クリアスカイ
櫛風沐雨の人生だって、得られるものはある。雨風が完全な悪ではない――――
ヒカリは、アズマが視線を外した直後に男を見下し、アズマの手が届くより早く引き金を引く……筈だった。しかしほんの一瞬、サクラがじっと見詰めてきているのに気付いて、引き金を引く指が遅れた。それが、アズマに抱きつかせる決定的な要素となった。
アズマの手がヒカリに触れ、引っ張られる。ほんの僅かに遅れて放たれたシャフトは男の顔を数mm逸れたが、それから先はアズマを頭を抱き寄せられ、見えなかった。
「……え? ちょ、ちょっと、離してよ。ねえ離してって! は、な、し、て!!」
右手で何度もアズマの胸を叩くが、アズマは抱きしめる力を緩めない。それどころかサクラもヒカリの後ろから抱きつき、ヒカリはアズマとサクラに挟まれた。
「シャっサクラ! ねえ何考えてるの、2人とも離れなさい!! だーもう暑苦しい、私今ふざけてるように見えるの!?」
アズマの胸の中でなんとか逃れようともがく。それでも2人に挟まれていては逃げることは不可能で、抵抗する事をやめたヒカリは代わりに抗議した。
「突然なんなの変態! 離してよ、この腕をどけなさいよ! サクラちゃんも、ふざけてないで! 私怒るよ!? ……あーもうっ! ふざけるのも大概にして! こんなことしてる場合じゃ、ないでしょ!
私は、こいつを許すわけには……」
そこでアズマに頭を撫でられ、驚いて声が出なくなる。
「許さなくていいさ、でもお前は手を下すな。わかってる、『私の手はもう汚れてる』だろ? だけどそれでも、負わなくていい汚れを負うな。少なくともそいつには、お前が手を下すほどの価値はない。
それに今回は怒りかもしれないが、そうやってもっとお前の心を見せてくれよ。言っただろ、お前の事を教えてくれって」
「はっ、はぁ!? やめて、やめてよ! わ、私はあなたなんかに、心の内は話さない! どうせ、本心では皆『めんどくさい』って、そう思うようになるんだから! それに、子供扱いしないでっっ! しないでよぉ!」
声を震わせ、ヒカリがアズマの胸を叩く。何かを堪えるように息を漏らしたのは、きっと2人の気のせいじゃない。
「ヒカリちゃん……ううん、ひーちゃん。私言ったじゃん、もっと泣いていいって。限界まで溜めこまないでって。いつ泣いていいのかわかんなくなっちゃうから、もっと頼ってって。私は、ひーちゃんの傍にいるよ?」
「私はっ、ため、溜めこんでなんかない! こいつを許せないっていう気持ちは正真正銘、本心だから! 私のこの気持ちを否定してるのはアズマさんでしょ!」
「違う、否定なんかしてない! 俺たちはお前を守りたいんだ!」
「ほら出た『守りたい』! そういうの死ぬほど嫌い!」
「そのくせお前はサクラを守ろうとするじゃねえか! 俺たちは皆、互いを守りてえんだ! お前だけ特別扱いしてるわけじゃない!」
「特別扱いじゃなくても嫌なの! それが普通だとしても私は誰にも守られたくない! 私はっ、私はっ……」
ヒカリは自分の心を掴めていないかもしれないが、それでも自分の言葉に理屈が通ってないのはわかっている。だが僅かに残った『理性』が体を止めようとしても、壊れた『心』が全ての制止を振り切って口を衝く。
「……違う、駄目、駄目なの。私は皆に守られてるから、これ以上迷惑かけちゃ駄目。だから、誰にも心を見せちゃ駄目なの。私は駄目な子だから、皆に、捨てられたくないから、だから、だから……」
もうヒカリの声は、風で掻き消えてしまいそうな程の大きさになっていた。丸裸のヒカリは拳銃とクロスボウを取り落とし、自分の服を掴む。
「捨てられたくない、置いてかれたくないよぉ……いなくならないで、やだ、やだぁ……」
本人すらも持て余す怒りの根源は、そこにあるのかもしれない。不安定な情緒の中に垣間見えた恐怖。アズマは動物を愛でるようにヒカリの頭を撫でる。その手があまりにも慈しみに溢れ、ヒカリはついに反抗することすらやめた。
「お前はもう誰にも捨てられないさ。俺も、サクラも、それに、お前の『家族』もな」
服を掴む手に反射的に力が入って、アズマの体を強く押す。それによって小さく痛みをこらえる悲鳴を上げた。それでもヒカリは、一度勢いの収まった炎を再びもたげさせて、右手に拳を作る。
「ひぅっ……わた、私に家族はいない……! 何の当てつけ!? 私のこと馬鹿にして楽しい!?」
ヒカリに家族はいない。血の繋がったものはいない。それでもアズマは言葉を訂正しようとしなかった。
「お前には家族がいるだろ。いつもお前の事を気にかけて、お互いの良いところも悪いところも受け入れて、それでずっと一緒にいるやつらがいるんじゃないのか?
正真正銘の家族はいないかもしれない。戸籍上は赤の他人かもしれない。だけどお前が求めてるのは、血の繋がりだけじゃないだろ?」
――あんたの心の中で燻ってることを、私に話してよ。あんたが気に病んでることを、私に教えてよ。
自分で思ってるより、私達はあんたの寂しそうな顔を知ってる。あんたが思ってるより、私達はっ……私たちは、あんたに冷たくないよ。
物心ついた時から常に一緒にいた。互いの好きな部分も、そうでない部分も知っている。肩を預けることも、文字通り命を預けることもできる相手。そして面と向かって言い合いを出来る相手。
「…………いる……」
アズマとサクラの温かさに支えられ、少しずつ、アズマの胸に寄りかかり始める。
「だろ? たとえ血が繋がってなくても、それはもう家族だ。お前が失くして、ずっとずっと求めてる、一番欲しいもんだろ?」
「えっ、な、なんで……?」
――どうして、私が心の奥底で求めてたものが……
「伊達に一回り以上生きてねえよ。人間誰だって家族が必要なんだ、一人暮らしをしたら実家に帰りたくなるのと同じだ」
「……ふざけ、ないでよ……ずっと、ずっと皆に隠してたのに、なんでそんな、あなたが気付いちゃうのさ……」
前と後ろから、優しさがいつまでもヒカリを強く包み込む。もうとっくに限界を超えていたヒカリの心はその優しさに耐えきれず、アズマとサクラの服の裾をぎゅっと引っ張った。
悲しみや、寂しさや、虚しさや、苦しみ。押し殺した痛みや、独り暗闇の中に溶けていった助けを求める声や、ふと振り返って感じる自分自身への憤り。それら全てと、それら以外の全てが、綯交ぜにされ一つの音としてヒカリの口から飛び出していく。いつまでも、いつまでも。複雑に絡まり合ったそれらを、一つの糸に紡ぐまで。
アズマの胸の中で、声を押し殺すこともせずにただただ泣きじゃくる。その背中にサクラは、精巧なガラス細工を愛でるように触れた。
「サクラ、ちゃん……本当に、私のこと、捨てない?」
「……やだなひーちゃん、お父さんを探すのに一番最初に頼ったのは、ひーちゃんなんだよ?
私は皆みたいに強くないし、作戦とかを考えられるわけじゃない。だけどそれでもいいって言ってくれるのなら、私はひーちゃんの友達でいたいよ」
「…………あなたも? アズマさん……」
「おいおい、俺もか? ……もう手遅れさ。あまりにも情を入れすぎた。ああ、いいぞ。もう俺にとっても、とっくにお前は大切だ」
人差し指が優しくヒカリの目元を拭う。それを最後に、頬に涙が伝うことはなくなった。
数分前、廃工場前。
ヒカリ達が廃工場を確認する為に上ったビルの屋上で、サナがしゃがみ込んでいた。同じビルの各階や非常階段では、捜索に加わっていたメンバーが周辺を警戒している。
「やっぱりこれ、ヒカリのデバイスよ。ほら、ここにクマのシールが。……あのトンネルに倒れてた人は、ヒカリが……」
打ち捨てられるように放置されていたデバイスを手に取り、背面左下にクマの小さなシールを指差した。それが、トンネル内で目を閉じて射殺されていた男――エイイチを殺した犯人を示しているようで、サナはしゃがんだまま膝をつく。
「……ヒカリにとっては、クマもまたライナスの毛布なんだろうな」
サクが誰ともなしに呟く。隣に立っていたコウが復唱し、「あのクマ、ライナスって名前だったのか?」と聞いた。その質問にはミズキが答える。
「ライナスの毛布というのは、一つの物に執着していて、それがあるだけで安心したり、落ち着くもの。
例えば生まれた時から使ってる毛布。例えば……たった一つのプレゼント」
「簡単に言えば、すごい愛着のあるものってこと」とシュンが後を引き継いだ。
「いついかなる時でも肌身離さず、引きずり回すような物だね。ヒカリはデバイスにもシールを貼って、コートにもワッペン付けてるでしょ? そういうことだよ」
まあワッペンを付けたのはボクだけど。そうおどけて笑う。
「ヒカリがわざわざ電源を入れてここに放置していったってことは……ここにいるっていうサインか、陽動……いや、陽動はないな。全員、この廃棄区画を徹底的に捜すぞ」
サクが無線機に声を吹き込み、数瞬のタイムラグの後に幼馴染を含めたメンバー全員の無線機に入電する。その読みは正しかったが、そんな大がかりな捜索をするまでもなく、ヒカリの所在地を突き止める手掛かりが文字通り走ってきた。
「――全員注意! 軍人です! 俺達がさっき通ったトンネルから!――」
1階で注意を払っていたメンバーが、トンネルから出てくる十数名の部隊を発見する。
「わかった。……確認、手は出すな」
屋上から、床に這いつくばって6階分下の地面を見る。確かに軍の部隊がトンネルから出てきていて、地面を何か触っている。周辺を油断なく見回しているが、メンバーはうまく隠れているようだ。
「……あ、見て。トンネルからあの工場まで、轍みたいのがあるよ」
シュンがトラックのタイヤ痕に気付き、それをなぞるように指をさす。
「あの工場の前に、何人か倒れてるわね。もしかしたらヒカリ達はあそこにいるんじゃない?」
だが不幸なことに、眼下の部隊も目指す所は同じようだった。列の前から3番目、リーダーらしき人物が立ち上がると、縦一列になって廃工場に向かう。その一糸乱れぬ姿だけで、練度の高い部隊なのだろうということが想像できた。
「いや、今までの部隊が異常に甘かっただけか……」
「やばい、急がねえと! あいつ等を倒すか?それとも、あの二階から工場に行くか?」
コウが示した先は工場の側面だった。正面には一般人――ヒカリの倒した警備員――が倒れているキャットウォークが見えるが、側面にははしごが伸びている。あそこからなら中の様子を窺うことが出来そうだ。
「……そうだな、先にあの工場の様子を見よう。ヒカリが無事なのか、そもそもあそこにヒカリがいるのか、それが最優先だ」
軍の部隊が正面のシャッターに爆薬を仕掛けている間、ビルを挟んで一本隣の通りを歩いたサク達は、5人のメンバーを正反対に迂回させ、他は身を潜めるように命令した。
一歩一歩、音の鳴らないようはしごを上る。サナはサクとコウの後ろ、3番目に手を掛けると、段に優しく足を置いて頭上のコウの2段下を追いかける。
「――リーダー、この工場、正面以外に扉がありません――」
「了解、ありがとう。それじゃあさっき言った位置についてくれ」
工場を正面から見て左手側にあるキャットウォークに上った5人の幼馴染は、反対――工場正面から見て右手側のキャットウォークにメンバーが上がってきたのを確認してから、割れた窓ガラスの破片を踏まないように工場内部を覗きこんだ。
「……ねえ、あれって」
サナが、工場中央で男の胸倉に足を置き、クロスボウを向けているヒカリを発見する。俯いているせいで表情を確かめることは出来ないが、その姿はとても普段の彼女から想像できるものではない。
「なんで、ヒカリがあんなこと……あの男、一体何をしたの?」
「……べろよ、これどがぜよ! ……誘拐ざれだんだな!?……だがら、ぼら!」
男の悲痛な叫びが、工場外にいるサナ達の耳まで届く。
「ヒカリ、何か喋ってる……? でもこっからだと聞こえないや」
シュンの言葉にミズキは頷いたが、その視線はヒカリよりも、その周辺に向いていた。足元に武器が転がる民間人に、恐る恐る近づくサクラ。そしていつか見た覚えのある男。
「声かけたいけど、そしたら外の軍人に聞こえるし……」
ヒカリ達をなんとか脱出させようと思案するサナは、こめかみを人差指で押す。
「―今、トンネルから救急車が3台来ました。サイレンは消してます―」
救急車?と鸚鵡のように言葉を繰り返すが、その理由を知っている人間はここにいない。
「……なんで救急車?」
だがその答えは、ヒカリの足下を凝視すればわかった。男の体からゆっくりと広がる血だまりに、ヒカリの左腕からも絶えず血が滴る。
「……いったい、何があったの?」
突如、天を衝く銃弾が工場の天井に火花を散らせ、レジスタンスは一斉に銃に手をかけた。
「――銃を抜け。引き金に指は掛けるな――」
サクが無線機に囁き、自らもM92Fをホルスターから抜く。サナは一丁のM93Rを、ハンドガンを天井目掛けて放った男の頭に合わせたが、脳裏に浮かんだ記憶に照準を外した。
「……ねえ、ミズキ……あの男もしかして、ヒカリがパルチザンの偵察に行った時の護衛じゃない?」
「…………」
サガラの護衛で突如姿を消した男の顔を思い出す。あの時とはバンダナが変わっていたが、背格好や目元はあの時の男のものと同じだった。ミズキも思い出したはずだが、黙って口を閉じたまま自分のパソコンを取り出した。サナは様子を窺いたくなるが、眼下の状況から目線を逸らすことも出来ない。
その男は今、ハンドガンをホルスターに戻すとゆっくりと後ろからヒカリに近付いていった。それに振り向いたヒカリの顔を見て、男の足が止まる。
しばらく無言の――実際には男が何か喋っている――時間がたつ。その表情が優しく語りかけるものだったからサナは安心したが、ミズキとサクは、銃を向けたまま固唾を飲んで見守っていた。
そして、事態は二転する。
「……二度と戦えなくなる! これは私自身の問題! 私の一番欲しいものを、一番ぞんざいに扱う奴は、絶対に許しちゃいけない!! そうでしょ!?
……守らなくちゃいけないのっ!! ……もう二度と手に入れることの出来ない……切望しても手に入れられないものを笑って人から奪ってる!! こいつだけは、こいつだけは何しても……許したくないっ!!
……一体どうしろって言うのよ!!!」
ハンドガンを抜いたヒカリの悲鳴が、サナの耳に突き刺さる。耳から体に侵入し、心を縛りつけようと幾重にも巻き付いた。
「もう二度と手に入れることの出来ないものを……」
「……人から奪ってる。どういう意味だ……?」
サクとコウは少しだけ考えてから頭を振ると、シュン達に水を向けた。だが2人も顔を見合わせると、眉間に皺を寄せて考え込みだしてしまう。
「…………可能性があるのは、一つ。家族、よ」
だから、サナからその言葉が聞こえた時に4人はハッとし、同時に何とも言えない気持ちになった。
間違い無いか? とコウがサナの肩に手を置く。その手に右手を重ねて頷くと、ヒカリの足下でクロスボウのシャフトから逃れようとしてる男に照準を移した。
「何度夢に見ても、何度切望しても、手に入らないもの。それにヒカリが軍人でもなんでもない奴に対して、あそこまで敵意をむき出しにしてるのは、初めて見た。ヒカリの弱い心を掻き乱すような大事なもので、きっとあの子自身も気付いてない、或いは隠そうとしてる、心の底から欲しがってるもの……それはきっと、家族」
「……そうか、ヒカリが……わかった」
サクが、自分を恥じるように口を開く。
「それでも、あの男は殺すな。ヒカリの口ぶりからすると、もしかしたらあいつがサクラの父親を誘拐した犯人か、そのリーダーなんだろう」
その上で、サナの銃に手を置いた。
「だったら尚更……!」
「だからこそだし、そうだとしてもだ……!
犯人の一員だからこそ生かして罪を償わせるべきだし、例え殺すとしても、それをやっていいのは被害者か……サクラに躊躇わずに手を差し出したヒカリくらいだ。俺達が手を出すべきじゃない」
俺も賛成だという風に、コウがサナの名を呼ぶ。
「……わかったわよ」
そこで、工場の正面シャッターが爆破される。吹き飛んだシャッターの穴から銃を構えた部隊が次々に侵入し、工場の至る所に倒れていた人達をうつ伏せになるように叫んでいるのが聞こえる。
「やべえな、突入が思ったより早い」
コウが、内部に流れ込んで横一列になる部隊を見て呟く。
「全員構えろ。合図をしたら軍人を撃て」
「――了解――」
サナが銃のグリップを握り込み、汗ばむ。引き金を引き絞り……
「待て、撃つな! 俺は即応隊第2機動部隊所属のアズマ准尉だ!」
「っ、全員止まれ、銃を下ろせ!」
サクが慌てて指示を出す。
噛みそうな長い肩書を、すらすらと読み上げるように諳んじる男は、バンダナを取って左手を部隊の方へ向けた。同時に部隊は銃を下ろし、隊員が笑い混じりに男の名前を呼ぶ。
「知ってるよ、アズマ」
「は? ……いや、はっ?おいおい、あいつ軍人なのか……?」
状況を呑みこめず頭を抱えるコウ。お陰でサナ達は却って冷静になれ、引き金から指を外す。そこでミズキが、指を滑らす小型のノートパソコンを、皆に見えるよう回転させた。
「……あった。これ、『クローバー作戦』の時の新聞。この写真の男と、顔も名前も一致している。以前から引っかかるものがあったけど、名前と部隊名を聞いて思い出した」
今までのレジスタンス関連の記事をスクラップして保存したうちの一つ、1月15日の新聞記事を拡大する。その画像はアズマ、ニシ、ヒロの三人を英雄として紹介した記事だった。
「……え、どういうことなの、ねえ、ヒカリ……ねえあんた、なんでそんなやつと繋がってるの? だって、そいつは軍人じゃない。
一体、いつからよ……最初から、ずっと? ねえ、どういうことなの、説明してよ……」
サナが静かに銃を手放し、服の上からロケットを握る。
「……私、ずっとあんたの事をわかってるつもりだった。だけどいつの間にか、あんたは変わっちゃってたんだ。軍人ってだけで毛嫌いしてたあんたが、今ではそいつに抱き寄せられて、その胸の中で泣いて。それは良い変化なの? あんたの心を少しでも癒してくれるの?
……私には、あなたのことがわからないよ、ヒカリ……」
それからサナは自分の頬を両手で叩くと、おもむろにはしごを降り始めた。
「おっ、おいサナ、どこいくんだ?」
慌ててコウが呼び止める。
「私はじっと考える性質じゃないってことに気付いたの。だったら私の行くべき場所は一つでしょ?」
はしごから片手を離し、飛び降りる。
ヒカリを抱きしめたアズマは、飛び込んでくる救急隊員に探偵たちの応急処置と搬送を任せて、じっと服の裾を引っ張るヒカリの頭を撫でる。どうやら怒りの次は、哀しみも落ち着いたようだ。
「……ごめんなさい、嫌なことばっかり言って。本当は、アズマさんが優しいってことくらいわかってた。でも、どうやって付き合っていけばいいかわからなくて、それにああやって言い合いしてるのがなんだか心地良くて、すぐに調子に乗って嫌なこと言っちゃって。
でもね、でも、私は最低な奴だけど、でも皆を嫌な気にさせたいわけじゃないの……」
震える頭を撫で続ける。ヒカリにはそのまま心の内を解放し続けて欲しかったのと、アズマ自身もヒカリと同じ思いだったのとで、返事はしなかった。
「サクラちゃんも、本当にごめんなさい。私がもっともっと早く気付いてたら、お父さんも助けられたかもしれないのに。
それに、自分のお父さんも心配だったのに、エイイチおじちゃんの事で私なんかに気を遣わせて。ほんっとうに、本当にごめんなさい。もう嫌われたくないの、ゆるして……」
自分の無力さを悔やむように歯軋りが聞こえる。そんなヒカリを更に強く抱きしめたサクラが「大丈夫、大丈夫」と囁く。
「エイイチおじちゃんも……私のせいで、私のせいで死んだんだ……私が最初に名乗ってれば、おじちゃんが騙されることもなかったのに。
『こんな私で失望されたくない』とか、『レジスタンスの戦いに巻き込みたくない』とか要らないこと考えて、結局、自分でおじちゃんを殺して……」
「……慰めじゃないが、俺だって同じことをするさ。相手が純粋に自分の事を考えてくれるほど、自分の両手を見つめなおさせられて、その度抱きしめようとする体が止まる。自分のせいで相手を汚したくないってな」
だけど、とヒカリの顔を上げて、アズマはしっかりとその目を見つめる。瞼は腫れて頬には涙の跡が続いているが、その瞳は綺麗に澄んでいた。
「だけど、それでも前を向け。これから先の人生、何度か立ち止まったときに過去を振り返って、その時自分の行いを悔やむのも正当化するのもいい。だけどそんなのは時々でいいんだ。後ろを向きながら先の見えない暗闇に進むなんて、馬鹿じゃねえか。
大丈夫だ、あの人は最期、何て言った? 『お前の人生はお前だけのものだ。お前ならきっと大丈夫、ずっと見守ってる』そう言ってなかったか? あの人はお前を恨んでない。今もきっと、お前の事を見てるよ」
「……ほんと……?」
頷くと、サクラと一緒にヒカリから離れる。急に支えのなくなったヒカリはそれでも、左手を押さえながら自分の両足でしっかりと立つ。
「いい加減自分でもうんざりしてるんだろ? いつまでも過去の柵に足を取られて、見たくもない幻影に心を惑わされて。失敗は確かにお前を育ててくれるかもしれねえが、お前の手を掴んで離さない失敗だってある。それ全部に構う必要はないんだ。いい加減今までの自分を全部脱ぎ捨てて、前を向くときが来たって、そう思ってるんじゃないか?
今だよヒカリ、今がその時なんだ。お前はいつだって過去と立ち向かって来た。だったら次は、過去を『過去のもの』としてけりをつける時だ」
――なあ、そうだろ? そうだって言ってくれよ。
普段のヒカリなら怪しく思うだろう。その熱の入れようや、あまりにも詳しくヒカリの心を理解していることを。だが今はそこまで気を回せるほど余裕を持ってはいない。アズマの言葉を飲み込むのに精いっぱいだった。
「……過去を、過去のものに……?」
「ああ、そうだ!」
――……ザーザー、ノイズの走るような音がしてた。初めに両親が消えた。次に伯父を殺した。3人の友達は助けられなかった。初恋の人は目の前から消えた。ザーザー、ノイズが私の視界を妨げ続けた。私が何か大事なことをやろうとするたび、そのノイズが私の目を、耳を、手も足も、心さえも縛り付けた。
――だけど少しずつ、そのノイズが引いてく。視界が晴れてく。それで初めてこの騒音が、私の視界を塗りつぶすちらつきが、ラジオのようなノイズじゃないことを知った。そうだ、私を埋め尽くすこれは……
コツ、コツという足音とシャッターを踏む音が聞こえ、アズマ達や部隊が振り向く。その先にはどこか悲しそうな顔をしたサナが、ひとつのブレもなくヒカリを見据えていた。
「サ、サナ……!!」
来るのはわかっていた。だがこのタイミングだとは思わなかった。だから狼狽えてしまった。
「……ヒカリ」
足のホルスターを見て、部隊がサナに一斉に銃を向ける。だがそれを気にする素振りすら見せず、サナはゆっくりと、廃工場の中央へ歩みを進めた。
「サナ、これはその、違うの! アズマさんは軍人だけど、そうじゃなくて、あの、サクラちゃんのお父さんを探すのに協力してくれたの、だから……」
「そう。あのあんたが、軍人を庇い立てするの」
いつも溌剌と心を表情に乗せるサナが、今はずっと無表情だ。だからヒカリは、サナがほんの少し指を動かしただけで、無意識に体をアズマの前に割り込ませた。
「……本当に庇うのね」
「おいお前、足を止めろ! 答えろ、何者だ?」
銃を向ける軍人の一人が口を開く。指は引き金から外れてはいたが、いつ撃たれてもおかしくない。それでもサナは一度視線をやっただけで、立ち止まるとアズマとサクラ、そしてヒカリの三人を順番に見つめた。
「ヒカリ、訊かせて。あんたはそいつを、信頼してるの?」
ただ淡々と口を開く。その様子は周囲を敵に囲まれたこの状況でも、それにしか興味がないようだった。
「しん、らい……?」
「そう。信用じゃない、信頼。あんたはその軍人を、私たちと肩を並べるみたいに、信頼してるの?」
ヒカリがちらりとアズマを見る。その目は僅かに迷ったが、すぐに口を真一文字に結び、ゆっくりと頷いた。
「……この人は、軍人。この人に銃を向けたことは何回もあるし、それ以上に意見が合わなくて言い合ったこともある。だけどこの人の頭にあるのは、自分の保身じゃない。詳しいことは何もわかんないよ、時々つくため息がどういう意味なのかも、何を思って私を助けてくれたのかも。
だけどこの人は、私が傷付いた時に、傍にいてくれた。サナも知ってるでしょ、私のめんどくささ。それでも慰めてくれた。上辺だけじゃない、心の底から、私に寄り添ってくれようとしてた。それが私には、サナと同じくらい温かかった。
100%じゃないよ。だけど私は、この人が軍人だとしても、信頼したい」
言ってから、ヒカリは頷く。自分で言った言葉を自分で聞くように。
「……わかった。あんたは本当に、私の知ってる、びくびく震えるだけのヒカリじゃなくなったってことね。一歩を踏み出したっていうの」
右足の踵を浮かせて、腰に手を当てる。
「だったらそれは、あんたにとって良い変化なのよね。それなら私は、それを受け入れなきゃ。受け入れなきゃいけない」
再び歩き出す。表情は変わらないが、その足取りはさっきまでより何倍も軽く、優しくなっている。アズマ達を囲む部隊をすり抜け、ヒカリの元に近寄ると、両腕を広げて立ち止まった。ヒカリはその胸に飛び込んだ。相変わらずサナの体温は高く、心地良い暖かさに包まれたヒカリの顔は和らいだ。
「あんたの選択を責める気はないの。……だけどごめんね、我慢できない」
サナは胸の中にいるヒカリにそう言うと、ヒカリの両頬を思いっ切り引っ張った。
「ひぇっ、ひゃあっ!?ひょっとシャナ、痛い、いひゃいっ!!」
「それと、あんたが黙って抜け出したことは関係ないのよ! 黙っていなくなるなって何遍言った! 何回言った!?」
何度もサナの腕にタップしても、頬を掴む手を離してはくれない。だからヒカリは無理に外そうとするのではなく、その大元に手を打つことにした。即ち、同じことをした。
「んー!! やめなさいよ、バーカ!」
「だったらひょの手を離してよ!」
「うるしゃい、あんたが悪いんだからね!」
工場の外にいたレジスタンスを含めた全員が、突然始まった騒ぎに目を丸くした。互いに手を離すと、息せき切って相手を見つめる。
「はぁっ、はぁっ……ねえヒカリ……あんたって年上趣味なの?」
「はあっ!? そんなわけないでしょ何言ってんのさ突然!?」
「そんな慌てて否定するなんて、やっぱ」
「いい加減にして、私だって怒るんだからね!!」
「じゃあ、もう一つ。……降り続けた雨は止んだ?」
無表情、険しい表情、そして今、ようやく浮かべた笑顔。とても嬉しそうな、それでいてどこか寂しそうな。それはヒカリの知らない表情だった。ヒカリに見せたことのない顔。「私のことばっか心配しないで」とふてくされるから彼女の前ではしない、ヒカリの事を思う笑顔。
初めて見せる表情に少しだけ驚いたが、すぐにそれが優しさで溢れていることに気付き、安心してサナにもたれかかった。そのままサナの顔を見上げてにっこりと笑う。
普段だったら、イタいことを言いだしたと幼馴染たちに笑われる。何ならヒカリ本人が率先して、笑って誤魔化そうとする。だが今日は違う。何故なら、笑って誤魔化す必要はないのだから。
――ザーザー聞こえた音は、今はもうしない。私の視界を遮るものもない。私の心に走るノイズは、今は晴れ渡ってる。だって……
「……うん!」
――……ううん、内緒。サナにだって教えてあげないんだから。
―――それでも雨夜の月の美しさは、雨が止み雲が晴れなければ目に見えない。