直は到着までこのままってどういう意味だそりゃ。予定通りの航路ならあと十五分で俺の休憩が入るはずだったんじゃねえのかよ?」
『船長よりの通達です。騎士達には申し訳ないが、進路上に雲が被っていることを考慮すると、ちょうど交代時間に雲を掠める可能性が高い、と……「天翔ける魂」の維持には常に修道士の立ち合いを必要としていることは貴方も承知の上でしょう』
で、同時刻。
件のジャスパー=ケリュール=アペリンティアがどうしているかと聞かれれば、この通りだ。
『骨船』ゲオルギウス号、その右舷主翼内にある聖堂。言うなれば機関室の上層に位置するキャットウォークを歩きつつ、彼は『胸外送話』の護符を耳に当てていた。
「しかしよぉ側近サン。お前俺達の仕事の辛さ分かった上で言ってるよな? 実際に仕事をするのは聖術師の仕事っつーのは常識だが、俺達だってただ見守ってる訳にはいかねえんだ。実際にはちょこちょこ指示を出して、大気の状態に合わせて陣を組み替えなきゃならないんだぞ」
『少なくとも二〇人の女性を孕ませながらアフターケアを欠かさずかつ全員の仲を良好に保っておくよりかは簡単な仕事ではないですか?』
「わーったよ、やるよ!! ったく、つくづく人使いの荒い側近サマだ……」
俺の方が乗船経験長いのによ、とついでに愚痴ろうかと思ったが、その前に『胸外送話』を切られた。いくら話し掛けても羊皮紙の護符から返事が返ってくることはない。
針路上に分厚い雲。
ゲオルギウス号の強度ならばどうと言うことはない。スペック上は確かにその通りではあるのだが、それは船体だけに目を当てた場合だ。
そもそも、何故『骨船』は飛行船として機能していられるのか。
『ギルド』が使うような小さなもの……帆船を魔術で宙に浮かべ、一般に流れているような劣化した術式を推進力にしているようなアレは、要するに大きくないから飛行船でいられるのだ。聖術魔術の類を使っても空を飛ぶことは決して簡単ではないし、術者との形の乖離が大きい飛行船を何時間も浮遊させるとなると、必要とされるエレメント量も膨大になってしまう。
だからこそ、『骨船』も一度はこう揶揄されたものだ。
(『羽付き鯨の死骸』……まあ連中の言い分は分からなくはねえよ。せっかく自分達が苦労して開拓した航路を教会に奪われて、その上『骨船』なんて馬鹿デカい飛行船で自分達以上の輸送効率を叩き出してるんだからな……)
元々、『骨船』には教会直属の公共交通機関という肩書を得る前の前身があった。
そもそもの発端は第一回ヴィエンヌ公会議で議題となった十字軍の件だ。毎回毎回莫大な人数と時間を必要としていた割には目立った結果を上げられなかったことから、結局は最初の第一回十字軍を最後の成功として終了してしまった訳だ。
だが十字軍の廃止に至ったのは想定以下の戦果ではない。
教会にとって頭痛の種だったのはむしろ輸送費だ。壮大な聖地奪還戦は兵站の移送を引き受けていたヴェネツィアの台頭と教会の権威の一時衰退を招いてしまった、それ故に作られたのが『空を歩く者達の長』という組織だ。
より安く、より確実な輸送を実現するための手として、教会公認のお墨付きを得ていた大型『ギルド』。後の『骨船』として教会直属となるよりも前、各々の航路を持ちその地の輸送を独占してきた『ギルド』の統合により生まれたコンツェルン的集団だった。
だが長期に渡って教会専属の運送業者を務めていた『空を歩く者達の長』もまた、その思惑の餌食として潰えている。
原因はボエモン一世号の墜落以前、五〇年前のサン=アレクシア号撃墜事件。
教会重鎮を乗せヴァティカンからノルマンディー地方への飛行を行っていた飛行船サン=アレクシア号が、『空を歩く者達の長』に属していた『ギルド』により落とされた一件だ。公の記録にはそう残されているものの、実際は違うことは明白だった。まだ地元の『ギルド』による独占体制が強い時期、教会は故意にサン=アレクシア号を飛ばした、それは単に『骨船』という名の教会直属、より操りやすい形の組織を作る、その足掛かりとするためだけではない。
それ以上に、反抗的な『ギルド』を一掃する口実を手に入れるためだったのではないか。
少なくともジャスパーにはそう思えて仕方ない。今回の第五回ヴィエンヌ公会議と『空を歩く者達の長』の顛末。二つの状況が似通って見える、見えてしまうから。
「それにしても。『勇者』……アレがアテになってくれりゃあ良いんだけどな」
そう呟きつつ、キャットウォークから下を見下ろす。
主翼の内部はそれ自体が一つの聖堂。
七百メートル近い巨体を宙に浮かべるため、教会から賜った奇跡陣『天駆ける魂』を機体の各所に配置しているのだが、その維持に必要な聖力であったり、あるいは陣を保っておくための要因であったり、まあ色々と人が必要なのだ。
操縦に関わるデッキ要員から陣の管理役まで、乗員数は計五百人以上。
その内の多くを占める聖術師が最も集中する区画が、この主翼内部の奇跡陣操作用聖堂。
船橋からの指示に応じて出力や力の噴出方向を調整し、ゲオルギウス号が船長の思い通りに動くようサポートする場所。船橋にある帆船型の制御機はあくまで命令を飛ばすだけであり、実際にゲオルギウス号を動かしているのはむしろこちらと言っても問題はないだろう。
それに関わる聖術師を管理し、監視し、必要に応じ助言と補佐を加える。
これが、以前よりジャスパーが行ってきた役割。
「頼むぜ……原型機の設計自体は既に老朽化しててもまだゲオルギウスは現役、こんな所で落とさせる訳にはいかねえんだからな、うん」
暗雲が徐々に近づく様、それに応じて外部の監視体制を変更。
各所との連絡に使用するのは『胸中対話』だが、それで共有できるのは音声のみ。しかもゲオルギウス号の規模では交換される情報量も膨大になる。そこでジャスパー達が使用しているのは、特定のアルファベットと数字を組み合わせて各所の情報を共有する手法だ。
例えばA-336なら奇跡陣の出力に異常あり、P-100なら主翼の稼働状況不調という具合。事前に内容を把握するのが骨折れではあるものの、慣れれば口頭で説明するよりも確実に情報伝達ができる。今の所はそのような情報は入ってきていないが、もしも異常事態が起これば即座に察知可能という便利な……
「うん?」
……ものなのだ、と頭の中で反芻していた時だった。
ゲオルギウス号の区画の一つ。頭の中で、そこを示す暗号が響いている。
(……CE-002-401、?)
脳ミソに押し込んだ知識でもって即座に文章へと並べ替える。
CE-002は、ジャック=ド=モレー級では胴体部側面に位置する貨物区画の二番気圧調整扉。
そして401は事前報告のない開錠。
それが意味する所はつまり、……、
(たまに酔っぱらって貨物区画に入り込む奴がいない訳でもなかったな……もちろん大体は許可がないせいで扉自体開けられないってパターンなんだが、貨物の中身によってはそれが掛けられてない場合もあった……うん)
三番……この場合は右舷側の貨物区画に備わる、三つの扉の内の真ん中のものだった。
貨物区画それ自体も複数のブロックに分けられており、中心部に近いエリアは特に客室区画に近いこともあって、主に教会重鎮の馬車であったり日用品であったりと、移動中に最もよく使用される機会の多いものが収められているはずだ。
もし報告に401が……『無許可での』という条件さえなければスルーしていて良かっただろう。
客室区画とは違い、貨物区画には気圧調整が為されていない。それ故に進入には事前に管理者に対して許可申請を行う必要がある他、入る際にも聖術か何かで自身の周囲に呼吸用の空気を集めておく等の処置が要る。
だが『骨船』機内での安全維持のため、聖術の行使それ自体もモニターされ、仮に使用痕があった場合監視網が報告を寄越すはずだ。
それがない?
何の前触れもなく、いきなり?
(おいおい、勘弁してくれよ……うん。まだ雲を掠める前だってんだぞ、出発前にも機内の確認と搭乗員の点呼、それに聖力生成痕のトレースによる個人識別をやったはずだ。紛れ込むにしてもタイミングがない。あるとしたら出発したその時だが……)
可能性はいくつかある。
一、監視網の誤作動。
二、許可の申請忘れ。
三、扉の破壊。
いずれも考えられなくはないが、最低最悪の可能性は三つ目だ。仮にゲオルギウス号に……考えたくもないが、侵入者がいたとして。そいつが貨物区画から抜け出して行動を開始したとなれば……。
(……まあ、肝心なのは『どうやって』じゃねえか。今大事なのは手段よりも実際問題、そいつの本当の目的が何にせよ阻止しなきゃならねえことには変わりねえしよ、うん)
自分の責任区画は、右主翼内部の奇跡陣『天駆ける魂』の制御用聖堂。
貨物区画はさほど遠くはないが、そこは自分の管轄下ではない。
であれば初動対応として適切なのは、管理者への報告だ。『胸中対話』の専用回線を開き、ひとまず監視担当のディナイアに連絡を飛ばす。
しかし、
『……貨物区画? 何を言ってるんだ、こちらにはそのような反応は出ていないぞ。何かのミスじゃないのか?』
「わーってる、その可能性も考えたさ。けどよ、一応再三確認したんだが……CE-002-401は間違いなく発令されてる、うん。監視網に不備が出てないか確認してみてくれねえか?」
『既にやってる。だが結果は同じだ、他の奴等が同様の報告を受けていない。貨物区画だけではなく機体全体の監視要員が「起きていない」と言ってきている。仮にすり替わっていたとしてもこの数は有り得んよ。監視だけで何人が乗っていると思ってるんだジャスパー』
手すりに腕を乗せ、下方の聖堂で奇跡陣の調整に当たっている聖術師達を見下ろしつつ返答を聞いていれば、この調子だった。
まるで何事も起きていないかのように相手は冷静。あたかも自分一人がぶっ壊れているような扱いに、ジャスパーは言葉を荒げつつ、
「……ンな訳があるか。俺のトコには確かにCE-002-401が入ってきてたぞ、もう一度全体で確認してみろ。右舷部貨物区画の二番気圧調整扉だ、うん。良いかディナイア=サンよ、実質的な搭乗履歴で言えば俺はあんたよりも長くゲオルギウス号に―――」
だが。
それが最後まで続く前に、ふっ、と小さな気配があった。
背中側に。
とんっ。
その音は、いっそ指の腹で机を叩くかのように軽く。
その感触は、いっそ心臓に剣を突き刺すよりも生々しい。
6(八月一六日/午後九時三分/『骨船』ゲオルギウス号客室区画)
到着まであと二時間を切った所だった。
「寝られねえ……」
客室区画の一角、本来であれば枢機卿クラスの教会重鎮に与えられるようなデカい部屋だった。
元々は金細工やら毛皮やらで豪奢に飾られていたのだろうが、プラエセプトゥム=クゥム=ヴェリタスの例に倣ってここもまあ若干質素になっている。各種装飾の代わりに著名な賢人……ええと、ウェルギリウス? の肖像画があるくらいだ。
(眠いよね私……瞼は重いのに何で、こう……寝る気がしないんだろ。ヘクシス枢機卿と話した時の緊張がまだ抜けてないのかなあ……それとも単純に周りの騒音のせい? 別にそこまでうるさくはないと思うんだけど)
聖職者にとってはこの時間帯は大体就寝時間であることが多い。ただし自己の鍛錬を通した心神の育成を主とするプラエセプトゥム=クゥム=ヴェリタスについてはその限りではないのか、客室区画からそれなりに離れているはずの訓練施設から漏れてくるシャウトがチラホラ。どう考えても円卓騎士が出すようなものではない気がする怪鳥音とか色々混ざっているような印象もあるが、まあこの修道会はそういう性質があるんだろう。
「……それにしても、皆大したものよねえ。こんな時間まで起きて訓練やってるとかすげえ脳筋的な発想だし……私もあれぐらいやるべきなのかなぁ……」
ぐでぇ~……と護衛の割には全然その自覚がないかのようにベッドに横たわる『勇者』。
設計段階からの使用なのかそうではないのか、はたまた時々同乗する枢機卿の趣味に合わせてなのか、何故かベッドはダブルであった。一人で寝る分には大変広くて心地よいのだが、どうもこういうのを見ると嫌な妄想をしてしまって仕方ない。
どうも前回の『ピネウス=アンテピティス』の件から色々と引き摺っているようだ。とりあえず気を紛らわすべく『聖剣』をメンテしようかな……などと考えていると、部屋の端にある机から『胸外送話』着信音が。
裸足でそこに向かい、護符を見てみると……、
「パズィトール?」
『だと思ったか? 残念、この私エd』
「間違い『胸外送話』ですよ送り先をきちんと確認してからやってくださいバイバイ」
『……おい、君も人の事を華麗にスルーするのがマイブームなのか? 正直な所を言うが私は結構ナイーブで繊細な性格なのでな。そうも邪険に扱われると拗ねてしまうぞ、ぶーぶー』
「ああァん!? 美少女面の変態ジジイに絡まれてイヤッフゥ可愛い女の子キタァァああ(棒)とか何とか素直に喜ぶ大馬鹿野郎がどこにいるって言うのよアンタは!!」
『そう言っている君も一度は騙されたではないか。いつだったかな……最初にパ爺と出会った時君は私に対してこう言っていただろう? 何だかお淑やかで可愛い女の子じゃない、などとな』
……この場合は一度でもこいつのノリに乗ってしまった方が負けだった、などと考えつつ『胸外送話』の回線を切ろうとして……失敗。どうも向こうから一方的に回線を固定されてしまったらしい。
いっそ護符を破いてやろうかとも考えたが、これはアストレア閣下からの貰い物だったことを思い出して踏み止まる。
「……っていうか珍しいわね。アンタが話を寄越してくる時は大体直接出てきそうな感じがするけど。いつも通り全裸にマントって痴女スタイルで意味もない誘惑かましてくるのは止めたの?」
『君が望むのであれば今すぐそちらに行っても良いんだがどうする?』
「……、死にたいの?」
『冗談だ、真剣に受け止めないようにしろ。私とて性魔術のエキスパートにはなってしまったが不特定多数の男やら女やらと同じベッドに飛び込む趣味はないのでな。「僧院」の安全管理の面でもその方が望ましいし』
「……一回行ったきりだけどさ、アンタの『僧院』ってどういう事情持ってるのよ?」
『「以前の世界」よりも前に生きていた世界線で「僧院」に属していた……名前は忘れたがそいつが犬ジステンバーに感染して死んでしまったのだ。それ以来獣姦を含めた人間以外の生体を利用した魔術研究の際には事前に安全確認を取ることにしている。さて、この説明で察してくれたか?』
「アンタがどうしようもないバカで変態だってことはよく分かったわよハイハイそれじゃね」
『だから人の話を勝手に切るな、大人げない。何ならそのゲオルギウス号に直接飛んでいって君をベッドに押し倒してやっても構わんのだぞ。百合の花が咲きます大切にしましょうとか言われたいのか君は』
もはや目が痛くなる程書いたかも分からないが、このエドワルド=アレクサデル=クロウリーには特定の姿がない。魂だけを別次元の『僧院』に固定し肉体については『この世界』で作った人口の肉体で代用しているという理論らしいのだが、要するに外見はあどけない少女であろうが中身はとっくの昔に妻子持ちと化した変態ジジイ。そんな奴にあんな事とかこんな事とかされた所で百合でも何でもなくただの婦女暴行でしかないのであった。
むしろ大事なのはそちらではなく、
「……っていうか、ゲオルギウス号? 私そんなこと言ったっけ? そもそも何で直接会いに来ないのよ。何だかセオリー通りじゃなくて気持ち悪いわね」
『散々な言いっぷりをしてくれるが理由はある。私がそちらの世界に直接干渉すると少なからず形跡が残る。君がゲオルギウス号に搭乗していることは魂のモニタリングで判明していたから、そちらの世界に用意した身体を遠隔で操って『胸外送話』を使わせているのだ』
「今までの様子じゃ形跡だとかあんまり気にしてるような感じはしないけど……それで?」
黒い千切れ雲が徐々に増えていく……暗雲に差し掛かりつつあるのを横目に問う。
でもって『胸外送話』の向こう側にいるだろうエドワルドは、
『それに関連してもう一点。私は自分の引き起こした混乱にはきちんと自分でケジメを付けるタイプであるが、今回は「そちらの件」には関係していない。もしそうでなかったら直接降りていたかも知れんが、私は基本面倒を嫌うタチでもあるからな。今回ばかりはノータッチ、だから干渉の痕跡も気になるという訳だ』
「こっちの件? 第五回ヴィエンヌ公会議の発端になった『ピネウス=アンテピティス』事件はオデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスがアンタの魔導書を利用して起こしたんじゃなかったの?」
『いや、違うな「勇者」。私が言いたいのはそちらではないよ。』
意味深な一言であった。
やや含みを持たせたかのような言葉。
それを聞き、眉をひそめつつ若干身構える彼女だったが。
『言っただろう、私は面倒が嫌いだと。私に余裕があれば少しは手を入れていたかも知れんが、生憎そちらはずいぶんとカオスな状況に陥っているらしいからな』
「……カオス? 何のことを」
話しているの、と続くはずだった。
ばつんっ!! と、室内全体の灯りが消えなければ。
それと同時に、自分の背後に明確な敵意を感じなければ。
誰かがいる、と認識できた。
間違いなく敵対的な人間が。恐らくは、自分を……『勇者』を殺すべく現れた者が。
「……!!」
だが反応は、行動に関してはこちらの方が早かった。
その誰かさんが粗雑な手斧を振りかざすよりも遥か前に、彼女の足がそいつの股間を蹴り潰す。わずかに湿り気が現れた感触からしてたぶん『やっちまった』系だろうが、生憎と自分は敵意を持ってやってきた人間には……ついでに淑女の部屋にノックもしないで入って来るような人間には優しくない。
ヘクシス枢機卿に影響され過ぎだ?
知るかバーカ。勝手に入ってきた奴が悪いんだよ。
「ぶっ」
一度だけ、肺から絞り出すような呻き声。それと床に何かが当たって跳ねる音が―――恐らくは小振りなナイフか何かだろう―――が耳に入る。
もちろんそこで止めるつもりはない。股間への打撃が有効だっただけでは男か女かの判別はし兼ねるが、性別が分かっただけでも脅威度判定はできない。故にこの場合の対象方は一つだけだ。
無力化、それも完璧に。
「おォっ」
身体をねじるように振り返り。
右の拳を思い切り握り締めて、
「らっ!!!!!!」
ゴンッ!! という音がした。
鉄拳は顔面に直撃したようだが、加減を間違えたのか若干だが鼻の骨にヒビが入る感覚を覚えたが、まあ今の自分にそこまで望むのは筋違いというものだ。『ピネウス=アンテピティス』の時にはティファレト=ダァトとかいうチートがあったせいで全力を発揮できなかったものの、彼女もやればできる子なのである。
……加減を間違えた点意外は、という条件付きだが。
そのせいかどうなのかは分からないが、相手を軽く一〇メートルは吹っ飛ばしてしまったようだ。そして偶然にも部屋の扉を直撃し、金属製の蝶番さえ引き剥がして反対側の壁にぶち当たる音がはっきりと響く。あの分では意識なんぞ欠片も残っていないだろうし、全身複雑骨折で済んでいればまだ良い方かも知れない。
「……うっかりしたな……それでエドワルド、貴方の言うカオスって?」
『君が今殴り飛ばした奴がその一つ、だとでも言っておこう。事実そいつは明らかに君に対して敵意があった。ただし殺意までもがあったかどうかは図り兼ねるぞ。別にできないとは言っていないのがミソだがな』
「アンタは頼んだってどうせやっちゃくれないでしょ」
護符を左手の親指と一刺し指で挟み、ブーツのベルトを締めつつ『聖剣』を携え、彼女はバキバキに壊れた扉を潜って部屋の外へ出る。
彼女に与えられた部屋は普段枢機卿クラスの教会重鎮が使うような所。言うなればVIPルームのようなものだが、まあ、見事に粉砕してしまったようだ。顔も分からない誰かさんは扉の残骸と一緒に、扉の向こう側の二階まで吹き抜けになったホールまですっ飛び、その上で一階部分の床に墜落している。遠目で見ただけでも全身の骨折具合は酷い有様だが……襲ってきた方が悪いんだぞ、うん。
ただ、奴が『勇者』に対して敵意を持って接近してきたことは確かだ。
少なくともこいつが誰なのかぐらいは確認しておいた方が良い。そう思いつつ彼女はホールの一階まで降り、完全に失神状態に陥った誰かさんを覗き込むように屈む。
割と小柄な……外見だけで判断するなら少年のようだった。シンプルな白基調のローブの上から細いベルトでプレートアーマーを固定し、頭には革製の額当てを付けている程度の軽装。エドワルドという先例があるので一概にどうこう言える訳ではないのだが、どれだけサバを読んでも自分と同い年にはらないだろう。
「……しかし今から考えるとゴメンね。こんなちっちゃな男の子殴っちゃって言うのもアレだけどさ、少なくともレディの部屋に入る前にはきちんとノックした方が身のためだぞ☆」
両掌を合わせて合掌しつつペコリンコ、華麗に責任転嫁の完了である。
ただ多少なりとも思う所はあったのか、一応治癒の術式で骨折部分の治療だけはやっておく彼女。もちろん消費させるのは相手の聖力という所はしっかりしている。
……しかし、だ。
(っていうか、何で回りの灯りが消えてるの? そもそもこの男の子は誰? 何の理由で私を殺そうと……してたのかどうかは分からないけど、少なくとも敵意があったことは確か。じゃあ、この子は一体何者?)
まさか『ピネウス=アンテピティス』の連中が親方の仇を取ろうと逆襲市に来たんじゃないだろうな……とも思えた。
あの事件からはまだ一週間しか経っていない。結局正体不明の爆発を起こして消し飛んだジュディチュム=イノミエ=デイ修道会の聖堂からはそれらしき証拠品も何一つ発見されていないし、肝心のオデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスについても遺体が出てきていない。ただ彼女の確信があるばかりなので正直な所は生死不明なのだが、それと同じことは他の連中についても言える。
『ピネウス=アンテピティス』の本拠地らしき一・五階層にいた大量の職人達。
彼等の行方についても未だに不明。エドワルド曰くあれ以来ティファレト=ダァトの発生は観測されていないらしく、仮に存在が維持されていたとしても再度『この世界』との接点を構築するのは困難だろう……とのことだった。
つまりは本拠地と一緒に消滅したか、『この世界』からは隔絶されてしまったかの二択という意味だ。仮に生き残りがいたとしてもゲオルギウス号の監視体制を潜り抜けてここまで来るとは考えられない。
そもそも、
(敵意があっても、殺意はなかった……?)
少年の気配を背後に感じた感じた段階では、明確に『殺そう』という意思が伝わってこなかった。
冷静に考えてみると、単純に『勇者』を殺したいだけなら、それ以前の時間帯にいくらでもタイミングがあったはずだ。それをわざわざ見逃して、照明を落として背中側から接近するというのはいくら何でもリスキー過ぎないか。
(……つまり、この子は『ピネウス=アンテピティス』じゃない? なら一体何? そもそも何でこの辺の照明を解除してまで私に近づこうとしたの?)
長考するだけではヒントは浮かばなかったかも知れない。
ただ自分の中で状況整理をするだけでは、答えは出なかったかも知れない。
ふと目を落とした彼女の視線が捉えたそれは、少年のローブの肩口に縫い付けられていたものだった。革の上から動物の血を塗って作られたワッペンのようなものにも見えるが……問題はそこに刻まれている絵柄の方。
「すく、い、すたるくす? ……違うな、この文字はラテン語じゃない。スペリングは魔族占領区の英語に近いわね。それでもってこのタイプの英語はヴァティカンや直轄統治教会領じゃ使われてないし……」
背中に一対の羽を持ち、雲を足場にして空を歩く少女。青をメインカラーに据えて周囲は白、少女の足元には分厚い雲海があるために地面が見えない、つまりは大地との完全な隔離を示す記号だ。
同時に人が主と同等の存在であるとする、ある種教会に対しての最大の侮辱とも取れるものでもある。
「いや、委任統治教会領のものにしてもスペルがラテン語から外れ過ぎてる。こういう独自路線の英語はバリバリの魔族占領区型ね……ってことは、これの読み方は……スカイストーカーズ?」
「……待、て」
そんな折だった。
治癒の術式でとりあえずは全身複雑骨折状態から回復した少年が、僅かに頭を動かしたのだ。ただし長時間気絶していたせいか目の焦点は上手く合わせられていない。『勇者』に目を向けているようで微妙に泳いでいるような感じがするし、まだ成長途中である弊害なのか身体の方もロクに動かせる状態ではないらしい。
しかし言葉が話せるレベルにまで回復してきたなら僥倖だ。念のため他にも武器を持っていないか確認し、それから仰向けに倒れた少年と顔を合わせるような格好で話し掛ける。
そうしようとした直前、少年が口にしていた。
「お前、……ヘクシス=ゼ、ノン=バルディ、ウス、じゃない……?」
「……悪いけどとんだ人違いよ。まあ、私があんな部屋にいたせいで間違えたなら無理はないけど……残念ね。ヘクシス枢機卿ならここにはいない。もし場所を突き止めて向かったとしても警備役の円卓騎士がわんさかいる。貴方みたいな子が近づこうとしても無駄よ」
「……、?」
「変な疑問符が付いた気がするけど……そういう目的じゃないとか言わないわよね?」
「ここじゃ、ない……のか……畜生、これでおれの役目も終わりなのかよ……」
……もしも、だ。
今この場で、彼女が少年の言葉の意味を理解できていたなら、あるいはもう少しマシな対処のしようもあったかも知れない。そうでなくともあるいは、この手の襲撃者の基本的なパターンとの類似性にさえ気が付けていれば、もう少しやり様はあっただろう。
深く考え過ぎたとも言える。
今更気が付いた所で遅い、とも。
結論をここに明記しておこう。
バガゴガンッツッッ!! と。
彼女のいるホール周辺の壁、つまり『骨船』の外壁が纏めて吹き飛ばされたのだ。
「あ」
一つ復習してみよう。
『骨船』ゲオルギウス号の機内は地上と同じ気圧と酸素濃度、そして気温が保たれている。そういった処理が成されていないのが貨物区画であり、それ故に許可のない出入りがあれば即座に警報が出されるようになっていたのだ。実際にはあり得ない事案だが、仮に貨物区画に聖術による保護なく誰かが入り込み内部で意識混濁ということが起こらないように。
「ぁ、あ」
現在ゲオルギウス号はヴィエンヌに向かい飛行中。
では、外との気圧差はどの程度?
その上壁、壁に空いた穴が直径五メートル程の巨大なものであった場合、その内側にいた人間はどうなる?
「うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!???」
昏倒した少年も扉の残骸も内装もホールの構造体も、ついでに『勇者』も例外なく。
吸い出される。
何の足場も、何の手掛かりもない上空へ。
その最中、目に焼き付いたのは……。
7(八月一六日/午後九時三〇分/『骨船』ゲオルギウス号機首内操舵室)
「馬鹿な……」
それ以上に混迷を極めていたのは船橋だった。
鯨の頭骨の中に設けられた巨大な空間、そこに係留される形で作られた制御装置としての木造帆船、その舵輪甲板。
舵から手を放さないよう必死にしがみ付きつつ、ゲオルギウス号船長アーサー=クランシェル=ヴァーナミアンは、頭骨を透かして映し出される外部の映像を目の当たりにしていた。
常識的に考えてもおかしい。『ギルド』が保有する飛行船はゲオルギウス号の属するジャック=ド=モレー級には遠く及ばないサイズのものしかなかったはずだ。飛行性能についても『天駆ける魂』を使用しているこちらとは異なり、独自開発の聖術魔術の類に頼っているばかりに信頼性は低く、しばしば暴走事故を起こして墜落するケースが発生しているとも聞く。
運送系『ギルド』における頂点たる『マルシュール=デ=シェル』についてもそれは例外ではなく、故に『骨船』との航路利権闘争においても決して優勢ではなかったはずなのだが……、逆にそうでなければおかしいのだ。
ゲオルギウス号含めたジャック=ド=モレー級の建造費用は、一般的な二百メートル規模の飛行船の数十倍。これは単純な機体サイズの問題だけではなく『天駆ける魂』の制御・維持に用いられる聖堂や客室区画の設備費用、さらに建造に際しての人件費等があるので一概に比較はできないのだが、それが大まかな数値。これと同等のサイズの飛行船を『ギルド』が持つには、資金面でも人員数でも到底不足を補うことはできないはずだ。
だから、逆に考えたのか?
「どういうことだ……今の世界はそんなことが許される程に均衡を失っているのか!?」
外部を移す鯨の頭骨の内壁には、それらを上書きするように別の文字列が重ねられていた。
ゲオルギウス号周囲に飛行船。
『マルシュール=デ=シェル』が使用するアンタレアドゥス型(識別用仮称)とおおむね一致するも相違点多数。機体表面には、書庫に登録された紋章は発見できず。所属不明。
ノルマンディー航路利権闘争に加わる『ギルド』は自らの出目を隠すため、本来機体に刻まれているマークを意図的に消している場合が多い。そういう点もあって、このような警報が出ること自体は別段珍しくはなかった。
だからこそ、アーサー船長は驚愕せざるを得ない。
今もなお増加し続ける推定値を、内壁に穴を開けそうな程に凝視しつつ、彼は吠える。
「……一体、どうなっている……何をどうしたら、何もない空域に二〇〇機のアンタレアドゥスが現れると言うんだ!?」
ヴィエンヌまで残り一時間半、距離としてはそこまで長くはない。『ギルド』が奇襲を仕掛けるにしても他の修道会の『骨船』、あるいはヴィエンヌの防衛に回っている円卓騎士団の野営地に近過ぎる。
今回は教皇も会議に出席するということで警備体制は通常の限界を超えた厳戒を大前提とし、本来なら運航停止になるはずのノルマンディー航路定期便に偽装した別の『骨船』を飛ばすことで『ギルド』の注意を逸らしていた、はずだ。向こうに戦力が集中しているのであれば、当然他に裂く飛行船も少なくなるし、結界の展開に不備が生じているとはいえ仮にもジャック=ド=モレー級の一機であるゲオルギウス号をもってすれば、たかが『ギルド』程度は物の数にも入らないのが常識だったのに。
この数は、一体何なのだ?
そもそも、この数のアンタレアドゥス型飛行船をどこに隠していた!?
「周辺警戒警護長、報告!! 見張りは一対何をしていたんだ!!」
『警戒は最大段階を維持、現在まで継続していました!! ですが……直前に至るまで周辺に機影はなかったはずです!! 目視でも聖術による走査でも一切の反応はありませんでした!! 何と言えば良いのか……まるで湧いて出てきたとしか表現しようが……!!』
「言い訳は後にしろ!! 既に機体に損傷が発生しているんだ、少しでも良い!! 奴等を適宜撃退しつつ『天駆ける魂』の出力最大!! ヴィエンヌと周囲の『骨船』にも連絡を入れるんだ!! ヴィエンヌ防衛に回っている円卓騎士を寄越すように養成しろ!!」
『先程から何度もやっています!! ですがヴィエンヌからも他の『骨船』からも応答がありません!! 機体周辺に送話・対話系術式の発信を阻害すガガッ!?』
「おい、どうした警護長!? 応答しろ警護長!!」
舵輪を回しつつ呼び掛けるが、しかしそれ以上『胸外送話』は続かない。
同時、外を映す頭骨の内壁に、ゲオルギウス号の一区画が表示される。
客室区画、それもヘクシス=ゼノン=バルディウス司祭枢機卿の居室に近い位置。そこに直径五メートル程の大穴が空いている。恐らく周囲を取り囲んでいるアンタレアドゥス型飛行船からの砲撃だろうが、しかし結界の問題を考えてもこれが一撃で破られるとは到底考えにくい。何かしらの妨害が成されているのか、あるいは特に結界の弱い部分を見通してそこに一点集中するように砲撃を加えていたのか、その二択だ。
どちらの可能性も高い。
もしかしなくとも両方かも知れない。
片方だけならまだしも、仮にその通りなのであれば状況は最悪だ。
「畜生が……何故このタイミングで『ギルド』なんだ!?」
便宜上教会からアンタレアドゥス型と呼称される飛行船がある。
外見的には全長一〇〇メートル前後の帆船のヤードを取り払って鳥の羽を付けたようなものであり、耐久性や航続距離、最高速度こそ『骨船』には劣るものの機動性と加速度に優れており、『ギルド』における使用例は単純な輸送から客船のような運用まで幅広い。しかしながら基本設計は数一〇〇年以上前から変化していないとも言われている他、その規模の小ささ故に教会からはさほど警戒されてこなかった機体でもあるのだ。
だが機体が小さいということは、それだけ一機当たりの建造・維持コストも低いということ。
建造費用比を考えると、『骨船』を一とするならアンタレアドゥスは数十分の一。二〇〇機を製造すると仮定するなら費用対効果はどうなるか、それは確かに合点がいく。
だが、それにしても。
いくら機体が小型であろうと、基本的に障害物のない上空において隠れ場所はない。雲の中に潜む……新路上にあったあの暗雲の影にいたか、あるいはその中か。聖術で発見できなかったとなれば後者が有力ではあるが、アンタレアドゥス型の機体構造だと耐久面の観点から言ってそんな真似はできない。
(外見に大きな変化はない……設計変更をして機体を補強している様子はない? だがアンタレアドゥス型の構造では、外側に変化が出ない程度の改修ではあの雲の中にはいられない。第一この数の同型機に同じ改修ができるのか……?)
ぶつん、ぶつん、ぶつぶつんブツン!!
頭の中で開いていたゲオルギウス号内部の情報網、外部の映像、ついでに『胸外送話』の回線も次々に断線していく。『天駆ける魂』の聖堂への回線は辛うじて生き残っているようだが、逃走に必要な出力を常時維持するためには綿密かつ確実な調整が必要なのだ。もし聖堂に深刻な損傷が生じようものなら、間違いなくゲオルギウス号は墜落する。
そうなれば、全てがお終いだ。
この巨体が地上に落ちる衝撃はアンタレアドゥスとはまるで比較にならない。今は機首がヴィエンヌを向いたままであるが、この状態で出力を維持できずに制御不能状態に陥ればその墜落先は、
「……ヴィエンヌ公会議場……、連中は、今回の会議の妨害が目的なのか?」
第五回ヴィエンヌ公会議。
議題、『借名無神者』の廃止の是非。
その開催を阻止しようとするのが『ギルド』ならば確かに辻褄は合う。違法『ギルド』の中には『借名無神者』の天下り先のような役割を持っていたものも少なくはないし、会議の発端となった『ピネウス=アンテピティス』の親方はまさにそのパターンだった。今後教会に愛想を尽かして『ギルド』に転向する有能な人材が来ないとなれば、連中にとっては打撃になるかも知れない。
それとも、単純に教会重鎮を殺害して教会に自分達の脅威を知らしめるのが目的か。
それとも、他にプラエセプトゥム=クゥム=ヴェリタスに対して恨みを抱いている奴が……、
「……、いや、……まさか(、、、)?」
しかしながら、だった。
その可能性を口にする前に、一つの妨害があった。
アーサー=クランシェル=ヴァーナミアン船長が最後に感じたのは、何の前触れもなく背後から迫る何者か。
その肩に縫い付けられたメダリオンの絵柄は、彼がよく知る『ギルド』のもの。
ではなく。
8(八月一六日/午後九時三四分/『母なる女犯すオイディプス』後部甲板)
「……奴は応じたか?」
「応答なし、所在及び生死不明。回収は絶望的だと」
アンタレアドゥス型飛行船、教会からはそう呼称される機体。その後部甲板に立つロングコートの男、そして魔族占領区の海軍士官服のような服装に身を包む青年が言葉を交わす。
情報源は分からない。『骨船』ゲオルギウス号の航路を伝えてきた奴は、自分がどこの誰だとは名乗らなかったが……しかし自分達と同業の『ギルド』のメンバーであることは確かだった。
ノルマンディー航路利権闘争、そこにおいて同盟を張っている『マルシュール=デ=シェル』からの情報提供。
そして今回行われる、第五回ヴィエンヌ公会議に関する全てのデータ。
……加えてもう一つ、出所不明の報酬。
単なる協力体制の延長による提案だけであれば、これは眉唾物として相手にはしていなかったはずだ。いくら教会重鎮が乗っているとはいえ、耐久性と防御性能で突出したジャック=ド=モレー級『骨船』は撃墜するにも多大な犠牲を強いることを覚悟しなくてはならない。今までにそれを成し得た『ギルド』は数少なく、達成したにしても結局は『ギルド』全体での相打ちを強いる程だった。
ジャック=ド=モレー級一隻に対して中規模の『ギルド』の壊滅を要求するようでは、正直言ってノルマンディー航路利権闘争を優位に進める材料には成り得ない。
重要なのはインパクトなのだ。
十字軍を廃止して円卓騎士団という一極集中の暴力装置を作った所で、根幹に関わっているのは同じ人間の発想。ジャック=ド=モレー級を撃墜した代わりに自分達も消えた、そんな『ギルド』など教会は相手にするはずがない。撃墜して、その上で万全の体制を維持しつつ生存し、もしも可能であるならば鹵獲、乗員と乗客を生け捕りにする。その相手が枢機卿以上のVIPならばこれ以上は望めないだろう。
そのチャンスが、今ここにある。
望遠鏡を目から外し、男は……アンタレアドゥス型飛行船の一機である、『母なる女犯すオイディプス』船長ファイデルスィオ=アラントゥーラは、咥えた葉巻の煙をいぶしつつ呟いた。
「……では仕方がない。想定されたプランに従い、後は予定通りに進めるだけ、か」
内通者、と奴は語った。
どこの誰に対する、などの正確な情報は不明。しかしながらジャック=ド=モレー級の詳細な三面図や飛行用奇跡陣『天駆ける魂』の停止方法など、それこそかなり『深い』……今目の前で飛行しているゲオルギウス号を隅から隅まで知り尽くしているような者であることは間違いないだろう。何十年とは言わずとも、最低でも一〇年以上は搭乗しているはずだ。
その上で、機体についての全てを知っている。
客室区画の内、枢機卿以上の者がいる場所はどこか。
機内全体の灯りを管理する聖術『隔て与える光の天』はどう操作するか。
『天駆ける魂』はどのような原理で『骨船』を宙に浮かべているのか。
そして何より、今回ゲオルギウス号に搭乗しているのは誰なのか。
「……ヘクシス=ゼノン=バルディウス司祭枢機卿に関しては?」
「計画通りにする。連中は教会にとっても浮いた存在ではあったが、しかし司祭枢機卿という立場にある以上は無視できるものでもない。アレに乗っているのは、仮にも六大修道会の一角を司るプラエセプトゥム=クゥム=ヴェリタスだ。今回の公会議が提供された情報通りなら、奴一人の出席がないだけでも大きな打撃を与えられることは間違いない。何せ今回の公会議は『教会史の転換点』だとか何とか言われるべきものらしいからな」
決め手は最後の一つ。
空中要塞、あるいは空を駆ける長城とも揶揄されるジャック=ド=モレー級は、対飛行船を想定した数々の防衛装備と防護結界を持っている。例えそうでなくとも、機体全体に散りばめられた指折りの聖術師や円卓騎士が撃墜を許さない、もしそれが打ち破られたとしても、教会は貴重なジャック=ド=モレー級を喪失しないためにあらゆる手を講じて自分達を排除しに来る、そのはずなのに。
今のゲオルギウス号には、護衛役として『勇者』が同乗している。
本来不必要なはずの増援が、最初から。
「今の『勇者』は教会だけの敵ではなく、『ギルド』にとっても快いものではない。レデンズ=ニーマンド事件、インテルノ=ポメーツィア透死病改め『ミーシャ』事件、そして『ピネウス=アンテピティス』。本来であれば自分達の都合の良いように解決へと導けたはずのそれらが『勇者』の介入によって捻じ曲げられた、理由としてはこれで十分だ。奴の方の目的が何かは知らんが、一緒にこれを達成しても無理は生じん」
葉巻を親指と人差し指でつまみ、そのまま握り潰すように火を消す。
そのまま船の外へと弾き飛ばす様を眺めていた青年は、
「これが……いずれはノルマンディーに平穏をもたらすと? これによって、我々が目指す所としての自由貿易が達成されるのでしょうか。……これで結果が実を結ばなかったのであれば、我々が憎むべきは……」
「それこそ教会と同じことだ、息子よ」
だん!! と甲板を叩くサーベルの音を耳にして、青年は一瞬硬直する。
ファイデルスィオ自身これは悪癖だと熟知していた。相手に対して必要以上の警戒と恐怖を与えてしまうが故、他の『ギルド』との交渉においても話を円滑に進めることができない。それは他ならない自分の家族に対しても同様だった。
この癖を理解して、それでも笑って受け入れてくれた家族。
それをバラバラに引き裂き、妻と娘を穢した上で惨殺した者達がいる。
そんな現実を生み出し、許している『主』が、この世界にはいる。
「見ているか、聖なる四文字を湛えし偉大なる創造主。俺は今、お前を崇める一つの聖域を壊している。お前を主と崇め、お前のために世界を壊し続けている存在の一角を切り落としているぞ」
志半ばに散った同士は多い。
それ以前に、一筋の理想さえ掴めずに天のその上へと昇ってしまった者も多い。
ファイデルスィオ=アラントゥーラという男は、即ち道標だ。
絶望と希望とを繋ぐ道。教会という不必要悪を消し去るための墓石の一つ。自分の扱いとはそのようなもので構わない。自分という存在がその程度の価値しか持たない世界である方が、かえって望ましいからだ。
「……その目に焼き付けると良い、主よ。我々を、『雲海の園の狩人』を」
だからこそ。
彼は、その息子は、気付けなかったのかも知れない。
今その手で起こしていることの意味を。少しでも路の違いがあれば、あるいは得られていただろう結末と……プラエセプトゥム=クゥム=ヴェリタスという組織の抱く理想、その違いに。
そんなものが、何一つないことに。