ACT.03-50_Harpyia≒Tiphereth_Da'at?[chapter.06~07]
6
その小さな影は、窓や扉の一つもない小部屋で座り込んでいた。
石と石の隙間から差し込むわずかな光が唯一の明かりであり、それ以外には何もない。石造りの壁や天井や床からは何の音も漏れては来ない、いっそ不自然な程の静寂に包まれた場所だ。
ちょっとした小動物なら多大なストレスで死んでしまってもおかしくない、詰まる所居住空間としては不適当なことこの上ない。本来の用途からすればむしろ当然なのだろうが、それを知った上で人をこんな所に閉じ込めるのか? まともな神経をした人間ならば、こんな真似をした奴の感性さえ疑いたくもなることだろう。
それでも。
不思議と、少女が周囲の環境に対して不平を漏らすことはなかった。
むしろ反応としては無いに等しい。小さな掌で床や壁を撫で、指先に纏わり付く埃の糸を眺め、その黴臭さに目を細めながらも。ただ気分の問題とかそういう安易な感じでもなく、少女はただ思う。
懐かしい。
どうして、そんな風に?
自分に対して、自分が問い掛ける。意識、無意識、超自我、あるいはイド。どこぞの心理学者が唱えた精神論を自覚症状込みで実体化したかのような違和感が、頭の中でひたすら巡っては消えていく。
これが自然なのだと。
自分がいるべき場所はここなのだと。
ここから出てはならないのだと。
一歩でも足を踏み出せば、それは『あの人』を見放すことになるのだと。
「……、」
正直に言えば、だ。
少女は『ピネウス=アンテピティス』とかいう『ギルド』と関わりを持ったことはないし、ここの人間が口にしているのを耳にするまでは名前自体耳にしたことがなかった。少女自身知識に飢える年頃であるせいか常日頃から様々な書籍に目を通しているのだが、それでも『ピネウス=アンテピティス』という名前には心当たりがなかった。
名前だけが広まっている違法密猟系『ギルド』。
親方たる存在については、組織の内部であっても名前が知られていない。
円卓騎士団や修道会、はたまたここに収容されてきた誰かの『言葉』を拾って繋ぎ合わせれば自然とこんな前提が組み上がる。だがそれ以外は全く分からない。今自分がいるこの場所も、たぶん『ピネウス=アンテピティス』が持つものの一つなのだろう、と予測を立てるのが精一杯だった。年齢が年齢なだけあって論理的な思考はまだ今一つという所だが、足りないなりに頭をフル回転させた所で結果は同じなのだ。
なのに。
たった一つだけ、どうしても脳裏に焦げ付く言葉がある。
誰に聞いた訳でもない。ここに放り込まれてしばらくした後は緊張感で眠ってしまい、つい先程目覚めるまで少女の頭は止まっていた。それ以前、あるいはその後に聞き取った言葉の中には、少なくとも『それ』はなかった。
どこからも掴んだものではない。『ピネウス=アンテピティス』という名前自体今の今まで耳にする機会さえなかったのに、どこからこんな言葉を知ることができるのだ。どんな本にも、どんな話にも出てこない『それ』を、何のきっかけもなく得ているなど有り得る訳もない。
そのはずなのに。
どうして、頭から離れない。
それはあたかも、自分が生まれたその時から覚えていたかのように?
……オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥス。
この場所、この臭い、この空気。
一つ一つが記号となり、記憶の霞を取り払い、その名前だけを引っ張り出す。
元々、自分には家族と呼べる存在が少なかった。生まれが生まれであるせいと断言した奴もいた。その独特な言葉遣いが原因だと指摘した奴もいた。肌に混じるわずかな黄色が理由だと嘲る奴もいた。他にも色々な言いがかりを付けては自分を小馬鹿にする者が多かったが、少女は決してそう思えなかった。
誰も自分の周りに来たがらないのは自分のせいじゃない。
自分の頭の中に留まるこの名前にヒントがあるんだ、と。
それ自体は得体の知れない知識だ。
もしかすると、本当は知ってはならない言葉なのかも知れない。教会の用いる生前洗礼、それも生きている間に行われるという意味での洗礼ではなく、まだ母親のお腹の中にいる段階から強制的に執行されるもの。この時、赤子の胸中には洗礼名という形で、主への信仰が、教会への服従が刷り込まれている訳だ。名前は単なる識別用の道具ではない、聖術魔術の類においても重要な役割を持つ記号なのだ。
だが、もしもこの時与えられたのが洗礼名ではない全く別の知識だとしたら?
この名前自体に記号性が存在している。この名前そのものが何かの聖術か、あるいは魔術のトリガーとして機能している。この名前を利用した何が存在している。この名前を刷り込まれた自分には、何かしらの役割が充てられている。
そんな可能性が思考回路の中を駆け巡っていく。こんな場所にあっては検証も証明も何一つできないのに、それでも自分の脳ミソは動きを止めることがない。こんな行為が意味を成すのか、こんなことをしても部屋からは出られないのに。表面的な意識はそう感じているのに、その言葉に引き摺られた無意識は立ち止まらない。
懐かしい部屋。
懐かしい臭い。
懐かしい感触。
どうして、自分はここを知っている?
来たこともないはずのこの部屋を、何で?
刷り込み。
生前洗礼。
教会による何かしらの計画。
可能性はいくらでもある。だがそうであっても、確証もなしに確信だけが先走る。
……そうではない、と。
忘れるな。
絶対に。
オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスという名を、刻め。
ありもしない記憶の中で、男が語る。
走馬燈のように繰り返す台詞が、幾度となく少女の意識を揺さぶる。
何故、懐かしいのか。何故、覚えているのか。何故、この名前だけが明確に刻まれているのか。床や壁を擦る小さな指先は、やがて壁の一点へと向かい、そこを指し示す。
「……まだ覚えてンのか? 俺と、俺の作ッたオマエってヤツを」
帰って来るのは、言葉。
懐かしい、声。
7
死闘かくあるべし、その一言に尽きた。
「……、」
手にしたナイフも纏った執事服も、何もかもを真っ赤に濡らしたリディアス=トゥベル=ボーンカッターは、ゆっくりと息を吐きつつ顔を上げる。
元々の大広間の原型なんて何パーセント残っているのか。直接的な破壊がなければ良いなんて話ではなく、根本的にクナブラ=クォド=アモル殿以前、『院長邸』マンダリン=アナティスに侵入者の存在を許したこと自体が最初の失敗だった。どのタイミングで、どうやって、何の目的で。実際に具体的な行動に移される前に芽を潰しておくことが最善最良のルートだったはずだ。
実際問題、連中が切り込んできている現状は変えられない。それ故、現状において最もリスクの少ない選択を取るのが第一。それが、このクナブラ=クォド=アモル殿の守りを任された自分にとっての責務だ。
だから、果たした。
それこそ髪の一本一本からブーツの爪先まで、全身にくまなく付着した赤い『水』。それはリディアスの血液ではなく、『仮称』なる敵性存在のものだった。一度は封じたはずのそれが、何故か再起動を果たして襲い掛かった。だから迎撃した。その結果が今現在の状況だ。
「……まだ続けるつもりで? 正直私は、貴方の相手をして得ができるとは思えないのですが」
「そりゃお互い様って言わなかったか? 俺だって好きでここに居続けてる分けじゃアねえんだよ。あのハルピュイアと内通者を回収して、ついでにあんたさえ素直に倒れてくれれば後は引き下がるつもりだった。それが予定通りいかねえからこんな慣れない真似しなきゃならねえってことを理解してくんねえかなぁ、いいやMAZIMEにさぁ」
それでも終わらない。相手は潰れない。
今の今までに叩き込んだ致命傷は七二回。内五〇回は確実に即死が見込めるはずの頸動脈破断及び脊髄断裂を盛り込み、全てが軌道計算と一ミリも違わず直撃していたはずだ。にも拘らず一向に先が見えない。この『憤弩』を名乗る男は、どういう理屈があってか全く衰弱する素振りが見えない。
リディアスにとっても久しぶりの感覚だった。
大抵の連中、特にジュディチュム=イノミエ=デイ修道会の精鋭による奇襲。ああいった奴等であれば、まず最初の『荒野の誘惑』の時点で折れていたはずだ。こいつらが教会に対する信仰心を持たない違法密猟系『ギルド』だから、などという安易な理由抜きに、そもそも一切の効力がなくなっている。
……何が起きている?
最初の使用から聖術の特性を解析し、無効化する手段を得た。そんな理由でもないのであれば、これでは最初の前提が崩れてしまっているではないか。
「……だったら、二人を回収した時点で撤退すれば良かったのではないのですか?」
「良かったも何も、あんたが邪魔するからだって言ったよなクソガキさんよ? こっちはそもそも名前以外を知られる必要はねえんだからなぁ、目撃者なんて足跡は残しちゃならねえ訳なんだよ」
右手から肩までを覆い尽くす刺青から、ぼたぼたと赤い『水』が落ちる。しかし絨毯に染み付くのではなく、その一滴一滴が重力を無視して床に『立つ』。天から注ぐ雨水の時を止めたかのようなそれらが無数に積み重なり、作られたのは、槍だ。三重の螺旋構造を伴う柄と六つの平たい穂先を持ったそれは、図らずもリディアスの脳裏にあの『救世主』の血を受けたそれを想起させる。
『憤弩』に『仮称』。自らの形を見失った人間と、それを操る術を極めた人間。ハルピュイアに対する戦力としてはこの上ない程に悪趣味な組み合わせか。
知的であり獰猛。それでいて、いやそれ故に繊細な生物であるハルピュイアへの意趣返し。赤は血の象徴であり殺戮の暗喩。
水は恵みでありながら時に災厄たるモノ。
そんな記号性があればこそ、彼等は『ピネウス=アンテピティス』職人という地位に立っている。
「まあ、最後の台詞がそれじゃ味気ねえからよ、あんたの質問には答えてやるさ。……イエス、戦闘続行だ。面倒な仕事はさっさと終わらせたいがそうもいかねえみたいだし、よお」
しかし。
『憤弩』が、その槍を放つことはなかった。
ずるっ、と。
六つの穂先が束ねられた槍の先端を掴み上げる、ほっそりとした手が現れたからだ。
「薄いな」
一言だけを告げる。
握り締めもしない、叩き落としもしない、奪いもしない。
何もしない、ただ掴んだだけ。これと言った魔術的記号を含んでいないにも拘らず、直後にそれは起きた。
ぱんッ!!!!!! と、赤い『水』の槍が内側から弾け飛ぶように霧散していたのだ。それに伴い、至近で爆風を浴びた男の上半身に無数の破片……いや水滴が突き刺さる。『憤弩』の力を備え、『仮称』を自らの武具として自在にコントロールできる、それにも拘らず。
制御権の奪取。
起きた現象だけを簡単に表すなら、恐らくこの一言で十分だ。しかし形こそ保たれてはいないとは言っても相手は意思を持つ『人間』、それを強制的に上書きするのは容易ではないはず。何の苦も無く、たまたま通りすがったから手を出してみたなんて感覚では不可能なのに。
「……これでは術式として完全でない。想定値通りならば空間の揺らぎ程度に留まらず、それこそ狩り専用の世界線を無数に拵えることもできただろうが……やはり所詮は三流以下のDQN共か。本来の性能のごく数パーセントを引き出して勝った気になれると断言するなら、君達は相当『酔っている』な」
そこでは終わらない。終わらせない。
男の剥き出しの上半身にめり込んだ『破片』の一つを摘まみ、指先で弄びながら、
「まあ、発想自体だけ見てみれば悪くないだろう。少々改良を加えればクナブラ=クォド=アモル殿の大広間などという局所だけに留まらず、このマンダリン=アナティス院長邸全域を覆い尽くすことも不可能ではない。だが私に言わせれば物質界からの脱却すらできていない時点で失格だ。形を見失った人間など手間暇を掛けて探さずとも簡単に作り出せるものを、不完全な戦闘領域で不明確な武器に頼ろうとするからこうなる」
「り、『リスト』に載ってた……例の野郎か……?」
「だから何故誰もエドワルド=アレクサンデル=クロウリーとは呼ばないのかね? せめてレデンズ=ニーマンドとでも言ってくれれば、私のこの不機嫌も直ったかも知れんのにな」
僅かに目を細めた後、ゴインッ!! と拳一つで殴り飛ばす。
適当に握った手を振り回しただけににしか見えなかった割には、まるで長大なメイスでもって殴打したかのような破壊音だった。事実『憤弩』の男は赤い『水』でグロテスクな色合いに染められた大広間の壁をぶち抜き、周辺の窓枠も巻き込む勢いで部屋の外へと転落していく。単なる自由落下の割に、石畳の中庭にちょっとしたクレーターが出来る程の衝撃が発生していたのが気に掛かるが……むしろリディアスが注目すべきはあの腕か。
まさしく、右腕だ。
透明な血肉を持った人物が佇んでいるように、柔らかく女性的なラインを持った右腕だけが浮かんでいたのだ。それを中心にして徐々に血肉が『追加』されていったかと思えば、そこに不可視の型枠に肢体をはめ込んで現れる長い銀髪の少女。
しかも、この真夜中の気温なぞ一切考えていないと言わんばかりの黒いワイヤードビキニ付きで。
「あの男からは、このような露出趣味の変態痴女まで紛れ込んでいたとは聞いていませんが。というかエドワルド? レデンズ=ニーマンド? 名乗るのは勝手ですが、もし本物なのであれば少々面倒なことになり兼ねませんのでとりあえず無力化で構いませんか?」
「予想通りの反応ということで納得しておくが、次からは君もガチでぶん殴るつもりだから覚悟しておいた方が良い」
「……貴方が本物だと?」
「名前を騙った所で結局は実力に差が表れる。それが実物の証明というものだよ。トートの絵柄をパクっただけのパチ物で騒いでいるあのジジイはまだマシな方だが、……チッ、まだ死んでいなかったか。……さて君はどうするかね?」
窓も巻き込む大穴から下の地面を眺め、さり気なく舌打ちを交える少女……いやエドワルド。
衣装がワイヤードビキニということでパンチラは最初から防止されているようだが、その分食い込み商法でこちらを困惑させるつもりか? わざわざ小さな尻をこちらに突き出して肌の艶を魅せに来ている辺り、露出趣味はかなりの重傷らしい。
当然、齢一〇にして妻持ちなリディアスはそちらには興味を示さない。そうでなくとも状況が状況だ。見た限りではこの少女の語る言葉も力も、紛い物だとは思えない。
「敵対するのであれば排除あるのみ。それが私に与えられた役割である以上、退くという選択は有り得ません。貴方が本当にエドワルド=アレクサンデル=クロウリーだとしても」
「蛮勇は勇気にあらず、己の力知らずして敵を超えんとする者、これ即ち無謀の権化なり。……東洋の誰かさんの言葉らしいが、君はこの意味が分かるか?」
エドワルドに動きはない。
だが、ナイフを構えて迎撃姿勢を取っただけでも十分だった。
こいつには、勝てない。
そもそものポテンシャルが違い過ぎる。
気迫と呼べるものさえ感じ取れないのに、リディアスの頭の中でそういうロジックが出来上がってしまう。
「警戒はするが実際の行動には移らない。私に言わせれば七〇点という所かな。判断としては誤りではないが少々ロマンに欠ける。聖術魔術を問わず、単純な実力差だけが全てを物語るものではないということを覚えておくと良いだろう。必要なのは『適合者』のような莫大な力でもなく小説の中の殺人鬼が扱う凝ったトリックでもない。汝が抱く法、それに尽きるのだよ」
「……このクナブラ=クォド=アモル殿に無断侵入をかましておいて私に説教だけですか? らしいと言えばらしいですが、まさかそんな理由でもないでしょう」
「覚えておくと良いが、君は必要以上に状況を重く見積もり過ぎる癖がある。つまりエドワルド=アレクサンデル=クロウリーが現れたことに対して警戒心を抱き過ぎだ。エドワルドという名前の使用が禁じられる程の異端者として認定されていることは重々承知の上だが、別に君に特別用がある訳ではないよ。むしろ連中を追っていたら偶然ここに行きついた、それだけのことだ」
「貴方も『ピネウス=アンテピティス』の足取りを追っているクチですか。仮にもクロウリー派と称される近代魔術研究学の祖である人間のすることとも思えませんが……」
「理由はない。一時の気紛れだとでも思ってくれれば構わんよ」
ジュクッ!! ビシュジュ!! と、壊れた壁の外で水っぽい音が響き渡る。ほれほれ、と銀髪の少女に手招きされるまま中庭を覗いてみれば、……何だ? 軟体動物の触腕と猫科の肉食獣の胴体を組み合わせ、頭部の代わりに人間の上半身を生やしたような何かが赤い『水』に噛み付いていた。
形のない『水』の外見のまま、ゼラチンか何かで固められたように動きを封じられ、そのまま無残に食い千切られていく。それは『水』の中に閉じ込められた『憤弩』の男についても同様だ。無数の触腕をたなびかせ蠢かせながらの捕食、あたかも鳥葬を早回しにしているかのようなその光景を眺め、エドワルドはぽつりと呟く。
「……私は、人の情とかいうものを既に切り捨てたとばかり思っていたフシがあった」
「?」
「元より『黄金の夜明け』に関わってしまった私だ。最初からハッピーエンドが容易されていないなら、どんなに目を背けたくなるようなバッドエンドだろうが私個人のために利用させてもらう。さながらソドムの街から脱出を果たしたロトが、塩の柱と化した自らの妻をそのまま魔術的記号という武器に変換するようなものだ。全ての男女は星である、いかな失敗があろうがその結果が私の計画通りになるなら構わない、と。結局、徹頭徹尾利己主義の極みでいられなかったことが『かつての私』の敗因となったようだがね」
「……、」
「今回も以前の私からはそう変わらない。『ピネウス=アンテピティス』に対して喧嘩を売ったのも連中の職人を焙り出して仕留めたのも、大体は私の目的のためでしかない。あの『勇者』に多少とも恩を売っておいた方が私にとっても得という結論も出ている以上、計算上でもそれ以外の側面から見ても、私が温情に走って事態に介入することは好ましいことでもなかった。何せ私はレデンズ=ニーマンドにしてエドワルド=アレクサンデル=クロウリー、教会が最もその存在を嫌い排斥するだろう『不導師』なのだからな」
「と言っている割にはレデンズ=ニーマンド著の魔導書が数多く出回っている気もしないではないですが……『法の書』とか『777の書』とか何とか」
「世に出た所で、ほとんどの人間はその記述の真意を読み取れない。人の心を惑わす異端の書物として焚書になるか、表面的な意味だけをなぞって理解した気になっているだけだ」
パズィトールも例外なくな、とエドワルドは口に指先を当てる。
視線の先は相変わらず、中庭で『水』を貪り食う獣。中身の人間ごと引き千切り、切り裂いて、無数の赤い破片と肉塊を撒き散らしつつ、何故か軟体動物じみた半透明の肌には一切の汚れを付着させない『何か』。それでいて目の前の少女とどこか似通った雰囲気を感じてしまうのは何故なのか、そこまでは分からない。
「だから私は君に対して助言も何もするつもりはない。先程のアレはただの気紛れ、魔が差した上での行動と思ってくれたまえ。かの大悪魔を撃退した後だろうが私の行動理念に変化はなく、したがって誰のために力を振るうこともない。ただし、だ」
「?」
付け加えるような言葉に、リディアスは疑問の声を漏らす。しかし具体的な質問を口にする前に、エドワルドの方が先に話を進めていく。
「ラディドの姪、に当たる個体だったかな。私とて一度はリリスをこの手から奪われた身だ、自らの子を失うことに対する悲壮には持ち合わせがある。故にという訳ではないが、今回はあれの意志を尊重する形になったということだ」
「そんな理由で事態に介入したと? 自己の不利益を知っていて」
「それも理由の一つではある」
軽々しい口調で告げた。
「だが今回の件は少々厄介だな。違法密猟系『ギルド』と教会の云々で済むなら私もここまで首を突っ込むことはなかったはずだ。……逆に言えば、『ピネウス=アンテピティス』の抱えているものは、それだけ巨大かつ異質なものということになる。ともすれば全盛期の『黄金の夜明け(G∴D∴)』が持っていた秘宝か、あるいは秘儀に匹敵するかな」
「一介の密猟系『ギルド』に、そんなものが存在すると?」
「羽の安定供給を実現する狩猟技術、その密売によって得られる莫大な利益。そんなものは『ピネウス=アンテピティス』の……というよりその親方たるオデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスの一面に過ぎんのだ。恐らくだが、奴があんな術式を使ってまで隠しているものは……下手をすれば、教会の支配体制そのものに致命的なヒビを入れるかも知れん」
「……そんなものがあるなら、何故『ピネウス=アンテピティス』は教会の捜索から逃れ続けるんです。いっそ正面切って教会を潰すことも不可能ではないのでしょう?」
「そうなってしまっては困るから。その行使により被害を被るのが、教会を含めた『この世界』全てだから。そうでないなら、あるいは何が何でも存在を隠しておきたい理由があるから」
びちゃり、と音を立ててエドワルドの頬に飛んだ赤い『水』。
では、無残に食い散らかされたそれの残骸に混じる、小さな白い破片は?
「情はとうの昔に捨てた、と言ったな」
「。……?」
「多少とも鳴りを潜めたとは言っても私はいたって異常な狂人だ、自覚症状込みでな。もし君がオデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスという人物について少しでも知っているなら、少なくとも奴についての前提は全て改めた方が良い。私のような異端者とは違い、奴にはまだ純粋な情が残っている可能性がある。ただし、だらかと言ってそれに訴える対話に持ち込もうとは思わないのが無難だろう。今回に関して言えばそれこそが最大の問題であり、君達にとっての脅威なのだ。奴を基準とするなら、いっそ安易な復讐心から人の心を捨てた者の方が扱いが簡単だからな。そういった連中は一切のブレも迷いもなく、ただ自らが定めた目的のみに走るだけでしかない故だ」
まるで警告。
口振りに反してやたらと詳細な情報を盛り込んでいる辺り、根は結構な説明好きなのかも知れない。そうは思ったが、おおよそこのテの奴は途中で口を挟んでも無駄だ。
誘っているつもりなのか、エドワルドはビキニの紐をくいくいと動かしつつ、
「そうでないのがオデュッセリア=マヴロス=ケルドゥス。私が言っても説得力には掛けるだろうが、あれは正直、下手な復讐者よりも危険な存在だよ」
「では具体的に、そいつは何をするつもりだと? 抽象的な話だけでは人を理解させることはできませんよ」
「言葉にするよりも先に結果を見たまえ。君にとってはそちらの方が理解が進む」
最後までネタバレをしない所は一貫している。
『勇者』の報告でも自分の経験則でも、エドワルドとはこういう人間だ。気ままに状況に足を踏み込んでは適当に引っ掻き回し、それとなく真相を匂わせる言葉だけを残して姿を消す。これと言った決定的な足取りを残すことがなかったために、史上最悪の異端とまで呼ばれながらも教会の手に掛かることはなかったのだろう。
それは今でも同じだ。いくらリディアスと言えどエドワルド=アレクサンデル=クロウリーを相手にしてまともに相対できるとは思っていないし、その必要性自体ない。
「……だが、行動を起こすのであれば急いだ方が良いだろう。時間経過からして奴は既に必要なピースを全て入手しているはずだ。何の目的でアレを持ち出すつもりかは知らんが、一応断っておこう。アレを放置しても好転はしない。むしろ最悪の結果を招く可能性がある。私としてはそれでも一向に構わんが……他人の研究を表面的に読み取っただけの素人が『この世界』のトリガーと化すのもクソな話だ。特にあのオデュッセリア=マヴロス=ケルドゥスとかいう大馬鹿野郎に関しては尚更だな」
ほんの気紛れで突破口を教えてくれるなら、それを最大限利用させてもらう。
この少女の介入があったがために現在進行形で状況が悪化している。だとしても、それを逐一糾弾する暇はないからだ。
「私は多くの人間を見てきた。だが私でさえあれ程までに狂いきった人間は知らん。単にエレメントによる精神汚染というだけでは済まされない、それ以上に正常な狂気とも言えるだろう。まあ、アレをあえて名付けるのであれば……、こう呼んでみれば良い」
故に。
少女を遮らず、流れるような羅列を全て噛み砕く。
リディアスの視線を背中に受け、両腕を広げつつ弟子に説法でもするかのように。『勇者』の前では現れたことのない、左右に引き裂かれた微笑みを浮かべるエドワルドの言葉を。
「『この世界』において初めて『主』の膝元へと近づいた存在。人という形を保ちながら、あるいはセフィロトを形象するセフィラそのものへと昇りつつある者。つまりはティファレト=ダァト、とな」