悪役は一人でいい! ~ヒドイン、神様に会う~
マーブル模様の気持ち悪くなりそうな空間。そう言えば、アリスがどんな場所にいるかわかりやすいだろうか。
そのよくわからない空間に、アリス・イル・ワンドはいた。地面がなさそうなのに固い地面に座り、その向かいには十代前半ほどの年齢に見える少女が座っている。
目立つ少女であった。純白の長髪、瞳、肌、ドレス、全てが新雪のように真っ白だ。違和感を持ちそうな見た目なのに、どこか神聖なものを感じる。
だが、少女が浮かべている表情は、神聖さに全く似合わない呆れ果てたものであった。
「……アホじゃろ?」
馬鹿を見る目で見てきたその少女に対して、アリス・イル・ワンドは曖昧に微笑むことしかできなかった。
見知らぬ少女に罵られても、アリスは嬉しくない。やはり真の至高たる悪役令嬢のイーリス・エル・カッツェこそが、アリスの支配者に相応しいのだ。
アリスが覚えているのは、イーリスがフェンリルに繰り出した、神剣アラストールの光に飛び込んだことまでである。イーリスの愛を受け取るために光に飛び込み、その一瞬後には何故かここにいたのだ。なお、イーリスは別に愛を込めたりしていない。
とりあえず少女に色々と尋ねようとしたところで、少女が白い手を突き出す。
「全て見ていたから何も話さんでよいぞ。お主のようなものは我もあまり会いたくない。むしろさっさと帰ってくれ」
ひどい言い草だが、アリスの状況は把握しているようだ。そのことに、アリスはひとまず安堵した。
頼れるのは目の前の少女だけなのだ。少女が何も分からないようでは、アリスに為す術はなかった。
「ここはどこでしょうか?
「封印の中じゃよ。我はこの中に封印されておるんじゃ。この神剣アラストールの中にな」
そう言った少女の顔に浮かんでいるのは、自重じみた笑みだった。自らの行いを思い返し、後悔しているような、儚い笑みだった。
ズキリと、アリスの心が痛みを発する。アリス・イル・ワンドは、元々心優しい少女である。イーリス・エル・カッツェという存在を知ったせいでその思いは愛という形に歪み、昇華してしまったが、その心の芯の部分は変わらない。
人は同情というかもしれないが、それの何が悪いのか。アリスは、少女の儚い笑みを見てしまった。それにより、アリスは少女の心の傷を知り、それを分かち合いたいと思っているのだ。傷の舐め合いかもしれないが、それで少女が救われるのであれば、それでもいいとアリスは思う。
その心に従い、アリスはおずおずと尋ねた。少女の抱えている心の傷とは、一体何なのかを知るために。
少女の心の傷は、どれほど深いのかを知るために。
「……何故、封印されているのですか?」
「働きたくないからの。力を貸すから勝手に使えって言って、剣の中に自らを封印したんじゃ」
そうでもなかった。別に傷でも何でもなかったのだ。
アリスは少女に向ける優しさを捨てた。この少女はただのぐうたらである。怠惰の化身である。ニートである。
「えーと、あなたの名前は?」
「創世のアーラス。創世神の名前、知らんの?」
「ええ、知りません」
「なんじゃ。それほど時が流れおったか」
そう言う割には、あまり残念でもなさそうだ。神剣の中でダラダラしているうちに、怠け癖がついたに違いない。
しかし、とアリスは思う。アーラスとアラストール。繋がりを感じる名前である。
聞いてみたかったが、聞くのはやめた。目の前の少女――アーラスならば答えてくれると思うが、それはイーリス自身が知るべきことだと思ったからだ。それにより、イーリスは神剣の真の担い手として、更なる高みに登ることができると漠然と感じたのだ。
そのため、アリスはイーリスに神剣に封じられている存在のことを秘しておくことに決めた。必要であれば、世界がイーリスを導くだろう。アリスはただ、それを信じて待っていればいい。
ならば、今は現状について知るべきだろう。
「私は死んだのでしょうか?」
「死ぬべきだったと思うぞ。あの技を食らったのじゃからな」
「でも、こうして意識があるんですけれど……」
「死んでいないからの。何故ここに来たのかは、我も知らん」
あまり使えない創世神である。
「イーリスが加減したとはいえ、全てを消滅させる原初の光を浴びたのに無傷だったぞ。フェンリルならば耐えられるじゃろうが、人間ならば瞬間で消えるほど強力な光じゃ。もしかしたら再構築させる必要があるかと思ったが、全く必要なかったわ。お主、何なの? 人間なの?」
「愛の力ですね!」
「愛ってなんじゃろうな……」
「愛は偉大なんです!」
「愛とは一体……」
愛で強くなれるなら、剣や魔法を習う必要はない。実際、愛によって強くなったアリスは、剣も魔法も使えない。愛は無敵なのである。
ただし、常人は愛に目覚めるのは不可能だ。真に一途に愛する者がいる人間だけが、愛に目覚めることができるのだ。
「ともかく、お主は生きておる。我がこのまま帰してやるから、無事な姿を見せてこい」
「ありがとうございます、アーラス様。ところで、もう一度ここに来ることはできるでしょうか?」
「む? ああ、できないとは言わんが……方法は我も知らんぞ。我が呼ぼうと思ったらその限りではないが、面倒じゃ」
やはりこの神、怠惰の化身である。怠惰の神アーラスである。
「もういいか? では帰れ」
何もなければ準備をすると言ったアーラスに対し、少し考えたアリスだったが、特に何も思いつかない。アーラスに聞きたいことは聞いたし、これ以上ここにいても仕方がない。
ならば帰ろうかと考えたところで、アリスは一つのことを思いついた。イーリスの素晴らしさを、アーラスに伝えようと考えたのだ。
これは、アリスにとっては名案であった。アーラスは、神剣の中から外を眺めていた。それは外に興味を持っている証拠であり、様々なことが気になっているということだ。ならば、アーラスも神剣の持ち主について気になっているに違いない。そんな考えもあり、アリスはアーラスにイーリスのことを伝える気になっていた。愛の伝道師として、アーラスに教え込む気でいた。
それが、アーラスの後悔に繋がる。
「アーラス様。私が帰る前に、神剣の持ち主について知りたくありませんか?」
「む? まあ、気になると言えば気になるがの。我も中から見ていたが、他の者が語るのを聞くのではまた違うじゃろう。イーリスという娘、なかなか面白い」
その瞬間、アリスの目がキュピーンと光った。アーラスは、アリスにロックオンされてしまったのだ。もはやアリスを止めることはできない。
アリスがアーラスの華奢な両肩を掴み、息も荒くアーラスのことを見つめる。その瞳には怪しげな光が宿っていたが、決して情欲な光ではない。本当に、怪しい光が宿っていた。完全に危ない人である。
創世神であるアーラスもこれにはビビる。半端なくビビる。世界創世から長い間を生きてきたが、こんな経験をするのはアーラスははじめてであった。
だが、それも当たり前だろう。神と人ではそれほど差があるのだ。身分、生物的といったものではなく、存在そのものが既に違う。神と人というだけで、存在そのものに圧倒的な格の差があるのだ。
つまり、神を前にするだけで、人は畏怖し、敬うのだ。たとえ信仰無き人であろうと、神を前にすれば畏怖せずにはいられないのだ。
だが、アリスにはそれがない。創世神という最高の神を前にしても、アリスは自然体だ。おそらく、イーリスも、そしてイーリスの婚約者であるカイル・エル・ハバームドもそうなのだ。
ようするに、この三人がおかしいのである。
そして、アリスの言葉を紡ぎ出した。愛に満ち溢れた呪詛を、撒き散らし始めた。アリスを止めることは、もはや誰にもできない。
「そうですよねやっぱり聞きたいですよね仕方ありませんね特別に私がイーリス様の魅力について語ってあげましょうそうしましょう。やっぱり目標に向かって邁進する姿が一番素敵ですね。それを見ているだけでああ私も頑張ろうって勇気をもらえると言うかその時点で勇気を受け取ってるんですよ。イーリス様が頑張ってるから私も頑張ろうって思えるというか頑張らなきゃ駄目なんです。イーリス様が頑張ってるから私も頑張らなきゃ駄目なんです。あの人に追いつくんだったら多少の困難は愛の力で乗り越えないと駄目ですから。やっぱりそのためにも頑張る必要があるんです。そのために私は愛の力に覚醒したわけですけれどこの愛の力ってイーリス様のために目覚めたんですよイーリス様のために。イーリス様について考えていたら突然体の中からパーっと感じる力があってそれに触れると私は愛の力に目覚めていたんですよ。これってやっぱりイーリス様が特別な存在だからですよねそうですよねそうに違いありません。イーリス様はあまり気にしてないようですけれどやっぱりイーリス様には何かあるんですねきっとそうです。それでイーリス様は悪役令嬢を目指しているんですけどそれもまた素敵ですよね。だって正義じゃなくて悪ですよ悪。普通は目指さないというか目指せないですよね。やっぱりその時点でイーリス様は他の人と違うというか神剣アラストールに選ばれる器ですよね。スケールが違うんですよスケールが。だって知ってますかイーリス様が目指しているのは世界一の悪役令嬢ですよ世界一の。もうその時点で常人とは発想が違いますよね。私ではとても思いつけない目標ですよ。やっぱりイーリス様は特別というか選ばれてるんですよね。まあ神剣に選ばれてるんだからその時点で選ばれてるんですけどそれとこれとは話が別っていうか神剣に選ばれてなくてもイーリス様はイーリス様であるという時点で尊いんですよええ尊いんです。神様なんて目じゃないくらい尊いんですよ偉大なんです偉いんです。わかりますかっていうかわかりますよね。神剣の中から見てるんだったらわかりますよねむしろわかってください理解してくださいイーリス様こそ世界一のお方なんだって納得してください。納得してくれましたかありがとうございますやはりイーリス様は素晴らしい方ですね創世神様にも認めていただけるなんてやはりイーリス様こそ至高の神世界唯一の絶対者ああイーリス様私はあなたに全てを捧げますだからお願いいつまでもお側において」
「送還」
だが、止めることはできなくても、追い出すことはできる。
アリスの熱のこもった演説は、無慈悲な創世神によるキックで強制中断となってしまった。哀れアリス。アリスはイーリスの魅力をアーラスに伝えきることはできなかった。
アリスを追い出したアーラスは、数秒警戒していたが、アリスが戻ってきそうにないことを確認すると、深いため息をつき、ボスンと横に倒れた。そして、再度深いため息をつく。
「はぁ……なんじゃあの娘は……働きたくないというのに疲れた……」
アリスの愛の言葉は、神にも通用する強烈な精神攻撃であった。創世神であるのに、イーリスに変な感情を持ちそうになったのだ。
急いで追い出していなければ、アーラスはイーリスの信奉者となり、イーリスのために全面的な協力をしていただろう。創世神として、個人に肩入れするべきではない。アリスを追い出したアーラスの判断は、正しかったといえるだろう。
もう一度ため息をついたアーラスは、いつの間にか出現していたベッドにのそのそと這い上がると、横になって目を瞑った。
「寝よう……」
疲れ果てたアーラスは、そう呟いて寝ることしかできなかった。
他に何も考えることができないほど、アーラスは疲れ切っていた。
次の起きたときにはアリスのことを忘れていたアーラスだったが、アリスのことを完全に忘却することはできなかった。
アリスの演説が、演説している時のアリスの様子が、たまに脳裏をよぎってしまうのだ。
もちろん、気になるほどではない。すぐに頭の片隅から追い出し、忘れることはできる。
だが、完全に忘却することはできないのだ。アリスの言葉を思い出す度に、その言葉は徐々に徐々にアーラスの精神を蝕んでいく。じわじわと、気づかれないように侵食しているのだ。
そう、既に種は蒔かれてしまったのだ。
アリスの愛というの名の、抗うことのできない毒の種は。