affetto
サナとヒカリが出てからしばらく後、洋館の主であるサクは炭酸を片手に、2階の会議室に戻った。室内ではコウが一人でうつ伏せのまま、窓の外を眺めていた。青い空は、つい先日までの怒涛の日々を洗い流してしまったかのように眩しかった。
「なんだ、どうした一人で?」
顔だけを巡らせ、コウはサクの姿を認める。
「ああ、リーダー。いやさー、今日明日どうしようか考え中なんだけどさー」
そのまま言葉を途切らせ、続いて唸り声をあげる。きっとやることが考え付かないのだろう。
「ったく、ヒカリじゃないんだから……家にでも帰ったらどうだ?」
「家に帰ってもなんもないんだよなー。ゆっくりするのは性に合わないもんで」
「今も十分ゆっくりしてるだろ。だったら気晴らしに街でも散策してきたらどうだ?」
んー、あー、うーと声を発していたが、やがて何か考えを思いついたのだろう。最後には膝を叩き、勢いよく椅子から立ち上がった。
一人になった部屋で、サクはジュース缶を傾けていた。ただ青空だけが広がる窓を見つめているところを見ると、サクもコウと同じように、何かを考えているのだろう。その表情からは、苦悩だけが見て取れる。
ふと、部屋の扉の外に気配を感じる。待ち人の到来に気付いたサクは軽い音を響かせながら缶を置き、中に入るよう促した。
「それじゃ、早速話しましょうか。オージア陸軍の機密兵器について。あなたの作った、パルチザンについて」
「おじさん! 久しぶり、こないだの焼き芋美味かったよ!」
十数分後にコウは商店街にいた。今日も元気に呼び込みを続ける、八百屋を目的としていたようだ。
「おっコウじゃねえか、こんな昼間っからからどうしたよ?」
「今日明日が暇になったんで、いつも通り手伝おうと思ったんだ」
ちょくちょく八百屋で手伝いをしてるコウは、ぎっくり腰が気になる歳になった店主には助かった。そのお礼としてコウには、収穫した野菜をいくつかお裾分けしている。
「そいつは助かる。これから畑に行って野菜を取って来ようと思っててな」
ブロック内でなく、その郊外に畑を持つ市民は珍しいものではない。貿易が軍に掌握されてからは、彼のように自営業を営む者だけでなく、一般家庭にも野菜を自作しようとする風潮が広まった時期があった。当然、店で買えるような美味しいものを作れる家庭は少なく、その数は減っていったが。だがそれでも、畑を持っている家族はサウスブロック市民の30%に届こうという所だ。
「お安いご用! ……でも今一月だぜ?冬に野菜って出来んの?」
「バカ野郎、キャベツに白菜に小松菜に、エシャロットやカリフラワー、大根だって冬野菜だぞ!
それに、そもそも俺はこれが生業なんだ。店に並べるために、促成や抑制栽培くらいやってら! 温室っていう文明の利器の恩恵は、お前さんだって知らずに受けてるんだからな!」
長い間八百屋をやってきた男にとって、今の発言は聞き捨てならなかったらしい。お前さんは自分の興味ないことを知らなすぎる、もっとシュンやミズキちゃんみたいに広く興味を持て、そもそも自分で料理をしたことはあるのか……八百屋の店主が所有する畑までの30分を、コウは青空を仰いで過ごすことになった。
「……それでどうだ、最近の調子は?」
「子供に調子を聞くようになるとは、いよいよ年なんじゃない?」
「減らず口は相変わらずか」
ビニールハウスがいくつも並ぶ大きな畑の前で、店主の話は説教からコウの近況に移った。
「……まあ、ヒカリ以外は大体悪くはないんじゃん? シュンとミズキは平常運転だし、リーダーはこないだ、また新しいメンバーを連れてきた。サナはいつもどーりヒカリにべったりだし、当のヒカリは、お疲れ気味だ。
そもそもあいつだけ、去年と比べて忙しすぎるんだよ。巻き込まれたのも含めて、あいつ一人だけで二回も軍と逃走劇繰り広げてるし。
ただ、他のメンバーはショックから抜け出して元気になってる。良いことさ」
ビニールハウスに入ると、途端に気候は初夏へと変わる。脱いだ上着を隅に置いたコウはふと、自分のコートにクマのアップリケを付けるヒカリの事を思い浮かべた。当然、その表情はいつもの寂しそうな笑顔だ。
「でも、あの泣きそうな顔になることは少なくなったかな。単に忙殺されてるのかもしんないけど」
作業用の道具が乱雑に置かれた机に、店主がもたれかかる。
「そうか。わざわざ言う必要もないだろうが、ヒカリちゃんの事はよく見てやってくれ。こないだ会った時も、自分のしたことを気にしてた。あの調子だと、本格的に病むやもしれん。
心の病は厄介だぞ。風邪や怪我なんかは目に見えるし対処も易いが、心を患えば、俺たち外野のもんには何も出来ねえ。目を瞑って地雷原を歩くようなもんさ。下手すりゃ自分で自分の地雷を踏むことだってある。目を閉じてようと開けてようと、土に埋まってる地雷は知りようがないからな。
そうなったら終わりだぞ。とめどなく勢いを増しながら、手前が手前の心を穿っていく。そうなっちまったら、自分を含め誰にも暴走する自分を止めることが出来ない。冷静になるのが先か、砕けた心が未来を閉ざすのが先かのチキンレースだ。
……とにかく、一度あの子を精神科なりなんなりに連れていってやれ。あの子の過去を考えたら、それが適切だ」
「……そういえばおじさん、女の子を亡くしたんだったよな」
八百屋の奥に飾ってある家族写真は何度も目にしている。一時期、八百屋が休業していたことも知っている。
「12年前にな。幸い、俺にはブレーキをかけてくれる人がいた。女房は俺の心を抱きしめてくれた。じゃなかったら、俺は土いじりなんぞ出来やしなかったろう。
だからお前らも、決してバラバラになるんじゃねえぞ。互いが互いを支えて生きろ。いいな? 辛い思いをする奴がいたら、無理矢理悲しみの海から引き上げるなんて誰にも出来やしねえんだ。だったら歯の根がちがちに震わせながら、そいつに寄り添ってやれ。あとはそいつが自分で気づくさ」
「何に?」
「この世の真理にさ」
袖とズボンをまくり、軍手をはめた店主は立ち上がった。
「くたくたになるまで働いて、腹いっぱいになるまで食って、寝返り一つ打たずに泥みたいに眠る。これが出来るなら、そいつはきっともう元気さ」
「第1から10班、準備完了しました!」
「了解、全班聞け! これより我々第2機動部隊はフラー回廊へ向け出立する! 長旅になるぞ、気を緩ませるな!」
統率された30人の精鋭が、10台のハンヴィーの傍で小隊長の号令の元弾かれたように乗車した。
「実際、なんで連絡を絶ったと思う?」
「何か疾しいことがあるんだろ」
車列の前から2台目、後部座席に座るアズマは、ニシとヒロの会話を黙したまま聞いていた。
「その疚しいことってのが何かって話だよ。資料によると失踪した隊員は20人ちょいいるらしいし、回廊両脇の山ってかなり木が密集してるだろ。不意打ちに気をつけろよ」
物騒なことを言い出すニシは、助手席で拳銃のスライドを引いていた。車を出してからまだ30分も経っていないが、心配性のニシは確認せずにいられないのだろう。
「不意打ち? 相手は連絡を絶ったとはいえ、仲間だぞ?」
ハンドルを右手で握ったまま、ヒロは肩を竦める。
「相手は疾しいことを隠してるって言ったばかりだろうが。自分の黒いところを隠すためなら、なんだってするさ」
「そんなもんかなぁ……」
「そんなもんだ」
ニシは、それでも気をつけろと念を押す。
「おいアズマ、お前も気をつけろよ。躊躇なく発砲してくるかもしれん」
「……お前は本当に心配性だな。俺はお前が心労で倒れるんじゃないか、心配だよ」
少し居心地の悪いアズマは、両手を頭の後ろで組んだ。
「そういやあの小隊長、随分熱い人なんだな。鬼軍曹ってよりは、熱血漢タイプか」
話題を変えて欠伸をする。なにもバカにしてるわけではないが、陸軍の中では珍しいタイプだったので強く印象に残っていた。
「ああ、まあな。でも俺はああいう人好きだよ。なんでもなあなあに済ます人よりは」
俺個人の意見としてはな、と、付け足しを忘れないニシ。
「今の軍じゃ生きにくそうだけどな。アズマ、お前はあんまり得意じゃないだろ。自分に似てるから」
ルームミラー越しにアズマの様子を窺うヒロの目は、何か言いたげのようにも見えた。そんな空気をアズマも感じ取ったのだろう。「勘弁してくれ」とだけ言うと、座席に浅く座りヒロの追及を逃れた。
「あと3時間ってところだろ? 俺は寝る」
そう言い放つと、目を閉じて座席に身を任せる。舗装路の振動がまるで子守歌のようで、心地よかった。
「ヒカリ、そっちもうちょっと引っ張って」
「わかった、ごめん」
「いや、今謝る場面じゃないでしょ」
サナとヒカリは二人で協力して、今日寝るための布団をベランダに干していた。太陽はとっくに頭上で燦燦と輝いており、一足早く春の陽気を運んできたようにさえ感じる。
「いやー、懐かしいね。っていうか、ちっちゃいね。この子と最初に出会ったのは、今から7年前くらいになるのかな」
キャラクタのプリントされた布団をばんばん叩きながら、ずり落ちていかないように大きなクリップを二つ取り付ける。この天気なら、数時間もすればまた使えるだろう。
「そっか、あんたは二年前に一人暮らししてからっ、この家に帰ってくるのはっ、初めてだったわね……私はちょくちょく顔出してる、けどっ!」
サナはシーツを物干し竿に掛けようとしている。が、背の低い彼女には些か難儀そうだ。
サナに代わってシーツを干し、ヒカリはふっと一息つく。
「そっか、もう二年も経つんだ」
――この暖かい天気は、今この時だけ。明日や明後日になればまた寒い冬になる。
――それでも、冬はもうすぐ終わる。こんな暖かくて幸せな気分は、きっとまたやってくる。だからそれまでは、うん、がんばろ。
「それにしても、サナと両親……じゃなくて、お父さんとお母さん、やっぱり仲いいよね。……羨ましいや」
最後の言葉は風に運ばれ、サナの耳には届かない。
「ああ、まあね。でもあんなの普通よ普通」
そんなヒカリの気も知らず、サナは自分のパジャマを振りさばいている。そこに何らの他意はなかった。
「そうなの? ごめん、私、家族の思い出みたいなの無くて……」
そう言って、サナから自分が見えないようにシーツの陰にしゃがみ込む。
――こんな表情を見せたら、またサナに心配かけちゃう。でも私だって別に、こんな気持ちになりたくて……
「……ごめん。でもだったら、これからでも思い出を沢山つくりましょうよ。だって私たちは家族よ? 私たちは……家族も、友達も、仲間も。私たちみんな、あんたの幸せを願ってる。もう少しくらいわがまま言ってもいいじゃん、人に迷惑かけない人間が、一体全体どこにいるってのよ」
そう言ってサナは、シーツに隠れたヒカリを見つけ出して手を差し伸べる。
「……珍しいね、サナが静かに諭すなんて。雨降らせたりしたら、やだからね?」
「あんたはこうでもしないと、人の言う事聞かないじゃない」
ん! と、ヒカリの目の前に手を突き出す。きっとこの手を掴めという事なのだろう。それがぶっきらぼうで、でも思いやりに満ち溢れていて、ヒカリは堪えきれずに笑いだした。
「なに笑ってんのよ」
「サナに笑いかけてんの」
サナの手を強く掴み、ヒカリは再び、立ち上がる。
「……ごめんね、いつも迷惑ばっかり、心配ばっかりかけちゃって。ダメなお姉ちゃんだね」
「え?」
「えっ?」
サナがヒカリの手を握ろうとしたところで、二人とも素っ頓狂な声を上げる。
「何言ってんのヒカリ、私の方が4カ月年上でしょ?」
「でもサナ、私よりちっちゃいし……」
「どっ、どこ見て言ってんのよこの口は! ねえ! ……ねえ!!」
少しだけ視線を下げたヒカリの頬をつねり、そのままこめかみをぐりぐりと拳で痛めつける。
「いたたた、ごめん、ごめんって! ごーめーんーなーさーいー!」
「反省の色が見えないわね!?」
「私は客観的事実を口にしただけで、反省することは何も痛い痛いごめんって!!」
ヒカリも手を伸ばし、サナの頬をつぶしたり、伸ばしたりして反撃に出る。
「ぐぬぬぬ……」
そこへ追加の洗濯物を籠に入れて持ってきた母親が、二人の額にデコピンを放った。
「二人とも、遊んでるんだったらご飯抜きだよ!」
「ぐはぁっ」
二人して額をさすり謝る姿は、姉妹というよりはむしろ、双子のようだった。
――くそっ、くそっ、なんであそこが爆撃に遭うんだっ! あそこは戦闘区域から遠いんだぞ、皆あの町に避難してんだ! それを、くそっ、あいつら……!!
――馬鹿野郎、お前が行って何になる!? 俺たちゃただの輜重部隊、前線への補給品を届ける大事な任務を遂行中だ! 二正面作戦は取れない、だから“十字部隊”はあの村に急行したんだ。わざわざお前が死にに行く必要はねえだろ!? 命令違反を目論んで、何がオージア軍人だ!
――俺は……俺はっ、正しくあるために軍に入ったんじゃないっ!! あの町で俺の帰りを待ってる、あいつのために……あいつを守るために、戦うために軍人になったんだ!!
「…………うるせえ」
「あ?」
自分の発した言葉で目を覚ましたアズマは、車の速度が大分下がってることに気付いた。
「なんだ、もう着くのか? 俺は60キロくらいの振動が一番好きなんだが」
「お前の好みなんぞ知るか。もう着くぞ、ほら、しゃっきりしろ」
眠気覚ましに窓を開け、ついでに周囲を観察する。
「ここら辺はまだまだ雪が積もってんな。寒い」
目に飛び込む白の絨毯を恨めしそうに見つめ、大げさに両手に息を吐く。真っ白い吐息は瞬く間に車の外へ靉靆と消えていく。
と、ふと頬を風がなでる。その中に僅かに感じた春の芽吹きを、アズマは欠伸と共に飲み込んだ。
「まあなんだ。頑張りますか」
アフェット 優しく、優雅に 愛情、思慕