ACT.03-50_Harpyia≒Tiphereth_Da'at?[chapter.05]
5
肩がじくじくと痛む。
得意のエレメント操作も、血液そのものに対しては効力を発揮しない。
かと言って聖術に頼ろうとすれば、肝心の体力がどんどん削れていってしまう。
「……何が耐久試験よあのクソ野郎……真面目に人のことをぶっ殺す目で見てたじゃない……」
結果、本人に聞こえない所で怨念を撒き散らす。
そんな試行錯誤に耽っているのは、例のアルクタンとかいう変態に散々痛め付けられた『勇者』だ。既に鎧下は血でぐちゃぐちゃに汚れ体力的にも相当疲弊している状態なのだが、流石に『勇者』としての耐久力は折り紙付きらしい。肩に空いた大穴こそ痛々しいものの、逆に言えばそこ以外はあまりダメージがない。目覚めた直後は脳震盪や酸欠状態のような症状に陥っていたが、現在は多少なりともマシにはなってきている。
先程とは違い、今現在は四方八方石の壁な保管庫とはまた別の場所。窓こそ存在しないものの、ある程度の広さは確保された……恐らくは職人用の個室なのだろうが、そこに放り込まれているのも回復を進める要因なのかも知れない。
それに加えて、今回は半透明のドレスの少女が近くにいるのも。
「ごめんなさいなのです……わたしの力不足のせいで『勇者』さんをこんなことに巻き込んでしまって……ひぐっ……、ぐずっ」
嗚咽交じりの声で答えているせいか、時折涙の雫をドレスに垂らしてしまう少女ミシェリナ。先程の窓のない房の時も一緒にいたが、どうもあの後のアルクタンの様子からしてミシェリナは『勇者』の目付け役兼救護人にされているらしい。
少女が行っている応急処置……と言っても聖術魔術による回復術式ではなく、包帯を巻いたり止血剤を当てる等の簡素なものだが……これも二回目以降の『耐久試験』の際、誤って殺してしまわないようにするための処置なのだろう。あくまで【応急】ではあるが、少女の気持ち含め何もないよりは遥かにマシというものだ。
「普段とは違うって、それっていつものアイツは……連れてきた捕虜か何かは一回の尋問で殺すスタイルって訳? ……それどっから見てもただの快楽殺人中毒だとしか思えないんだけど」
「……かいらく? それ、どういう意味なのですか……?」
「人殺しを楽しみにイキってるようなクソッタレの下種野郎共のことよ。あのアルクタンってやつはまさに言葉通りってことになるわね……」
「で、でも、アルクタンさんは毎回あんな感じでもないのです。確かに、外の人への当たり方はあんまり良くないですけど……でも、他のみんなのことはきちんと思ってくれてるのですよ。言ってみれば……、人は見かけによらないって言葉通りなのです」
「見かけによらない、ね……何とも都合の良い言葉だことで」
ため息交じりに呟き、彼女は頬に飛んだ血を拭う。
多少の広さこそあれ、ここも四方八方石造りの無機質なものだ。何があるのかと聞かれれば、埃を被った簡素なベッドと洗面台、それとバスルームらしき小部屋が一つだけ。元から使われていなかったのか、誰かが住んでいるような生活感など欠片もない。
先程よりはマシな個室とは書いたが、しかし彼女としては窮屈なことこの上ないのだ。窓がないせいでここの所在も不明だし、空気中を漂うエレメントを嗅ぎ取ろうと思っても、何かしらのフィルターが働いているせいで流れを感じ取れない。掴めるものと言えば、せいぜい淡くぼんやりとしたわだかまりのような何かといった所だろうか。つくづく肝心な時に当てにならない力だ。
……『聖剣』が手元にない、ということも少なからず影響しているのだろうけど、とは彼女の弁。
(それにしても……見かけが全てじゃない、か)
それはある意味、自分にも引っ掛かる所があるかも知れない。
頭の中でミシェリナの言葉を反芻しつつ、彼女は包帯に滲んだ赤色に目を落とす。
(『勇者』なんて名前を得てるけど、その割には私自身の力ってそこまでじゃないってことなのかもな……『ミーシャ』の時だって『聖剣』があったからどうにかなったようなものだろうし、この『勇者』の力だって……グラディオ=イドロラム聖堂で『聖剣』を引き抜いてから現れ始めたような)
思えば。
教会だけでなく自分自身でさえ『勇者』や『聖剣』のことはよく分かっていない。先代の『勇者』だったというラシェル=セレヌム=グレッサは教会の意志に準じ『魔王』を打ち倒す力としての『司徒』たる『洪焔主』になったという話だが……それもどこまでが事実なのか不明瞭なのだ。その時ラシェルが握っていたという『剣』に原因があるとする説も聞いたことはあるものの、結局今の今まで真偽は明らかにはされていなかった。今の『勇者』たる自分についても同じことが言えるのか否か、それは当人である彼女にも掴めない。
(……。いや)
……明らかになっていない、と言えば。
同じ疑問は、『ピネウス=アンテピティス』に対しても数多く残ったままか。
ハルピュイア専門の密猟系『ギルド』、どんな組織であっても成し遂げられなかったハルピュイアの羽の安定供給・市場独占を可能にした唯一の存在。判明している基本情報はこれだけだが……ハルピュイアの密猟という裏稼業に手を染めている以上、名前は広く知れ渡っていても当然だろう。
だが、だとすれば、だ。
何故、広まっているのは『ピネウス=アンテピティス』という組織名だけなのか。
厳格な徒弟制を取り入れているのであれば、広まって然るべきは親方の名前ではないのか?
「……ミシェリナちゃん。もう一回聞くけど、貴方の言ってる『りーだー』って誰? どういう人なの?」
「りーだー、です? りーだーはりーだーとしか言えないのです。『ピネウス=アンテピティス』の一番上にいる人で、わたしもちょくちょく顔を合わせてますけど……名前までは教えられてないのです。さっきも言ったですけど、みんなは『おやかた』って言ってて、名前で呼んでる所も見たことないですよ。そもそもみんなの前に出てくること自体ほとんどないですし」
(内側にさえ名前を明かしてないってこと? その親方、相当な秘密主義ね……調べられたらマズい経歴でも持ってるのか。あるいは何かしらの理由で教会に追われてて、そのせいで迂闊に名前を使えないのか……?)
個々に独立し、外部に対する情報開示も少ない『ギルド』においては、知名度の鍵となるのは組織名だけではない。
その頂点に立つ親方の名前もまた、『ギルド』を語る重要な要素の一つなのだ。組織が同じあろうと親方が違えば行動指針もまた変わるもの、それは言ってみれば経営方針に似ている。今の親方がどういった人物か、『ギルド』を知る上ではこの情報だけでも十分となる。
顔を合わせていると言うからには、ミシェリナは『ピネウス=アンテピティス』の中でも数少ない、親方と面識のある人物ということになるが……そのミシェリナでさえ名前を知らないとは一体どういうことだ?
「……解決しなきゃならない疑問がまた増えそうね……つくづく面倒な連中だこと」
『面倒で結構。こちらの内情も一枚岩ではないのでな。むしろ、俺としては複雑な裏側を持たない組織の方が遥かに珍しいものだと思うがね』
そんな考えを巡らせている最中。
特に呼んだ覚えのない老人の声が彼女の尖った耳に入る。先程のアルクタンとかいう奴のものだろう。部屋の外に誰かがいるという訳ではなさそうだが、しかし彼の声は間違いなく響き渡っている。それも『胸中対話』のような精神系術式という訳ではなく……ミシェリナが抱えている包帯を振動させて、老いた男の声を形作っているらしい。
そして話の中身も多くはなかった。わっ、と驚いて包帯を取り落としたミシェリナの方には構わず、アルクタンは勝手に言葉を進めていく。
『そろそろ処置も済んだことだろう。ミシェリナ、「勇者」を連れてもう一度ここに来い。次に使うヤツは少々制御に手間取っていてな。場合によってはお前の力が必要になるかも知れん』
「……、」
『では「勇者」、そろそろ第二ラウンドと行こうか。先程のような醜態も結構だが、俺としては「勇者」の名前に恥じない程度に粘ってくれると嬉しいのだが』
天井の高い、円筒形の空間。
そこに出てきたハルピュイアは先程の個体よりもやや大きかった。褐色の肌に長い銀色の羽毛を携えたそいつは、恐らく群れのリーダーに匹敵する雄の個体なのだろう。当然のことながらその分力も強ければ獰猛さも比ではなかった。
アルクタンが使う術式、『翔禁』。指揮棒の動きを媒介してハルピュイアの思考に干渉、間接的に支配化に置いてコントロールするというもののようだが、見た所今回のハルピュイアが本当にアルクタンの制御化にあるのかどうかは甚だ怪しい。……というか、根本的に理性というものを完全喪失しているとしか思えないような個体だったのだ。
『先に述べた通り、今俺の手元にあるのは捕獲したハルピュイアの中でも特に「慣れない」ヤツでな。度々群れが人間に襲撃されたか、あるいは何かしらの騙し討ちにでも遭ったのだろうが……正直そいつは「翔禁」でも掌握しきれていない。それ故少々手こずるかも知れんがまあ頑張ってくれ。お前が「勇者」であるならばこの程度でも問題ないはずだろう?』
いきなり顔面に蹴りが飛んできた。
手首を掴まれ、石造りの床を何度も引き回された。
ほぼ全身の皮膚に鉤爪がぶち込まれ、幾度となく大穴を開けられた。
その度にミシェリナが応急処置、及び簡単な回復術式を使って傷を治し……後はその繰り返しだった。
本能を書き換えられ、彼女を得物として認識しているのだろうハルピュイア。
それが行っているのは、彼女を仕留めるだけならいっそ執拗とも言える攻撃行動の連続だ。
『さて、「勇者」。先程は何やら解決したい疑問があるという旨の台詞を吐いていたな。まあ大方察しは付いているからここで再三尋ねることもないだろう。……内容は、俺達「ピネウス=アンテピティス」の親方について』
このアルクタンの口が語った『氾昂』。
魔術を用いて生成した金属の十字架にハルピュイアの一個体を拘束し、それを中心に据えて周囲の個体の憎悪と排斥心を煽るという術式だったか。一部の例外を除き、基本的に群れで行動するハルピュイア相手に使うのであればこの上なく効果的なものだろうが、しかし一度矛先を失ってしまえばあとは制御不能の暴走に陥る……という話だった。そういった性質から考えると、この雄の個体はマルティリャーナ教会立公園にいた、飢餓状態から後押しされる形で効果の影響を受けた群れの一匹ということか?
『オデュッセリア=マヴロス=ケルドゥス。そこのミシェリナ含め、「ピネウス=アンテピティス」に属する職人の多くはこの名前を知らん。俺は親方と秘書役の職人と……それからもう一人別の誰かがいたような気もする。そいつらが会話しているのを聞いた時に偶然耳にしたんだが、しかしよく考えてみれば何故あの場面で親方は名前を口にしたのか。教会重鎮との商談にしては奇妙だったし、かと言ってペーペーの新しい顧客という訳でもなかったしな。……まあこんな話はどうでも良いか。本題を続けよう』
ただし。
ハルピュイアの羽を専門的に扱う密猟系『ギルド』という前提からすれば、『氾昂』はあまりにも過剰な効果を持っていて。
ともすれば共食いに伴い羽に多大な欠損を与え、結果として価値を大幅に下げかねないにも拘らず、何故か『ピネウス=アンテピティス』はマルティリャーナの群れにそれを使った。
あるいは密猟系『ギルド』という肩書さえ覆す可能性もあるのに、『氾昂』は行使された。
何故なのか?
あの場所で、一部始終を目撃した時から浮かんでいた疑問だ。
『親方は元々「借名無神者」だったという噂だ。聞き覚えはあるだろう? 高額な報酬と引き換えに教会の汚れ仕事を請け負い、例え異端者であろうと「無知」「背信」の罪を許される傭兵集団だよ。生前洗礼を受けていなくとも、主の名に代わった粛清を下すことのできる存在として、辺境の委任統治教会領の連中は積極的に契約しているそうだな。かつては親方もその一人だった訳だ』
何故、わざわざ彼女の疑問に対してこのような答えを差し向けてきたのか。
それとも、ブラフの情報を掴ませてこれ以上の追及を避けようという魂胆なのか。
いずれにせよ確かなのは、『ピネウス=アンテピティス』の親方か、それに類する者と頻繁に顔を合わせているらしいミシェリナでさえ知らなかった名前を引き合いに出してきたこと。事実か否かに関わらず、この点だけは明らかに他の情報と違うのだ。
もちろん外部は当然ながら組織内の誰にも知られていないはずの親方の名前を、こうも簡単に口にしていることには違和感を覚えるが……しかしアルクタンに構う様子はなかった。
『似た者同士とは言っても、今名前が売れているらしい邪龍を専門に盗伐している奴とは違う。当時の親方の専門は異端者……それも通常の「借名無神者」が行うような暗殺任務ではなく、それこそ円卓騎士団でさえ手に余るような汚れ仕事か、あるいはどんなに黒い仕事を受けている「借名無神者」でもわずかに一部分しか請け負わないとかいう代物だったらしい』
執政者の背中には、常に黒い噂が付きまとう。
現在進行形で世界の半分を支配している存在、それが教会だ。
それも真正面から堂々と主張できるような手段を伴って、だけでない。頻繁に大量虐殺や略奪行為にさえ舵を切るような作戦を打ち立てては実行する集団ともなれば、様々な面から糾弾を受けるのは当たり前のことだ。現在最も教会の指針に近いとされるジュディチュム=イノミ=デイ修道会について言えば、殺戮強奪内部粛清は序の口、その上麻薬密売やら人身売買やらにまで手を染めているという話も珍しくはない。
教会の汚れ仕事に従事する『借名無神者』は、ある意味ではその頂点に位置する存在だ。
そいつらでさえ滅多に行わないようなものとなれば……。
『……しかし、だな。そんな親方からも人間性と呼べるものは失われてはいなかった。教会の暗部に潜み両手を汚していく「借名無神者」となったのも、元々は数少ない肉親である妻と娘を養うためだったようだ。当然家内に仕事内容は明かせないし、親方も言うつもりがなかったはずだ。そう肝に銘じていたにも拘らず……いいや、むしろその心掛けが仇になったと言うべきかな』
そこまで言って、アルクタンは悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
話の中身からすれば真逆とも評せる表情を貼り付けて、こう続けた。
『親方が関わった重大インシデントは「六月新皇騒動」に加えてもう一つ。かつてコルス島に存在した集落、特別天然記念物たるハルピュイアに対し法外なコンタクト、あるいは過剰な接触行動を繰り返したために「聖なる獣」を汚したと判断された者達だったか』
アルクタンの台詞は正しいのか。
それ以前に、何をもって正誤を判別すれば良いのか。
『俺が掴んだのは、環境変動円卓騎士の行動その他諸々を隠れ蓑にした掃討作戦。そこに親方も参加していたという事実、そして当時のコルス島の集落には妻子もいたという現実。列挙するならこんなものだな。表向きには「湾岸浸食や異端盗伐の流れ弾で村を放棄せざるを得なかった」とされているものの、その裏で何が行われたかは明白だろう?』
詰まる所。
確証も得られないままの状況に変わりはなかったが、それでもアルクタンの言葉通りの過去があったとすれば……自ずと結論も見えてくる。
鉤爪を受け。
皮膚を啄まれ。
骨を砕かれ。
その度に回復術式でもって修復が施される。死ぬか死なないか、その定義さえ曖昧な空隙を彷徨う。その間に動かせる全ての思考回路を回し続けた結果が、それだ。
「おや、またしても気絶か。俺の叩き出した理論値通りならば、フルスペックの『勇者』がこの程度の耐久試験に耐えられないはずはないのだが……眼鏡違いだったか?」
どこまで続けるのか、いつまで続けるのか。
巨大な円筒形の部屋、石造りの床に伏せられた彼女の上から圧し掛かるハルピュイア。そいつの無機質な眼光に照らされた彼女は、最初の内こそそんな言葉を放っていたものの、その内唇さえ動かなくなっていた。
それは、危害の及ばない外野で事の顛末を見ているミシェリナの方が嗚咽を零す程。『勇者』の頑強さを逆手に取った悪趣味の塊は、適当に指揮棒を振ってケタケタと笑う。
「なあ、頼むからこんな簡単に終わらせてくれるな。せっかくエリィルを使ってマンダリン=アナティス邸から誘い出したんだ、苦労して拵えた御膳立てを無駄にしないで欲しいのだが」
「……エリ、ィル? あの、ラバロ門で襲ってきた、クソッタレの職人のことか……?」
もはや傷のない所を見つける方が難しい位、全身を真っ赤に染めた彼女。唇の端から溢れる粘ついた液体を拭おうとして……その動作を阻害するかのように、ハルピュイアの鉤爪が両手首を抑え込む。
ぶちぶち、ブチブチと。血管が筋線維が、はたまた神経が破断する音さえ耳に響くようだった。ハルピュイア一匹と同等の戦力は黄金柏葉円卓騎士が三人という事実こそ頭に入ってはいる、だがそれを自分の身体で体感することになれば話は別だ。
(、考えろ……)
実際に味わうことの恐怖感。
『勇者』としての力さえ通用しない異常。
どこを見渡しても挽回の機会はない。せいぜい相手を余計な会話に引き込み、時間稼ぎに徹するぐらいか。
(……どこかに、この局面を抜け出す鍵がある。どうにかしてこのクソジジイのターンを切り崩さなきゃ……)
「いや、そちらの方ではないよ。知らないのか? マルティリャーナの群れに限らず、ハルピュイアの群れには個々の名前に規則性があるんだが……ま、あれ自体は他の地域の群れにも見られる特徴だからそこまで重視すべきものでもないな。ちなみに俺が言ったのはクナブラ=クォド=アモル殿に墜落したハルピュイアのことだ。覚えはあるだろう?」
「……、」
マルティリャーナ教会立公園で起きたハルピュイア達の食糧危機……に偽装した、ハルピュイアの生態を敵対心で上書きする『氾昂』のトラップ。状況から推測して、恐らく対象に選ばれたのはハルピュイアだけではなく、ハルピュイアが餌とする動植物全てだろう。
あのハルピュイアの少女は、恐らくその初期段階で違和感を覚えて群れを抜け出したのかも知れない。しかし襲い掛かる飢餓状態には耐えられず、そのままマンダリン=アナティス院長邸クナブラ=クォド=アモル殿に墜落した……というのはサリィナを介して得た情報だ。
そのハルピュイア、エリィル自身にも事の真相は分からなかった、いや分からなくて当然だったのだろうが。
「正直な所、アレはただの駒ではない。今までに狩ってきたハルピュイアは大部分が羽毛目的の獲物だったんだが今回は少々事情が違うらしい。親方が何を考えているのかは俺にも掴めん、しかしだからと言って親方の指示を聞き入れないのも『ギルド』職人としては失格だからな。だから『勇者』、お前には感謝しているんだ。お前を誘い出すために『翔禁』でもって思考回路に細工を施してクナブラ=クォド=アモル殿に向かわせ、その上で再回収する……という今回のプランは、完全な形で完遂することができたんだからな」
「……じゃあアンタは、そのプランについて、自分じゃ何も考えなかったって訳? それが何を目的としていて、その結果何が起きるか、その一切合切を思案しなかったって、こと……?」
「だって、何故そうする必要があるンだ?」
アルクタンは指揮棒の尻でもってこめかみを掻きながらため息をついた。褐色のハルピュイアが彼女の尖った耳にかぶり付き、食い千切るか否かの一歩手前で止まる。
それでも出血自体はあるし、新たにできた傷も浅くはない。
「お前は『ギルド』のシステムを理解していないな? 良いか、『ギルド』においては何時いかなる場合においても頂点たる存在がある、それが親方という席だ。その下にある者に、わざわざ自分で考える権限など与えられると思うか? もし違っていたとしても、恐らく指揮に口を挟むことなどまずないだろうがな」
「……、」
「何故か? 決まっている。俺も他の職人も徒弟も、あるいはそこにいるミシェリナでも良い。『ピネウス=アンテピティス』はそういう連中のために存在する『家』だからだよ。親方は言わば家長、行き場も金も身分も、まして名前さえなかった俺達に、その全てを与えてくれたヒーローだからに決まっている。その他の理由など必要あるものか」
ブチン!! と水っぽい音が反響した。
ハルピュイアの犬歯に貫かれた彼女の右耳の先端の肉が、引き剥がされたのだ。神経を抉るような激痛によって全身が海老のように跳ね回るが、上から強引に押さえ付けるハルピュイアがそれを許さない。舌を噛む危険性などお構いなしに、強靭な脚で掴み上げた彼女の頭を床に打ち付ける。
「そういう意味ではお前達と何も変わらん。アモル=クィア、教会の中では数少ない非戦主義であり、穏健派であり、バランスの取れた左翼思想を持つ集団と」
「……本気で、言っ、てんの……?」
「当然。向こうでは保護した戦災孤児に教育の場を設けているようだが、形は違えどやっていることに変わりはない。生きるための金を得る手段として狩猟の技術を教えている、その程度の違いしかない訳だ」
「悪いけど、私には単なる違法行為の幇助者を増やしたいがために、正当性の欠片もない環境で間違った教育を施しつつ使い捨ての徒弟として切り捨てるって魂胆にしか聞こえないわよ」
「別に構わんさ」
指揮棒を手の中で弄び、くるくると回し、彼女の方へと向け直す。
一連の動作の間、表情に変化はなかった。
「『ピネウス=アンテピティス』について理解しろとは言わん。どうせお前は親方への献上品でしかない。この耐久試験が終わり次第、すぐに梱包作業に取り掛かる手はずになっているしな。面倒はさっさと終わらせて、次のフェイズに移るとしよう。……ミシェリナ、治療の準備を怠るなよ。殺してしまっては元も子もない」
アルクタンは、一ミリもデリカシーを感じられない台詞と一緒に、指揮棒を振る。
『雷激』、ト短調、第七楽章。台本を読み上げるかのような詠唱と同時、彼女の上のハルピュイアが動き出す。
いっそ災厄のような猛追の極み。
そんな一撃を放つべく、再三鉤爪付きの脚を振り上げて。
落とされた先は、彼女の後頭部。
「……申し訳ないですが殺す気マンマンにしか聞こえませんよ、貴方の言葉」
ではなく。
円筒形の部屋の上方からの、叩き落とすかのような回答。
二〇メートルの高低差を伴うボックス席じみたテラスに手を掛ける、肌着のような薄地の装束と白いフードに身を包むその主にだ。
(……ルーシー!? 、いつの間に……!?)
「『粉鎧』、第一一楽章、三五。リンフォツァンド」
下敷きにされている『勇者』のことなどお構いなしに、褐色のハルピュイアが飛ぶ。音の方が後から追いつくかのような、紫電のごとき突進を喰らわすために。
対してフードを下ろした少女ルーシー=ギブスンの反応は淡泊だった。
特に回避行動を取ることもせず、ただこう呟いていた。
「……お願い『弥撒』。あの子のために、後悔のない選択を」
たった、それだけ。
にも拘らず、ハルピュイアの動きは止まる。正しく言えば、その攻撃行動がだ。『風』の流れは突撃から急制動へ、まるで外部からブレーキでも掛けられたかのように変えられてしまう。
「……『催起』、第一楽章。二一、フォルティシモッ!!」
ここに来てアルクタンの口調が強まった。指揮棒を操る手付きに乱暴さが、いや明確な焦りが入り交じっていることが彼女にも伝わる。ギチギチ、ぎちぎちと羽の筋肉を不気味に軋ませ、今一度突貫を仕掛けるハルピュイアに対しても、やはり向けられた言葉は一つだけだった。
「『贖宥状』。必は卑しき他意篭る金貨、その価値に値する羽の麗しき色。その輝きを取り戻す事、それが対価。対価と共に、貴方の罪を清めましょう。……仮にも魔術師である私がこんな台詞を言ってしまうのは場違いかも知れませんが」
「……教会式の洗礼、だと……?」
焦りは手癖から表情へ。
今までの余裕はどこへ消えてしまったのか。パズィトールよりも歳を重ねているように見えるアルクタンへより一層の老けが加わったかのように、顔付きに焦りが宿る。
事実として、いくらアルクタンが指揮棒を振れどもハルピュイアは動かない。どれだけの旋律を奏でようとした所で、その羽は攻撃行動を示さない。ルーシーこそが自分の主人であると言いたげに老人を見下ろし、言葉の主が差し出す掌に自らの頬を擦り付けてさえいた。
「……いいや、そんな訳があるか。ハルピュイアはただの魔獣だ、いくら人間並みに高度な知性を備えているからと言って、まさか教会の教えを理解し信仰するような習性があるはずもない!! 『弥撒』だか何だか知らんが、そんな術式が成立するなど明らかに間違いではないのか!?」
「それは私も知っています。人間の文化に理解のある群れの存在こそあれ、ハルピュイアが聖書やら教会やらの教えに共感し信ずるなどという行動に走る訳がありません。……普通ならば、ですが」
既に指揮棒など放り捨てていた。この際形に拘泥している場合ではない、一刻も早くその口を黙らせなければ意味がない。袂から引っ張り出したククリナイフを手に、重力を無視した挙動でもって壁を登り、テラスから身を乗り出すルーシーに向かって突き出したが……直撃の前に褐色のハルピュイアが割り込んでいた。鱗に覆われた足でもってナイフを叩き落とし、同時にアルクタンの腕を万力じみた力で締め上げる。
「っぁ、ッぐ……!? そう、か、……ヴァティカンの内部……街それ自体が一つの『原典』として機能する……『主の教えを知らない罪』を許し、そこを起点にしてハルピュイアに洗礼したという訳か!?」
「大筋は合っています。ですけれど肝心な部分に誤りもありますね。私はハルピュイアを洗礼したのではなく、貴方がこのハルピュイアに仕込んだ『音符』を削除して本来の習性を取り戻させただけです。貴方が『翔禁』の効果を増幅しなければロクに制御もできなかったハルピュイアですし、正常な思考の障害となるものさえ取り除いてしまえばこの子は正直です」
それまでの一方的な展開は何だったのか。
そこから先は、いっそ拍子抜けする程に早かった。
先程の曲芸は恐らく魔術による身体補強なのだろう。ハルピュイアに腕を掴まれたアルクタンはこれといった逆転もできず、そのまま高低差二〇メートルからの自由落下を味わった後に床に激突する憂き目に合ったが、しかし見た目に反して外傷は少ない。とは言え落下に際して後頭部を強打したせいで意識は急速に刈り取られたようだが。
それを見下ろした後、ルーシーもまた宙へと身を躍らせる。
ただこちらは打って変わって、気持ち悪い程にゆったりとした滑空だ。褐色のハルピュイアが起こす直下からの『風』による上昇気流が、その小さな体躯を支えていたのだ。床に足を付けた時も、余計な音は何一つ立つことがない。
鮮血まみれで床に突っ伏す『勇者』の手を取り、ルーシーは彼女の顔を覗いてこう切り出す。
「死んでは……いません、よね? 脈拍はあるし、見た目の出血は酷いですけど……これも大部分は固まってる。鎧下の汚れはともかく他は治癒の術式で何とかなりそうです。……良かったぁ……死んでたら返事してくださいなんてベタな台詞は使いたくないんですよ……」
「……死んでるたらどうやって返事なんてするのよアホの子おっぱいちゃん。まあ、すっごいナイスタイミングで出てきてくれたのは有難いんだけどさ、降りてる途中貞操帯思いっきり見えてたからね上昇気流に煽られて」
「ぴぅっ!? ……に、二度も『勇者』さんに見られてしまうなんて……こんな失態、絶対にヴィクトルに怒られてしまいます……これを見て触って良いのはヴィクトルだけなのです……」
「それと見事なバカップルっていうか、……夫不在の夫婦漫才をどうも。とにかく治癒の術式をお願いルーシー。身体の方もだけどメンタル面で結構キテるからね私。っていうか今の何なのそのハルピュイアどうやって手懐けたの? そもそもミサとかアブラスなんちゃらって何なのよ?」
「い、一度にいくつも質問を並べないでください!! 今はまず『勇者』さんの回復です、最低でも全力で走れるぐらいにしておかないとマズいかも知れません。これは私にとっても痛恨のミスでしたが……」
「……?」
いきなり意味不明なキーワードが出てきた……と一瞬だけ思い込みかけた彼女だった。
一瞬だけ。
根本的な話になるが、そもそも何故ルーシーがここに来た?
最後に顔を合わせたのはマルティリャーナ教会立公園の中央付近だ。『ピネウス=アンテピティス』が仕掛けた『氾昂』によって共食い状態に陥ったハルピュイアの群れを鎮めるため、彼女は『水』でもってハルピュイアの意識を折ろうとして、その最中にあの襲撃者が現れて……その後、彼女はここに連れ込まれた、という流れだったはず。あの時同じ場所にいたルーシーが、彼女と同じ場所に捕縛されていたとしても不思議ではないだろう。
そのルーシーが、恐らく拘束を抜け出してここに来ている。
「………………、」
組織の内情の一切合切を漏らしたことのない違法密猟系『ギルド』。
そいつらが使用している施設の中で、そんな真似をすればどういう結果に繋がるか。ハルピュイアによるフルボッコの刑のせいで脳ミソの大幅な性能低下を受けた彼女でも、そのぐらいは把握できるものだ。
つまり?
「……私も『勇者』さんも、既にここのセキュリティに引っ掛かってます。ついでにここは敵陣のど真ん中、すぐにでも離れないと即効即死コース一直線なんですよ!!」
直後だった。
ドーム型の天井そのものを崩落させ、莫大な量の赤い『水』が降り注いだのは。