二人の少女のセレナータ
有り体に言えば、二人は疲れていた。今までにないほど感情を露わにし、そしてそれをお互いにぶつけあった。その点で言えば、サナの当初の目的は達成されたといえる。ヒカリは心を曝け出し、それに正面から向き合うことが出来たのだから。
「ごめんね、サナ。不幸自慢序でにもう一つ知ってもらいたいことがあるの。多分、今しか言えないから」
だから、ヒカリの方から持ちかけてくるとは、露ほどにも思っていなかった。
「……私は聞くわ」
もっとも、最初の沈黙は意味のないものだった。そもそもサナが、ヒカリのお願いを断るはずもない。
するとヒカリは、薄闇の中立ち上がって、サナの瞳を真っ直ぐに見詰めた。もうとっくに目は慣れている。ヒカリにサナの瞳が見えるのと同じように、サナにもヒカリの頬が赤く腫れていることが良く分かった。
「……ヒカリ?」
パジャマの裾をぎゅっと握りしめたまま固まるヒカリに、サナは思わず声を掛ける。
「……ありがと、サナ。ごめんね」
それから、ヒカリは突然パジャマをたくしあげ、胸元近くまでを晒した。
「ヒカリ、これは……」
ヒカリの腹部をよく見ると、白い素肌が所々黒くなっていた。サナは一度、風呂場で倒れたヒカリを介抱する時に見ていたが、その時は慌てていたこともあり、ただの打身かなにかだろうと考えていた。
だが、ただの打撲なら一々見せるようなものでもない。他に内出血を起こし、ヒカリの肌に消えない痣を作るとしたら、サナの頭にはたった一つの考えしか浮かばなかった。
「この、黒く見える所って、痣よね? ……だから今まで、一度も一緒に風呂入ってくれなかったの?」
「……うん。これでも、大分薄くなったんだよ」
そのたった一言は、とても湿っぽかった。それがサナに、最悪の想像を加速させる。
「誰。あんたを傷つけたのは誰? 両親? それとも伯父?」
「今言った全員。あの二人からは、痣にならない程度に殴られたり、蹴られたり。……あの男からは……毎晩、毎晩、毎晩……」
「もういいよヒカリ、ありがとう」
「毎晩、毎晩毎晩……!!」
「ヒカリ大丈夫、もうやめて」
「あの男はっ、私を毎晩っ!!」
「もういい、やめてっ!!」
堪らず、サナはヒカリに飛び付く。これ以上口を開かせない為に。これ以上ヒカリに嫌なことを思い出させない為に。
「もういいよヒカリ、ごめんなさい。私、ヒカリに嫌なことを思い出させてる。ごめんなさい、許して……!」
「違うの。私は何度も忘れようとしてる。でも、忘れられないの。ぱっと振り向いたらあの3人が居そうで、私はずっと怖かった。それでもね、今こうして話したことで、少しだけ楽になれたの。今私が一番怖いことは、サナが私を汚い人間だと、嫌うことなの……」
――ヒカリは泣いてる。そんなのは、ヒカリが鼻声になってるとか、そんなことを勘案しなくても分かり切ってる。
「さっきから、さっきから言ってるじゃない。ヒカリが私を嫌うことはあっても、私がヒカリを嫌うことなんて絶対にない!」
――それに、私だって泣いてる。
「……サナ、泣いてるの? ごめんなさい、やっぱり重かったよね……」
「違うの! 今までヒカリがそんなに苦しんでるって分かって無かった。ヒカリがお風呂で倒れた時、介抱する時にちらっと痣は見えてたのに。今も苦しめられ続けてるって思いもしなかったの。ヒカリが両親に置いてかれて、その上伯父を殺して、傷を負ってたことはわかってた。でも、そいつらと一緒に住んでた時のことはまるっきり考えてなかったの」
サナはヒカリの胸の中で、何度も何度も謝った。パジャマやジャージが涙と鼻水で濡れていく。
「そんなに泣かないでサナ。大丈夫、私の身も心も、サナが瀬戸際の所で救ってくれてるから。私にとってサナはヒーローだもん。……ヒロインかな?」
うーん、と唸り、考え込む素振りを見せる。深い思考の海に沈み、それ以外のものが見えなくなるのを願うように。
――だったら、そんな寂しそうな声を出さないでよ……
「サナが間に合ってくれたおかげで、私はなんとか純粋な乙女です」
両手を広げ、ひらひらと躍らせる。そうすることで、身も心も軽くなると思い込んでいるように。
――だったら、どうして手が震えてるのよ……
「それ以前にも性的虐待を受けてないって言ったら嘘になるけど、まだ一応は綺麗な体ですよ。っていっても信憑性ゼロか」
えへへ、と乾いた笑い声をあげて、頭をかく。そんな過去などどうでもないと信じ込むように。
「だったら、つらそうな顔して笑わないでよ……」
――なにかこの子にしてあげられることは……
一生懸命、かつてないほどの速度で頭を回転させる。何か、何か、何か。
思えばそれは、いつものサナだった。考えて、考えて、それでも考えはまとまらなくて。結果、自分の行動が頭を追い越す。だから自分の行動が、自分で一瞬わからなくなる。
今もそうだ。気が付けばサナの両手はヒカリの頭に回っている。サナの鼻には、嗅ぎなれたシャンプーの優しい匂いが入り込んでいる。
サナは、ヒカリの額にキスをしていた。
「ひゃっ、どうしたの……?」
「……心が強くなるおまじない。忘れちゃった?」
今サナに出来る最高の笑顔を作って、ヒカリに笑いかける。唖然としていたヒカリも、不意に呼吸を乱して、やがて笑いだした。
「やだなあサナ、忘れるわけないじゃん、だからって突然やられたらびっくりしちゃうじゃん! あーもー……サナのバカ、突然やるから、びっくりして涙が……」
ヒカリがサナを両手で突き放し、振り返って掌底で涙を拭う。
「うぅ……ほんとに、ほんとにバカ。さっきまであんなに怒ってたのに、突然そんなことする人いないでしょ。バカ。バカバカバカ……」
口では悪態をついているが、内心はどうなのだろう。いつまでも止まらない涙を拭い、肩を震わせている。その姿がサナの心を揺らしたのだろう。或いは、何か衝動のようなものが貫いたのかもしれない。それでも先程とただ一つ違う点は、明確なサナ自身の意思で、体が動いたことだ。
サナの両手は再びヒカリの頭を包んでいた。ヒカリの驚きに見開いた目がサナの目を見つめ返していた。目は口ほどに物を言うというが、この感触を伝えることは出来ないに違いない。
苦しさに似た充足感。痛みを消す程の多幸感。愁いを吹き飛ばす安心感。懐かしい匂いと、忘れていた人肌と、知りえなかった柔らかさが、彼女の心を包み込んだ。
暫くして離れたサナは、照れ隠しのような笑いを自然に浮かべて離れた。さっきのヒカリのように背を向け、人差し指で顔を掻いている。
「ヒカリのファーストキスは分からないけど、最後にキスしたのは私だから!」
更に長い間ヒカリは唖然としていて、右手で唇を押さえながら呆気にとられている。いつまで経っても頭が働かず、現状が把握できていないようだ。きっとオーバーフローした頭は、止め処なく溢れる涙にすら気が付いてはいないのだろう。
「さあさあもう寝るわよ、夜更かしは女子の敵、さっさと寝るわよ!」
その場に不動のヒカリを残して、サナは布団の中に潜る。
「ふぇ、え、あ、ちょっとサナ、そこは私の……」
口に入った塩っ気が、ヒカリの頭にほんの少しの知性を取り返した。
「……しょうがないなぁ、女の子と寝る趣味はないけど、添い寝だけならしてあげる」
それを聞いたサナがガバッと跳ね起きて、ヒカリの頭をぐりぐりする。
「私だって無いわよ、さっきのはあんたを励ますための手段だっただけよぉ!!」
ヒカリの全く痛くなさそうな悲鳴が薄闇に木霊し、やがて静かになった。
――……私は、これで良いのかな。ううん、これで良いんだよね。
文字数を見ると普段の半分ほどですが、中身が重たいのでつり合い取れる……カナ?