on the side. on your side
「それで、この一週間でしっかり休めた? ヒカリちゃん」
「はい、帰ったらいつも以上に訓練しなきゃですけどね。おかげさまで、体調は万全です」
入院から一週間後、荷物をバッグにまとめるヒカリの病室に、白髪の女性がいた。白衣に身を包んだ彼女はヒカリの担当医で、病室のソファに浅く座り込んで、ペットボトルのお茶を飲みながら書類を一つ一つチェックしている。
「それ、ここでやって平気なんですか?」
「いいのよ、ヒカリちゃんの書類なんだから。それより、薬は今出してる痛み止めと抗生物質の追加で大丈夫?」
「え、はい、多分。リミさんが決めてくださいよ、医者なんですから」
「だって、ヒカリちゃんなら自分の体は自分で把握してるじゃない?」
医者――リミはそう嘯くと、ペンを回転させて書類を埋めていく。彼女はアイの上司で、4年前にマミの治療を担当した医師だ。今でこそ随分と大雑把な印象だが、アイと彼女が死に物狂いでマミを助けようとしてくれたことを知っている。そしてそのおかげで、マミがなんとか一命を取り留めたことも忘れたことはない。
「……それと、いつもの薬は?」
音楽プレーヤーや充電器をしまう手が一瞬止まる。それからヒカリが振り返ると、リミもヒカリの事を見つめていた。
「最後に処方してからもう二か月以上経ってるみたいだけど、もうとっくに無くなってるんじゃない? まさか別の病院で貰ってるわけじゃないでしょ?」
「そんなことしてませんよ、大丈夫です。それに勝手にやめたりもしてないです。少しずつ減らしてて、あと三日分くらい残ってたと思います。……あ、ほら」
荷物を詰めるバッグの中から殆ど空になった瓶を取り出すと、カラカラと振ってみせた。リミは目を小さくして微笑むと、再び書類に向き合う。
「そう、なら良かった。今度も同程度の量を処方するけど、今度は三か月に分けてゆっくり飲んでちょうだい。
それと忘れないで。毎回必ず説明してるけど、この薬は非常に強力かつ危険なの。ヒカリちゃんの体に一番相性が良かったのがこの薬だったから使ってるだけで、他所の国なら」
「わかってますって。初めてこの薬を貰った時に、耳にタコが出来るくらい注意されてますから。『この薬の取り扱いは必ず医者の指示に従うこと。決してアルコール含有食品やグレープフルーツを口にしないこと。そして決して、過剰摂取をしないこと』ですよね」
リミの声を遮るように注意を暗唱する。4年前に初めて処方されたときから毎回必ず言われている言葉だ、それだけにヒカリもその意味はよく理解している。
「私心配性なのよ。あの頃の押しつぶされそうなヒカリちゃんの事を覚えてるから、どうしてもね」
おばさんの世話焼きよ、と言って書類をまとめると、リミは息を吐き出してから立ち上がった。
部屋から出ようとするリミが思い出したように足を止め、ひとりでに閉まる扉をバインダーで押さえて振り返る。
「そういえば、アイが夜勤終わりでそろそろ上がるはずだから、一緒に帰ったら?」
「夜勤終わりなら、休ませてあげた方がいいんじゃないですか?」
「良いの良いの、夜勤程度で音を上げるような医者に育てたつもりはないわ」
高らかな笑い声を残して廊下に消える姿を、ヒカリはバッグに手を突っ込んだまま見送っていた。
「……ほんと、心配性ばっかなんだから」
「おばあちゃん元気かなぁ?」
「練習したウサギさんのリンゴを食べてもらえば、きっと元気になるわよ」
「悪いな、迎えに来てもらって」
「いいんですよ、お昼に蕎麦でも行きましょうか」
ロビーで料金を払ってから、パーカーの紐をいじりつつ端の方でただ椅子に座ってアイを待つ。何も考えていないからだろう、自分という存在が薄まって周りの声が良く聞こえた。狙撃に集中したときと似た感覚だが、それよりいくらか心地いい。
この入院生活で心身ともにかなり安らいだようだ。それとも、話の分かる軍人たちと形だけでも和解することが出来たからか。
そこで瞼を持ち上げる。6月にセントラルシティで開催されるパレードにて、軍上層部のサカマキ大佐を何としても暗殺しなければならない。
「協同作戦、か……」
思わず口に出して、このありえない状況が現実のものだということを確かめる。レジスタンスと軍との協同作戦。その後についてもそうだが、レジスタンス内できちんと話し合わなければならない。
ヒカリは先週の廃工場、和解して話していた様子を思い出す。正確に言えば、廃工場の隅。互いのグループの人間と接触しないよう隅にかたまっていたメンバーと軍人の顔だ。何よりレジスタンスは軍への反抗意識の強いメンバーが多い。突然軍と協力すると言っても、簡単にその首を縦には振らないだろう。
「そもそも、その筆頭は私だったんだけどね」
とはいえ、何とかして説得しなければならないことは間違いない。メンバー全員の意識を共有しなければ、作戦はおろか組織の存続も危うくなってしまう。
「すみません、お待たせしましたヒカリさん」
深く考え込んでいたヒカリを呼ぶ声が聞こえ、頭を上げる。手櫛で髪の毛を整えるアイが、いつの間にか目の前に立っていた。
「あ、お疲れ様です。すいませんお疲れのところ」
「いえ、ヒカリさんのお薬も預かってますし、それに先輩命令ですから」
うっすらと小さく舌を出して「冗談です」と笑うアイ。その目元にはうっすらとくまが出来ていた。
「家に帰らなくて平気なんですか?」
「はい、洗い物はしてありますし、洗濯はあとで帰ってから……もしかして、くま残ってます?」
こくりと頷き、自分の目元を人差し指でなぞる。
「隠しきれてませんでしたか……まあ、明日はお休みを頂いてますから平気ですよ。それよりヒカリさんこそ、腕の調子はもう平気ですか?」
「勿論です、だから退院できたんですから。まあ、左手はあんまり使うなって言われましたけど。それでも半年もすれば傷跡も綺麗に消えるって」
包帯の巻かれた左手をアイの前で左右に振って、大丈夫だと笑う。
「だからとりあえず、行きましょっか」
サウスブロックの道を二人で歩く。病院から洋館までは近いが、二人で黙ったまま歩くには少し遠い。
「そういえばこの間サク君が……あっ、いえ、リーダーがおっしゃってたんですけど、軍と協力することになるというのは、本当なのですか?」
トートバッグに小さな水筒をしまったアイは唇を濡らしたお茶をぺろりと舐めて、同じ歩幅で横を歩くヒカリを向いた。
「ああ、そりゃもう聞いてますよね。先週イーストブロックで遭遇した軍の即応隊って部隊と協力して、作戦を行うことになったんです」
「はあ、なるほど……」
アイには珍しい生返事に、ヒカリはその顔色を窺った。何か考え事をしているのか、唇が難しそうに結ばれていた。
「……やっぱり、軍人と協力するのは難しい、ですかね」
ヒカリの呼びかけに、ハッとした表情をして口を開く。
「いえ、ごめんなさい、少し考え事をしていました。……やはりレジスタンスには、政府軍を強く敵対視している人が多いですから、とても難しいことだと思いますね」
「そうですよね……アイさんも、反対ですか?」
「私は……」
聞かれると思っていなかったのか、人差し指で下唇を押し上げるように口元に手をやる。ヒカリが覗き見たその表情は、どこか寂しそうだった。
「……私がレジスタンスに入った理由を覚えてますか? 身も心も傷付いた人たちを見て、そしてそんな人をもう生み出さないようにと戦うヒカリさんを見て、そのお手伝いをしたいと思ったんです。
この国を変えるお手伝いに、敵が誰か、味方が誰かは関係ありません。私に出来るのは、皆さんの傷を治すことだけですから」
だからこれからもよろしくお願いします、と頭を下げられてしまえば、ヒカリは慌てて頭を上げてもらうことしかできなかった。
「……ところで、アイさんとサクさんって、仲良いんですね?」
「……サク君とは、御懇意にさせていただいてます」
照れているのか、俯きがちに声も小さくなっている。そんな姿がミズキに重なって、ヒカリは無意識に笑っていた。
「いつからなんですか?」
「ついこの間、三か月を過ぎたところです。私の家で一緒に過ごして、映画見たりしました。サク君、意外とホラー映画が好きで驚いちゃって」
「へえー、それは私も知りませんでした。確かに意外な一面ですね」
「はい、本当に。それに……意外な一面と言えば、ヒカリさんもですよ」
私ですか? と面食らったように大げさなリアクションを取る。
「まさかヒカリさんからこんなお話をするとは思いませんでしたから。てっきり、こういった話はお嫌いかと」
アイは幼馴染以外でヒカリの過去を知っている、数少ない人間のうちの一人だ。4年前の飛び降り事件の折に知り合い、何度も話した末にヒカリにレジスタンスへの勧誘と同時に打ち明けられた。そしてその一年後、サクの兄シンジとの顛末もシュンの口から聞いている。
だから何となく、こういった男女の話は避けていた。医者の端くれとして心的外傷に触れないよう気を使っていますなどと、口が裂けてもヒカリには言えないが。
「こういう話は嫌いじゃないですよ、ミズキとシュンを見てるのも、サナとコウをつっつくのも好きですし。ただ、実際に恋愛するのは私には少し苦手かなって。今はまだ、ガラス越しに眺めるだけで十分です」
神妙な顔をしているアイに気が付いて、わざと大きくため息をついて見せる。
「そんな真剣な顔しないでくださいよ、これだって私の一面って話です。今は苦手ですけど、数か月後とか数年後には誰かを好きになってるかもしれないし。
……アイさんもサナと同じくらい心配性だから言っておきますけど、私はもう決めたんです。ゆっくりだけど、ちょっとずつだけど、私は前を向くって。だっていい加減うんざりじゃないですか、周りのみんなも、私自身も」
アイの前に出てから、くるりと後ろ向きに歩く。大きく足を上げて歩く姿は浮かべた笑顔に相まってふざけているようにも見えたが、アイにはむしろ、自信に満ち溢れているように感じられた。
「だから私は、背中をさすられるより、バシッと一発叩かれる方がよっぽど嬉しいですよ。そっちの方が、横に並んでくれてるって感じするじゃないですか」
踵を軸として器用に前を向きなおすと、何故かパーカーのフードを被って背筋を張る。
「……もしかして、今背中を叩くよう、言ってます……?」
紺色のフードが上下に揺れる。
「ですが、今さっき退院したばかりで……」
言い切らずに視線を下げて、ヒカリの袖の先から僅かに出た左手を見る。白い包帯を巻かれた手が震えていた。もう一度、前を歩く背中を見る。一歩踏み出すごとに、大きく張った背中が小さくなるようだった。
「……誰にだって、他の人が知らない一面はあります。多分、アイさんにだって。いつも私たちに向けるような優しい姿だけじゃないですよね」
アイはヒカリに気付かれぬよう、静かに自分の手を見つめる。
――私に、あなたの背中を叩けなんて、酷い話です。あなたの横に立てなんて、酷なお願いです。私はこの手で、あの子たちの死亡確認を取ったんですから。マミさんを、殺しかけたんですから。
「だから、他でもないその手で、確かなその手で背中を叩いてほしいんです。……お願いです」
「――……お願いです、どうか、どうか、お願いします……!! 皆を、マミちゃんを、助けてっ……!――」
――先輩たちからはよくやったと言われました。誰一人私を責める人はいませんでした。友達二人の死亡確認を取って、残った一人も意識を取り戻さないかもしれないと告げた時ですら、待合室で雨と涙に濡れそぼったあなたは私を責めませんでした。
ゆっくりと手を握りしめる。そうすれば、4年前の決意はすぐにでも思い出せた。目の前では不安そうな背中が待っている。アイは少しの間目を閉じると、勢いをつけて思い切りヒカリの背中を叩いた。
――……いつかきっと、あなたの横で。