オペレーション:フォースエスコート ~籠城戦~
「……あなたの名前は、ノア」
幾星霜を経た巨大な氷が溶けだすように、ヒカリの言葉を契機として、コンピュータが目覚め始める。
「――『システム起動中……声紋認証不一致、あなたを第二権限者として設定します。カメラ起動…………第一権限者を発見。額に銃創あり、致命傷と判定。……死亡を断定します』――」
AI――ノアは、目覚めてすぐに教授の遺体を見つけたようだった。その死を悼む感情は一つとして伝わっては来ない。ただ、僅かに処理に時間を要したのみ。
「――『二名の不審者の侵入を確認、軽武装あり、攻撃します』」
「ス、ストップ! 攻撃中止! 二人は仲間、友軍! わかる?」
「――『攻撃中止、友軍と判断します。周辺の脅威を診断中。……主権限を第二権限者に移譲完了しました。現在有効な命令により、情報の収集による判断力の向上のため、第二権限者ご自身の情報と現在の状況についてご説明願います』――」
はじめはただの機械音のようだった音声が、いつの間にか、流暢な肉声に近い自然な音声になっていた。ヒカリと同年代に近い少女を元にした、若い女の声。手元の家族写真に映る、幼い女の子の姿が脳裏に浮かぶ。
機械に対する自己紹介という初めての出来事に困惑しながら、ヒカリは教授を助けに来たこと。間に合わなかったが、彼の唯一の作品であるAIを回収したいことを簡単に伝えた。その間にAIは敷地内の脅威診断を終え、またヒカリも窓から周囲の状況に目を光らせていたが、この家を包囲している部隊に動きはなかった。
「『――情報の整理完了、敷地周辺に布陣するオージア政府軍部隊員を敵と認定、警戒態勢を更新。感知センサと非常用武装を起動――』」
思春期の女の子から感情だけを除いたような声を合図に、家中から小さな機械の駆動音と同時に猟銃が現れる。これで部隊が突入してくるときには、時間稼ぎは出来るだろう。
「リーダー、今の内に、どうやったらノアを研究局に運び出せるか聞いてみてください。つまり……記憶? が記録されてるデバイスとか、必要な端末とか」
「――わかった。表の様子はどうだ?――」
再びカーテンの隅を捲り、右目で外を確認する。
「今のところ……接近してくる様子はないです、遠巻きに様子を窺ったままですね」
そう報告した直後、遠くに見えるスーパーに視線が引き寄せられる。一階建てのよくあるようなスーパーマーケットだが、壁面に付いた電飾看板の明かりが全て落ちているのに気付いた瞬間、ヒカリは本能に従い、咄嗟に左に転がった。スーパーの屋上から放たれた一発の銃弾が、民家の間をすり抜けて、カーテンとその後ろの壁掛け時計に穴を開けた。
「10時方向狙撃手、約200m先スーパー屋上!」
顎に滴る熱い液体に気付くと、服に垂れないよう右の頬を伝う血をタオルで拭い、MSRを持って部屋を出る。このまま仲良く膠着状態は許してもらえなさそうだった。
「えーと、えーっと、まずリーダー、地下室の入り口に依頼主との通信機を置いておくので、目標物の回収について話し合っておいてください。エッジ、自分の体が外から見えないように細心の注意を払って。気を付けるくらいじゃだめだよ、気を付けすぎるくらいがいいから」
――敵は教授の家が襲撃されて殺されてるって情報を基に部隊を編成してる。この籠城戦も想定してるなら、狙撃手は最低でも二人……三人もあるかな? 一人の位置は割れた、他の配置は……
廊下を進みながらこの家周辺の地図を思い出すと、空を飛ぶ鳥のように地図を見下ろす。
「……んー、正面玄関を12時として、一人は10時方向から今、牽制半分無力化半分の弾を撃ってきた。もしかしたら、残り一人ないし二人は4時、8時方向くらいに囲むようにして布陣してるかも知れない。少なくとも表も裏も見張られてるはず、窓ガラスから自分と自分の影が見えないよう注意して。
で次に、車で待機してるリサーチャー、今家からどのくらいの距離にいます?」
「――家の裏手に繋がる道路の入り口が見える位置にいます。庭の立派な家を4軒挟んで、直線距離で100m前後程でしょうか――」
「100か……裏手を見張る狙撃手がいると仮定したら、恐らく車も既に捕捉されてます。かといって今から移動するのも不審なので……こう、奥さんに家を追い出されて車で過ごしてる的な、不貞腐れた雰囲気でいてください。通信も、傍から見て気付かれないように」
「――は、はあ……とりあえず、シート倒してだらけた様子をしておきます。イヤホンで通信は聞いておりますので――」
地下で状況を把握できないサクの代わりに指示を出してから、テイジと繋がる無線機を置きに階段へ向かう。カーテンの閉まった窓を走り抜けると、一拍遅れて後ろの空間を弾丸が引き裂く。窓の向きからして、やはり家の裏手も見張られているようだった。
「……ああ、明かりか!」
明かりに照らされて生み出された自分の影に気付くと、階段を三段飛ばしで飛び降りて、ヒカリは頭上のシーリングライトをM&P9で撃ち砕いた。ガラスの破片が彼女の背後に舞い落ちる。視界が暗闇に覆われ、少しして、カーテンの隙間から飛び込む月明かりと遠くの街灯からの明かりだけが、家の中を微かに照らした。
「今撃たれたのお前か!? 頬大丈夫か?」
飛び降りてきたヒカリに、コウは驚きながら全身に視線を向けて、赤いタオルと頬からの一筋の出血に気付いた。
「大丈夫、ただのかすり傷。それよりエッジ、部屋の点いてる明かりを撃ち抜いておいて、カーテン越しの影で狙撃される! あっでもスイッチは触っちゃ駄目だよ。万が一この家の構造がばれてるなら、電気消した瞬間狙われるかもしれないから」
頷くと、コウは隣の部屋にP90を向けて明かりを消す。ヒカリが通り過ぎて保管庫に入った後で、もう一発銃声が響いた。
「リーダー。すいません遅れました」
保管庫に入ると、丁度サクが梯子から昇ってくるところだった。上がり切るのを待って、局長直通の無線機を渡す。
「怪我大丈夫か? 出血してるぞ」
サクが手を伸ばし、首にかけたタオルで垂れはじめた血を拭う。今は感じていないが、もう十数分すれば痛みに呻く未来がやってくるだろう。ヒカリはそのことを少し憂鬱に思いつつ、地下への暗い穴から伸びる梯子に目を向けた。
「大丈夫です、最初の狙撃で掠っただけですから。それより彼女の……ノアの回収を急ぎたいです。何か目途とか立ちました?」
「ああ、どうやら教授は事前に、アストロン研究局にデータ移動用のバックドアを用意していたらしい。今その作業中のようだが、自己診断だと30分はかかるそうだ」
「30分……」
ついつい難しい顔をしてしまう。目安が出来たと思えば少しは気が楽になるが、それでも、四方を敵に囲まれ狙撃手に狙われるプレッシャーの前では、あまりに長い時間だった。軍はそこまで気が長くはないだろう。
「……」
眉に皺を寄せ、少し俯いて考えるヒカリは、目の前のサクが動かずに待っていることに気付き、視線を上げる。この後の行動を考えていたヒカリと同等に難しい顔をして、彼女の事をじっと見つめていた。
「……なんですか?」
まさか微動だにせず見つめられているとは思っておらず、思考の海を抜けて動揺する。
「……疑って悪かった。お前が皆を裏切る訳はないとわかっていたが、それでも可能性は潰したかったんだ。だが、お前の姿を見てて、やっぱり思い直したんだ。たとえ他所の組織に情報を流す裏切者がいたとして、それはお前じゃないってことをな」
「……なんですか突然。まさか、ここに軍を呼んだのも私だって思ってます?」
疑いの目を向けられたことに対しては、仕方ないことだとは思っている。だがそれでも、サクラにメンバーの監視をさせたり、疑われた事実を笑って受け入れることは出来なかった。素知らぬ顔をして話を振ってきたサクに苛立っていたのも事実だ。
苛立ちを思い出したのか、それともただ蓋で隠していただけなのか。サクへの態度が再び刺々しいものに変わる。だがサクは、あくまで柔らかく首を横に振る。
「違う、本心さ。お前は決して、レジスタンスに害を為そうとする人間じゃない。そうだろ?」
「良いんですか? そんなこと私に直接言って」
――私の事、裏切者だって思ってたくせに。――
「どうせ言っても言わなくても、お前は感じ取るだろ? あのピースブリッジ作戦で、レジスタンスで一番怪しかったのはヒカリ、お前だ。だけどどうしてもお前が俺達を、それに即応隊を裏切ったとは思えないんだ」
「……甘いですよ」
「自分でもそう思うよ。後でゆっくり話させてくれ、この件が片付いたらな。……フラグじゃないぞ」
慌てて付け加えた言葉に、ヒカリは鼻から息を漏らして笑いを零す。
「私、フラグとか神様とか信じないんで、好きなだけ乱立させといてください。全部へし折ってやりますから」
それは珍しい強気な言葉だった。だがそれに疑問を持つ前に、銃声が四方から鳴り響き、二人は同時にしゃがみ込んだ。
「エッジどうしたの、状況は!?」
「――あいつら、家中の窓撃ち抜き始めたみてえだ! それにこの家のセントリーが何発か撃ち返して、牽制してる。気を付けろ、ガラスが散乱してるし、何より風が入ってきてカーテンが時々捲れる。それに寒い――」
ヒカリとサクは互いに頷きあうと、それぞれのやるべきことをやるために踵を返した。
「……ふぅ、こうも昇り降りすると、流石に疲れるな」
白い息を吐き、サクは梯子を掴んで冷たくなった両手をポケットに突っ込む。だが最初に三人がこの地下に降り立った時よりも、多少は空気が暖かくなっているようだった。
床下から響く機械の唸り声が、部屋中に反響している。部屋の中央で横たわる教授の亡骸を整えると、目を閉じてふわふわと液晶の中を漂うノアがその姿に気付き、目を開けた。周囲を漂う煌めくエフェクトは、見ようによっては海底を漂うクリオネのようにも見えた。
「その動作は何ですか?」
声はおそらくヒカリやサナと同年代。加工した人間の熱意が伝わってくるほど自然な発音にも関わらず、声音は冷酷なほど平坦だった。液晶に写る姿はきっと、製作者の娘の姿をしているのだろう。無垢な――というより無表情のまま、ノアは創造主の遺体を見下ろしていた。
「……これは、手掛かりを探すときに体を乱したから、それを整えているんだ。遺体は丁重に扱うべきだからな」
「何故ですか?」
あまりにも率直で純粋な疑問。サクは思わず手を止めると、目の前で浮かぶノアを見上げた。
「……人は生きていてこそだ。死んでしまえば何もできない。だから人は皆、生きてる間に何かを為そうとする。それが自分の為か、他人の為か、或いは未来の為か。つまり、亡くなった人っていうのは、何かを為したか、或いはそのために努力をした人間なんだ。だから、まだ道半ばでしかない俺たちは、そういった人を無下に扱うことは許されない。少なくとも俺はそう考えている。わかるか?」
「……その情報を処理するには、データ転送を一旦停止する必要があります。中断してよろしいですか?」
AIにはまだ難しかったのか、作業を止めて話を飲み込もうとするノアを、サクは小さくため息をついて止めた。
「転送を最優先にしてくれ」
「了解。……自律思考を停止、カメラセンサと防衛機能を残しデータ転送を行います。このモード切替により、推定転送時間を5分短縮予定」
そう言い残して、液晶ディスプレイがダウンロードバーを残して暗転する。データの転送が完了したら再びAIが自己申告してくれるだろう。いつの間にか散発的な銃声が響くようになった地上に若干の気を配りつつ、サクは無線機のスイッチを握りしめた。
「局長、聞こえますか?」
「――再び若き指導者くんの出番か。用件は?――」
「ここから脱出した後の話を、と思いまして」
「――余計なお世話かもしれないが、そんな話をしている余裕があるのか? そちらの小さな狙撃手くんは一生懸命頑張っているようだが――」
辛辣な言葉だが、口調は揶揄というほどきつくはない。
「二人はこのAIを守るために動いてる。だからこそ、今ここで“次”の話をするんですよ。
AIは今、自動でそちらにデータを転送している。教授は万が一の時のために、データを転送するためのバックドアを研究局に用意していた。それを局長、あなたが知らないとは考えにくいのですが、どうでしょうか」
「――どう、とは?――」
特段驚いた様子は窺えない。
「そのままの意味です。あなたは、教授の身に危険が迫ったとき、研究局のサーバーにデータが移動することを予め知っていたのでは?
そして教授からメールが届いたにも関わらず、データが送られてこないことを不審に思い、そこに都合よくやってきた我々を送りこんだ。AIがあることなど露ほども知らないふりをして、教授を助けたいんだと嘯いて。そういうことではないですか?」
「――ふむ……それでは君の思い描いたストーリーだった場合、どうなるのかな?――」
「どうにもなりませんよ、我々が行うことは何も変わりません。これはただの確認ですから」
「――君の推測が正しければ、私は君達を罠にはめ、一人教授の遺品を貪ろうとしているスカベンジャーだ。それなのに君達は粛々とデータの送信を進めているのか?――」
「……あなたの話を信用するならば、亡くなった教授は政府軍を恨んでいた。この家の地下で軍への……この国への恨みを募らせながら作り上げられたAIが、まさか生活を豊かにするためや、まして孤独を紛らわすためのものではないでしょう」
17年間の恨みを吸い続けたAIに何ができるのか、現時点でサクにはわからない。もしかしたら持ち帰ってシュンやミズキに解析してもらえば何かわかるかもしれないが、それには時間が必要だろう。
「……俺にわかるのは、あなたは軍よりも先にAIを回収しようとしていて、そして俺の仲間は、残された“一人娘”を軍に決して渡したくないと思ってることです。
今は、その二つで十分です」
言葉の節々から感じた、ヒカリのAIへの執着。それは、家族への複雑な思いを持つヒカリならではのものなのだろうとサクは推測していた。
「――私が政府軍の手先だとは考えないのか?――」
無線機の向こうで意地の悪い笑みを浮かべていそうな、そんな声音だった。サクも当然その可能性は考えていたし、その上でAIを局長へ渡すことを決めていた。
「そうだとしたら、あいつらはきっと怒るでしょうね」
「――怒る、か。もし私が君たちの想像通りの男ならば、きっと彼女と交わした取引も反故となるのだろうな――」
「取引?」
「――ああ、私と彼女の取引だ。だが安心してくれ、君やレジスタンスに不利益となるものではない。
それに実のところ私も彼女も、目指す目的は同じだ。つまり、私に尊敬の念を抱かせてくれた数少ない友人であり恩人であるアントン氏の一人娘を……彼の唯一の成果物を、薄汚れたけだもの共に渡したくない、その一心だ。君が私の言葉を信じるかどうかは知らないがね――」
どうやら取引の内容を語る気はないらしい。テイジへの、何よりヒカリへの不信感が再び鎌首をもたげるが、サクは咳払いをして疑惑を振り払う。
「……いずれにせよ、我々は全員、無事に貴方へ引き渡すために努力しています。スカベンジャーの名が相応しいけだものは、貴方より他にいるようですから」
そう軍を揶揄したところで、上から聞こえていたはずの散発的な銃声が収まっていることに気付く。
「ラビット、状況は?」
「――リーダー。二階から正面の様子を手鏡越しに窺ってますけど、あまり動きはないですね。ただついさっき、花を一輪持ったスーツ姿の男が一人、合流したのを確認しました――」
「スーツ? そいつも軍人か?」
「――判断に悩みます。隊員が一人銃を向けましたが、すぐに下ろしたようです。車両の陰で状況はわかりません。それに歩き方と背格好からして、一般人とは考えにくいと思います――」
「……花を持ってたって言ったな。その男が教授を殺し、弔いにでも戻ってきたか?」
「――犯人は現場に戻る、ですか? 私なら、折角その罪を赤の他人になすりつけられてるんだから、わざわざのこのこ戻ってきたりはしないですけどね――」
「教授の命を奪った理由が軍人としての任務なら、罪に問われる恐れもないんじゃないか。まあそれなら、現場に戻ってくる動機もないが。
いずれにせよ、外的要因の追加による状況の変化が考えられる。引き続き注視を頼む」
「もちろんです。ただスーツの男は、最初以降は車両の陰に隠れてしまって。……ん、いや……?――」
「……なんだ、どうした?」
歯切れの悪いヒカリに、続けるよう促す。
「――すいません、暗くてよくわからないんですが、車の窓ガラス越しにちらっと見えるような……――」
デバイスのスイッチを押しっぱなしなのか、ヒカリの息遣いが漏れ聞こえてくる。静かに続きを待っていたサクがダウンロードの進捗を確認しようと視線を動かした瞬間。パリン、と窓ガラスの割れる音が二つ、確かにデバイスから聞こえてきた。
「――っ、やば――」
その瞬間に通信は切れ……一呼吸の静寂の後、地震とは明確に異なる揺れと地鳴り。それがヒカリの部屋で手榴弾が炸裂したという事実を、サクに叩きつけた。