ACT.03-75_DEEPDIVE,or Knocking on Silent Past.[chapter.06]
6
落ちた。
ひたすらに、宙を下った。
いっそ永遠に続くような錯覚さえ感じさせる程に長い浮遊感は、『勇者』やルーシーやミシェリナの両瞼を瞑らせるには十分だった。
だがその果てに訪れたのは、全身が位置エネルギーから変換された運動エネルギーによって粉砕される感覚などではなかった。
「……、何?」
両足が床を捉えている。
周囲の空気はやけに綺麗さっぱりとしていて、先程までの悪意も殺意も一切が感じられない。
そして何より……場所が違った。そこは床から天井まで石造りオンリーの螺旋階段の最下部ではなく、若干ではあるが生活臭のある、クナブラ=クォド=アモル殿の教室ぐらいのサイズがある部屋だった。
ベッドやその他の家具の数からして、恐らく複数人での使用は考えていないように見える個室。多少の埃は付いているが所々に新しい汚れも見受けられる点からして、つい最近までここで誰かが暮らしていたような空気感がある。いっそ、数分前に家主がここを出ていったと言われれば素直に納得してしまうかも知れない。
「……寝室、でしょうか。このベッド、まだ体温が残っているようですし」
「でも誰の? っていうかさっきの階段はどこ行った? ルーシー、この部屋について何か掴める?」
「それであれば『勇者』さんのエレメント知覚能力の方が適任だと思いますが……少なくとも私の方では、何も。むしろこれだけ何の反応もない部屋なんて、『ピネウス=アンテピティス』本拠に来てから初めて見たかも知れませんよ」
カーテンの向こう側には窓があるが、その窓の外には何もない。エドワルドの『僧院』のように霞が掛かって見えないのではなく、本当に何もないのだ。
一切の光を通さない暗闇と窓枠にはめ込まれた鉄格子があるだけで、その他には何も。あたかも誰かさんの夢の中のように限定された空間だったが……次に声を上げたのは『勇者』でもルーシーでもない。ミシェリナだ。
「りーだーの部屋、です……」
「何だって?」
「……わたしがりーだーに会う時は、必ずここなのです。途中までアルクタンさんが一緒に付いてきて、りーだーに許可を貰ってからここに入るのですが……でも変なのです。いつもはあの階段を上に登った所にあるはずなのに……何で? 階段の一番下には羽を置いておく部屋しかなかったはずなのに……?」
「別室とかいう可能性は? 階段の上野部屋はダミーで、実際はこっちが本来の部屋だとかいう話じゃないの? その、羽の貯蔵庫に紛れる形でプライベートルームを拵えたとか」
「ぷら……? 良く分からないですけど、でも……りーだーが、その……わたしを呼ぶ時はいつも上の部屋なのです。たまにアルクタンさんが付いてこない事もあるですけど、階段を下ることはまずなかったのですよ」
「……、」
直近まで人がいた痕跡がある点を見るに、少なくともここに人がいたことは事実だ。それがオデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスだったかどうかはさて置いても、そいつとよく顔を合わせているはずのミシェリナでさえ知らない部屋がこれ、ということになる。
違うのは部屋の場所。
階段の上ではなく下方。それも単純に下って行ったのではない、根本的に彼女達三人は訳も分からず螺旋階段から転落という憂き目に会っていたのではなかったか。生きていられるかは別問題だとしても、最下部まで墜落したならば先程同様の石造りの床があって然るべきだ。少なくとも落下点が頭上に木目調の天井がある寝室というのは常識では考えられない。
「……部屋の座標がズレてる?」
「あるいは特定の条件下において位置関係が逆転するか、という所でしょうか……私の知っている限りではそういう術式もいくつかあります。ですけど、いずれもかなり大規模かつ高コストなものですよ。少なくとも一世代だけで完成させられるような代物ではないですし、それこそ聖守護天使との契約でもしない限り魔力の不足を補うことはできません。親子代々で術式の構築を受け継いでいくという手もありますけど……」
「……時間経過そのものが、ある種の記号性として機能する。伝言ゲームの原理で云々説明する前に、先代の詠唱とか描かれた陣を引き継いだ時点で『刻』という記号が出来上がってしまう。その影響を修正しつつ引継ぎを行うには人も手間も膨大過ぎる、か……」
可能性は考えられるが、正解は見つけられない。
そして、ここには律義に答え合わせをしてくれる奴もいない。ミシェリナでも正体を掴めないならこちらはお手上げだが……問題はそうではないのだ。
オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスが何かを隠すとすれば、ここ。
つい先程、ミシェリナがそう口にしていた。奴が何をしようとしているかは分からないが、少なくともここを調べれば多少なりとも手掛かりが掴める『可能性がある』。
その正体を知った上で阻止して、この場所を抜け出す。当面の目標は既に決まっているのだ。今は部屋の座標云々と余計な問題を考えるよりも、オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスの『計画』を掴むことが先決だろう。
「それで、どうするんです? 根っこの全体像さえ把握できてないのに、そもそも子の部屋から何を探し出せば良いんでしょうか『勇者』さん……一応言っておきますけど、『弥撒』も『贖宥状』もそういう目的には使えませんからね。探すべきものを示して下さいなんてどこの壊れたコンパスですか」
「そりゃパズィトールの『追憶』みたいな効果は期待してないわよ。私のエレメント知覚だって、察知できる範囲は誰かの意志を伴ったエレメントの流れだけ。奏者の手を離れた原力、それぞれの特性に最も近しい物質へと変化してしまったらそこまでなの。エレメントってのは単なる物質の最小単位じゃない、その源流に等しい『力場』みたいなものなんだから」
「……六芒四道説、なのです? わたしも少しは覚えがあるですけど」
「凌辱の凌の字も知らない純粋無垢女の子なのに変な所だけは詳しいのね……。まあ、とにかく片っ端から洗いざらいって感じか。何かしらの魔術を拵えているのならその痕跡があるかも知れないし、魔術自体が魔力を用いてエレメントに干渉するものである以上、何の証拠も残らないなんてことは有り得ないはずよ」
「だと良いんですけど……つい最近ヴィクトルも似たような事件に出くわしてますからね。尻尾の毛一本も残さずに蒸発する魔術師は私の所でも結構有名です。いつも男性の煩悩を呼び覚ますような際どくてインパクト抜群の恰好をしているのに、何故か目撃情報の内容は一貫してないって……一体誰なんでしょうか? ヴィクトルの夕食に媚薬を持って私を襲わせて、その光景をいかがわしい絵の参考資料にしようだなんて」
(……それどう考えてもあの変態痴女の皮を被ったエロジジイなエドワルドだよね?)
というツッコミは心の中に留めておくとして、ひとまず彼女は寝室の全体を見渡す。
教室程の床面積がある部屋だが、特に使い込まれている様子があるのはベッドだ。指の先を走らせてみれば、人の体温と一緒にやや湿った感覚があるのが分かるが……その範囲はあまり広くない。寝汗にしても奇妙だし、第一体格が小さすぎる。ある程度予測はできるものの、これではせいぜい、第二次性徴前の幼い少女の形にしか……。
(むしろ、そういう事? よく顔を合わせてるってのは……やっぱり。でもそれ以外には何も出てこない。護符が貼ってある様子もないし……何かの記号として使われてる訳でもなさそう)
「……まあ、実際に『それ』をやってる時点でアレではあるけどさ」
「?」
怪訝な声を上げるミシェリナはあえてスルーしつつ、視線を変える。
その他に使われている形跡のある家具と言えば、一人用の椅子とテーブル、あとは事務仕事用と思わしき机のみ。引き出しの中身の羊皮紙はいずれも教会との取引用の書類か、各種修道会との契約文書か。おおよそ違法密猟系『ギルド』の顔とは考えられない内容のものばかりだが、どれも描かれた時期は最近ではない。どうやら直近の文書はここには収められていないようだ。
その代わりと言うのか、書かれた文章の上からさらに別の文字列が記されている。
ただ字体からして重要書類の追記や修正ではないし、途中で使わなくなった下書きという調子でもない。
黒いインクの文字を覆い隠すように上書きされた赤い筆記体……いや、むしろ殴り書きに近いか。よく眺めてみれば文法も何もあったものではない。
教会の定める標準語であるラテン語でもないし、パズィトールの生まれであるファイデム=サルヴス公国が使うルーマニア語とも違う。前後の流れから推測した限り、ほとんど意味を成さない創作された単語の羅列に近いが……所々に魔族の標準語である英語も混じっているのが見て取れるのだ。
「……、プルーマ=ブラツィウムの羽飾り、マント、予備のベルト、これは……ポシェットでしょうか? 中身は特にないようですね……クローゼットの中には人の性格が出ると言いますけど、何とも平凡というか……あまり『ギルド』の親方っぽくない感じですね」
「りーだーはそういう人なのです。自分のことはあまり頓着しないですけど、わたしにもみんなにも優しくしてくれて……この間は『えいご』を教えてもらったのですよ。ちょっと難しいですけど、うまく言えた時にはご褒美も貰えたし……」
「その『ご褒美』の内容が気になりますけどね私。『勇者』さんの顔を見る限りあまり良い響きに聞こえないんですが……」
「りーだーは優しいですよ?」
「……サラっと他人を洗脳するスキルに長けていませんかこの子……ともあれ、そちらはどうですか『勇者』さん。『勇者』さん?」
「……、」
ルーシーとミシェリナも各々で調査を進めているようだが、彼女はそちらを見ない。
見なければならない。
そんな使命感を沸かせる何かが、ある気がする。
この文字列に。
ただ単語を並べただけ。特に法則性もなければ何かの暗号が隠されている訳でもない、本当にただ書き殴られただけの、もはや文章と呼んで良いのかどうかも怪しいモノ。表だけ見ればそういう印象にしかならないのに、何故ここまで目を引かれる?
フレーズだ。
単語という単語の中で、特定のフレーズだけが、やけに書き癖が強く出ている……というか、恐らくだがこれが書かれた当時は相当筆圧が高められていたのだろう。インクの付き方からして使われたのは羽ペンのようだが、仮にその通りなら、これを書き終えた直後はペン先が完全に潰れて使い物にならなかったはずだ。
その上、で。
羊皮紙に小さな穴を空け、その裏側にまでインクが滲むような筆圧で刻まれたそれを、ただフラストレーションの産物と言い表すのはまだ早い。
(……、E、R、……YL? 人名……にしても奇妙ね。少なくともこの辺りにそういう名前の付け方をする習慣はないはずだし、魔族占領区にもこの手の例はなかった。これが何かを示す記号なのか……それにしても、詠唱時の短縮記号として使うにも、この配列じゃ魔術化した所で力のベクトルがまるでグチャグチャになる。『火』と『水』の複合としての『風』……何て言うかハルピュイアっぽい感じはするけど)
それが現れている部分は数多い。全体を見渡す限り、少なくとも一枚の羊皮紙につき五〇回以上は出現しているのだ。詠唱形式で魔術行使をする場合、確かに詠唱の回数を増やすことで効力を高めるというやり方はあるものの、それはあくまで補助的手段であってメインの戦術にはしにくい。
もちろん、塵も積もれば何とやら、数を重ねればその限りでもないのだろう。だがその首位にある単語に法則性が全く感じられない以上は、そういった可能性は限りなく薄いと言える。
……あるいは、だ。
繰り返し繰り返し、同じ言葉を書き連ねる。魔術的記号以外の理由が存在するのであれば、これはある種精神に大きな負担を負った者の特徴と……
「……『勇者』さん? どうしたんですか?」
「……これ」
そのタイミングで、羊皮紙をなぞる彼女の手が止まる。
目に入ったのは別の文字。それもERYLとかいう単語ではない。文字数自体が四つと五つで一致していないし、使用されているアルファベットも類似性はあるが少々異なるものだ。
だが見覚えはある。正確には聞き覚えがあると言った方が正しいかも知れないが、ともあれ、そこにはこうあった。
「S、……R、Y……NA……?」
通常、アルファベット表記では全ての音を表すことはできない。
それぞれの言語の音を無理矢理に個々の文字が持つ発音に当てはめているのだから当然と言えば当然の話だ。口や舌の複雑な動きを強引に統一化し、一つの言語に集約する過程で拾い損ねた音は必ず現れる。それは言語系統が異なれば異なる程に酷いものになっていき、種族的な違いが大きければ大きい程に増えていく。
人と類人猿(……と、魔族占領区で呼称される種)においては、声帯含め発声器官に違いがある。それ故に類人猿は人の言葉を解せても話すことはできないし、逆もまた然りだ。
それがハルピュイアの場合であっても、また同様。
「サリィナ……?」
ハルピュイア コルス=ポリチョロモ=ブラコゥ、混血
四つ 文字
教会命令 極秘掃討作戦
コルス島の掃討
妻 D
三番目 Yに酷似した音
RDYD ←D
ERYL ←捜索、プルーマ=ブラツィウム 青系の羽
番の成立時
他個体に 羽の譲渡
要検討 ←イピス=スィーネ=アラス
並べられた単語の不足を補いつつ組み直してみれば、全体像が浮かび上がる。
『ピネウス=アンテピティス』、その頂点に立つ男。オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスという人間が考えていたこと、その断片が徐々に明らかになる。
「イピス=スィーネ=アラス……?」
「……『勇者』、さん?」
ハルピュイアの羽が持つ高い市場価値、それによりもたらされる莫大な利益。
熟練の職人の喪失、組織に対する大規模な逆襲。そういった狩猟時に伴うあらゆるリスクを無視してでも、違法密猟系『ギルド』がハルピュイアに手を出す理由があるとすれば、一つだけしかない。
正直、彼女はそう思っていた。
でも、これはきっと違う。
ただ金銭欲に従ってハルピュイアを狩っていたのではない。教会とのコネクションを利用して政権を裏から掌握しようと画策していたのでもない。そうではない別の目的があったからこそ、オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスは『ピネウス=アンテピティス』という『ギルド』を打ち立てたのではないか。
そんな彼女の考えを裏付けるように、羊皮紙の束が収まる引き出しの奥に、何枚かの小さな写し絵があった。引っ張り出して眺めた限り、それらはどこかの海岸で描かれたもののようだが……そこも含めた問題点は、こうなる。
「……ちょっと、待って。これは……何で、この顔が?」
絵の中にいるのは二人。
一人は鮮やかなスカイブルーの髪色と、黄色と青が入り混じった羽毛の色が特徴的なプルーマ=ブラツィウム種ハルピュイア。
そして、一人は見た目二歳程度の……妖精の羽のような半透明のドレスを纏った少女。しかしミシェリナではなく、その顔は彼女が知っているもの。
共通して言えるのは、今日の昼頃に顔を合わせたことのある女の子であるということ。
極めつけに、その写し絵の裏では手書きの文字がこう語る。
サリィナ エリィル 最愛の娘 二人にこの命を捧ぐ
A.D.■■■■ 4/12 コルス=ポリチョロモ=ブラコゥ
「一体さっきから何を独り言ちているんですか? その書類に何か、打開策になりそうなものが……」
「……正直、その方が遥かに良かったかも知れないわね」
唐突に、うんざりしたように彼女が呟いたせいだろう。ルーシーと隣のミシェリナが揃って小首を傾げていたが、彼女は構わず書類の束をルーシーへと投げ渡しつつ述べる。
「リディアスから説明受けてなかった? クナブラ=クォド=アモル殿にはアストレア閣下が保護した子供達が済んでて、他の修道会の監視と糾弾を回避しつつその子達の社会復帰に向けて教育を受けさせてるって」
「一応、今回の件に際して確認はしましたけど……それが?」
「その中に、オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスの子供がいた」
ベッドの脇に置かれた額縁を手に取り、彼女は言う。
「サリィナちゃんはクナブラ=クォド=アモル殿の子供達の一人なの。その写し絵の右側の子で出身はコルス島の集落。地形変動や円卓騎士団の異端盗伐の流れ弾で壊滅状態に陥って、その結果集落を放棄したっていう話だった。……でも、その書類に書かれている中身からして、集落の壊滅の原因が説明通りである可能性が怪しくなるかも知れない」
「原因が違う? 偽装されていたってことですか?」
「……それをやったのが教会なら、この手の手段は常套句よ。異端盗伐に名を借りた大量虐殺なんて日常茶飯事、特にジュディチュム=イノミエ=デイ修道会による粛清行動が大きい。今の教皇レディット=インノケンティウスが掲げる徹底した異端排斥政策……名前までは覚えてないけど、その影響でここ最近は異端者に対する攻撃も激しくなってるらしい。似たような事例は過去の異端盗伐十字軍としても存在してるんだけど」
その信仰理念もあってか、教会による異教の信仰に対する排斥姿勢は特に強い。かつて地中海を中心に活発だった多神教が、現在は弾圧政策のためにごく少数の島々に残るのみとなっていることが大きな証拠だ。それらは肝心の信仰者の高齢化もあって、忘却されるのは時間の問題だとアモル=クィア=クィスク修道会内でも度々議論されてきた問題でもあるのだ。
彼女が『鉄拳交渉人』として活動していた時から、そのような光景は目にしてきている。
今もなお信仰が残っていながら、信じるモノが違うか、あるいは微妙な差異があるために存在を抹消されていく者達がいるということは。
しかし、
「……だとしても、それはおかしくないですか。コルス島の集落の話は私も耳にしてますけど、あそこは教会に対して敵対的でもなければ、異端の集団として扱われていた訳ではありません。『地脈』や『記号性』にも乏しいコルス島住民を追い出して何かしらの計画の要石にするような所でもないんです。例え異端盗伐をした所で、教会にとって利益になるようなモノは残らないはずなんですが……」
「それじゃあ、つまり……体制維持のための異端盗伐や利益目的の強制移住じゃない? 自分の目的やら欲望やらのためなら魔族と全面戦争だってする教会が、そんな回り道をするとは思えないんだけど……」
「利益も名目も目的じゃない。そこまでして教会がコルス島を攻める理由……って、うん?」
羊皮紙の書類の表面を指でなぞりながら答えるルーシーが、そこで言葉を止める。
どうやら文中の一節が引っ掛かったらしい。白フードの少女は複数の書類を何度か戻って確認し、デスクから出てきた写し絵と見比べ……ふとその一部に目を寄せる。
「……『勇者』さん、ちょっと聞いても良いですか」
「? どうしたの?」
「この、イピス=スィーネ=アラスって……『勇者』さんに聞き覚えは? この書類の中にはいくつかこの単語が書かれている部分がありますが」
「いぴす? ラテン語で『翼のない梟』……聞いた感じだとハルピュイアの種族分けに近い匂いがするけど、少なくとも私には聞き覚えがないよ。アモル=クィア=クィスクの持ってる書庫にもそういう言葉は記載されてなかったはずだし……ひょっとしたらスクェント=エクスの『焚書庫』にはあるかも知れないわね」
「いえ、『焚書庫』を使わなくても正体は確定するかも知れません」
ルーシーは少し考え、
「『勇者』さんと合流する前、『ピネウス=アンテピティス』の職人が話していたのを聞いたんです。イピス=スィーネ=アラス種の生き残りがいたとは、って。つまりイピス=スィーネ=アラスはハルピュイアの分類で確定でしょう。姿形が人間に近いプルーマ=ブラツィウムを除いて、ハルピュイアの分類名には基本的に既存の鳥類の名前が使われますし……それで、魔族占領区風の解釈をするのであればイピス=スィーネ=アラスのイピス、つまり梟の持つ記号性は『森の賢者』。ただ教会の言う『賢者』は少なくとも人間限定の称号です。聖書に記載される創世記によれば、人間とは主が最初に作り出した最高傑作であり、これを超える生物は地球上には現れることはない……という解釈ですから」
「すっげえ上から目線の解釈だけどそんな中身あったっけ……? 聖書真面目に読んだことないからそういう話はちょっと疎いんだよね私……『聖女昇華』使っておいてアレだけどさ」
「……ともあれ、イピス=スィーネ=アラスという名前がハルピュイアの一分類ならこれは明らかなルール違反です。自分達が作った分類名の基準を自分達で塗り替える結果になってますから、公表しないのは理に適ってるかも知れませんが……」
「……イピス=スィーネ=アラス?」
そんな折だった。
半透明ドレスの少女ミシェリナが、ルーシーの持つ写し絵を覗き込み、小さく呟いたのだ。
「それ、りーだーが寝る前によく言ってた言葉なのです。エリィルはハルピュイア側の血が濃く出たからプルーマ=ブラツィウム寄りの特徴が強いけど、サリィナは人間の血の方が濃く出たからこういう姿になったんだ、って……」
「血が濃く? ……ちょっと待って。サリィナちゃんとエリィルって名前のハルピュイアが……ってことはオデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスが妻にしたのは、プルーマ=ブラツィウム種のハルピュイアってことにならない? それも、コルス島の」
「異類婚姻……プルーマ=ブラツィウム種ハルピュイアでは何度か確認事例があるという話は裏ルートで伝わってきてますが……まさか、コルス島の盗伐作戦って!?」
驚愕の声を上げるルーシーに、彼女はゆっくりと答える。
「……『人ならざるものを愛してはならない』。教会が掲げてる婚姻ルールの一つ。ハルピュイアの存在自体は教会によって認可されていて、積極的な保護政策まで打ち立てられてるけれど……オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスはこれに抵触してしまったって事なのかも。プルーマ=ブラツィウム種は教会指定の天然記念物の中でも特に強い保護を受けてるはずだったし」
もっとも、『ピネウス=アンテピティス』と教会……ジュディチュム=イノミエ=デイ修道会の意着という事実がある以上、その記念物指定や保護も羽毛の取得を容易にするための方便である可能性が高いが。
「要するに……サリィナちゃんは人間寄りのハルピュイア、イピス=スィーネ=アラス種だった。んでもって母親は、恐らくコルス島に生息していたプルーマ=ブラツィウム種ハルピュイア。けれど保護政策っていう建前がある以上、教会はその実在を認められないはず。……つまりオデュッセリアの妻は教会によって殺されたって所かしら……」
特定種族の排斥、それは教会が異端盗伐を名目に行う種族根絶の第一歩だ。
他種族と人間の婚姻があった場合、通常なら間違いなく両者とも教会による粛清の対象になる。だがハルピュイアに対しては自身が掲げる保護政策(という名目での羽毛の収穫)があるために種族全てを根絶するという暴挙には出られない。円卓騎士三人分と等価に考えられるハルピュイアそのものの獰猛さや羽毛の価値も相まって、プルーマ=ブラツィウム種を根絶やしにすることはできなかったのだろう。
その代わり。
コルス島に住まう人間とハルピュイア、その双方を殺し尽くした。
サリィナの集落が壊滅したのは不幸な偶然の連続ではない、明らかに人為的なものだ。それでいてアモル=クィア=クィスク修道会ですらその実態を掴めてなかったということは、それだけの情報封鎖が成されていたか……あるいは死人に口なし、生存者どころか集落の掃討に加わった人間すら消し去られたか。
サリィナはコルス島の集落の数少ない生き残り。
日中、自分が話をした少女を思い出す。クナブラ=クォド=アモル殿に墜落したエリィルとは面識がなかったようにも見えたが、写真に写っているサリィナの顔を見る限り、幼少期の記憶が曖昧なのかも知れない。エリィルがプルーマ=ブラツィウム種の特徴を色濃く持っていることからしても、教会の不穏な動きを察知して、いち早くコルス島からマルティリャーナ教会立公園に移り住んだ可能性もあるだろう。
何にせよ、二人の少女に未来などなかったのだ。
譜面は、教会によって定められた上から目線の救済制作。
舞台は、羽毛の価値に魅入られながら自分達の作った台本を捻じ曲げる覚悟もない腰抜けのクソ野郎共によって仕組まれたシナリオの上。
サリィナもエリィルも、オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスも。コルス島に住まうハルピュイア達も集落も何もかもが、戯曲の通りに躍らされていただけだった。本当にそうなら、違法密猟系『ギルド』としての『ピネウス=アンテピティス』が生まれた理由も合点がいく。
「……探していたんだ。自分の唯一の肉親、二人の娘を」
コルス島から最寄りのエルバ島まで、最低でも五〇キロ前後。
体力やエレメント操作能力に秀でたプルーマ=ブラツィウム種ハルピュイアならまだ十分に考え得る。
だがサリィナと実際に顔を合わせた時は、両腕はおろか背中や腰にもそれらしき羽は確認できなかった。小柄な体躯以外にハルピュイア的特徴を持っていないイピス=スィーネ=アラス種ハルピュイアがこの距離を渡れるかは、正直疑問だ。
『両親と離れてしまった所をアストレア閣下が拾い上げた』ということになっていたが、仮にそうならなかったらどういう結果が待っていたか。
「羽の収集と密売はあくまで口実。自分の娘であるサリィナちゃんとエリィルを探し出すことの方が本命だった。でもハルピュイアと関係を持ってしまった以上は堂々と教会の目につく所に出てくる訳にはいかない、でも少しでも娘の目撃情報を集めるには教会の情報網も要るかもしれない」
「だから、ジュディチュム=イノミエを雇い主として選んだ。元から教会の教えを後ろ盾に内部粛清やら大量虐殺の第一人者として動いている連中ですから、確かに隠れ蓑としては打って付けかも知れません。プルーマ=ブラツィウム種を週に二〇以上も狩れるだけの狩猟技術も、あるいは夫という形でハルピュイアの習性を知り尽くしていたからでしょうか……」
自らの妻を亡くしたばかりではなく、娘の片割れまでをも失う。
そうならないように、オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスはあえて教会の犬になった。攻撃的な性格が薄い点に付け込む他の密猟者に手を出される前に何としても見つけ出し、自身の手の中に取り戻すために。
結果論で言えば。
それが密猟という行為で現れた以上、オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスは許しを受けられる場にはいない。今の教皇であるレディット=インノケンティウスが枢機卿団の傀儡と化している今こそ『ピネウス=アンテピティス』は優秀な契約者だが、もしも今日明日レディット=インノケンティウス体制に揺らぎが生じれば?
それは、あまりに危険な賭けだ。
ともすればルペル=カピルス州バスティーユ監獄に収監されているルイ=サン=ゴダードのような終身禁固刑、あるいはその上を行く刑に見舞われるかも知れない。その先娘二人と対面する時、既に体温さえなくなっている可能性も否定はできないのに。
(私が言える立場じゃないのは分かってる……)
ギチ、と。
噛み締めた奥歯の軋む音が、彼女の顎骨を伝う。
(それぐらい、貴方は必至だったのかも知れない。正攻法じゃサリィナともエリィルとも再会できないって知ってたから、違法密猟系『ギルド』なんて手段に走るしかなかったのかも知れない)
制限時間付きの免罪符。
いつかは保証されなくなる協力関係。
それを承知の上で、引き受けた。
(……それだけの覚悟を決められるなら途中からでも気付きなさいよ。全部間違ってるってことぐらい!!)
「本当に……これじゃ『ミーシャ』の時と何も変わらないじゃない。加害者を追ってるつもりが、こっちはこっちで別口の悲劇があったなんて……」
『鉄拳交渉人』時代から何も変わらない。
結局、根幹にいるのはいつも教会だ。長年の支配体制の中で、最初に掲げられていた博愛精神はどこかしらに置き忘れてしまったらしい。かつてヴァティカンがあった地域を支配していローマ帝国の滅亡原因は教会の信仰を国家全体で受け入れてしまったから、という論を発表して粛清を受けた神学者の話が頭に浮かぶ。
(……、オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスが、二人の娘を探したいがために多くのハルピュイアを殺した事実に変わりはない。『ピネウス=アンテピティス』って違法『ギルド』を動かして、公然とヴァティカンの市民を殺害しようとしてもいる。彼自身の意志でなかったとしても組織的な罪状にはなる。他でもない私が見た、エドワルドに誘い出された連中がヴァティカンで平然と人を殺す所は……)
悲劇のヒーロー、ではない。
他者に対する奉仕願望があった訳ではない。自分勝手だと知りながらも人のためを思って剣を振るう彼女とも違う。ただ、自分の娘に会いたかった。それだけの理由で『ピネウス=アンテピティス』を作り、ハルピュイアを狩り、その羽を裏ルートを通じて売買してきた。ただ一つの目的のために、そこまでの事に走ったのだ。
五十歩百歩であることは分かっている。
『ミーシャ』の時の自分と同じ、結局は自分の裁量で事を掻き回していた、それだけのこと。
だからという訳ではないが、それだけの実証がありながらも、オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスという人間を糾弾しきれ……
「ちょっと、待って下さい」
そんな折だった。
一人で突っ走る彼女の思考に干渉するように、一人の少女が声を上げたのだ。
白いフードを被るルーシー、手渡された書類の束を下ろすその人が。
「……オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスという人間に、『勇者』さんが考えるような過去があったか否か。それも重要な問題かも知れませんが……でも、これは、変じゃないですか」
「?」
「『ピネウス=アンテピティス』という組織を束ねるオデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスはかつてハルピュイアを娶った。その間に生まれた子供がエリィルというハルピュイア、そしてサリィナさん、ということですが……本当に、これが『この部屋に隠された何か』という認識で構わないんですか?」
「……そりゃ、そうじゃないの? 自分が作った『ピネウス=アンテピティス』の人間にさえ教えなかった名前と過去があるってことは、それだけバラされたらマズいってことでしょ。具体的にどういうものかは分からない、でも個人的にしろそうでないにしろ、ここまでひた隠しにしてきたってことは、それだけそいつにとって見つけられたくないもののはずじゃ……」
「主張を真正面から殴ってしまってすみません。ですが、この場においては……その認識そのものが、一つの問題なんですよ」
「……、」
「違和感はあったんです。あの、螺旋階段で誰かの声を聞いた時から」
それこそ、だ。
寝室に満ちている空気が瞬時に硬直していくような感覚を感じたのは、『勇者』だけではなかったはずだ。
恐らくは、ルーシーの近くに立つ、ミシェリナも。
「何かの計画の一環として私達をここに連れて来た……それをやったのがオデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスであり、その計画が自分の持つ悲劇を見せること。仮に、それが真実だとしておきます」
「……、」
「……ですが、これではおかしい。おかしいんですよ、根本的に。『ミーシャ』の件については暴走した自身の惨状、そして『勇者』の協力の必要性を伝えるために自分の過去を明かしていましたが、オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスについてはそれに相当するものがない。『勇者』さんの同情を煽った所で、『鉄拳交渉人』としての顔はオデュッセリアを無罪放免で済ませる訳がない。むしろ、全身全霊の力でもって彼を止めるのがセオリーでしょう」
てっきり。
彼女は、ルーシーの矛先が自分に向いているものだと思っていた。
だからこそ、余計に。
ルーシーが告げた二言目が、彼女の頭を混乱に陥れる。
「……ルーシー、貴方は何を言ってる? 確かにオデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスの過去、それに対しての今までの行動は許せるものじゃないけd」
「それが……それこそが。そう思わせること自体が奴の狙いなんです。違いますか、ミシェリナさん」
すっ、と。ゆっくりと目線を下ろすその先にいるのは、半透明のドレスを纏う少女。
訳が分からないという素振りで体を震わせる、ミシェリナ=ディアントロスだった。
「どういう、意味なのです」
「言っている通りだと、こう答えれば納得できますか?」
「わたしがまだりーだーの指示で動いているって言いたいのです? ……確かにルーシーさんが疑う気持ちは分かるのです。わたしはずっと前から『ピネウス=アンテピティス』の一員として管理職を担当してきた。ですが、今は違うのです……りーだーのやり方は、もうどうやっても納得できるものじゃない。これ以上りーだーの思うままにさせたらどうなるか、それが分かったからこそ『勇者』さんやルーシーさんに」
「では。それもまた、貴方の仕組んだロールプレイだとしたら?」
虚を突かれたように、ミシェリナの言葉が詰まる。
その会話の外にいる彼女さえ、その場に縫い留められたようだった。
「……絶対に知られたくない過去があった。なら、何故わざわざ私達だけに教えたんですか。同情を誘うのではなく、あくまでオデュッセリアの暴走を止めたいと思わせるように。そのことで頭が一杯になって、『勇者』さんの思考が本来の目的から外れた方向に行くように。この部屋がオデュッセリアのものだと最初に看破したように見せた貴方が、私達のための顔を作ったんじゃないんですか?」
「…………………………………………………………………………………………………………、」
潤んだ少女の瞳が『勇者』へと向く。ルーシーの言っていることは違う、自分を信じて欲しい。『勇者』がルーシーの主張を止めないこと、それ自体もミシェリナを責め立てていると言いたげに。
言葉もないまま訴える視線は、しかしルーシーの放つ威圧感に阻害されているようだった。
「……わたし、は。そんなことは、してないです」
「これ以上の隠蔽は必要ありません。貴方は何から私達の目を遠ざけようとしているんですか」
「どうして、そんな風に言うのです。わたしはりーだーを慕ってた、でも、だからこそりーだーのしてることは間違ってる!! そういう風に気付かせてくれたのは『勇者』さんだけじゃない、ルーシーさんもなのです!! どうして……どうして、信じてくれないのです!?」
……もしも、だ。
彼女が口を挟んだとすれば、あるいはミシェリナの味方をすることになれば、恐らくルーシーは彼女さえも疑っていたかも知れない。ルーシーが彼女を発見したその時に見たのは、変態拷問趣味のアルクタンと一緒に、しかも『勇者』と顔を合わせた後のミシェリナだ。何かを吹き込まれている、暗示でも掛けられている。裏側を見ていないルーシーからすれば、そう思ってしまうのはむしろ自然なのだろう。
放っておけない。
小さな女の子が、裏切りという烙印を押されて糾弾されている場面を、どうして『勇者』が関わらずにいられる。そうやって思考回路を回して、自分なりに合理的な判断をして、ルーシーとミシェリナの間に彼女が割って入ろうとした。
その時だった。
「ああ、ああ。無駄な抵抗はもうその辺で終わりだぜ、ミシェリナ=ディアントロス……じゃねェな、フリューネ=ミシェリナ=ブリアーちゃん? いい加減に自分を受け入れろよ」
ず、ん。
鈍い音が、数秒程遅れて耳に入ってきた。
実際には直後の出来事だったのかも知れない。
その一瞬の間に起きた出来事を、その直後に信じられなかったからこそ、体感的な音さえ遅れて聞こえてしまったのか。
宙を舞っているのは血液ではない。赤い色こそそれと全く同じではあるが、仮にそうだとしてもおかしい。
本物の血液はよほど強い光源でもなければ、自分から輝くような色を発したりはしない。ましてそれが光の反射などではなく、本当に自分から発光しているのでもない限りは、このような色合いにはならないはずだ。
魔術。
それも見覚えがある。パズィトールが使う、トート式と呼ばれるタロットカードを特定の陣形に並べ替え、さらに魔力を帯びた赤い粒子へと変換して種々の術式を構築していく系統。すなわち、レデンズ=ニーマンドというペンネームを借りたエドワルド=アレクサンデル=クロウリーによって開発されたものだ。
レデンズ=ニーマンド著の魔導書は世界各地に広まっている。
だが刻まれた文章に隠された本来の意味合いを誰も理解せず、勝手気ままに派生系統やら解釈違いやらと論争を引き起こしている。詰まる所の当事者的な立場に立っているからこその『不導師』というネーミングだったようだが、一つ言えることはある。
赤い粒子はエドワルド本人の扱う術式にも見られる特徴。
そして、今朝方エドワルドが言い出していた『「ピネウス=アンテピティス」に対しての挑発行動、及びそれを利用した陽動作戦』。
……『ピネウス=アンテピティス』の本拠を掴んだエドワルドが、実際の行動に移った。
上辺の状況だけを見ればそういう『解釈』もできたかも知れない。
そう思えなかったからこその、この疑問符だった。
「……あ………?」
半透明のドレスを纏うミシェリナの背後に、小さな人影。黒いワイヤードビキニに似た刺々しい舞台衣装に加え、背中を覆い隠すように頭から引っ掛けたマントが目立つ少年……ではなく、声質からして少女と踏んだのだったか。顔だけは黒い霧がかったかのように隠されているが、対照的に各部の露出度は異様に高い。それを強調するように首周りや肩口に別のワイヤーを巻き付け、肌が赤く腫れ上がる程に強く締め付けているその外見に、覚えがない訳がない。
ヴァティカン、ラバロ門で邂逅した襲撃者。
そいつが、ミシェリナの背中側から拳を突き出し、その腹をぶち抜いていたのだ。
「途中の行動は見させてもらったヨ。毎回毎回発想がトチ狂ってるのが玉に瑕ってヤツだけど、上手いこと誘導してやれば、その良心をイイ感じに悪用できる。思考原理が単純明快ってのもある意味使い勝手に富んでるってヤツだねェ。ゲゥエアィイッヒッヒ☆」
金属同士を擦り合わせるように、生理的嫌悪感を誘発する笑い声が脳に焼け付く。
そうしている間にも、ミシェリナの腹を貫通した掌が蠢いていた。おおよそ人間の関節構造を無視したかのような、いっそ軟体動物めいた異形ささえ醸し出す挙動は、『勇者』やルーシーの動きを封じるには十分過ぎた。
無論。
それは、当のミシェリナに対しても同様だった。
「……ぁ、か、」
「何でこのタイミングで、って顔してんなあ。ああ、ああ。言っておくけどミシェリナちゃんの方じゃない、そこで突っ立ってる『勇者』ちゃんの方ネ、そこんとこヨロシクぅ☆ でもまあ考えなクても自然じャね? ここは『ピネウス=アンテピティス』の本拠、そこに設置されてるセキュリティが作動すれば誰だってアンタの痕跡には気付けるようになってるんだからヨ。まあ、今回は少々事情が違うからそういう訳にモいかなかったッてだけだがァ? ヴィッヴェッばふぁっ☆」
少女の腹のど真ん中に突き込まれていた拳が、ずるり、と後方へ消える。
だが出血はない。それでいて何かしらの魔術やエレメント操作の痕跡も出てこない。根本的に、うつ伏せになって倒れた少女の背中にはそのような傷など一切生じていないからだ。その代わり、腕が貫通していたと思わしき腰の後ろ側に、赤黒いわだかまりのような……禍々しく粘っこい何かが滞留しているのが目に付くが、それも瞬きの一瞬の間に消えてしまう。
「……何、を」
「したんだ、ッて? あのなァ『勇者』ちゃん、状況カらして分かんねヱか? 今の今まで『勇者』ちゃんがここで自由に動けてたのは何の理由があってかなのか、そいつも理解できねェのかよ? こりゃァ、アの時の台詞は撤回しなきゃならねえかもだナぁ。ギュッィッハファ☆ 今のレベルじゃボスに食われるまでもねェ。食材としちゃ失格のさらに遥か下だってんだからよォ?」
「違う、……アンタ、は……誰なんだ?」
「誰だとか何がとか、そういう質問はとっくの昔に有効期限切れだっつーの。イッヒヒ、そんなん答えは一個しかねェだウうが。……全ての記号は完成した、つまり『転移』は無事に終わったってことだよファ〇ク!! 『ピネウス=アンテピティス』の目的はこれで達成した、オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスが掲げたプランは予定通りに進行完了!! だからこそ俺っちが必要になってきたって訳だヨ!! ここにおける『勇者』のパラメータダウンも想定値通り、全てのベータ版テストも完了!! ならナァ、もう残りのタスクは限られてンだろうが!! 俺っちは、ただティファレト=ダァトの形成を見届けるだけで良い!! そうじヤねェか『勇者』ちゃァん!? ゲゥエアィイッヒッヒ☆」
何がどうなっている。
そんな簡単な説明さえ行われない。
半透明のドレスの少女を踏み付け、黒衣の襲撃者はひたすらに語るだけだ。
もはや『勇者』やルーシーが噛み砕いて聞いているかなど気にも留めていない。感嘆符の一つ一つが何を示して付けられているのか、それを想像させる余地さえも与えなかった。
全て計画通りに完遂した。
最後のパスも、消滅した。
残りは、実行するだけ。
頭の中で反響したのは、これだけだ。
景色が、寝室が、周囲の全てが飴細工のように溶けていく。
ここには最初から何もなかったかのように。
誰かの見ている一時の夢が、形を成して投影されていたかのように。