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――だから、私は…………


 撃たれると思っている人間にとって、銃声ほど聞きたくないものはない。ひどく乱暴に耳朶を叩く音は、自らの体を引き裂かんとする死神の足音なのだから。



 だがそれが二つともなれば話は別だ。2人の死神に命を与えることは出来ない。



 サクを護るため拳銃の前へ飛び出したヒカリは、目を瞑ってその瞬間を待つ。だが異なる二つの銃声を聞き、ゆっくりと目を開けた。



 一つは、拳銃による軽い炸裂音。銃弾はあらぬ方向へ飛翔し、遠くのビルの壁面に着弾した。



 一つは、炸裂音と言うよりも破裂音といった方が正しい、拳銃のそれよりもよく響く音。銃弾は拳銃を構えた男の頭へ打ち下ろされ、勢いを殺しながら公園の地面を跳ねた。



「え……なに……?」


 ヒカリの目の前で男は頭を破裂させ、倒れかかってくる。


「なんだ? 誰だ撃ったのは……」


 振り返ったサクは、割れた石榴(ざくろ)を付けた体が、両手を開いて立ちはだかるヒカリに倒れているところだった。



 男を射殺した人間を探すが、仲間が撃ったとは思っていなかった。正面から撃ったら男は衝撃で後ろに倒れるので、ヒカリにもたれかかる筈がない。


「一体どこにいる?!」



 はっはっ、と呼吸を荒くしながらも、ヒカリには大凡の見当がついていた。男の倒れる向き、弾着と銃声の時間差、地面に残る弾痕。そして何よりヒカリのスナイパーとしての勘は、一つのビルの屋上を示していた。


 ヒカリは頭に付着した石榴を乱暴に振り払いつつ、弾かれたように走り出した。まるでその場から逃げ出すように。



「おいヒカリ、どこへ行く!」


その声も置いていくように、先程までいたビルへ。





「ミズキ、さっきのゴンドラは屋上まで上がる!?」


「――ええ、行ける筈。狙撃手はそこに?――」


 ミズキもどこかで公園の出来事を見ていたのだろう。その声は困惑していたが、それでも聞きたいことは答えてくれた。



「多分! っ、皆をビルの入り口に、固めといて!」


 通信を終えゴンドラに飛び乗ると、デフォルメされたネズミが添えられた操作説明の紙を一顧だにせず『上昇』のボタンを押した。



 すると、上昇を始めたゴンドラの中へ何かが飛び込んできた。大きく揺さぶられたゴンドラに掴まり、その物体を見る。


「はぁっはぁっ、ちょっとヒカリ、追いかけてんのに私の事置いてくのは酷くない?」


「サナ! 全く気付いてなかった……」


 息を整えたサナがワイヤーを掴み、ヒカリと対角線を描くようにゴンドラの縁に腰掛ける。それから足を組んだかと思いきや、突然鋭い叱責がヒカリを驚かせた。




「あんたさ、そうやって一人で突っ走るから駄目なんだ! ってあれほど言ったわよね!!」


 ワイヤーを抱え込むように腕組みするサナは苛立たしげに人差指をヒカリにさす。怒っているというより、イライラしてると言った方が正しそうなサナに、ヒカリは大人しく謝った。




「……で、スナイパーはこのビルにいるの?」



「多分。あの人と地面の着弾点を結んだら、このビルの屋上が直線上にあるから」


 二人とも会話をしつつも、視線はビルの中から離さない。







「それにしても、なんでわざわざ窓拭き用のゴンドラから行くの? あそこにあるエレベーターで昇った方が速いのに」


 ビルの中央に見える4つのエレベーターを指差したサナは、ゴンドラの縁をトントンと叩いて、頭上のクレーンに吊られた巻上機を大口を開けて見る。確かにエレベーターなら、1分もすれば屋上に着くだろう。


 だがヒカリには、そうしない理由があった。



「エレベーターだと入れ違いになる可能性が高いじゃん? それに多分、暫くしないと乗れないよ。私だったら全部のエレベーターを上に呼んでおくから。そうしないと自分が追い詰められるもん」


「なるほど……確かに。でも、いくらなんでもこのゴンドラ遅くない?」




 そう言ってサナが溜息をついた瞬間、ゴンドラが大きく揺れて停止した。






「ミズキ、ゴンドラが急停止した! 原因分かる?」



 揺れたせいで落ちかけたサナをゴンドラ内に引っ張ってから、ヒカリはデバイスを取ってミズキに無線を送る。


「――現在クレーンの操作権はヒカリの乗ってるケージが持ってる筈。だとしたら、その動作はクレーンの操作によるものでは…………! 今すぐ降りて!――」



「降りろって言ったって……」



 反論しようとしたが、サナがじっと上を見ている事に気づく。ヒカリがサナと同じように上を仰ぎ見た瞬間、2つの銃声が鳴り響いた。先程男を撃ち抜いた銃声とは違う。拳銃用の強装弾だろうか。



 ゴンドラを吊っている四隅のワイヤーの内、片側の2本のワイヤーがうねりを打って切れた。ヒカリが立っている側のワイヤーが切られ、足先数センチの所を鞭のように打つ。当たればひとたまりもなかっただろう。


 そのままゴンドラは、まるで振り子運動をするように大きく揺れた。中の2人をかき回すように暴れる。



「ヒ、ヒカリ!」




 無事なワイヤーの傍に立っていたサナは必死にワイヤーにしがみ付き、ゴンドラの中で転がっているヒカリを見下ろす。


「だ、だいじょう、ぶ……頭打っちゃった」


 左足をゴンドラの外に放りだした態勢で止まったヒカリは、サナを見上げて親指を立てて見せた。その足の下で、手書きのネズミがひらりと舞い落ちていった。



「――二人とも無事!? 状況を教えて!――」


「こちらサナ、二人とも無事よミズキ。4本中2本のワイヤーが切れてゴンドラは宙ぶらりん。地面に対して垂直な状態で止まってる。まじでヒカリが落ちなかったのが奇跡。……それに、なんか変にゴンドラが振動してる気がする」



 サナの言うとおり、ゴンドラが断続的に揺れを起こしていた。パンクしたまま自転車を漕ぐような振動が、2人の不安を掻き立てる。



「――よく聞いて。恐らく狙撃手は、ケージの上昇を停止させるためにウインチ部分に何らかの細工をした。それだけじゃなく妨害の為ワイヤーをカットした。

 今変に揺れるってことは、その細工が外れかかってる可能性が高い。細工が吹き飛んだら、反動でワイヤーは勢いよく巻き取られる。通常の半分の2本で支えてる現状だと、武装した2人を乗せたゴンドラがその衝撃に耐えられるかどうかはわからない――」



 耐えきれないようにサナが叫ぶ。



「つまりどういうことよ!?」



「――だから、今すぐビルの中に入って!――」






 それを聞くと、サナは左手でホルスターからM93Rを取り出し、3点バーストのまま窓に向けて横薙ぎに撃ち込んだ。割れた窓ガラスが遥か下へ、光を反射させながら落ちていく。そこへサナが飛び込んだ反動で、ワイヤーが悲鳴を上げた。


「さあヒカリ、早く!」


 ヒカリは左足をゴンドラの中へ戻してから、不安定な足場で立ちあがって勢いも付けずに跳んだ。



 その衝撃か、制限時間か。ヒカリが飛んだすぐ後にゴンドラは一瞬上に登り、そして眼下へ自由落下を始めた。





 ヒカリはサナの右手と窓枠を掴んでいて、窓枠を引っ張るようにして一気に自分の体を持ち上げ、サナに飛び込む形で転がりこんだ。



「死ぬかと思った……死ぬかと思った!」


「わかったわかった、わかったから私から降りて!」


 サナがヒカリを引っ張り上げようとしたと同時にヒカリが力を加えたため、サナは驚く間もなくヒカリを抱きしめて床に転がっていた。


「えへへ、ごめんごめん……」





「――二人とも、大丈夫よね?――」


 デバイスから、不安げなミズキの声が聞こえる。



「こちらヒカリ、無事です!」


「こちらサナ、私も……ぶじ」


 サナはデバイスを取り出す気力もないのか、ヒカリの横から声だけをあげて生存確認を取る。



「――……一人明らかに駄目そうなのがいるけど。とにかく生きてるならよかった。サクは一階エントランスに仲間を集結させて、数人を階段で上げたそうよ――」



「了解! ……サナ、ほんとに大丈夫?」


 デバイスを腰に戻してから、倒れたままのサナを屈むように様子を見る。



「MSRのケースが頭に当たっただけよ。大丈夫大丈夫、これから階段だと思うと物凄い元気が出てきたから……」


 そう言って深い溜息を吐きだした。ヒカリも苦笑しつつ、ケースからMSRを取り出して、肩に背負いなおす。






 ヒカリはM&P9を、サナは二挺のM93Rを構え、互いにクリアリングをしながら8階分の階段を上がる。最後にたどりついた扉の前で息を整えてから、ノブを少しだけ回し、反撃と罠が無いことを確認。少しだけ開けてから、ヒカリが蹴破る。勢いを利用して片膝立ちになり、その後ろには二挺の銃を八の字に傾けたサナが立っている。



 しかし、そこには人の姿はなかった。あったのは、バイポッドが装着されたスナイパーライフル―― PSG1と、その傍に立てられた1本の薬莢。そしてPSG1のストックをペーパーウェイト代わりに使って置かれた紙だけ。



「『これくらいじゃまだ死なないでしょ』……なにこれ?」



 サナが紙を拾い上げて中身を読んでいる間、ヒカリは放置された狙撃銃を調べていた。


 ――確か政府軍は、こんな銃は使ってなかった筈。



 前にシュンが「コストを度外視して作られた狙撃銃だよ。精度は良いんだけど、その分いいお値段がするらしいよ」と言っていた。ボルトを引っ張って内部を確認すると、中には一発の銃弾も入っていない。



 ――男の人を撃ったあの一発しか弾が込められてなかった? 


 余程狙撃に自信があったのか。






「ヒカリ、見てよこの紙! 誰だか知らないけど、私達の事おちょくりおってからに……!」


 手渡された紙には、確かに『これくらいじゃまだ死なないでしょ』と書かれていた。裏にも何も書かれていない。


 そうやって()めつ(すが)めつ紙を見ていると、ヒカリ自身が指で何かを隠していることに気がついた。



 そこには、可愛くデフォルメされたネズミが、ネズミ捕りに仕掛けられたチーズを狙う絵が描かれていた。




 ――このネズミを、私は知ってる。






「ねえサナ。ゴンドラの中にあった説明書って、誰が書いたの?」


「説明書? 何それ?」




「……ううん、なんでもない」



 そう言って、この絵を描いた狙撃手を探すも、当然屋上にはサナとヒカリの二人しかいなかった。手すりに近づいて、身を乗り出して下の道路を見ても、怪しい人影は見当たらない。




「ん、この痕……」


 しかし、ヒカリが掴んだ部分の丁度真ん中、手すりに何かが擦れたような痕が細く残されていた。


「こちらサナ、そっちは誰か見た?」


「――こちらサク、誰も降りてきていない。応援に行った者も、まだ誰とも遭遇してないぞ?――」



 階下のサクの連絡を聞き、溜息を吐く。




「こちらヒカリ。多分、屋上からロープで直接脱出してます。雪に残された足跡も、逃げた人のと見分けがつきませんし……逃げられました」


「――……了解、とにかく降りて来い。俺はこれから強盗団と話をするから、三人程合流して他のメンバーは戻ってくれ――」


 わかりました、と返事をしてからもう一度視線を手すりの外へ向ける。その先には、ヒカリの目の前で射殺された男の死体があった。

















「……ザ・ミラージュ、任務報告。結果は強盗団一名の排除。……はい、我々の関与については気が付いていないものの、第三者によって助けられたことは意識している様子。それと、オージア軍の介入は別働隊によって予定通り阻止。

 ……そうです、ゴンドラの件は私の独断です。しかし、その程度の困難を乗り越えられないようでは、遅かれ早かれ我々の計画に支障をきたすことでしょう。


 彼等の指揮官はそこそこの作戦立案能力を持っていますが、その部下は人を傷つけることや傷つけられることに抵抗を感じているようです。双銃使いは機動力や咄嗟の判断、トリッキーな二挺のマシンピストルの制御は優れているものの、狙撃手を常に気に掛けているようで行動の節々に心理の不安定さが表れています。


 その狙撃手ですが……狙撃の正確さや連射速度は軍人以上のポテンシャルを有し、選抜狙撃手とも互角以上に張り合えるでしょう。更に状況を俯瞰的、及び大局的に判断することもできる様子。ただ、ボルトアクションは彼女には合わない。精度は最高位であるものの、やはり連射は心許ない。狙撃手、選抜射手を兼ねなければならないなら精度を犠牲にしても連射速度をとるべきかと。

 まあ、今のところ彼女が全力を投じているとも思えないし、MSRの方が彼女に安心感を与えるなら、それが最良の選択肢かもしれませんが。


 そして最大の弱点として……彼女は、心が弱い」




 そこで、風にたなびく髪を押さえる。




「彼女、意志はありますが、他のレジスタンスよりも輪をかけて大本の心が弱いようです。自己評価も相当低く、自分より他人の意見を優先する嫌いが見えます。詳しくはデータベースを参照すればわかりますが、恐らく彼女は幼い頃の心的外傷に囚われ、未だに抜け出せていません。加えて狙撃手という特性上、戦闘行為による精神疲労は大きなものであり、今後彼女が克服しない限り、戦い続けるのは厳しいでしょう。


 ミラージュより、以上で第二回戦力評価を終了。


 ああ、それと、あの銃は予定通り廃棄しておきました。彼らが接収するでしょうが、恐らく狙撃手は使用しないでしょう」

















「皆、作戦から帰ってきたばかりで申し訳ないんだけど、大事な話があるんだ」



 サクと強盗団を置いて戻ってきたヒカリ達を迎えたのは、深刻そうな顔をしたシュンだった。


「シュンごめん、先にヒカリにシャワー浴びせてあげてもいい?」


 サナが口を開いて、ヒカリを指差す。流石に固形物は取り払ったものの、ヒカリは目の前で射殺された男の血をもろに被っていて、17歳の女子にはとても耐えられない様子だった。シュンもその様子を見て、渋々といった形で頷いた。


「それじゃ、シャワーを終えたら作戦室に来て」


 ありがとう、と力無く言って、ふらふらとヒカリはシャワー室へ足を進めた。






 シャワーに頭から当たって、ヒカリは溜息をついた。シャワーの当たらない背中が寒いが、まずは顔に付いた血を落とさなくては。



 自分の顔をごしごしと擦り、鏡を見る。手で擦った程度では少し時間の経った血液を落とすことは出来ず、まだまだ顔にこびりついていた。



 そこでヒカリは、突然身を震わせる。足元を流れていく赤い水や、擦っても取れない血。そしてシャワーが壁を打つ音が、ヒカリの思い出したくない記憶を鮮烈にフラッシュバックさせた。




 足元に倒れる男。手から音を立てて離れるナイフ。全身にこびりついた返り血。足元を流れる血溜。


 ――サナ……




「ヒカリー、着替えとタオル持ってきたわよ」


 擦りガラスの向こうからサナの声が聞こえる。それが最後の要素だった。



「ちょっとヒカリー、聞いてる?」


 段々とサナの声が遠ざかっていき、ついにヒカリの耳に入らなくなっていった。目の前の鏡に映った自分が、溶けて滲んでいく。












「おら、さっさと起きろ!」



 男の野太い声で意識がはっきりした私は、ここがついさっきまでいた筈のシャワー室じゃないことに気がついた。


「ごめん、なさい……ごめんなさい」



 ……この家は、この部屋は。




「ちっ、うるせえなぁ! わざわざお前なんかの面倒見てやってるんだ、俺の恩に報いようとは思わねえのか?」


「あ、ありがとうございます、ありがとう……」



 小柄でずっしりとした体形の男は私の目の前で、布団から這い出てくる小さな女の子の胸倉を掴んで壁に押し付ける。歯はヤニで黄色く、目は戦争を経験したせいかぎらついている。そんな目で舐めまわされるように睨みつけてから、小さな女の子を突き飛ばして煙草の煙を燻らせる。


 私は、この男だけは見たくなかった。どうして? 決して思い出さないようにしていたのに。




「ったくよ、なんで俺があいつの子供を引き取んなきゃなんねえんだ。大した金もおいてかねぇで……まあいいか、どうせ全部俺んとこに来んだ。

 おめえもちっとは感謝しろよ、こんな良い人間他にはいねえぞ? お前みたいな捨子で、どんくさくて、置いてかれて当然の奴を住まわせてやってるんだから。学校なんかに通わせてやってんだ、暇があれば、俺に恩を返せ」


 男はリビングで煙草を吸いながら、台所で朝食の用意をしてる小さな私に怒鳴りつけてる。



 でも感謝しろよって言われても、私には何を感謝すればいいのかわからなかった。2人に捨てられてから一年間、家に置いていてくれたこと? 毎日欠かさずやらされたことで、家事が得意になったこと? それとも、この一年間のせいで夜に眠るのが怖くなったこと? 十字架を見る度に、あんたの顔を思い出す事?



 だけど男は、私のそんな気持ちも知らずに小さな私に「早く作れ」とせっついてる。





 こいつは……この男は、私の母方の伯父だ。私を捨てたあの人の、兄。軍に所属する軍人で、確か少尉。8年前、クマのぬいぐるみが引き裂かれた次の日から私を引き取った男。いつも右腕の十字架の刺青を触ってる兵士で、夜な夜な私に触れてくる……クズ。こんな言葉使いたくないけど、でもその言葉が一番しっくりする。



「さっさとお前のやるべきことをやれよ。今度こそ捨ててやってもいいんだぞ?!」


 小さな私は、まだ両親に捨てられたショックから立ち直れないままこの男に無理矢理引き取られた。そして、何か気に入らないことがあれば蹴られ、叩かれた。こいつは私をいいように使って、服や食事は碌に与えてもらえなかった。そのくせ事あるごとに「俺は良い人間だ、お前を拾ってやったんだから」なんて言ってくる。




「あ? なんだその目は。なんだよ」


 小さな私は伯父と目があってしまい、首を掴まれて再び壁に押し付けられた。煙草の煙が、小さな私の鼻に入る。


「なあ、どうしてそんな反抗的な目を俺に向けられるんだ? 答えろよ! なぁ!!」


 そうやって、何度も何度も壁に打ち付ける。でも痛くは無い。痛いと感じたのは、最初の一か月だけだった。




「っち、まあいい、俺が帰ってくる前に全部終わらせておけよ? それと、この家から逃げ出そうとしてみろよ、ただじゃおかねえからな。俺にわからねえと思うな? 神様は、全部お見通しだからな」


 そう言って煙草を小さな私に吐き捨てて、あいつは乱暴に玄関を開けて出ていった。煙草の火の粉が私の体を通り抜け、小さな私の腕に降り注ぐ。それを見つめてから静かに火の粉を払うと、小さな私は泣きもせず静かに片付けを始めた。



 今考えても、この頃の私が何を考えて何を感じていたかを思い出すことは出来ない。ただ、黙々と家の中を動き回る小さな私の目は、どこを見ているのかわからなかった。




 ……ああ、やっぱり嘘だ、今思い出した。「神様が見ててくれるなら、私をたすけてください。あいつをけしてください。お母さんとお父さんを、かえしてください」だ。



 これが自分の過去だってわかってても、この二人の行きつく未来を知っていても、私は目を閉じた。









 豪雨が窓を叩く音にはっとして、私は再び目を開けた。眠ってたわけじゃない。眠れるわけがない。



 窓の外はいつの間にか真っ暗で、私が捨てられたあの晩のように雨が降っている。その窓に、青白いテレビの光が反射していた。



「――次のニュースです。軍人が民間人を襲い、後に殺害した先月の事件について、裁判所は異例の速度で判決を下しました。当時被告人は泥酔をしていて、正常な判断を下す事が出来なかったとしたうえで、判決内容は執行猶予1年の懲役3年となりました。死亡した女性の夫は再審を請求したものの、裁判所はこれを却下。被告人は清々しい顔でインタビューを受け……――」


 そこでテレビの画面が切り替わって、私の伯父が傘を差しながらインタビューを受けている様子が流れた。



「……そっ、か……もっと、みんなと、あそびたかったな……」


 伯父が自慢げに家で言ってたことを聞いて、捕まっちゃえばいいのに。死刑になればいいのに。そう思ってた事は覚えてる。だけどテレビを見て、窓と同じように青白く照らされた小さな私が、無意識のうちにそんな言葉を吐いた。そっか、私が覚悟を決めた時、こんなことを言ってたんだ。





「……てめえ、何見てんだ」


 リモコンを握りしめた小さな私が振り返ると、その視線の先にはスーツの裾を少し濡らして帰った伯父が玄関から睨みつけていた。地獄の底から聞こえる様な声が、私の心を縛りつける。



「お前は今何を見ていたのか聞いているんだ!! 答えろよ!!」



 靴を脱ぐこともせずに土足でリビングに入り込み、そのまま小さな私を床に押し付けながら反対の手で髪の毛を引っ張る。頭皮が焼けちゃうような痛みが、すぐに少しだけ和らいで、涙が流れる。



「なんなんだよその目はよぉ!! 頭にくる奴だなぁ!!」


 小さな私の目と鼻の先で唾を撒き散らしながら伯父が叫ぶ。





 その時私は、懐に伯父のナイフを忍ばせていたのを思い出した。いつか必ず、あいつを殺す、と恨みを込めて。



 だけど、そのナイフはいとも簡単に見つかって、それが却って伯父を逆上させる決め手となったことも覚えている。




「おい、なんだこれは? ええ? これで俺を殺そうと考えてたのか?」


 切り札が見つかった小さな私は暴れまわって、伯父の持つナイフから必死に逃げ回った。頭の中には、さっきテレビで聞いた事件の被害者が道路に横たわってる。私は一度も被害者の人を見たことは無かったけど、その強いイメージだけが鮮明に頭に浮かんだ。



「さっきから黙ってないで何とか言えよおい!! あいつのナイフで俺を殺そうとしたんだろ!? そうなんだろっ!!?」



 鞘からナイフを抜き、片手で青白い光を刀身に煌めかせる伯父は、以前とはどこか違かった。きっと、この時が初めてだったんだと思う。私が初めて、腹の底から冷える様な殺意を感じた日。



 小さな私は目を閉じて男の腹を蹴りあげる。その時はじめて、小さな私は自分の力で玄関を飛び出した。






「おらぁ、待てよこの餓鬼が!! ぶち殺してやるよっ!!」


 小さな私も伯父も、傘をちらりとも見ずに降りしきる雨の中を走った。騒ぎに気が付いた街の人がこっちを見るけれど、追いかける男がナイフを持っているのに気付いて顔を傘で隠す。他の人が助けてくれないって気付いた小さな私は、手足がちぎれてもいいってくらい全力で走った。



 だけど当然、小さい頃の私より軍人のあいつの方が速いに決まっている。後ろから伸ばされる手に捕まって思いっきり道路に転んだ私は、なおも逃げようとして何度も男の体を蹴る。頬の擦り傷を痛がる余裕もなかった。




「……やめだ、気が変わった」


 あいつは唐突にそう言ってナイフを後ろへ放ってから、急に小さな私の服を剥ごうとする。その手つきを知ってる小さな私は、喉を絞りあげて悲鳴を挙げた。



「この間の女も、お前と同じように死に物狂いで抵抗してたよ。顔が涙や鼻水、それにケーキや雨でぐちゃぐちゃになりながらな」


 そう言いながら小さな私の服を強引に脱がせようとしてきて、それを傍で見ていた私は目を瞑る。だけど、目を瞑っても心の中に直接流れ込んでくることは、もうわかってた。わかってても、それでも私は見たくなかった。気持ち悪い笑みも、伯父の服がめくれたせいで見えた、腹に刻まれた十字架も。



「やっぱ折角汚すんなら、見知らぬ女より、見知った餓鬼の方がいいかもな!」


 暴れまわる私は平手打ちされて、髪を掴まれて顔を男の方へ向けられる。もう、痛いと思うのも疲れた。確かそんな事を考えてた。



「なんだ、もう諦めたのか? つまんねえ餓鬼だな。悪いな、まだ俺好みの体にしきってねえから痛えかも知れねえ。だけど心配すんな、お前はすぐには殺さねえ。死にたい、殺してほしい、殺して下さい。そうおねだり出来る様になったら、縊り殺してやる」



 あいつは嫌悪感を彷彿させる下卑た笑い声を上げながら、自分のベルトをはずそうとして……



「……あ? ああ、ああぁ、ああああぁあ!!」



 そうして突然、耳を(つんざ)く叫び声に変わるんだ。







 私が諦めたように目を開くと、道路に押し倒された小さな私とあいつ、それに切っ先に血の付いたナイフを持った、小さなサナが震えているのが見えた。


 私が伯父に引き取られてから一年近くサナと会うことは無かったから、小さな私も驚いていた。それと同時に、そんな友達が私を助けてくれたって感動も。サナちゃんが、こいつを刺してくれたって感動。



 私は、サナの人生を変えてしまった時に、感動をしたんだ。




「サ、サナちゃん……!」


「ヒカリ、ちゃん……」


 小さなサナは震える手からナイフを取り落とし、直前まで差していたお花の傘が足元に転がってくる。



「ちがう、ちがうの。あ、あたし、あたしヒカリちゃんが、男の人に殺されると、思って、それで、それであ、たしは、助けたくて……」


 サナの目が激しく動き回り、血に塗れた両手で頭を抱える。



 なんでだろう。確かにそう思ったのは覚えてる。こんなやつ、殺した方がいいのに。私を助けてくれたのに。どうしてそんなに落ち着かないんだろうって。


 それは今でも変わらない。流石に、なんでだろうなんて思ってはいないけど……それでも、殺した方がいいクズは、確かにいると思ってる。




 でも私がどう思ってようと、サナは私の目の前で刺したことを今でも後悔し続けてる。私に対していらない負い目を感じ続けてる。


 それは私のせいなんだ。ふとした時にサナが自分を責めるのは、私が原因なんだ。シンジさんが皆から離れたのも、皆が銃を持ったのも、3人が落ちたのも……






 きっと全部、私のせいなんだ。






「……殺す。殺す、餓鬼ども全員殺してやる!!!」


 刺された右肩を押さえていた伯父は、痛みで我を忘れたのかサナを壁に押し付け、左手だけでサナの首を全力で絞めた。


 サナの口が『ヒカリちゃん』と動いたように私には見えたけど、喉から出てきたのは掠れた声だけだった。宙に浮くサナが、足をばたつかせる。



 道路に倒れたままの小さな私の目に、鈍く光る蜂が見えた。今こうして見てみると、伯父が踏みつけたことによってナイフが飛んできたらしい。雨と血でぬるぬるするそのナイフの柄を握りしめて、ふらふらと立ち上がる。


 伯父も小さな私に気がついて、サナの首を絞めることをやめて右回りに振り向いた。



 "私"は迷わず目の前の腹にナイフを突き立てた。白いシャツを裂く感触が、鍛え上げられた肉を貫く感触が、吐きそうなほど鮮明に感じる。


 男が悲鳴を上げなくなるまで、何度も何度も刺した。そのナイフはとても鋭く、ナイフの根元に刻印された蜂は赤に塗れた。





「ヒカリ、ちゃん……」


 震える小さなサナの声を聞いて、私は伯父から離れる。伯父は前のめりの姿勢のまま私の方へ倒れてきて、そのまま地面に突っ伏した。




 ……足元に倒れる男が、私を逃がさないと言おうとしてるように、手を伸ばしたまま絶命してる。大丈夫、私は逃げられない。


 ……血でぬらつくナイフが、私の手から音を立てて離れる。蜂が、私を見続けてた。


 ……全身にこびりついた返り血が、私の体と心に、一生消えない苦しみを刻む。もうとっくに、体に刻みこまれてる。


 ……足元を流れる血溜が、赤く染まった私の影を映す。雨粒の波紋でも消えない影が、私の足から伸びてる。





 それを見た私は、それから一歩も歩けなかった。














「……カリ、ヒカリ! ねえ……を開けて!」



 サナの悲痛な声と、頭痛によって目を覚ましたヒカリは、周囲の光景が現在の物に戻っていることに安堵した。夢とは違う、追体験した過去は鮮明に脳裏に焼き付けられた。


 ――いつも、忘れかけた頃に思い出す。私は、逃げられない。



 虚ろになりかけた視界いっぱいに、サナの泣き顔が広がった。


「よかった、よかったよヒカリ! ヒカリが目を開けなかったら……」


 大粒の涙がサナの頬を伝い、膝枕されているヒカリの顔の上に落ちた。


 ――また私は、サナを傷付けた。サナの事を縛り付けて……私は……私も同じだよ、あいつと同じ。だからこんな奴のために、泣かないでよ。



 いつの間にかヒカリはシャワー室から運び出され、その手前の更衣室でタオルを巻かれていた。シャワーが壁を叩く音が、開かれたままのシャワー室から流れ込む。



 そこで強烈な吐き気に襲われたヒカリは、口を押さえてトイレへと向かった。




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