ACT.03-75_DEEPDIVE,or Knocking on Silent Past.[chapter.07~09]
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つつ、と頬を撫でる。
流石に時間を重ねているせいか、面影こそあるものの顔付きはだいぶ変わった。
エレメントに対する高い感受性を持っているせいかどうかは判明していないが、元々ハルピュイアの寿命は人間の半分程度であり、おおよそ七歳前後で番を作ることが多い。人間に当てはめてみれば生殖には若干早いぐらいの年齢だが、短命かつ一度の出産数が少ないハルピュイアにとってはそれぐらいの時期から次の世代を作っていなければ群れが成り立たなくなる、ということだろう。
かつて妻を娶った時も、そんなことを思っていたか。
コルス島の群れ、教会によりレセルヴ=ナチュレル=ド=スカンドラという名が付けられた自然保護区に生息していたプルーマ=ブラツィウム種ハルピュイアの一団。地中海に浮かぶ小さな島はイタリア半島からさほど遠くはないものの、支配地域の中では比較的鎮静な地域ということもあって、教会からはそこまで重要視されていなかったはずだ。
コルス島生まれの者が教会においては田舎者として差別を受ける辺り、元からそういう意識なのだろう。
ずっと、そうであれば良かった。
一時の気紛れ、気の迷いだったかも知れない。『借名無神者』として教会の裏稼業に関わっている間に溜め込んでいた多大なストレスの捌け口としての癒しを求めていたのかも知れない。その当時の自分がどう考えていたかはもう記憶の彼方に消し飛んでしまったが、流石に身分を捨てて駆け落ちに走る程の本気ではなかったはずだ。
それを理解していなかったか。
むしろ、理解していたからこそ受け入れてくれたのか。
その結果が何へと繋がったのか、かつての自分に未来予測の能力でもあればそこまで考えていたかも知れない。
そんなことが叶わないからこそ、こうしてここに立っているのだ。
「……エリィル。サリィナ……」
妻はプルーマ=ブラツィウム種ハルピュイア。
自分は地方の出身にしては珍しく、魔族との混血も起きていないただの人間。
生まれた二人の娘の内、一人はプルーマ=ブラツィウム寄りに、もう一人は人間寄りの不完全なハルピュイアに。
後者は人と同程度の寿命こそ手に入れてはいるが、生物として見た場合は非常に不安定でデリケートな存在だ。人間とプルーマ=ブラツィウムの交配は教会に認知されていないだけで実際には自分以外にも二、三の実例があるようだが、自分のそれは特に異質だった。既存のどのハルピュイアにも該当しない、かと言って純血の人間なのかと聞かれれば答えはノー。
いずれにせよ教会に存在が知られれば、『借名無神者』としての立場どころか自分の生命が危うくなる、そんな過ちを犯していたことに変わりはない。
「……久しぶり、だなァ。しばラく見なィ内に随分と育っちまったモンだ」
感動の対面、にはならなかった。
結果ありきとはいえ、自分は『借名無神者』ですらないそれ以下の存在だ。娘二人見つけ出したいがためにこんな真似に手を染めておいて、それでいて実際に成就すれば純粋無垢な思いで頭が満たされる。正直な所を言えば父親としても人間としても失格レベルだろう。このためだけに教会との関係性を続けていたことが周知されれば、あるいは『ピネウス=アンテピティス』の基盤に揺らぎが起きる可能性だってゼロではなかった。高額な報酬と引き換えに危険な狩りを行うことは、職人達にとっても数少ない生命線だったからだ。
それ故に。
ここから先は、もう戻れない。
元より、最初からそのつもりだった。
「……、さて、と。ンじゃ、そろそろ始めるか」
三途の川の向こう側、さらにその奥の先。
一度はそう例えたこの場所から、全てを切り開く。
その第一歩として。
息を吐き、とうの昔から握り込んだ拳を振り抜いて。
ゴンッ!! という音がした。
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その瞬間。
『勇者』の胸の真ん中に、鉄杭の如き一撃が突き刺さっていたのだ。
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「。ッ、……!!!???」
肺の中の空気が全て抜け出るとか、そんな次元では終わらない。
単純明快に言えば、肋骨が折れた。
ただの一撃で、『勇者』たる彼女の骨格にヒビを入れ、強大な瞬間的圧力でもってへし折っていた。
そんな事実が、脳機能を根底から叩き壊すような激痛と共に、彼女へと襲い掛かる。
「……っか、あっ、ヴぁぁっっっッ!?」
鎧がないとか、それまでの戦闘で消耗していたとか、そういうハンデはあった。
だがそれらを考慮しても、彼女が感じ取った脅威度は並の次元ではなかった。『聖女昇華』で暴走状態に陥った『ミーシャ』戦においても骨が多少軋む程度だったにも拘らず、今回は初っ端からこれだ。少しでも当たり所が悪ければ砕けた肋骨の破片が心臓を直撃していただろうが、そうならなかったのは不幸中の幸いと言うべきか。
それとも、別の災厄の前触れと言うべきだったのか。
「……ヴ」
ゴンッ!! という音がした。
同じ場所に、続けざまにもう一発。彼女が息を吸い直す暇もなく、さらなる拳が胸の中心へとぶち込まれていた。それは衝撃と苦痛で体をくの字に折り曲げる、その動作の途中においての追撃だ。
それでは終わらない。状況を認識して噛み砕く、そのコンマ数秒のわずかな時間の間に、連続してさらに四発。しかも今度は真正面からではなく、背後から背骨を砕くような連打だった。
実際、脊柱に亀裂が入る生々しい感触が五感を刺激する。
拳を受けてから痛みを感じるまでの極短時間の間の現象のせいか、自分の身体に起きているはずなのにやたらと他人事だ。それこそ標的が自分ではないという錯覚さえ誘発しそうな猛攻は、その直後に彼女を狂わせる。
何が?
神経も内臓も骨格もまとめて発狂させるかのような、名状し難い痛覚刺激が、だ。
「あ、ガば、……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああァァァァァァァァァァァァアアアアアアアア!?」
死ぬ程痛い、なんて表現がいかに生ぬるいか。
そんな程度で形容できるなら、どれだけ幸せだったか。
本当に死んでしまった方が、彼女にとっては安らぎだったはずだ。
吹っ飛ぶでもない、床に叩き付けられるでもない。ひたすら全身の力が抜け落ち、膝を折ってうつ伏せに倒れ伏していた。
途端に喉の奥から登って来るのは、胃の中の酸っぱい感覚と……鉄黴臭い鮮血の味。
折れた骨が、肺を直撃した。
口から鼻から、いっそ眼球の奥からも圧力が加わっているような生々しい感覚だった。まともな感性を持った一般人ならここでショック死していてもおかしくなかったかも知れない。今こうして状況を端的にでも把握できているのは、一重に『勇者』としての力のお陰だろう。
血液が気道を塞いだのか、呼吸もままならない。喉に指を突っ込んで詰まった物を吐き出そうとしても、指の一本も動かなくなっていたのでは打つ手なしだ。徐々に暗くなっていく視界そのものを意識することもできず、ただ『死んでいく』感覚に包まれていくことになる。
それで終わっていれば、の話だが。
「予想以上だよ」
ずむっ!!!!!! と、さらに背中に拳を叩き込む者がいた。
同じ人物がやっている、というのは分かる。だが問題は、それがあまりに早過ぎることだ。間髪入れずなんてものではない、ほとんど同じ時刻に別々の鉄拳が放たれているような感覚の方が近い。
「ティファレト=ダァトは無事に『転移』を終えた。……この空間を軸として、いずれ『表』にも侵食が始まる。何せ『主』の力が及ばない領域から手を伸ばしてるンだ、『勇者』ならこの程度でもどうにかなる。そうなるように作ったのは俺だからな」
「か、は」
「だからこそ、この程度で終えちャ面白くない。コルス島の惨劇を見てみないフリをしたようなクソ野郎が、いざ自分の作った世界を壊された時にどういう反応をするのか。それを見てみたいなんて思わねヱかお前? イサクの犠牲なんて強引にも程がある美談をやっておいていざ人間が自分の意のままにならないと思った時にノアの何とやらだ。『勇者』なんて聖書の範疇外を引っ張り出してきた……これだから主ってのは面白イ。そんな気紛れを見せてくれるんでもなきゃ、エリィルもサリィナも『死んだ』意味がねエよなぁ?」
早々に支離滅裂であった。
だが今の拳が、幸いにも『勇者』の呼吸を妨げていた血液を無理矢理外へと押し出したらしい。何度も咳き込み、石造りの床で全身を鞭打ちにしながら、ようやっと『勇者』は呼吸を整えて目の焦点を合わせることに成功する。
長身の男だった。上半身裸の上から鎧下のような皮鎧を付け、さらにその上から黒い毛皮のコートという外見は、とてもではないが教会領の流行を汲むファッションではない。特に所々から色白の素肌が見えている点、手首や頭にハルピュイアの羽毛と思わしき飾りを付けている点などは、ほとんど魔族占領区の安いストリップバーの踊り子じみたものだった。
またしても悪趣味な『ピネウス=アンテピティス』の職人か、とは思った。
そう考えている途中で、気が付いた。
あるいはこう思わざるを得ない、という表現の方が適切かも知れない。フィナンジュから『ピネウス=アンテピティス』について説明を受けた時に見た資料では、少なくともこいつの顔はなかったはずだ。
にも拘らず、まるで最初から知っていたかのように、『勇者』の頭に浮かび上がる名前は。
「……オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥス。『勇者』、テメエは既に俺を知ってる。じゃなかったら『ここ』には現出できねえ。そういう風に作ったんだから当然、だよなぁ?」
気が付けば。
彼女は、白人の大柄な男によって顎を押し上げられ、吊り上げられていた。
だが気道を締め上げるような動きではないし、そもそも男の両手は彼女の首を掴んでいない。
握った形のまま上から包帯でくるまれた状態だ。上腕までをすっぽりと包ままれた腕の内、右の肘に『勇者』の首筋を挟み込んでいるのだ。
ただ、使えないから封じているという印象ではない。
意図して使っていない、ような……
「『置換』……これは不完全……だなァ。チッ、エリィルとサリィナを使ってもまだ形成界止まりか。ゴール自体は見えてるってのによォ、まだ今の段階じゃ肉体を保ッたままじゃ無理だってのかァ?」
「……ぁ、く」
「……まあ、良い。そのためのピースは既に揃ってる。どっちみちテストは完了してンだ。遅かれ早かれ教会も察知するだろうが、その時にはとっくに手遅れだろうなァ。自分達が追い詰めたオデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスに全部をブッ殺される気分は最高だろウ? そうだよなァ? おい、『勇者』ァ?」
……そうして、嗅ぎ取った。
幾重にも重なった血と、膿の臭い。
自分のものとは明らかに異なる。何年何十年と積み上げられてきた、この男自身の傷。
(……こいつが。そう、いう、)
あらん限りの力を振り絞り、背後の男へと靴底を打ち込み、どうにか拘束を解く。
途端に冷たい石畳へと全身が叩き付けられるが、逆に言うとそこから先に追撃はなかった。膝を突き、折れた胸郭に治癒の術式を掛けながらも見据えた男は。
それこそ、オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥス。
違法密猟系『ギルド』の頂点、ハルピュイアの羽毛を専門とするイレギュラー。
『ピネウス=アンテピティス』、その親方たる人物だった。
「……ようこそ、とでも言いたかった所だが、今はそういう空気じゃねエか? いいや、ここをそういう風に設計したのは俺だったな。ティファレト=ダァト、毛色自体はレデンズ=ニーマンドから脱却できなかったが……それでも構わねエ。物質界からの完全な隔絶さえできれば後の事は何も考えなくて良い。エレメントなんてモンに作られた魂だけじゃねえ、この体ごと次のステップに進めるんだからよォ」
ゴンッ!! という音がした。
オデュッセリアが、両手の拳を打ち付け合った音。
それに混じる、ピキぴきと硬質な何かが剥がれるような何か。加えて、ぽたぽたと粘質な液体が滴り落ちるような何かは、決して彼女にとっては快いものではない。
それは、それらが生理的な嫌悪感を誘発するから、とかいう安易な理由ではなく。
エリィル、サリィナ。
イコンの如く鋼鉄の十字架に磔にされた二人のハルピュイア。その光景が、オデュッセリアの背中側に見えたからだ。
「……、何を、やってる」
オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスの顔を見据える。
二人の娘と、一人の少女に背中を向ける男の、その顔を。
「ミシェリナちゃんに……エリィル。貴方は一体、何をしてるんだ……!?」
「……ハルピュイア二匹は『転移』のトリガー。今までに集めた羽毛が持つエレメント、その『起爆剤』。今のここ、詰まる所のティファレト=ダァトを作ったようなモンだ。ただしここにおけるルールは全て俺が定める。『定義』は全て俺のモンだ。テメエが『聖剣』を持てないよう定めたのも俺、『勇者』の力が一般人レベルにまで減衰するように仕向けたのも俺……ここじゃァな、俺がルールだ。俺の定めたモンが全てだ。……確かに招待したのは俺だ、だがな……だからってテメエが踏み込んで良い領域でもねえ。そいつは発言権に関しても同じなんだよ、ゴミ虫」
ゴンッ!! という音がした。
彼女の近くに屈み込み、顔面を思い切り殴り付ける。体力の消耗を度外視して、現在進行形で治癒の聖術を回しているというのに、その一撃は『勇者』の頬骨をまともに陥没させていた。一瞬ではあるが粉砕された骨格は皮膚を貫通し、体外に飛び出てさえいたのだ。
普段の彼女なら間違いなく無傷で済んでいただろう拳にも拘らず、このダメージである。
人為的に定められた『定義』。
オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスがこの空間を作った。もしそれが事実なのであれば、ここにおいて彼の者は『主』と同義ということ。『勇者』が持つ体の頑丈さが一切合切無視されているという現状からしてもそれは誤りではないだろう。
そんな風に考えを動かしている最中、二度『勇者』の顔面に拳がめり込む。
「……テメエがフリューネと一緒にいたのは好都合だった。フリューネがテメエの注意を引き付けてくれたお陰で、こッちは無事にティファレト=ダァトを作り出すことができたんだからなァ……つくづく使いにくいモンだが、今現在ティファレト=ダァトが生成されてる以上はもうフリューネに主導権を握らせておく必要はねえ……だから、だ。ここで一つ、『定義』を変えてやるよ、クソッタレが」
眉一つ動いていない。
目の前にいる存在こそが『勇者』。教会により『魔王』の盗伐を正式に認可されたライセンサー。
……知った事か、と。
ひたすらに殺意に溢れたオデュッセリアの血眼が、彼女の頭へこんな意思を送り込む。
「……テメエも来い、アラーニャ。ミシェリナ=ディアントロス、そのマスターになれ」
『了解りょーかいしたってヤツね、ボスぅ? まあ、つっても「転移」自体は既に終わってるから、後は自覚があるかどうかってだけなんだがなァ? ゲゥエアィイッヒッヒ☆』
そんな風に。
鼓膜に熱した金属棒を突き刺すような、生理的嫌悪感を与える甲高い笑い声があった。
うつ伏せのまま背中側から押さえ込まれる『勇者』の視界に、誰かが入ってきたのだ。足音の位置取りからして、どう考えても彼女には見えるはずのない場所に立っている。そのはずなのに、何故かその姿は彼女の眼球を刺激して止まない。
見覚えがある、というだけが理由であるはずがない。
それは、黒いマントを頭から引っ掛けた襲撃者。
つい先程、その拳でもってミシェリナの腹をぶち抜いていたはずの……、
「イッヒヒェウッファ☆ フリューネとかルーシー? を殺したとか思ってるならとんだ間違いぶちかましてんね『勇者』チャァン!? 認識に相当なズレがあるってか、もはや一ミリも合ってねえって感じだしィ!? エふぁ、ヴヴぃっぎゅっはっは!!」
「なにを、言って」
「決まってんでしょーがよ。ミシェリナ=ディアントロス、一つの身体の中に内包された二つの極値ってヤツだよ。そいつが『転移』の副産物、人格の分離ってモンなんだ」
「……?」
「『勇者』ちゃんはよぉ、『洞窟の比喩』って知らねえか? 教会が唱えたエレメント論以前に地中海で盛んだったイデア論、まあそいつを説明するためのロジックみてえなモンだ。現実世界において事象の『本質』を見ることができる者は誰一人存在しない、人間が知覚できるのはその写像に過ぎないってな? だが事象の根本原理は何モ一つだけとは限らねエ、善悪二元論で片付けられネエ二つの『定義』が重複して存在してることもある。アラーニャ……ミシェリナ=ディアントロスを形作る『定義』、その内の片方を司るのが俺っちだ。つまり、フリューネは俺っちが『ここ』にいる間だけしか主導権を握れないクズ野郎なんだよ。分からねえかァ? テメエはなぁ、ここに来た時点である種印象操作に掛かッてんンだ。純粋無垢なミシェリナ=ディアントロスが、ラバロ門で出会ッた襲撃者と同一人物であルはずがねヱッてな!!」
ばさり、とであった。
黒衣の襲撃者が、自ら頭と背中を覆うマントを取ったのだ。ストリッパーのような舞台衣装こそ最初の邂逅の時から見ていたが……彼女が見た顔は、あの時の第一印象とは程遠い。
ミシェリナ=ディアントロスが、そこにいた。
恥辱の恥の字も知らないようなあどけない顔付きはそのままに、ひたすら悪意を増幅させたような表情。背中に背負ったのは、全く同じ顔でありながら印象も衣装もまるで違う、見慣れたミシェリナの外見を持つ少女。
醜く欲望にまみれた脳内をさらけ出すことに億劫もせず、オデュッセリアの隣に立つ別のミシェリナが、そこに。
「りー、だー……」
どう、映ったのだろうか。
今まさに『勇者』の背中を殴り付け、自分と同じ顔をした狂人の背中に縛り付けられている様を見据える、自らの恩人の姿は。写し絵に刻まれた自身の娘を十字架の上に縛り上げ、自らの目的の材料として利用を図る者の姿は、少女の瞳にはどう映ったのだろうか。
下腹部に大穴を空けておいて、しかしながら一滴の出血も起こしていないミシェリナ……いいや、襲撃者曰くフリューネ=ミシェリナ=アッシャーには。
「これが、……りーだーの、望んでることなのです……?」
「ティファレト=ダァトにおける精神の主導権、そいつは俺っちに引き継がれた。つまり、ここにおいてフリューネちゃんはマスターとしては失格だった……強いて言えば、『そういう』目的って意味じゃまだボスはテメエに役目を求めてるかも知れねえがなァ?」
「……あなたに聞いてるつもりは、ないのです。りーだー、どうして答えてくれないです……ミシェリナは、わたしは、りーだーが『したかった』ことは何でも、」
「ついでに言えば……、テメエに発言権を与えたつもりもねえ。テメエがミシェリナ=ディアントロスだったのは『今までは』の話だ。ボスが主導権を変えた以上、ミシェリナ=ディアントロスの主人格として機能するのは俺っちだ、アラーニャ=ミシェリナ=イェツェラーだ。どっちが格上だとか、考える以前の問題だろォがよ。つまりそういう訳だ、しばらく黙ッてなフリューネちゃァん☆」
背負い投げでも決めるかのように、半透明のドレスの少女を床へと落とす。小さな苦痛の声が上がるが、それは、すぐさま同じ顔の少女の鉄拳によってかき消された。
全く同じ顔、同じ体格、同じ髪色。
違うのは衣装と滲み出る悪意だけ。
『本質』と奴は言った。今目の前にいる……厳密にはそうではないのだが、ラバロ門の襲撃者とこいつが同一人物だと言われれば確かに納得はできる。では半透明のドレスの少女はどうだ。
同じ顔を持っていても、性格はまるで違う。外見だけに留まった話ではない、人の持つ二面性をそのまま擬人化したかのように、二人の少女は正反対が過ぎるのだ。
……ティファレト=ダァト、と言ったか。
「ハ、ッ……『転移』は上手いこと機能したみてえだな」
「貴、方……自分のしていることの意味、分かってないクチじゃないわよね……」
「同じ質問をテメエにしてやろうか『勇者』。念のために言っておかなきゃならねえタチかクソ野郎……何で俺がクロウリー学派の領域に足を突っ込んでまでティファレト=ダァトを作ったか、テメエは根本的な勘違いをかましてンだからな」
白肌の大男、オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスが言っているのは、この場所のことか。
先程から幾度も彼の拳を受け続けたせいか、視界自体が大きく揺らいでいたが……会話を続ける内に脳ミソの機能も戻っていったようだ。純粋な腕力によって押さえられた背中の激痛を言葉で紛らわしつつ、彼女はゆっくりと首を回す。
先程の寝室に似ているようで、違う。
広さで言えばクナブラ=クォド=アモル殿の教室の五倍近くはある。部屋のデザインからしてオーソドックスな教会保有の聖堂にも見えるが、自分が伏せている床からやや離れた位置にある祭壇は……どう見てもギリシア系のものだ。
「あまりに長かった。……ああ、凄まじく長かった。あの時、コルス島で出会ったハルピュイアが俺の『起爆剤』みてえなモンだったが……当時の俺は、まさかハルピュイアの羽にこんなチカラがあるなんて考えもしなかった。聖書にも描かれていないセフィラとセフィラの架け橋、世界の限界線を飛び越える秘術ってモンか」
(セフィラ……? セフィロトの樹を言ってるのか? とすると術式のベースはユダヤ由来のカバラ学……エドワルド辺りが得意そうな分野ね……)
「まあ……結果的にはそういう既存の表現に収まらざるを得ねえって事だ。俺が見たモンは、人間が理解するにはあまりに高度過ぎたンだよ、クソカスが。今は招待してやってる状態だから知覚できる、だが本来なら俺とアラーニャにしか到達できなかった領域だ。だからな」
ゴンッ!! という音がした。
握った拳の形のまま包帯で固められらたオデュッセリアの左手が、『勇者』の背中を掴み上げていたのだ。指それ自体が動いている訳ではなく、ハルピュイアのように『風』のエレメントを操って上昇気流を作っている訳でもない。
閉じた指でもって掴む、そんな矛盾した芸当をやってのけている。
夢であってもこうはならないはずなのに、現実の出来事として『勇者』に迫っている。
「……ここは俺の世界だ。教会も『勇者』も見たことのねえ、あらゆる法則性が俺の元に跪いた領域だ。ここは、テメエがいていい場所じゃねえんだよ」
その直後、というか言葉と同時だった。
ゴンッ!! という音がした。
掴まれずに吊り上げられた彼女の肢体に、もう片方の拳が叩き込まれたことによるものだ。背中から肋骨を破壊するような衝撃が全身に伝播し、それこそ四肢と首もまとめて千切れ飛んでいなければおかしい。少なくとも『勇者』としての力が無意味であるなら、表現としてはこうなる。
そうなる前に、身体の前面から一撃。
背中を殴った掌による激痛は、何故か体の前から押し寄せる。それも一発二発とかいう話ではなく、たったコンマ一秒のさらに何十分の一という時間……そのごく微小な時間の中で、先程の背中からの衝撃を打ち消すような無数の打撃が放たれているのだ。
だが一度一度の間隔があまりに短過ぎるがために、一発の打撃としてしか認識できない。
認識できない以上は防ぎようもない。これは螺旋階段の『感外』と同様だが……『認識の外』からの即死攻撃と異なるのは、オデュッセリアの鉄拳にはそういった術式の類の一切が施されていない点だ。やろうと思えば受け止めることはできるかも知れない。
防御姿勢を取ろうとした瞬間、そう考えようとする『決定』を下す間。
その時に攻撃が成されているということを、認識できる奴がいればの話だが。
「惨めなモンだよなァ。『勇者』ってのも」
ゴンッ!! という音がした。
骨格レベルで粉砕された両腕をさらに圧し潰すように、全周から残像さえ残さない連打。
「結局、ヤッてる事は教会の連中と何も変わらねエ。いや、むしろ自覚もないまま教会の真似事をしてるっつった方が分かるか? 『鉄拳交渉人』だか何だか知らねエが他人様の問題に勝手に茶々入れた挙句双方ブン殴ってハイ終わりだとよ。ふざけてんのかって感じだろうが……テメエさえ介入しなければ生まれなかった悲劇ってヤツも数多くあるってのを知らねえのか? ……そうしてテメエが余計な手出し口出しをしてる間に別のトコで起きてる悲劇に気付けねエでよ、勝手な自己満足で終わラせて後は見向きナシってかァ? 『魔王』を殺す権利を持ってる奴が自分の同類さえ助けられねえ、こんな奴が『勇者』? ……なァおイ、……『聖剣』は本当にこんなクソ野郎を選んだのか? それとも、テメエは自分が本気で『聖剣』に選ばれたとでも思ってんのか?」
ゴンッ!! という音がした。
下腹部、臀部、鼠径部、腿。
同時に無数の打撃。骨も筋肉も何も、とっくの昔に粉末にまで還元されていてもいいぐらいだ。それでいて死に至っていないのは、『定義』の有り様によるものということか。
どれだけの致命傷を負っても、死亡しない。この空間において死という概念はない。そういう『定義』を作っている。
「…………ぁ、」
ボロ雑巾、とはこのことを言うのか。
体のパーツの内、原型を留めている部分は数少ない。出血についても、既に失血死のレベルを超えているだろう。呼吸なんて既に破綻しているのにまだ『勇者』の口からは擦れた吐息が出る。現在進行形で動かし続けている治癒の術式ありきだとしても、損傷はその程度でどうこうできる段階にはない。
「……違ウな。テメエは『聖剣』のマスターじゃねえ。そうなるように、そう見えるように振舞ってるだけのピエロ野郎だ。自覚もなけりゃ他人から見ても違和感はない、だが本当に『勇者』の力を備えてる訳じゃねえ。そうじゃねえってンなら……根本的に、コルス島の惨劇なんぞ起こらなかッた。俺の嫁が、ミレィンが殺される前に、コルス島に介入してなきゃ辻褄が合わねえんだからよ……教会の連中がどう規定してるかはサッパリだが、少なくともテメエが得てるエレメント適合率からしてそうなるのが自然……なら、テメエは何だ?」
にも拘らず、死なない。
この空間自体、そうなるように作られているからだ。
「結局、テメエは間に合わなかった。教会の連中が掲げた『「聖なる獣』とかいう名前を維持したいがために、『人間の手で汚された』あいつは死ななきゃならなかった。……全くもってクソッタレでナンセンスな話だろウがよ、クソ野郎。自分達が勝手に作ったルールは主の教えと同義であり、従わない者は例え主によって想像された生物だろうが粛清の対象となる、ってなァ。自己中ここに極まれり、だ。そういう意味じゃテメエも大して変わらねえ。『勇者』だ何だとか語ってるが実態はこの通り。『定義』が変わった程度の話だってのによォ、自分一人救えねえクソ馬鹿ビ〇チが、『魔王』を倒して世界を救う? 寝言にしてもなァ、永久に睡眠してから言った方がせめてまともに聞こえるよ」
その次は、胸倉を掴んで吊り上げる。
指は一本たりとも開いていない。上から何重にも撒かれた包帯で関節ごと固められている、それでも『掴んで』いる。これが常識だとでも、これが世界の一般原理だとでも言いたげに。
その上で、と告げる声があった。
「……全ての『定義』は俺の意中。なら、誰がこいつのマスターか……分からねえ訳ねヱだろうが」
オデュッセリアの手であった。
握り込まれた拳の形を取るその内に、一つの輝きが生じていたのだ。
蛍のそれのような、淡くはっきりとしない光。だが彼女に見覚えがない訳はない。むしろ、今この場で彼女の手元にない事の方が遥かにおかしい、『それ』は。
(せい、けん……?)
明確な形状はない。それどころか存在自体に揺らぎがあるかの如く、オデュッセリアが『持つ』光は不安定そのものだった。掌を包む包帯を徐々に蒸発させ、鉄板の上で獣の肉を焼くような音さえ響かせながら、それでもオデュッセリアは。
言う。
「救いは届かなかッた。だから、今ここでテメエに返してヤる。一度だろうが何だろうが、エリィルとサリィナを『殺した』テメエにとびっきりの『救い』をな」
そして、刺す。
その、直前の出来事だった。
「待つ、のです」
ほっそりとした小さな右手が、オデュッセリアの拳を包むように握っていた。
それは、ストリップバーじみたワイヤードビキニを纏い背中合わせに同じ顔の少女を背負う、アラーニャ=ミシェリナ=イェツェラー……ではなかった。
顔は同じでも中身は別物。
今まさに外野で意識を奪われていたはずの、妖精の羽のような半透明のドレスで身を包むミシェリナ=ディアントロス、いいやフリューネ=ミシェリナ=アッシャー。
「りーだーは、いつも言ってたのです。みんなのために『ピネウス=アンテピティス』を作ったって。自分の目的のためでもある、でも、その一方で身寄りのない職人さん達を匿う場所という意味でも『ピネウス=アンテピティス』は存在してるんだって……」
「……フリューネ……?」
「今のりーだーがしていることは、誰かのためにならない。自分のための行動でしかない自分だけが満足するためのもの。『ピネウス=アンテピティス』を作った理由と同じにはならない。自分の片親を殺されたあの子達のためだってことと同じにはならないのです!!」
十字架に拘束された二人の方を見やる。
直前まで、確かにあの付近に主人格の座を引き継いだアラーニャいたはずだ。だが、何故か肝心のアラーニャ、その背中に括りつけられた少女はいない。
統合失調症、所謂多重人格とは違う。
オデュッセリアの理論に従うなら、フリューネもアラーニャも、ミシェリナ=ディアントロスという人物を形作る『本質』の一欠片でしかないのだ。オデュッセリアによって主人格がアラーニャで固定された以上、『表の世界』で言うフリューネは深層心理にまで押し込められている……つまり行動不能でなければおかしいはずなのに。
「……どうしてなのですか」
少女の瞳が、視線が、熱が。オデュッセリアの行動一つ一つに突き刺さり、強引にでも縫い留めていく。
「りーだーは、どうして……そこまでして、自分を誤魔化し続けるのです。どれだけ包み隠したって、わたしには分かるのです。りーだーが、エリィルさんにも、サリィナさんにも、航海も未練も残してるってことぐらい!! でも、それがティファレト=ダァトを作る理由になってるなら、今のりーだーは……おかしい。おかしい、です……」
あるいは、それこそが。
フリューネ=ミシェリナ=ブリアーという『本質』を体現するものなのか。
アラーニャが『狂気』だとすれば、フリューネは『理性』または『慈愛』。全身に蓄積したダメージのせいで五感すらまともに機能していない『勇者』でも、そんなロジックが回る。
「教えてください、です」
「……、」
「何でりーだーは、こんなことをしてるのです。何がりーだーをそうさせるのです。……いつもわたしを見てくれたりーだーは、どうしてしまったのです……?」
人が凶行に走る事それ自体は、決して珍しいものではない。
多くの場合、その原因は報復。オデュッセリアの場合について言えば、コルス島で失った自らの妻、そして二人の娘であるエリィルとサリィナ。教会が自らのエゴで定めた保護法により、一見して密猟者から遠ざけられているように見えて実際は真逆、さらには『聖なる獣』という名前に相応しくない行動を取った個体は粛清の憂き目に会うという現実があったからこそ、オデュッセリアはティファレト=ダァトを持ち出した。
「俺がおかしい、ねェ。別に自覚がねえとかいう話じゃねえンだがよ、フリューネ。そイつは奇妙奇天烈な質問じゃねエのか? 『良心』を司るテメエだからこそってのは知ってる、だからこそ……一個だけテメエみてえなロリビ〇チに質問しても構わねえよなァ?」
そう考えていた。
では、そう思っていたのはここにいる者の内の何人だ?
次の言葉は、さてどれくらい衝撃的だっただろうか?
口を左右に引き裂いて。五体不満足の『勇者』を脇に放り捨て、フリューネ=ミシェリナ=アッシャーと目線を合わせつつ、にっこりと笑うオデュッセリアは言う。
「……まさか。テメエ、本気でエリィルとサリィナが俺の娘だとでも思ってたのか?」