さよなら三角、またきて死角
ざわり。
意識がなにかから突き放されるような感覚を覚えて、何事かと騒ぎ立てる脳が、ざわざわと、未来を予感するように暗闇に潜った。
エスカレーターで後ろから引っ張られるような感覚を覚えることがあるけど、それに似たような力に引きずられるがまま、どこかに向かっていく意識に肩を震わせた。
追いつかない思考は強制ログアウト。どきどきと高鳴る心臓は、もちろん恋をしているからではない。
ほどなくして近づいてきた終わりをすこしだけ拒んだのは、小さいながらに確かな恐怖を覚えたから。
どこに連れていかれるのだろうかという本能的な恐怖が、わたしの心を奪った。それでも、抗う術を持たないか弱いわたしには、従う以外なかったのだけど。
導かれる場所へとなんの抵抗も許されずに向かっていくしかないのは、恐怖以外のなにものでもない。
実感しながら、終点に足を踏み入れたらしい意識のままに、そっと目を開ける。
落ちつきのない心臓を野放しにして瞼を開ければ、ふと見えた先に、度アップでオッサンのだらしない満面の笑みが映った。
え? ……え? えっ!?
なにこれきもい!!
目ん玉が飛び出すのではないかと思うほど目をかっ開き、眼前にいるオッサンを凝視する。
にたぁ、という、至極だらしない笑顔でこちらを覗いてくるオッサンの顔がやけにでかくて、「一匹残らず駆逐してやらぁ!」という気持ちになってしまったのは仕方ない。
ほら、時代に左右されやすいんだよ、最近の若者ってのはね。
とりあえず、状況を確認するためにあたりを見渡す。
が、仰向けの状態だからなのか、それとも顔面いっぱいに広がるこの気色悪いオッサンのせいなのか、状況把握には至らなかった。
いや、このオッサン、べつに気持ち悪い風貌ではない。どちらかと言えば、渋くてかっこいい部類に入るはずの顔立ちだ。
それでも、ゆるみきった顔でちょっと鼻息が荒くてフンフンしているところを見ると、……なんかやっぱり気持ち悪いと思うわけ。
そうこうしていると、オッサンが何かを発そうと口を開く。
なんだ、なにを言われる――緊張から額に冷や汗が浮かぶのを感じながら、その様を見届けるしかなかった。
「セラたーん、パパでちゅよー」
……あらやだ、なにこれどうしよう。
ダラダラにゆるみきった顔で、不審人物に赤ちゃんプレイを強要されております、どうも、セラたんこと柊せらです。
最近流行りのバブみ、とやらをわたしに感じてくれたのかもしれんが、こちらただの欠点王と名高い女子高生だよ。
いや待て、オッサンの口調から察するに、まさかわたしが赤ちゃんなのでは……?
が、ここでひとつの間違い探しだ。
金色の短い髪の毛、碧い瞳、アゴには剃り切れなかったヒゲの跡。くしゃりと目元にシワを寄せている目の前の男は、紛れもなくわたしの父親――ではない。
金髪碧眼ってどこの外国人だ。
わたしは生粋の日本人であるし、茶色がかった髪色をしてはいるが、一般的なジャパニーズの出で立ちをしていると自負している。
大和撫子ってやつだよね。大和撫子にはほど遠いってよく言われるけど、大和撫子だよね!
それにしても、この男がどういった理由で何を目的にして、わたしの父親とやらを名乗ったのかは分からない。ついでに言えば、わたしがそれを求めていると知っていての行為なら、胸糞悪いことこの上ない。
それでも、この男が自分の父親ではない、という明らかな事実が、わたしの口を開かせる。
この人物がどういった輩であるか分からないから、下手な発言は厳禁だろうけれど、男には言わねばならぬときがあるのだよ――念のために言っておくが、わたしは女だけどね!
まぁ、とどのつまりで言わせてもらおう。
「あうあああ、うう、んきゃっ!」
なにいまの。
……えっ、なにいまの!?
自分が発したはずの声が、不可解な音の羅列を作り上げた。
一応、言いたかった言葉をここに挙げるならば、「テメェはわたしの父親じゃねぇ!」である。
が、聞いてのとおり、そんなものは出なかった。え、いやまじでどういうこと。
「うんうん、パパだよーっ」
喜んでいる目の前の男を呆然と眺める。
いやあの、このよく分からないプレイ(?)を快感に思うような性癖はわたしにはないからね。
さらに冷や汗が出るのを感じながら、言葉がダメなら手を出そうというモットーに則り、男をぶん殴るために手を上げた。
が。
「あう……?」
あれ、なんだ。このもみじのような手は。
新たな問題が立ちはだかり、わたしのライフポイントはそろそろマイナスである。
泣きたい気持ちを抑えながら、自分の絹のように透き通った肌を眺めた。
……おお、赤ちゃんのような肌だ。
確かな感想を抱いたが、笑えないのはどうしてか。
いや、その理由などわかっている。ただ単に、自分がその事実を認めたくないだけだ。
「おおおおおおっ、セラァァァァアアアっ」
わたしが手を伸ばしたのは、自分を求めてのことだと勘違いしたらしい。オッサンは目に涙を浮かべて、感動をあらわにしている。ぷるぷると喜びに震えているところを見ると、キショクわるいとしか言えないんですけども。
ははは、と乾いた笑いを脳内でこぼしながら、よろこぶ彼の声をどこか遠くで聞いている気がした。実際には、顔面度アップという、遠慮したいシチュエーションである。
なんだ、なにが起こっている。
「ううあ、ぶう、あう」
「うん、パパもセラたん好きだよーう」
この現象はいったい何だ。
「あうっ、ううう、きゃう」
「僕のこと分かるのかな! うう、僕感動だよーっ、セラァァァァアアア」
だあぁっ、私の頬をぐにゅぐにゅすんじゃねぇぇえええ!
「きゃあうあああああああああああああああっ」
「僕も嬉しいよおおおおおおおおおおおおおっ」
通じなかった。
さて、どうしようか。不安と恐怖を胸に、わたしはようやく自身の状況について考え始めた。
どういうわけなのか、今のわたしはいわゆる“赤ん坊”らしい。そして、目の前の気色悪いオッサンは、そのわたしの“父親”だという。
ついでに言うと、わたしが赤ん坊だから、バブバブしているのはわたしで、わたしが赤ちゃんプレイを欲していることになるのかもしれない! 無意識に、欲していたのかもしれない!
……なぜだ!!!!
いや、ここで原因や理由を追及しても、おそらく答えは分からないだろう。考え続けて分かるような問題ではない。
だいたい、わたしのオツムでわかる気がしなかった。欠点王マジでなめんな。
よし、状況把握とあらば、せっかくなのだ。スイーツ小説よろしく、自分語りなんぞを始めよう。
柊 せら。女子高生という最高のステータスを持ち、日々勉学に励もうと思いながらも撃沈している、ごく普通の16歳。
欠点の数は負けません、運動なんて苦手です、それでも頑張って生きています――そんな華の女子高生だ。
が、どうやらわたしは現在、”セラ”という名の赤ん坊であるらしい。この男を父親に持つ、赤ん坊。
ああ、非現実的すぎる。どこのファンタジー小説だとツッコミを入れたくなる。
のに、それがどうにもできないのは、それほどまでに現実的な感覚が、わたしを取り巻いているから。
バカだと思うだろう。事実、わたしはバカだ。
けれど、それだけで切り捨てられない程度に、こいつはリアリティを持っている。
困ったことに夢とはちがう、明らかな現実の感覚。
ちなみに目の前の男は「あ、もしかしてオムツかな」と言いながらわたしの服を脱がしにかかっている。股を大げさに広げ、元々わたしが装着していたらしいオムツに手をかける父(仮)。
そして、すべてを取り外した彼はわたしの脚をM字開脚に……って、何の羞恥プレイだよ!?
「んぎゃあああああああああああっ」
やめろ、という拒絶の意志をこれ以上ないほどに込めて叫んだ。やればできるじゃないか、せら。
ついでに、わたしの気持ちを最大限に理解している目から、大量の涙があふれ出す。
しかし。
「ごめんね、ずっとそのままで気持ち悪かったよねぇぇええっ、パパを嫌わないでぇぇええ!」
父(仮)も泣き始めた。
なにこれ、どうにもならねぇぇぇぇええっ!
絶望感を顔に携えながら、男がわたしの頭を撫でるのを必死に堪える。
どうしてこんなことになったんだ。苛つきと先の分からない恐怖は、徐々に圧倒的な力で迫ってくる。
「あれ、別におしめじゃないのかぁ」
そう言って目に見えるほど落ちこんだ父(仮)は、わたしの頭をやさしく撫で続けながら目を細めた。
ふと、その表情にドキリとする。心臓が跳ねあがった。
べつに、それは恐怖でも苛つきでもなんでもなくて。
あれだけ絶望を覚えていたはずなのに、とたんに時が止まってしまったかのように、わたしを無が取りまいた。
だって、なんてやさしいのだろう。
その眼差しが「愛しているよ」と語っている――囁いている。
その瞳に詰まった言いようのない温かさに、否が応でも気付かされる。
ああ、愛されている、と。
「なぁ、セラ」
ゆるゆるだった顔は、少し引き締まって。それでもやさしい顔つきでいるから、無性に甘えたくなる。彼のくちびるが震えて発されたその名は、まるで今、この場で絶大な意味を持ち合わせたかのように輝いている気がした。
――わたしではない“セラ”に向けられたものなのだろうけど。
それでも、ちいさく、それでいて確かな重みを持ったその声色は、どことなく真剣に感じられるから、導かれるようにその大空のような目を見た。青く澄んだその目に、吸い込まれていく。
「ごめんね」
つむがれた言葉に、疑問符を飛ばす。
なにがごめんね、なんだろうか。きっと目の前の彼は、そんなわたしの疑問を知っているのだろう。
だけど、独り言だと切り捨てられない、叫びでもあるかのようなそれを聞いたら、絶対に彼から目を逸らしてはいけない、なんて思ってしまった。
「ごめん、セラ」
彼は再度、“わたし”に謝罪をする。
ハの字に下げられた彼の眉は、情けないほどの哀しみを背負っている気がした。
だから、何の謝罪なの。「うー、あうう」言葉にならない音を出して、彼に問いかける。
そんなわたしの声に彼はさびしそうに笑って、やっぱりお決まりの言葉をつむぐのだ。
ごめんね、と。
静かに告げられたそれは、突き刺すような胸の痛みと共に、わたしの意識を奪った。
とたんに黒く染め上げられた世界は、何の意味も持たないとでもいうようにわたしを責め立てる。
ゆるやかな曲線を描いて霞みゆく彼の姿に、一筋の涙を流していた。
一瞬、見えた姿が“あのひと”に重なった、なんて。