オペレーション:フォースエスコート ~方舟のララバイ~
――なに、女の子? 医者の話では男の子だって言ってたじゃないか。参ったな、男の子の名前しか考えてなかったぞ。……いや、確かに考え抜いた名前ではあるが、女の子に男の名前を付けるのはな…………そうか? 君が言うなら……
――おお、よしよし、初めまして、俺が君の父親だぞ。見えてるかい? 良く聞くんだぞ、今日から君の名前は……
思考の隙間から、得体の知れない感情が湧き出る。家の二階から周囲を取り囲んでいる軍の様子を窺っていたヒカリは、いつの間にか心の中に湧いたものに気味の悪さを感じながら、無線機を握りしめた。
「エッジ、裏口と西側警戒お願い。キッチン側だから侵入は難しいだろうけど、隣に地下の入り口あるから万が一に備えて、キッチンの陰で様子見といて。私は二階で正面と東側担当するから。
何か動きがあったり、撃たなきゃいけないと思ったらその前に私に教えて。そっちに合わせて私が隊長狙撃するから」
「――あいよ――」
テキパキと指示を出して、自身もMSRのチャンバーに弾丸を送り込む。この家は小さく、周囲の庭は大きい。脱出するには軍が布陣している中を突っ切らなくてはならず、こちらから積極的な行動をすることは出来ない。やれることと言えば、いつでも脱出できるように引き続きAIのパスワードの手掛かりを探すことだけだった。
「リーダー、解読の方はどうですか? さっき局長に聞いたキーワードは当たりました?」
「――いいや、ノーヒットだ。この国に来た日、生年月日、携わった論文、聞いたものは一通り入れたがどれも弾かれた。そもそも、そんなありきたりなものを設定するような人でもなさそうだしな。今それらを組み合わせたり入れ替えて、ぽいものを総当たりしてるが――」
当てずっぽうで解けるほど甘いものではない。やはりパスワードを解くカギは、教授の事を知る人間が持っているのだろう。ヒカリはサクとの通信を切ると、もう一つの通信機を手に取った。
「局長、聞こえますか?」
「――ああ、通信状態は未だ良好だ――」
「やっぱり、何かパスワードを解くための手掛かりがないと難しそうです。何でも良いです、何か教授からヒントになりそうなもの聞いてないですか?」
無線機の向こうは暫く沈黙を保つ。
「――……先程言われてから考えてはいるが、やはり彼は何も言ってなかったと断言していいだろうな。10年ほど同じ研究チームにいたことはあるが、戦争がはじまりこの国に閉じ込められてからの彼は、誰にも心の底を見せることはしなかった――」
それを聞き、小さく嘆息する。AIは持ち帰りたいが、解決策がないのでは話にならない。このまま闇雲に部屋を荒らしたところで、答えが見つかる可能性は低いだろう。
どうしようか……と考えていたところに、キィンというスピーカーの音が飛び込んでくる。ヒカリはカーテンを揺らさないようにまくりあげ、窓の隅から外の様子を窺った。
「……立て籠もり犯に告ぐ。貴様はレジスタンスだな? 何故ここにやってきた。何故彼を襲った。答えろ!」
隊長格の軍人が拡声器を手に語り掛けてくる。随分と感情的な言葉だった。
――レジスタンスってばれてる。住民……いや、教授が襲われたことまで知ってる。犯人が軍に告げ口した……?
そこまで考えて、自分の考え方の変化に気付く。アズマと出会う前の自分だったら間違いなく、軍人の自作自演を真っ先に疑っているだろう。
「彼は戦争により家路を失くしただけの研究者だった、命を奪われるようなことは何一つしていない! テロリストなんぞに殺されて幕を閉じていい人間ではなかった!
……この家は完全に包囲されている。武器を捨て投降するのなら一事件の犯人として扱うことを約束しよう。だが拒否するのなら、貴様は軍への重要技術提供者を殺害したテロリストだ、武力を持って制圧する。
よく考えろ、間違った答えはお前を死に追いやるからな」
言いたいことを言って車両の陰に消えた軍人を、ヒカリは静かに見送る。今すぐにMSRを構えて風穴を開けるのは簡単だが、恐らくそれは好手ではないだろう。あまり時間に猶予はない、この後するべきことを考えるため、カーテンから離れて壁に背中を預ける。薄く開いた口から長く息を吐き出すと、机の上の写真立てと目が合った。
「……局長、教授のご家族は?」
「――既にご両親とも他界済だ。所帯は持っている、或いは持っていたろうが、それ以上のことは聞いたことはない――」
写真には、若い男性と女性、そして生まれたばかりの赤ちゃんが写っている。
「……局長だったら、子供の名前をパスワードに設定することはありますか?」
少しの沈黙。
「――……君の意図する本題についての答えをもって、今の問いへの返答としよう。家族の名前をパスワードに設定するなど、セキュリティ観念上ありえない。ましてや彼は科学者だ、あまりにも稚拙すぎる――」
当然、予想していた答えだった。それでもヒカリは、言葉の続きを待った。
「――…………彼は恐らく、この国に閉じ込められてから……いや、初めて私が出会ったのは17年ほど前だが、その間彼は、一度も心を露わにはしなかった。
わかるか、17年だ。君たちが生まれてから今に至るまで、決して心情を吐露したことがないということの意味を。彼の好んでいた蒸留酒ならば良い値が付くであろう期間だ。
彼が結婚していることですら、私と当時のチームを組んでいた1、2人しか知らないだろう。家に上がらせてもらったことはあっても、決して二階へ上がることを許されはしなかった。ましてや子供の存在など、知る由も……いや、彼が語る由もないだろう――」
きっと教授にとって、自分の周囲全てが敵だったのだろう。誰にも心の内を見せず、何十年も孤独に生きてきた。その教授が助けを求める相手にすら明かさなかった、子供の名前。
「――子供の名前は何よりも強い思いを願って決めるものだ。そして、この国の誰一人として知りえない秘密の言葉でもある。誰にも明かさず、地下で一人、何年もの時間をかけて作り上げたものを守るパスワードとしては……いや、そんな大切なものに付ける“名前”としては、この上ないと言って過言ではないだろう――」
ヒカリは目の前の写真入れに手を伸ばした。妻と子供の所に無数の皺があることに、手にとって初めて気付く。フレームをひっくり返すと、丁寧にネジで固定されているようだった。リュックから工具を取り出すと、中の写真が傷付くことのないようゆっくりとネジを回す。
取り出した写真をひっくり返す。裏面には擦れて掠れたインクで、されど確かな筆運びの筆記体で、家族三人の名前が記されていた。
「……リーダー、デバイスをコンピュータに近づけてもらっていいですか?」
「――パスワードがわかったか? ……よし、いいぞ――」
「――『パスワードを入力してください』――」
デバイスから再び聞こえた機械音。最初に聞こえた時から、女性の声を模しているのはわかっていた。『AIといえば若い女性の声』という勝手なイメージで、そこに理由があるとは思っていなかった。
「パスワードは……ノア」
ある種の偏執愛。だが同時に、父親の深い愛情があった。彼女の前で事切れた教授は、最期に何を考えたのだろう。ヒカリは依然として緊迫とした状況の中でも、それを思わずにいられなかった。
「……あなたの名前は、ノア」
ヒカリはデバイスを強く握りしめ、少女を目覚めさせるように、語り掛けるように呼びかけた。
「――『……パスワード、承認致しました』――」