ロストワン
「そろそろ停車します、そこの森で良いですか?」
大型バンを運転するメンバーは、助手席に座るサクに確認を取る。2人の前には小川に架かる小さな橋と、その両脇には森が佇んでいた。
「はい、そこの森の右手に、道路から見えない所に」
運転手に指示を出してから、振り返って数名のメンバーを見る。各々、中央に置かれた細長い箱から武器を取り出して装備を整えて、緊張をそれぞれのやり方でほぐしていた。
「もう一度確認する。俺達第一部隊はここを通る予定の補給部隊をアンブッシュし、その物資を奪う。まずシュンがいくつか爆薬を道の中央に隠蔽し、護衛車両が通るタイミングでこれを爆破。離れた場所にスパイクを設置し、万が一の場合に備えておけ。
いいか、目的は輸送トラックだが、初めに狙うのはハンヴィーだ。車載無線を使って救援要請が出される前にこれを叩く」
サクの見回した顔の中に、ミズキやサナ、コウといったいつもの顔はなかった。
「ミズキが率いる第二部隊は現在イーストブロックへ進んでいて、非武装のまま先行してヒカリ達の所在を掴んでもらう。俺達は輸送部隊を叩き、物資を一度隠してから向かう。事前に調べてもらった情報によると、あと48分程度でここを通るそうだ。それまでに装備の最終チェック、爆薬の隠蔽、スパイクの設置、アンブッシュポイントを定めて待つ。
その後、俺たちが無線でブラフを流し、サウスブロックの警備が緩くなるよう誘導したのち、コウの指揮する本隊がヒカリの捜索に合流する」
「2人、僕と一緒に爆薬の設置をお願いします。いつも言ってる通り、信管を刺してスイッチを押さない限り、なにがあっても爆発しませんから」
シュンが普段手伝ってもらっているメンバーを引き連れて、道路の真ん中に小走りする。
「よし、それじゃあ残りは俺についてこい! それと、この中で一番銃撃つのが上手いって自信があるものはいるか?」
「確かお前、訓練のポイント一番高かったよな」
メンバー達がちょっとした寄合をつくり、やがて1人の眼鏡の男性が選出される。それは以前ヒカリとノースブロックから逃避行を演じたミドウだった。
「あれから僕だって練習したんだ。あの子の足下にも及ばないにしても、以前の僕とは桁違いだよ」
「それは期待しときましょう。ミドさんにはマークスマンとして、あそこの小山になってる森から援護してください」
私物のG3を掌と肩で担ぎ、儀仗兵のように挙手の敬礼をして見せる。
「それじゃ、ぱっぱと終わらせてヒカリを迎えにいくぞ!」
洗面台のある小さな部屋で、水が勢いよく流れる音が響き続ける。時折それを遮るように水が何かを打つ甲高い音が入り、その度息継ぎとも溜息ともつかない呼気が吐き出される。顔を滴る雫は、目元から鼻筋を通り洗面台に落ちる。
とっくに、涙は出ていなかった。泣きすぎて目が腫れてるわけでも、頬に涙の通り道が出来てるわけでもない。それでも、誰かに顔を見られたくなかった。
水の出る音に混ざって、閉め切ったドアの向こうで床がしなる音がする。きっとアズマだろう。サクラならすぐにドアを叩くなりしてヒカリの様子を確認するし、男性は長話で乾いた喉の為に居間でテレビを見ている。
それにアズマなら、ヒカリに遠慮してドアの前で躊躇する理由がある。
「ごめんなさいアズマさん、洗面所使う?」
ドア越しに声を掛ける。どんな感情を込めればいいかわからず、思わず平坦な口調になってしまう。
「……気付いてたのか、大丈夫だ」
しかし気配は、ドアの向こうから去らない。ヒカリが水を止めて顔を拭っても、まだそこにいた。
「なにか言いたいことでもあるの?」
「ああ、いや……」と言い淀むアズマの声には、迷いが感じられた。それはヒカリを自嘲させるのに十分で、『私は他人に一生気を遣わせるんだ』と拳を握らせた。
「そりゃあ、迷うよね。2人ともなんとなく気付いてるんでしょ? あの男の人が……エイイチおじさんが捜してるのが私のことだって」
「……やっぱりそうか。電車で言ってた熊ってのは、あの男性からのプレゼントなんだな。それにサクラも気付いてるのか?」
納得のいったような、それでいて驚きの混じった声をあげ、同時にドアに何かが当たる。アズマがもたれかかってるのだろうか。
「そう、あの大きな縫いぐるみは……母親に切り刻まれたあのクマさんは、たったひとつのプレゼント」
そのプレゼントはもう、クマの形をしてないけど。そんな台詞を口から飛び出る前に抑え込む。
「サクラちゃん、電車の中で途中から寝たふりだったの。最初はスースー寝てたのに、私がおじさんについて話す前に、突然静かになった。ハンヴィーで寝たふりしてたアズマさんと同じ。私が独り言を言ってる時のアズマさんとも」
「参ったな……電車で寝たふりしてたの、ばれてたか」
ヒカリもドアにもたれかかり、そのまま滑って座りこむ。ドア越しのアズマの体温は、ヒカリに届かない。
「二人とも全然下手だよ、バレバレ。隠し事はもっと……
……それで、何を言いに来たの?」
暫く、ドアの向こうから返事は無い。
「……ひとつ、謝りたくてな」
時計の針が規則正しく一日を過ごす音がうるさく感じる頃になって、ようやくアズマが口を開いた。
「悪かった。別にあいつらを殺すつもりはなかったんだ。いつまでも俺たちを追ってくるようなら、足なり腕なりを撃って足止めしようと思ったんだ。だけどどうしても、お前に言われると冷静でいられなくなっちまう。お前はまだ子供なのにな」
「……私、18だよ? 今年で19だし、もうお酒だって飲めるんだから」
「そういう子供じゃねえよ。……そうだな、俺とお前の間には、齟齬が多すぎる。食い違いがな。今度話を聞かせてくれよ、俺に教えてくれ、お前の……いや、ヒカリのことを」
その言葉は驚嘆と感動をヒカリにもたらしたが、素直に『うん』と返事をするには、ヒカリの心は少しばかり傷付き過ぎていた。擦れた心は、アズマからの思いがけない優しさに沁みて、痛みを出した。
「それで、私の情報をひとしきり手に入れたら、軍にタレこむ?
……なんて、流石にもう思ってないけどさ。私に同情してくれてるの? ずっと昔、虐められてたから? 家族に毎日虐待されてたから? 父親と母親が、死んでたから?
やっぱりわかってないよアズマさん。私は嬉しいの。まだ私を知ってる人が居て、その人は私の為に怒ってくれる人で、私を愛してくれようとしてて。
それだけでも、私は幸せなんだよ。うん、幸せなの」
再び押し黙る。
「……ごめんね、ごめんなさい。最近上手く感情をコントロールできないの。嬉しいことも、辛いことも多くて、どう受け止めればいいのかわからないくらい複雑なこともあって……少しだけ時間を頂戴、ほんの少しでいいから」
ようやく気配が立ち去って、しかし再び近付いてくる。
「……ひーちゃん」
「サクラちゃん、いたの? ……えへへ、ごめんね、サクラちゃんの想像通り。あの人が言ってる女の子は私のこと。両親には虐待されてたし、自分の叔父は、この手で殺した。幻滅しちゃった?」
ヒカリはいつの間にか体操座りで、小さくなっていた。膝の裏で組んだ腕が、更に自分の足を引き付ける。
「幻滅してたら、わざわざ話をしに来ないよ。……ひーちゃんはさ、涙脆いほう?」
「えっ? ……うーん、友達と口喧嘩するときとか、すぐに泣いちゃう」
「……あのね、私は一度もいじめられたり、虐待されたことはないよ。だから多分、ひーちゃんのことを私は全然わかって無いと思う。
きっと私はすごく恵まれてて、それに軍人さんが悪いことをしてるところも見たことがないから、私にとってはすごく気のいい人たちなの。だけどそれはきっとほんの一部の人だけであって、本当は、ひーちゃんたちが言うように、最低な人ばっかりで。それでも私みたいな人を助けるために、ひーちゃんはこうやって遠くまで来てくれて。
それはすごく嬉しいよ。それにひーちゃんの強さには尊敬してる。でもさ、ひーちゃんはさ、もっと声をあげて泣いていいんじゃないかな」
普段とても明るいサクラからこんな言葉を聞くとは思っておらず、ヒカリは次の言葉が出てこなかった。
「私の友達にも1人、ひーちゃんに似た男の子がいたの。とっても優しくて、男子にも女子にも態度を変えないで、ちょっと言い合いとか先生に怒られるとすぐ涙が出ちゃう人が。泣きたくて泣いてるんじゃないって言いながら、涙を止めようとしてる子が。その子は皆に頼られてて、尊敬されてた。いじめっ子に正々堂々話に行ったときなんか、皆あの子の周りに集まって。
でもその子が大事にしてた花壇が嵐でぐちゃぐちゃになった時も、皆で飼ってたウサギさんが死んだ時も、あの子は泣かなかったんだ。本当に辛い時は涙が出ないらしいけど、でもそういうのともちょっと違うの。
最近になって考えてみると、あの子は、わかんなかったんじゃないかな。『自分が泣いちゃったら、皆に迷惑を掛ける』とか思っちゃって、結局、自分がいつ泣いていいのかわかんなくなっちゃったの。それでかっちゃんはきっと、とっても疲れちゃったんだ」
少しだけ、サクラの声が湿っぽくなった気がした。
「だからさ、ひーちゃんも、きっと疲れちゃうから。ちょっとでも『悲しい』って感じたら、大声で泣いて欲しいの。自分で幸せだって無理矢理思い込んでたら、心はずっと悲しい気持ちを溜めこんじゃうから。そう思い込んでも、悲しいって感じた過去は消えないんだよ」
――ダメだなぁ、やっぱり私は。サクラちゃんにまでこんな話をさせて。最悪だ。
何と言って口を開くか考えていたヒカリは、サクラが後ろで突然慌てるのを背中で感じた。
「もちろん泣き虫になれって意味じゃないからね? ほら、なんていうか、感情は爆発させるものじゃん!? それに、早く元気になってほしいし!」
その言葉を聞いて、ヒカリを意を決して立ち上がった。
ノックをしてからドアノブを傾けて、しゃがんだまま後退したサクラにずいと近付くと、サクラの両頬を押さえて変な顔を作らせて、満面の笑みで口を開いた。涙は流れていなかった。
「サクラちゃん、私のことを心配してくれてありがとね! サクラちゃんと、あとあの英雄さんのお陰で、もう元気!
あとあと、私はこの国を解放するまで、絶対死ぬ気はないから! それは余計な心配だよ!」
その笑顔を見て、サクラは笑って、泣いて、そして笑った。それからお返しと言わんばかりにヒカリの頬も押して、2人で笑い合う。
「アズマさん、ごめんね」
しばらく笑いあった後、ヒカリは壁に寄りかかって腕を組んでいたアズマに謝った。
「ああ、大丈夫だ。もう平気なのか?」
「勿論! 私を見くびってもらっちゃ困るよっ!」
閉じていた目を開けて、ヒカリの顔を見る。その笑顔から、アズマは露骨に目を逸らした。
「……何が平気だ、何が……」
大きく深呼吸し、目を閉じる。早まる心臓を落ち着かせる為に、要らないことを考えない為に。
――ったく、めんどくさい性格しやがって。
「えっ、何?」
何でもないさ。壁から離れて、アズマは家主の姿を探す。
「あの人と話そう。話したいことがあるだろ?」
男性はリビングで、飾られた写真立てを見ていた。その写真には2人の男女が、仲良く連れ立って写っている。
声を掛けるのを躊躇ったアズマとヒカリ、サクラは、近くの壁をノックして自分達の存在を知らせる。
「おお、どうしました? 何か用でも」
「いえ、用ってわけではありません。先程は本当に、俺達を匿っていただいてありがとうございました。長い間お邪魔するわけにもいきませんし、そろそろ戻ろうかと思いまして」
それを聞いた男性は少し寂しそうな顔をして、立ち上がった。
「お礼を申し上げるのは私の方ですよ。昔話を聞いて頂いて、必ずあの子を見つけ出そうという気持ちが高まりました。何もない狭い家でしたが、お役に立てたなら何よりです」
深く頭を下げてから、アズマとサクラはヒカリを見る。自分の手を体の前で握って俯いていたヒカリは、先程まで2人に見せた笑顔を男性にも向けた。
「……きっと、絶対、その子を見つけてくださいね。いつまでも応援してます、今日は本当にありがとうございました、エイイチさん……」
「……おや、私の名前……」
「あっ、ほら、表札に書いてありましたし!」
ぺこりと頭を下げるヒカリを、エイイチと呼ばれた男性は見詰める。自分の正体を明かさない事に決めたヒカリに、2人がかける言葉は無かった。
「あなたは……とても、優しいのですね」
「えっ……?」
頭の上から聞こえてくるその言葉は、まるで予想だにしていなかった。
「あなたの笑顔は、どこか寂しい。きっと、今までとても苦労してきたのでしょう? それでも、匿ってもらっただけの浅い繋がりしかない私を応援してくれる。あなたは本当に心の優しい方だ」
「……そう、ですかね。そうだといいです、そう願います」
男性はサクラの方を向くと、「きっと、あなたのお父さんが見つかりますように、祈っておきます。お父さんもあなたに会いたいと、そう思ってますよ」と声を掛けた。
「ありがとうございます! 絶対私はお父さんを見つけてみせます、絶対!!」
サクラは、男性に固く誓い、どんと来いと胸を強く叩いてみせた。男性のいた棚をちらりと見ていたヒカリがあっと声をあげ、自分の口を押さえる。
「ちょっとそこの棚に置いてある絵を、見せてもらっていいですか?」
ヒカリが指を差す先、先程まで男性が見ていた写真の傍に、全く馴染んでいない絵が一枚あった。その絵は、凛々しい目をした黒毛の少年の肩に、少年と対照的に白い毛並のサルが乗っているものだった。顔周りだけ茶色いサルは愛くるしくデフォルメされていて、その下には流暢な筆記体が書かれている。
「これは……こんな可愛らしい絵を、私はいつ買ったのだろう……おいで、あなたにあげます。持ち主に忘れられた可哀想な絵を、どうぞ貰ってあげて下さい」
その言葉に、ヒカリは頭を下げて感謝を告げる。
「マルコ、エ、アメデオ、ダン……? ダメ、読めないや。っていうか読めても理解できないし」
筆記体の判読を放棄したヒカリはリュックにしまい、再び音量の上がったテレビを一瞥してから再度頭を下げた。
玄関まで見送ってもらい、通りに頭を出す。どうやら凶器を持った民間人はどこかへ行ってしまったようだ。当然、耳にインカムを付けた人間もいない。
「大丈夫だよ、もういない!」
「ありがとうサクラちゃん。もう6時か……」
時計を見て眉を寄せたヒカリは、「どこに泊ろうかな……」と考える。気付けば辺りは大分薄暗くなっていた。
「え、私の家に泊るんじゃないの?」
「でも、突然押し掛けたら多分迷惑だよ」
そう反論してみたものの、サクラの押しはあまりに強く、すぐにヒカリは折れた。
「じゃ、私はソファを貸してもらっても良いかな。布団とかは性に合わないから、アズマさんに譲るよ」
急に呼ばれたアズマは聞いてないぞというように首を振って、「待て待て」と言った。
「突然押しかけておっさんが泊れるわけないだろ。俺は近くのカプセルホテルでも探すさ」
と慌てて口を挟むアズマに、ヒカリとサクラは溜息をついた。
「あの人たちは多分あなたを狙ってた。1人に出来ないでしょ、バカ」
「どっちがバカだ、だから1人になるっつってんだ。俺がこいつの家に泊ったら危ないだろ!」
「じゃあ私が見張ってればいいじゃん! あなたに死なれたら、私だけじゃなくサクラちゃんまで軍に疑われるの。それに私はまだ許したわけじゃないんだから、黙って私の言うこと聞いてればいいの!」
まあまあ……と間にサクラが入り込み、双方を宥める。
「お2人とも、あまり喧嘩しないで、この子が可哀想です」
玄関に立つ男性の声を聞いてようやく態度を軟化させたヒカリは、再び男性に頭を下げて家を出ようとする。
「それでは、あなた達の安全を願って。さようなら」
「……さようなら」
振り返ったヒカリはほんの一瞬――本当に一瞬だけ顔を陰らせ、家を出ていく。