Press Any Button…[Introduction:ACT.04]
(日付不明/時刻不明/座標特定不可)
ばちゃん、という水音があった。
この空間は貨物専門のスペースということもあってか、機内のように徹底した与圧や気温管理が成されている訳ではない。元々空中に浮いて良いはずがない物体を無理矢理宙に浮かべているのだからある程度の弊害は出てくるものなのだが……流石の教会でも、貨物室にまで気を回す程の余裕はなかったのか。
あるいは、こんな可能性を考慮していたからなのか。
「……安らかに、眠れ。死は其の終焉に非ず、生きとし生ける者の安寧なり」
儀礼的な台詞。
これを、何度繰り返したか。
体の中心に大穴を開け、しかし溢れ出るはずの血は即座に蒸発する。不可視の光、炎を伴わない熱によって、その血液は尽く宙へと昇っていく。
もし、主が実在するなら。
この男から去った脈動の痕跡は、さてその御膝元には届くのか。
「……、」
時間がある訳ではない。
この『骨船』の行き先を考えるなら、むしろ自分がここにいること自体が危険だ。
これは、根本的に死地へと向かう行為。今まさに自分の処遇を決定するための会議が開かれている最中に飛び込もうというのだから当然と言えば当然だ。完全武装を保ったまま会議の場に飛び込むなどという暴挙を犯せば、それこそ生きて帰れる保証はない。
元より死んだような身だとしても、だ。
(……『借名無神者』の存続を問う、第五回ヴィエンヌ公会議……そんな決定を下すからには、ジュディチュム=イノミエ=デイ修道会だけが関わるはずがない)
船内にあった……恐らくは冒頭演説の原稿だろうが、その後ろに続く儀礼文を奪取して確認も行った。今回出席するのは教皇、六大修道会の指導者たる『修道院長』、円卓騎士団を束ねる騎士団長たる『円卓執長』。それに加えて大小いくつかの修道会も参加しているようだが……彼が最も重要視しているのは、それらを含めた教会重鎮にとっての最大のトリックスターの所在だった。
(……円卓祭祀公憲章にも記載されている通りだ。行動が一定には制限されない以上、セオリー通りに行くとは限らない。過度な期待は僕にとっての命取りになる……)
これまでの観測から行動パターンはある程度把握したが、それをもってしても、実際は予想と違わないなんてことはないだろう。
どれだけ多くの統計を取り、どれだけ正確な予測を立てたとしても。どう足掻こうと、彼女が既存の枠組みに収まるような存在であるはずがない。
幾度となく歴史の節目に現れ、今もなお生き続ける現在進行形の伝説。
聖書にはその記述がないものの、魔族の殲滅……『魔王』と呼称される存在の撃破を掲げる教会にとって、『勇者』という存在は何にも代え難いものだと聞く。行動の自由を多少とも束縛することはあっても直接的に命を奪うことはないと、そういう暗黙の了解のようなものがあるとも言われるらしいが……ジュディチュム=イノミエ=デイ修道会という連中がいることを考慮するとこれは鵜吞みにしない方が良いだろう。
『ピネウス=アンテピティス』のバックボーンに彼等がいたことを考えても。
(……ここからは、僕の戦いだ)
貨物室の側面にある小さな扉を開け、そこに死体を放り込み、そして閉じる。
ばしゅっ!! と空気が抜けるような音が一度だけ響き、扉を開ければ……そこには何もない。
(やっとここまで来たんだ。ここまで至るのにどれだけの時間を費やしたか、あんな連中に分かるはずがない。何一つ理解できない人間に、わざわざ教えてやる価値もない。教会にとっての危険因子は魔族じゃない、本当の脅威は自分達の内にいるってことを)
『借名無神者』としてのランクは四等天列。
実力の割に低い数字だとは言われるが、これは別段公平な判断に則ったものではないだろう。自分の力に嫉妬した他の『借名無神者』が管理者に賄賂を流し、その代わりとして意図的に低いクラスに据えさせたというだけのことだ。
表向きの数字にしか拘れない連中に興味はない。
『借名無神者』としての戦いは終わるかも知れない、だが自分にとっては終わらない。自分に課せられた役割、天命、タスク。言い方ならいくらでも思い付く、しかし誰一人としてその本質を理解できない……その仕事を終えるまでは。
自分から、何よりあの子からすべてを奪っていった女を、この手で……。
(後戻りをするつもりはない)
踵を返し、貨物区画最奥の扉に向かう。
与圧区画との隔たりを作る二重扉には聖術による認証システムがあったはずだ。個人個人で異なる聖力のパターンを利用して識別を行うというものらしいが……聖術と魔術の違いさえ理解できていない連中の作ったセキュリティが役立つはずもない。
例えそうでなくとも、自分に備わった力が全てを解決してくれる。
人の形を保ったままエレメントを知覚し、自在に操ることのできる『適合者』の力が。
(もう他人の手を借りるつもりもない。これ以上の回りくどい手を使うなんてもっての他だ。これは、僕が、僕自身の手でやらなきゃならないんだ……)
男の着ていたローブを羽織り、片手に聖書を携え。
青年は、扉に手を掛ける。
(だから、待っていると良い。僕が、君の元に辿り着くまで)