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detective






 シルバーの警棒とライトを手に持ち、ヒカリは一歩一歩進んでいく。サナとは部屋を出てすぐにある階段で別れた。


 監視室と同様辺り一面コンクリートで、電球の間隔が広いせいか通路は全体的に薄暗い。その下に鉄格子が見え、ヒカリはライトを向けた。


 中には、ひどく衰弱した壮年の女性がいた。ベッドで横になっている女性はヒカリの姿を認めると、起き上がって近づいてくる。


「お願い、私を出して……! あいつら、私の子を……!」


 その女性に慌てて静かにさせ、ヒカリは鉄格子にライトの焦点を当てる。


「鍵穴が無い、電子ロックか……こちらラビット、エッジ聞こえる? そっちのパソコンで鉄格子の錠を開けられそうかどうか見てみて」


「――ちょっと待ってろ……駄目だ、パソコンつけるにはパスワードが必要だってよ。こいつら締めあげて聞いてみるから、時間くれ――」


「わかった、お願い」


 それから「待ってて下さい」と女性に声をかけて、ヒカリは更に奥へ進んだ。






「一体、ここに何人捕まってるの……?」


 その廊下自体は、そこまで長くはなかった。監視室から少し歩いただけで突きあたりが見えることからもそれはわかる。だがヒカリが廊下の終りまで歩いた時、更に両脇に廊下が続いているのが見えた。


 最初はY字路かとも思ったが、どうやら蜂の巣のような構造をしていることがわかった。突きあたりの壁は俯瞰すると6角形になっているようで、そこから放射状に独房の並ぶ通路が伸びている。中央の通路を一周するだけで、この階の収監者全員を監視できるようだ。至る所からうめき声やすすり泣く声が反響して、思わず眉根を寄せる。


 中央の壁沿いにぐるりと回っていると、赤いエレベータがあることに気付く。電源が通っていないのかボタンを押しても反応しないが、下だけでなく上行きのボタンもあることから、地上のどこかと繋がっているようだ。



「こんな構造なら、中央の通路に一人立っててもおかしくなさそうだけど……」



「…………誰?」


 通路の一つから、ちいさな女の子の声が聞こえる。導かれるように独房の一つへライトを向けると、体育座りでこちらに目を向ける、長髪の子供がいた。その体は小さく、衰弱していることが容易にわかる。


「こんな女の子まで……」


「……お兄、ちゃん? やっぱり元気だったんだ……ずっと、待ってたんだから……」


 女の子は、突如当てられた強い光に目を細める。どうやらヒカリを兄と勘違いしているようだ。声は彼女の体より更にか細く、言葉は途切れ途切れで言い終わるとすぐに咳き込んだ。水を一口も飲んでいないことはすぐにわかった。


「ごめんね、私はあなたのお兄ちゃんじゃない。でも大丈夫、助けに来たよ」


 そう言って、この子だけでも先に助けられないかと辺りを見回す。そこでヒカリは、この通路だけは更に先があることに気が付いた。この先も、今ヒカリが通ってきたのと同じような構造になっているようだ。




「……ここ、電子ロックじゃない?」


 他の独房は赤いランプがついているが、ここだけランプが灯っていない。その代わりに鎖が巻かれ、二つの南京錠で施錠されていた。


「だからここに女の子を配置したのか。それにこの鍵、もしかして……」


 そう言うとヒカリは、リュックから罠を張るときに使うピアノ線を取り出して、一端を女の子に渡す。それから息を合わせて同時に上へ持ち上げると、ガチャンという音と共に鍵のデッドボルトが持ち上がり電子錠が開錠された。


「え、開いたの……?」


「どうやら普通の鍵を電気で制御してるみたい。通電してるとこうやって開けられないことに変わりはないけどね。鎖も壊すから下がってて」



 鎖を引っ張り、一発、二発と銃弾を撃ちこむ。その響く音に女の子は強張り、廊下の様子を見ようと格子の端に顔を押し付けた。


「よし、開いたよ。見張りが来る前に」

「っ、お姉ちゃん危ない!」


 拳銃をしまいあとは扉を引くだけというところで、女の子の言葉が耳に刺さる。だがそれに反応する直前に誰かに脇腹を蹴られ、ヒカリは倒れ込んだ。



 ――くっ、気付かなかった……!


「お姉ちゃん!」


 受け身を取ってすぐさま立ち上がり警棒を構える。上背も重量もある男の手には、同様に警棒が握られていた。ヒカリは油断なく腰を落とし下半身に力を入れる。



「お前が侵入者か? どうやってここまで上がってきた?」


「……パスワードを教えてくれるなら、代わりに教えてあげてもいいけど」


 男の口ぶりから察するに、ヒカリ達の他にも侵入者が下層にいるのだろう。その正体を知る由もないが、敢えて隠すように言葉を選んだ。



「カードキーだけじゃパソコンは動かせないからな。だが悪いが、こいつらを解放させるわけにはいかない」


 どうやらパソコンを使ってロックを開けるには、パスワードだけでなくカードキーも必要なようだ。


「廃工場に籠ってたあなた達のボスはもう捕まえた。それでもこんなことを続けるつもり? 大人しく捕まってくれれば、手荒な真似はしないで済むんだけど」


「……そうか。だったらこいつらは大事な人質だな」



 男はそう言うと、俄に手を背中に回した。同時にヒカリも警棒を左手に持ち替え、M&P9を抜く。そうして二人は銃を向けた。ヒカリは男に、男は檻の中に。















「――エッジ聞こえる? 下の階の見張りが全員倒れてる。どうやら他に先客がいたみたい。まだ下がありそうだけどいったん戻るわ――」


 捕えた男たちからどうやってパスワードを聞き出そうか考えていたコウの元に通信が入る。


「先客? 倒れてるって、撃たれてんのか?」


「――いや、頭から血を流してるのもいるけど、ほとんど気絶してる。しかも全員、檻に……――」


「ちょっと待て!」



 パソコンの横にある監視カメラの映像を見ていたコウは、一瞬、転げるヒカリの姿が映ったことに気が付いた。カメラを固定し、音が聞こえるようにする。


「――お姉ちゃん!――」


「――……どうやってここまで……――」


 捕虜であろう女の子の声とは別に、小さく男の声が聞こえた。画面が切れて見づらいが、ヒカリの正面に誰かの足があるのも確認できる。


「ラビットが戦闘中みたいだ、行ってくる!」


「――わかった。反対側にも階段あるみたいだから、私はそっちから上がる。挟み込みましょ――」




 通信を切り、ブラックマットの警棒を持って扉を押し開ける、その瞬間。僅かな隙間から何者かの手がコウの警棒の先端を掴んだ。



「誰だっ!?」


 慌てて引っ張るが、まるで万力に挟まれたかのようにびくともしない。少しだけ開いた扉を開けて、ゆっくりと人影が姿を現した。





 入ってきた男は、今までの探偵とは全く違う装いをしていた。顔の皺は深く髪の毛は白髪交じりの角刈りで、およそ50代くらいだろう。ジャケットは古ぼけているしシャツはくたびれていて、かなり年季の入ったもののようだ。それに男自身もとても壮健そうだ。コウより頭一つ分大きく、警棒を掴んで離さない握力からもそれはわかる。


「……くそっ」


 引き抜くことを諦めたコウは逆に男の手をがっしりと握りしめ、そのまま警棒を回して男の手をひねり上げようとする。だが男は左手でコウの胸倉を掴むと、鼻に頭突きを食らわせた。


 ツーンとした痛みで視界が歪む。思わず後ろに数歩後退したところで自分が警棒を手放してしまっていることに気付いたコウは、即座に右太腿のホルスターからUSP拳銃を引き抜いた。


帯革(たいかく)道具はお(まわ)りの十八番だぜ?」


 男に向けて構えた直後、手首に激痛が走る。警棒で叩かれたと気づいたのは、拳銃を取り落とし、警棒の先端でバンダナを首元に下ろされてからだった。




「お前はこんなとこで何してんだ、ん? ここは子供が来るようなとこじゃねえな」


足元のUSPを蹴り飛ばしながら、男は品定めをするような目でコウを見つめる。


「……俺はレジスタンスだ、捕えられた人たちを助けに来た。あんたも探偵の奴らとは違うみたいだけど、何者だ?」


 唾を飲み込んで、男の視線に真っ向から向き合う。こういう時こそ退くんじゃねえ、コウはそう自分に言い聞かせた。



「こんな状況でも主導権は握らせねえってか。大きすぎる見栄と度胸は良いことねえぞ? 見たところ覚悟も足りねえ、判断も遅え、その癖態度は一丁前。レジスタンスってのはそんな奴らばっかのおままごと集団なのか?」


「なんだって……?」


 トントンと、警棒の先端でコウの顎を叩く。


「地下でこそこそしてるネズミ相手にチャカ振り回したとこで、お前らもこいつらと同じ穴のムジナってこった。助ける相手がいんなら、それ以外は全部敵だろうが。仲間が死ななきゃそれもわからねえか?」


「……!」



 三度、警棒がコウに触れる。左手で即座にそれを掴み、後ろに引っ張る。しかしその程度で男は崩せず、むしろコウの体が男に引き寄せられていった。


 その力を利用し、コウは胸まで引き寄せた右足を男の顎に思い切り突き出す。だがその渾身の蹴りですら、男の左手で受け止められてしまった。


「躊躇いはなくなったが、中途半端な怒りは無意味だ」


 思い切り警棒を引かれ、同時に掴まれた足を放られたことでバランスを崩す。そのまま転ぶようにして男から距離を取りつつ、蹴飛ばされたUSPを拾い片膝立ちで構えた。




「形勢逆転だ、武器を捨てろ」


 ハンマーを起こし、即座に銃弾を撃てるようにすると、コウは男の腹に丁寧に狙いをつけた。頭や手足は機敏に動くため反応が遅れる可能性があるが、体の中心である胸や腹は一瞬では動かせない。


「チャカを抜く距離での戦いに形勢もなんもねえよ。俺たちゃ将棋やってんじゃねえんだ、生きるか死ぬかの抜き差しならねえ(ぎょく)の取り合いだぞ」


 警棒を手放した右手で、男は自分とコウの胸を交互に指さす。


 自分は少し離れた距離から銃を向けている。なのにコウは、自分が有利だからと安心することが出来なかった。後ろにはテーブルがあるため後退できないが、二人の間は一歩で詰めるには離れすぎている。問題なく対処できるはずだ。



 ――なのになんでこいつは、こんなにも自信満々なんだ? なんで怯まない?



 不利な状況に陥っても気弱な姿を見せないよう、コウはいつも気を付けていた。だが銃を付きつけられれば少しは怯んでしまう。エアガンであっても、普通の人間なら嫌な顔くらいはするだろう。だが目の前の男はまるで銃口が怖くないのか、一分(いちぶ)の緊張も現れる気配はなかった。



「どうした、有利なのはお前だぞ? 何をそんなに焦ってるんだ?」


「うるせえ、無駄な挑発はやめろ! 殺すのは好きじゃねえけど、だからって殺せねえと思うな!」


 USPの照準を腹から頭にずらす。その無意識の小さな変化を、男は見逃さなかった。


「そんなに俺が怖いか? そんなに俺の顔を見つめていいのか?」


 右手でコウに指を向け、次に自分の両目を二本の指でさす。


「なんだ、何言って……!」


 そこまで言って、男の左手が見えないことに気付く。肘から先が背中に回っていることに、頭を狙ったせいで銃本体が死角をつくり、見えていなかった。それに右手ばかり派手な動きをすることで、注意を意図的に逸らされていたのだろう。まんまと引っかかってしまっていた。




 男が左手で何かを放り、片膝立ちのコウの顔目掛けてそれが飛んでくる。それを腕で払い落とし、視界の端に落下したそれの正体に気付いた。


「手錠……?」


「やんちゃ坊主を捕まえるためのな」


 男の回し蹴りを受けて再度USPを手放す。だがその流れで放たれた横蹴りは両手で受け、コウは掴んだまま立ち上がった。流石の男も一度床に倒れこんだが、受け身を取ってすぐに起き上がってくる。その隙をつき、コウが男の胸倉をつかんた。



「俺を掴んだな?」




 コウが男のシャツを引き寄せようと力を込めた瞬間、その視点は180度回転していた。


「あぁっ、あああ゛あ゛あ゛ぁぁ!!」


右腕が折れるような痛みで、叫びながら足を折り曲げ蹲る。どうやら男は服を掴まれた瞬間、コウの腕を回転させ肘を上向きにずらすと、そのまま体重をかけて押し倒すように、決して曲がらない方向に力を加えたらしい。床で転がったまま一連の戦いを見ていた探偵は、その容赦のない関節技に怖気を振るわずにはいられなかった。



「堕ち切った軍人どもには通用するかもしれんがな、そんな付け焼刃とおざなりな格闘じゃ、道着着た小僧にも敵わねえな」


 痛みの中じゃ、頭上から聞こえる声すら頭に入ってこない。激痛から逃れるためには、自分から床に倒れこむしかなかった。うつ伏せからでは力の乗った蹴りが出せないし、そもそも蹴ったくらいでは男をよろめかせることは出来ないだろう。それでも地面を押して少しでも抵抗していたコウは、やがて糸が切れたかのように腕から力を抜いた。


「なんだ、諦めやがったか? だったらこのまま腕の一本……」


 男が膝をつき、腕を折ろうとさらに力を込める直前、コウは蹲る自分の体と床の間に左手を通すことで上を向いた。


「ああぁっ!! 誰が諦めたって!?」


 姿勢を変えることでほんの僅かに右腕の痛みが引く。だがそれ以上に、コウの足が男の顔に届くようになった。腹筋で足を持ち上げると、男の首に巻き付いて渾身の力で引き寄せ、思い切り締め上げる。更に左手でジャケットの内側に左手を突っ込み、ちらりと見えたショルダーホルスターに入っているはずの拳銃に手を伸ばした。




「悪くない機転だ、極まりきる前に逃げたな。だがお前は見様見真似の絞め技じゃなくて、俺の顔面を蹴り飛ばすべきだった」



 気が付けばコウの右腕が解放されている。だが反対に、男の懐に潜り込ませた左手が掴まれていた。



「しかしまあ、曲がりなりにも反撃の一手に出れたとはな。ご褒美だ、絞め技には絞め技で返してやるよ」


 そう言うが早いか、コウの左手を掴んだまま男が仰向けに倒れこむ。気付けば男の足が、脇の下と首を挟み込んでいた。慌ててもがくが、完全な後三角絞めからは逃げられない。


「気をつけろ、これが三角絞めだ」


 その言葉を聞き終わるのと、コウの意識が落ちるのはほとんど同時だった。














「そうだ、武器を捨てろ。子供を見殺しには出来ないよな。状況確認もやり切らずに銃を撃ったんだ、お前がこいつを助けたいことくらいはわかる」


 檻の中に銃を向ける探偵の男が、悔しそうに歯ぎしりするヒカリを見下ろしている。


「銃だけじゃない、警棒もこっちによこせ」


 拳銃を地面に滑らせ、警棒を放る。銃は男の足元に、警棒は少し後ろに落下した。


「……随分念入りな武装解除なことで。そんなに敵が怖いですか? 体格もあって武器も持ってるのに、檻の中の子供を人質にとって、何をそんなに怯えているんですか?」


「わざわざ危ない橋を渡るわけないだろう。こっちは仲間を10人以上やられてるんだ、どうやって皆を()したのかは知らんが、近づいてきた瞬間この子供は死ぬ。お前は自分の手錠で横の檻に手を繋げ」



「……手錠?」


 聞き慣れない道具の名前に、ヒカリはつい聞き返してしまう。


「……下の仲間は全員、気絶した状態で手錠に繋がれていた。……そうか、お前は公園から降りてきたんだな? くそっ、お前らいったい、何人で来やがった?」



「三人よ」


 男の背後から、また別の女の声が聞こえる。振り返ると、そこにはヒカリに預けていた警棒を頭上に掲げ、振り下ろす瞬間のサナがいた。直後、炭素合金の警棒が男の肘を叩く。更にサナは警棒を振り上げ、金的をお見舞いした。


「かっっぁ……!!」


「人質なんて汚いことするからよ」


 締め上がった喉から漏れた声にならない声を発しながら、男は崩れ落ちた。





「ったく、入院で腑抜けたわけ? 子供助けんのは結構だけど、安全確認してからにしなさいよ」


「……その通りです、返す言葉もありません。つい体が動いちゃって……」



 独房の扉を開けるサナに謝って、ヒカリは下ろした道具を拾い集める。それが終わると、おずおずと出てきた女の子の前でしゃがみ、頭を下げた。



「ごめんなさい、私のせいで危険な目に遭わせちゃって。銃を向けられて怖かったよね」


 それから水筒と、氷砂糖の欠片を彼女に渡した。最初は大事そうにゆっくり、やがてごくごくと喉を鳴らして飲む様に、思わず頭を撫でる。驚いた女の子は水を飲むのをやめて、不思議そうにヒカリを見た。


「あっ、ごめんね、驚かせちゃって」


 黙って首を横に振り、少女はヒカリに抱きつく。それから数度咳込むと、ヒカリの耳元で小さく声を発した。


「助けてくれて、ありがとう。私、シノン。お姉ちゃんの、名前は何ていうの?」


 その言葉に暫く考え込まされたヒカリだったが、3秒もすればヒカリの手はバンダナを外していた。


「私は、ヒカリだよ。レジスタンスのヒカリ。誰にも言っちゃダメだよ」


 ウインクしながら「シー」とはにかんでみせる。その笑顔に、少女――シノンは安心し、再びヒカリに抱きついた。






「てか、エッジはどうしたの? あいつが、あんたが敵と戦ってるっていうから来たんだけど」


 腰に手を当てサナは耳を澄ましているが、コウの気配は感じられない。ヒカリと目配せしてから頷くと、再び警棒を構えて監視室へ戻った。



「……二人とも止まって」


 先行するサナが立ち止まる。監視室の扉が開いていた。


「シノンちゃん、私の後ろにいてね」


 ヒカリが女の子の前に立つと同時に、監視室から誰かが出てくる。一瞬コウのようにも見えたが、その影は更に背が大きかった。その風貌は明らかに探偵のそれではない。



「誰だ!」


 誰何(すいか)をしようと声はかけた。だが完全に姿を現した男の手にコウの警棒が握られてるのを見た瞬間、サナは床を蹴り駆けだしていた。


「ラビットその子守ってて!」


「気を付けて!」


 壁を蹴って高く飛び、男の頭上から容赦なく警棒を叩きつける。男は受け止めも受け流しもせず、コウの警棒を思い切り振るうことで攻撃をサナの体ごと弾き飛ばした。



「くそっ、力任せにやりやがって! あんたみたいなやつ大嫌いなのよね!」


 ジンジンと痛む右手を隠して左手に警棒を持ち替えると、見下ろしてくる男にそう吐き捨てて再び接近する。


 どれだけ策や技術を学んで自分のものにしても、純粋な体格や力の差はそう簡単には埋められない。頭に血が上って興奮しているとはいえ、まだサナは我を失ってはいない。それでもサナと男の間には明確な差があった。どんな角度からどんな位置を狙ったとしても、必ず防がれる。それだけでなく、脛を狙った時はそのまま警棒を踏まれ、膝蹴りを顔に叩きこまれて吹き飛ばされた。


「……容赦ないのを、喰らわせてくれるじゃない……」


 蹴られる直前に手で防いだが、鼻の血管が切れて血が垂れてきている。床に片膝をついたまま、口に入りそうな血を手の甲で乱暴に拭う。



「あんた何者? 探偵の奴等とは違うみたいだけど」


 上がった息を整える間に、再び男の素性を問う。筋力だけでなく、レジスタンスメンバーよりも洗練された格闘技術もある男が、探偵だとは思えない。あるいは雇われた傭兵かとも考えたが、それにしては白シャツにジャケットという姿は不相応で、それがサナを混乱させた。


「俺が何者か知ってどうすんだ? 探偵だと言えば捕まえんのか? 一般人なら見逃すのか? 時間稼ぎにしてももう少し意味のある質問をしろよ、だからおままごとだってんだ」


 表情を一つも変えずに、男はサナを見下ろしたままため息をついた。


「……だったら、その警棒をどうした。その持ち主に何をした……返事次第で私は許さないわよ」



「あいつを殺して、奪い取った。そう言えば満足か?」



 瞬間的に、サナは左手で警棒を振り下ろす。言葉の真偽はわからないが、そんなことはサナには関係なかった。


「一つの挑発で怒りに任せた単調な攻撃。冷静さを欠いた一手は失着だな」


 虫を払うかのようにサナの一撃を受け流す男の眼前を、鋭い刃が掠めた。


「ナイフもでかけりゃ振りも大振り。今のを当てらえねえならこれ以上は無駄だ」


 ナイフの突きを最低限の動きで避け、腕を掴んでひねり上げる。サナはその回転方向に壁を蹴って体を回転させることで、関節を傷めないよう逃げた。だが男の手からは離れられず、そのまま片手で持ち上げられる。両足がゆっくりと床から離れていった。




「この、くそっ、離しなさいよ!」


「お前は見下されるのが嫌そうだったからな。こうすれば対等だろ? アクロバットは見てて面白いが、無駄が多すぎる」


 子供を相手にするような言葉に、男の首を警棒で叩く。だがただ腕の力のみで振るわれた一撃は、男の丸太のような首にダメージを与えることは出来なかった。そのまま強引に警棒を奪われ、遠くに投げ捨てられる。


「腕力だけで勝てると思ったか? 最初からその足についてるチャカを抜かなかった時点で、お前もあいつも理解してねえんだよ。今までが上手くいきすぎてたんだ、結局自分は誰の人生も変えられない、力のないゴミみてえな存在だってことをな」


 パッと手を離し、サナが落下する。即座に足のばねを使い、跳ね上がる勢いでナイフを突き立てようとしたが、それよりも男がサナにダブルスレッジハンマーを叩きつける方が早かった。男の組んだ両手がサナの頭を地面に沈ませ、体から力が失われた。




「……良いナイフを持ってんじゃねえか、どこで拾った?」


 足でサナを仰向けにした男が、ふとナイフに気付いた。蜂の刻印が、電球の明かりを反射している。


「……これは、私たちの……過去を乗り越える……」


「……」


 朧気な意識の中で、サナは耳に入った言葉に無条件で答える。脳を強く打った衝撃で体を上手く動かせないのか、口があまり動いていない。それにその言葉は事情を知らなければ何の答えにもならないが、それを聞いた男は少しの間動きを止めた。



 だがそのたった二秒の静寂は、二つの銃声で唐突に終わりを告げた。




「……警告なしの胸に二発か。サツカンだったら一発免職だな」


 シャツに開いた穴を指でなぞり、男は視線を上げる。背後に女の子を隠したまま、ヒカリが拳銃を向けていた。


「くそっ、防弾ベスト……」


「軍人じゃなければ防具を着てないとでも思ったか? 動きを止める分には良いが、拳銃弾で殺すつもりなら頭か足を狙え」


 自分の眉間を指さす男に従い、照準を頭に移す。だが数秒経つと、ヒカリは銃口を男から外した。



「なんだ、ついさっきまでの殺意はどうした。怖気づいたか?」


 そう言って男はナイフを拾い上げようとする。


「そのナイフに触らないで、刑事さん」


 ヒカリの鋭い声が男を貫いた。



「その根拠は?」


「探偵たちを捕まえた手錠なんていう道具と、短く切られた髪の毛。さっき言ってたサツカンっていうのは刑事の言葉で、警察官の略でしょ。それに今の格闘術。一瞬見ただけだけど、友人が刑事に習った技と似た動きだった。軍の格闘術はもっと敵を破壊する技で、相手を傷付けずに制圧する技じゃない」


 以前見たことのある、ユイが兵士を取り押さえた時の動きと似ていた。人体の動き方や動かせる限界を熟知し、相手の逃げ道を一つに絞る技だ。



「それで、それがわかったところでどうする?」


「あなたが刑事なら、ここにいる理由は私たちと同じはず。探偵を捕まえて人質を助ける。それなら私たちが敵対する必要はないはずです」


 拳銃をホルスターにしまい、落ち着くよう両手を低い位置で開いて男を見つめる。少しの間、二人は視線を外さなかった。ヒカリの服の裾をシノンが掴んで、その震えが伝わってくる。




「……ったく、ブンヤの言葉は信用ならねえな。甘ちゃんばっかの夢想家は、一番の敵が現実だってことを知りやしねえ」


「理想じゃ人は助けられないけど、理想がなくちゃ人は付いて来ないんですよ」


 男は呟きながらサナから離れると、懐から煙草を取り出して吸い始めた。ブンヤという言葉に疑問を抱きながら、ヒカリは男の呟きに言葉を返す。


「理論が詐欺師か新興宗教のそれだな」


「人殺しのテロリストより詐欺師の方が評判は良いので」


 フッと鼻で笑い、煙草の煙が勢いよく吐き出される。それは初めて見えた男の感情だった。




「伸びてるこいつもそうだが、とりわけ部屋で眠ってるあの坊主に伝えとけ。手段を選びたいなら、まず自分と相手の力量差を見極めろってな。

 大方、誰も殺さずにここを制圧して良い子ちゃんにみられてえんだろうが、強くもねえ奴は綺麗でなんかいられねえんだよ。失敗のツケを支払うのがてめえだけとは限らねえんだ、躊躇うな」


 足元のサナ、そして彼が出てきた部屋を交互に見て、男はそう言った。その言葉遣いこそ荒いが、言っている内容はまるで気遣ってくれているかのようだ。それにやはりコウは生きている。サナに言った言葉はただの挑発だった。


「もっとも、お前が一緒にいるのにこの体たらくなら、望みはねえかもしれねえがな」


「私?」


 唐突に呼ばれたことに驚き、ヒカリはつい声を漏らす。過去に男と知り合った記憶はない。



「自分の弱さで誰かを失ったか、そこまでいかずとも誰かに傷を付けたか。だが今お前が傷付いてる様子はないな、大分昔の出来事か」


「……なにを……」


 顔をしかめる。心を探られるような嫌な気分だった。


「目を見たらわかんだよ。お前も俺と同じだ、目的のためには手段を選ばねえ」


「っ、そんなこと」


「ないのか? まだまだ青いが頭は鈍くなさそうだ、少なくとも現実は見えてる。敵が雑魚どもなおかげで何とかやれてるし、口じゃ理想を語りやがるが……お前は二人を生かすためなら一人を躊躇いなく殺す人間だ、間違いなくな」



 男はそう言い放ち、煙草を足で踏んだ。立ち上がると、振り返って出口へ向かう。


「……言いたい放題言って自分は消えるつもり? いったい何のためにここに来たの?」


「お前の目的はバンカケじゃねえだろ。後ろのチビ助けて満足ってんなら話は別だがな。カードはあの坊主が持ってる。暗号は自分で聞き出せ」


 今回の目的はここに捕えられた人たちを助けること。目的を改めて考えたヒカリは悔しい気持ちを飲み込み、男を追いかけようとした体を止めてシノンの頭を撫でた。





「……その蜂のナイフには血がこびり付いてる。お前か寝転がってるそいつかは知らねえが、そんな凶器にいつまでも縋りつくのは見苦しいぞ。

 例え戦争の狂気にあてられた元英雄だろうが、あいつが薄汚い犯罪者であることに違いはねえんだ。さっさと忘れるのが一番だ」



「……えっ、ちょ、あなたいったいっ、待って!」



 思わず呼び止めた声は、閉じられた扉に反射して空しく響いた。








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