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蜃気楼


 翳る路地に立つ一人の少女。その右手にはナイフ、耳には小型の通信機、そして視線の先には人々の憩う喫茶店。




「目標視認。これから接触するわ」


「――了解。こちらも10分で用意します――」


 言葉少なく歩を進める。彼女の後ろには、15人の若者が何も言わず横たわっていた。いずれも胸や首筋に小さな刺し傷があり、そこから滔々と血が流れている。


 彼女は小さな刃に付いた血を拭きとると、それをコートの下に隠した。一切返り血を浴びていない彼女は、その長い髪を整え、喫茶店に向かって歩き出す。












「お待たせしました、デミライスのお客様! 失礼します、それとハンバーグ定食のお客様?」


 その喫茶店は繁盛していた。外れの無いメニュー、人当たりの良い店主、そして看板娘。頭脳を働かせ疲れた客は、味の濃過ぎない料理と落ち着いた空気を求め、ドアベルを鳴らす。



「ナツカちゃーん、そろそろ俺と付き合わない?」


「し、仕事中にやめて下さいってば! そうやって女の子にばっかり声かけて!」


 湯気と芳香を運ぶウエイトレスに、1人の男が声をかけた。その店に通い続けて早2年、連れと共に常連となった男は、いつも通りにあしらわれる。


「お前も懲りないな。そんなに女に飢えてるか」


「彼女持ちにこの気持ちがわかるわけもあるまいて。こちとら華の22歳だぞ」


 ご丁寧に両手を合わせた連れは、デミグラスソースのかかったオムライスにスプーンを入れた。


「にしても、もう少し自分の売り出し方というものがあるだろう。そんな失敗では学ぶものもない」


 頬杖をつき、友人の忠告を聞き流す。


「俺が付き合いたいのは、俺と気が合う奴なんだ。自分を良く見せないと付き合えないような花じゃなくて、素の俺が好きになってくれる人だ」


 それから水を一気に飲み干した男は、目の前のハンバーグ定食を喰らい始める。






「あ、水ねえ」


 空のコップを満たそうと男は水入れを探したが、テーブルの上には楊枝や紙ナプキンのみ。


「おい。……ほら、そこ」


 友人がテーブルを指で叩き、そのまま横を指差す。言われるがままスライドした視線の先では、こちらに背を向けて座る女性客がいた。長い髪が可愛らしく、そして美しく揺れている。


「お前はほんとに……はぁ、その人の奥だよ」


 男の視線に気づいた友人が、もう少し奥だと囁く。焦点をずらしてみると、確かに背中越しに水入れが見えた。


「折角だ、気持ちよく水を借りれるように少しだけ話してこいよ」


 お前にはもう少し会話が必要だ、と遠回しに言われた男は肩を竦めてから、立ちあがって女性客に近づく。





 客は優雅にコーヒーを傾けていた。男は女性の肩越しにその仕草を見て、ほんの少し躊躇う。


「あ、あの。すいません、水を貰っても……」


 男に気が付いた女性は、カップを置いて振り返る。その顔に浮かんでいたのは、頬笑みだった。


「はい、勿論。どうぞ」


 そうやって、水が満杯に入った水入れを持ち、立ちあがろうとする。だがその足が椅子にひっかかり、体勢を崩してしまった。咄嗟に伸びる手が女性の肩を掴む。


 男は自然と、女性を受け止めていた。正面に倒れ込んできた彼女をその胸で受け止め、がっしりと支えている。


「すす、すいません! ……あっ」


「あっ? ……あっ」


 目線を下げると、男の体は水でびしょ濡れになっていた。








「すいませんすいません、本当にすいません……」


「そんな気にすんなって、濡れただけだ」


 男は女性と相席をしていた。女性は濡れたジャケットを脱がそうとしてくれるが、「悪い、無くしちゃいけないもんが入ってるから」と自分で脱ぎ、ワイシャツのボタンを一つ外す。向こうに連れの驚いた顔が見えるが、敢えて無視した。


「ま、ワイシャツは無事だったから何の問題もないよ」


「ワイシャツの方が、大切なんですか?」


 テーブルに両肘を突き、男に身を乗り出して首を傾げる。その仕草に、男は顔がにやけるのを感じた。



 ――こういう人を待ってたんだよ、最高だ。



「職業柄、ジャケットを着ることは少ないからね」


 含みのある発言は、以前連れにアドバイスされたもの。相手がこちらに抱いているのが負か正か、これでわかると。


「えー、何のお仕事をされてるんですか?」


 女性は更に興味深そうな眼差しを男に向ける。その顔はまるで子供そのもので、男は自分の行いに、ほんの少し引け目を感じた。



 ――女性かと思ってたけど……20、いや19歳くらい? ……可愛いな。



「この近くに大きな研究所があるのは知ってる? そこの職員でね。午後にも仕事があるんだ」


「えっ、じゃあ研究者の方なんですね! ……すごい、かっこいい」


 ぼそりと口にした彼女の言葉を、男は聞き逃さなかった。舞い上がる内心を隠すためコップを持つと、丁度同じタイミングで少女もカップに手を伸ばす。




「ま、研究者って言ってもまだ2年目だけどな。新しい風を取り入れるってことで設けられた二つの特別枠に、なんとか滑り込んだのがあいつと俺なわけ」


 頷いたり、真っ直ぐ目を見たり……真摯な態度の女性――少女は、話す男にはとても嬉しいものだった。


「すごい、っていうことはきっと期待されてるんですね! でも……あの研究所って、一体何の研究をしてるんですか?」


 だから、その少し踏み込んだ質問にも、男は迷いつつ答える。


「んーとね、詳しい事はあんま話せないんだけど……一つの大きなテーマはあるんだけど、研究内容は各専門部署で全然違うんだ。73人の専門家が13の部署でそれぞれの仕事をして、半年毎に……」


「949人」


 突然呟かれたそれが何の人数か、一瞬困惑した男は入所時の説明を思い出した。


「あー、部署の科学者の数ね、うん、確かに949だよ」


 驚いたことを隠すよう、頭を掻く。同時に少女も照れ隠しで髪を触り、再び同じ仕草を取る。話が合い、何度か同じ仕草をする。それは男の心を最大限開かせた。


「似てるね……」


「えっ?」


「ああいや、なんでもない。それにしても、君は計算が速いんだね」


 そう言われると、少女は顔をほんのり赤くして俯いた。







「……? おいナツカ、なんか鳴ってるか?」


 ふと、カウンターに立つ店主の声が耳に入る。その言葉で周りの音を気にしだした男は、確かに表の通りからサイレンが聞こえてきていることに気付く。そのサイレンは喫茶店の前で停まり、店内の客はぞろぞろとガラスに近づいて外の様子を見はじめた。



「何かあったんですかね……」


 2人も立ちあがると、野次馬の間を縫って移動する。


「ああ見えた。ありゃ軍と、救急車か。なんか事件か?」


「事件……怖いですね」


 少しだけ不安そうに、少女は自らの手を掴む。その姿がいじらしく、男はその肩に手を置く。



「でも、テレビとかだとすぐに事件を解決する探偵がいるんですよね。ああいう、知的だけど体を動かせる人って、かっこいいと思います」


「俺も、そういう人が格好いいと思って、目指してるんだ。

 ……もし事件だったら危ないし、君を家まで送るよ。俺はこう見えてボクシングもかじってるんだ」


 その言葉に、少女は再三目を輝かせる。男は友人の声も聞かぬまま、濡れたジャケットを取ってくれる少女を尻目に、2人分の代金を払う。



「すいません、先にお手洗いに行かせてもらっても……」


「ああ勿論、好きにしな」


 そう言い残すと、少女は畳んだジャケットを男に渡してカウンターの隣のドアを開ける。



 だがそれからどれだけ待っても、彼女が戻ってくることはなかった。












「――腕は衰えていないんですね――」


「こんな雑用紛いの仕事で一体何を」



 相方の言葉を心底嫌そうに返す少女は、路地裏に入り隠していた双対の回転式拳銃をホルスターごと身に纏う。そこへ後背から1人の男が急接近し、その小さな首に手を伸ばす。それは一瞬の出来事だった。


 だが少女はそれに素早く反応し、上半身を下げて手から逃れる。同時に振りあげた踵で男の肘を打ち払うと、残った足を軸に回転し、リボルバーを額に突き付けた。


「遂に見限られたのかしら?」


「相変わらず出鱈目な体重移動ですね。最近気が漫ろになっているようでしたので、あなたが殺されないうちに危機感を煽ろうとしたまでです」


 眼前に見える銃の引き金に、その白く細い指がかかっている。


 だが男も、銃口程度で動揺はしなかった。隠し持ったナイフを折りたたみ、「気を抜くあなたが悪いんです」と目で詰る。


行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に、常に気鋭でいることは難しいのよ」


 少女も、リボルバーをホルスターにしまい、男と共にその場を離れる。






「いくつか質問があります」


 路地を歩きざま、男は振り返らずに問いを投げかけた。


「いいわよ」


「ここいらの素行不良住民を一掃する必要があったのですか? 不必要な接触をするな、というのはあなたに言われた事です」


 喫茶店に行く前に路地で始末した15人の若者たちは、近隣の店や住民から金品をせびるゴロツキだった。


「簡単な話。軍や救急車両の到着による野次馬の発生は、ターゲットを煙に巻くのに便利だからよ」


 その言葉をしっかりと飲み込んで自分のものにすると、男は次なる疑問を口にした。それは、自分の従う上司の行動について、仔細余すことなく理解しようとしている様子でもあり、遠回しに注意を促しているようでもあった。



「ターゲットにあそこまで取り入るのは一体? 我々に必要なのは奴のカードキーだけです、それなら最初に水を掛けた際、すれたと思うのですが?」


「貴方、私の事をスリか何かだとでも思ってるのかしら? 彼のポケットに穴を開けておいた、きっとたまたま落ちたカードが野次馬に蹴飛ばされてなくしたとでも思っているでしょうね。それに、仕草を真似てすぐに取り入るのは、私が受け賜った『ザ・ミラージュ』なんて不名誉な二つ名の象徴よ」


 それを聞き、思わず鼻で笑う。



「組織でたった9人しか許されていないレンティア( ・ ・ ・ ・ ・)ネーム( ・ ・ ・ )を、不名誉ですか」


「そうね。今度改名を申し出ることにするわ」


 名前なんてどうでもいいと言わんばかりのその態度に、何度吐いたかわからない溜息を空へ送る。


「相手と同じ行動を(ちりば)め、対象に自分を『似ている』と錯覚させる。嫌な蜃気楼ですね」




 もうすぐ路地を出ようという所で、男が振り返って足を止める。


「他にもありますが、とりあえずはこれで最後です。何故、レジスタンスのあの少女にあそこまで肩入れを? あの少女の一体何が、あなたをここまで……」


 その目には、嘗て抱いた事のある尊敬という念が顔を覗かせていた。


「肩入れ? さっきも言った通り、ターゲットに寄り添い信頼を芽生えさせるのが私のやり方よ。それにもう気付いているでしょうけど、それが私の任務でもある。監視だけでなくね」


「……薄々感じてはいました。ですが良いのですか? ボスからの極秘任務なのでは?」


「そして貴方は、そんな私を監視するよう前リーダー派から命じられている。違う?」


 男は一瞬固まり、表情を隠す。だが少女は愉快そうに鼻を鳴らす。まるで意に介していないようだ。


「気にしないで良いわ、もう一年も前から気付いているもの。それに貴方が腹に一物を抱えていようと、メンターとして指導することに変わりはないし、そもそも目障りなようならとっくに殺してる」


「……それを面と向かって言うんですか」


「少し前に心変わりしたのよ。それに貴方は新参者、派閥争いに興味はないでしょ? それなら利用価値はいくらでもあるもの」


 少女は立ち止まる男の横をすり抜け、足下の小石を蹴りあげる。緩やかな放物線を描いた小石は民家の窓に当たり、コンと音を鳴らして落下した。


「あまりあなたの上司を見縊らないでほしいわね。私はまだもう少し、死ぬつもりはないわ」


 小石の当たる音に気付いた主婦が、曇天を見て慌てて洗濯物を取り込む。それを見た男は、ただ黙って上司の小さな背中を追った。











 長机の上で、20枚の始末書と格闘する男がいた。亡命幇助、軍規違反、虚偽報告、反政府組織との内通。それが、今の彼の肩書に付随する罪名だった。


「あー、くっそ、サガラめ……お前があんなこと言って来なけりゃこんなことには」


 ぼやきながら、オフラインのパソコンを叩く。



 ――インターネットに繋がらないパソコンは、ワードプロセッサーと何が違うんだろうな。



 そんなどうでもいい事を考えて、頭を振って目の前の画面に集中する。


 窓の外からは、兵士達がランニングをする声が聞こえる。ずっと椅子に座り通しのアズマは、誰もいないのを良いことに、立ちあがって軽いストレッチをし始めた。


 コツコツ、と廊下を歩く音が聞こえ、即座に椅子に座る。次の瞬間入室した小隊長の目には、只管に始末書を片づけるアズマがいた。


「アズマ、あとどれほどかかる」


「凡そ半分ですので、あと50分ほどで終わらせます」


 あまり慣れないキーボードを拙く叩き、欠伸を噛み殺す。



 ――まあ始末書の20枚30枚、全然ましか。


 そう強引に納得すると、手を握りしめて気合を入れなおした。



「そうだ、先の探偵組織についてだが。押収した書類に、やはり一部不備があったんだ。推測するに全国の支部の居場所を示す紙と思われるんだが、何か心当たりはないか?」


 それを聞いて、小隊長とレジスタンスのサクが、「何者かが侵入した可能性がある」と話していたことを思い出した。


「書類ですか……申し訳ありません、思い当たることは」


 手を止め、首を振る。一瞬脳裏にヒカリの姿がちらついたが、それはないだろうと脳裏に置いておく。


 ――あんな気の抜けた笑顔で、んなことしないだろうし。


「そうだろうな……悪いな。書き終ったら印刷して俺を探せ」


「了解しました」


 小隊長は踵を返し、退室する。後には、目の疲れに嘆息するアズマだけが取り残された。


「……はぁ……」











「ふぅ……」


 薄く開いた唇から人知れず吐息を漏らし、彼女は静かに降下を続けるエレベーターの中で、壁にもたれて目を閉じていた。



「戻ってきたか」


 エレベーターが開き、彼女に厳しい声が投げかけられる。目を開けると、そこにはがっしりとした体つきの男が待ち構えていた。そのシルエットは、以前少女がパソコンを使用する際に声を掛けた人物のもので、少女が8年見続けたものだ。


「心待ちにしてくれましたか?」


「似合わぬ冗談を。あいつが呼んでいる、行くぞ」



 行くぞと言いつつ、先に行けと顎で示す。その対応が警戒心故であることはすぐにわかるが、その程度で心持を悪くすることもない。


「シャドウ、お前は報告に行ってこい。その後研究部にて試作品の受領とカードキーを渡し、後は指示を待て」


 いつも通り“影”のように付き添っていた部下は、シャドウというコードネームに反応して頷き、彼女から離れ通路を曲がっていった。



 少女の背後に、一回り二回り大きな壮年の男が付く。街中でそんな光景を見た人間は十中八九不審に思うだろうが、今この場で彼等を振り返る者はいない。それ程までには2人とも顔が知れていた。


「レンティアネームとやらが付けられた私を、処分しますか」


「さあな。8年面倒を見ても別れは一瞬だ。お前ならよくわかっているだろう」


「情というものは湧かない、と」


「仲良しごっこの為に育てたわけじゃない、あまり失望させるな」


 少女はその鋭い舌鋒に、男のレンティアネームを思い出す。



「“ザ・ドナー”、その名を体現せしめる者。お似合いの二つ名で御座いまして。これ以上皺が増えたら大変ですよ、雷親父なんて時代ではないでしょう」


「ザ・ミラージュ。誰も素性を知らず、そのくせ誰しもが似ていると言う。自分を隠す……いや、自分を持たないという点では、ターゲットと変わらんな。俺にとってはそれこそ瞞しの名だが」


「御気になさらず、それを知ってるのは貴方がた2人だけです」


「3人じゃないのか?」


 冗談や皮肉の応酬は、敵意の表れではなかった。男も警戒こそすれど、少女がポケットに手を突っ込むのを止めない。それは2人の間に信頼が生じていることを意味していた。



「シャドウに聞きましたか?」


「いいや。まさかお前が自ら素性を明かすとはな。あのターゲットは、そこまでお前を惹き付けるものを持っていたか?」


 その声に、一切の感情は篭っていない。意識して感情を排したことに気付いた少女は、既に会話の時間は終わったと悟った。


「旧派はなんと?」


「議論をするつもりはない。お前がターゲットと何をし、何を感じたかを訊いている」



「特筆することはありません。生立ちを話したのは、それを語った方がより信頼を得られるから。彼女は、一度信頼した相手は信じ切る嫌いが見えますからね。そして信頼すればするほど、嫌われないように自分を殺す。

 板挟みに遭った可哀想な山荒は、針の無い内側を晒す事も出来ず、ただその関係に無意識下で依存していく。肉体的距離は離れようとも、精神的距離は、最早そのものの支えが無ければ倒れてしまうほど近しいものになっている。

 そう、感じたからです」


 少女は一切言葉を詰まらせることなく口を開くが、その頭の中ではいくつもの計算が行われていた。そうして数秒先に話すべき言葉を組み立て、少女は不敵に笑う。


 それは、ザ・ミラージュと呼ばれる少女だからこその報告だった。



「そうか。その報告をあいつにも……ボスにもするんだな」


 一つの扉の手前で2人は立ち止まる。そのドアは他に並んだそれらと見た目上で違う所はないが、思わずノブに手を掛けるのを躊躇う。だが男はそれを許さず、右手を伸ばして扉を開け放った。


「連れてきました」


「みたいだな。入って良いぞ」


 比較的若い男の声が、部屋の奥から響く。その声は2人にとっては聞き慣れたものであったが、緊張せずにこの扉をくぐれた事は無い。


 そしてその声に従うことが当然であるように、2人は足を踏み入れる。





 その部屋は、他の部屋と格別の事は無かった。大きさも、黒で統一された内装も、特筆すべき様な事はほぼない。扉が閉められる事によって完全防音となるのも、共通設計であった。部屋の奥からドアに向かって明かりが設置してあり、奥に座るボスの姿は見えない。



「相変わらず、ここの部屋はつまらないですね。息が詰まる」


 背後の扉を閉めてから、少女は(おもむろ)に口を開く。その言葉は親しい間柄の人間へ投げかけられるそれだったが、誰も咎めようとはしない。


「華美な装飾は好みじゃなくてな」


 対するボスも気さくに答え、そこに組織を牽引する人間としての威厳は感じられない。姿恰好も、集団の頭を張るにしては若々しいものだった。


「助かった、ザ・ドナー。もう行っていい」


 そんな言葉を使って部屋を2人きりにする。





「ターゲットの様子は?」


「相変わらずですが、以前よりかは遥かにポジティブ思考になったかと」


 部屋の奥でコーヒーメイカーを動かしながら、ボスは世間話をするように報告を促した。


「それは、奴等の目的遂行にとって吉と出るか、凶と出るか」


「恐らくは、レジスタンスの成功を促す結果になるでしょう。図らずしも、彼女は……ターゲットは台風の目になっていきます。ターゲット個人とも一定の信頼を築き、レジスタンスの幹部数名との接触もしました」


 コポコポとコーヒーがカップに注がれていき、液面にボスの顔が反射する。


「そうなるように、お前の方から仕掛けたんだろう? 強かに育ったな」


「……目的のためならどんな手段でも躊躇うな、と教えたのは貴方がたです。それに私は、レジスタンスに関わる案件に於いて、如何なる権限をも振りかざす許可を他でもない貴方から頂きました。彼等の支援こそが、この組織の悲願達成に近づく最大の一歩なのでしょう?」



「この組織の、か」



 2つのカップを持つボスは、彼女の言葉を反芻する。少女はそんな様子のボスに微かな違和感を覚えたが、差し出されたカップを近づいて受け取った。仄かに歪むボスの口元が見えた。


「御気に召しませんでしたら、『我々の』でも良いですが」


「言葉に気をつけろ。我々の心は即ちこの組織の心だ。俺達が同時にここへ来たからといって、俺とお前の間には大きな隔たりがある。俺は挿げ替えるのに用意された頭として、お前は組織のために育てられた手先として」


「そのどちらにとっても問題なのは、新しいものを受け入れられない、自分を実力者と勘違いした奴らが、組織を二分し反旗を翻そうとしていることでは?」


「想定内さ、前の頭と比べれば俺は大分手緩いからな。だがそれもこれまでだ、そろそろ本腰を入れようか」


 デスクに腰掛けカップを傾けるボスを見た少女は、自らの手元に浮かぶ自分の顔を飲みこんだ。



「……ええ。わかりました」





「これまで通り、ターゲットを支援しろ。先程言った通り、それが悲願の達成に繋がる。その為ならば、いかなる犠牲をも許容しろ」


「それは当然です。ですが、一つ疑問があります。……些か、彼らに関する情報が詳らかすぎるかと。私が監視に就く前から既に多数のデータが集積されていました。幹部は当然のこと、末端の構成員一人ひとりに至るまで余りにも細かすぎるデータが。顔さえ変えれば、今すぐにでも彼らのアジトで彼らの仲間としてすり替われるほどです」


「あのデータベースは我々の最大の武器だ、命令一つで動く殺戮マシンよりも遥かに有用な、な。その精度を上げるのは当然だ、それが重要な対象となれば猶更な」


 その言葉で、彼女は振り返り扉にもたれかかった。その眉根には小さく皺が寄っている。


「……手駒として、我々の目的を達するために使うつもりがあるのは承知してます。ですがあまりにも熱を入れすぎでは? 所詮は市民による武装ゲリラ集団、政府軍に逆らう彼女らは大局的に見れば巨像と蟻でしかない」


 冷たく言い放つ。だがボスは椅子の背もたれを僅かに軋ませると、大きく口元を歪ませた。それが驚きなのか面白がっているのか、彼女には判別がつかない。



「まさか、武力で軍をひっくり返せる組織があると思ってるわけではないよな?」


「……それは、その通りですが。彼らが立案する作戦も我々の提示した可能性を出ない、凡庸なものです。精々、『民間人上がりにしては良くやっている』、その程度の評価でしかないかと」


「妥当だな。だが脅威測定部の試算はあくまで、利用価値が高いという結果を覆さない。それに新たな駒を探すより、理想の姿に仕立て上げる方が楽だろう? さっき言ったはずだ、『本腰を入れる』と。

 どうした、情でも移ったか?」



「……いえ、承知しました」


 頭を下げると、少女は空になったカップをデスクに置いた。部屋を出ようと踵を返す。







「ああ、そうだ」


 彼女は何かを思い出したように立ち止まり、ドアノブに手を掛けたまま振り返った。



「私のレンティアネームとやらですが。ザ・ミラージュなんて恥ずかしい名前、変えて頂きたい」


 背後から、椅子が重量から解放された音が聞こえる。足音は、ラグに吸収されて聞こえなかった。


「ああ、そうか、気に入らないか。それなら、考えておこう……」


「……? 何か?」


「……俺がお前を連れ出して、もう9年か? ユイ」



 気が付けば、ボスはすぐ目の前に立っていた。手に持ったコーヒーを啜る背筋はピンと張っているが、少女はふっと吐息を漏らした。


「レンティアネームで呼ばれるくらいなら、その名前の方が数倍まし。それに口から出た言葉は『連れ出して』なんだ。9年、9年と5カ月。私が生まれ変わってから、貴方に救われてから、まだ9年しか経ってないんだよ」


 9年前のあの日のことを、彼女は克明に覚えていた。きっとつい先日、ターゲットに打ち明けたことが原因だろうか。あの控え目な笑顔を浮かべ、『交換条件です』と言って耳打ちをする姿を思い出す。それから、綻んでいた表情を元に戻すと、先程よりも深く丁寧に頭を下げた。



「ご心配なく、命を救っていただいたご恩を忘れたことはありません。命令は何に代えても遂行しますし……命令の意味も、よくわかっています」


 様子は既にいつもの冷静な彼女に戻っているが、その顔は僅かに晴れやかだった。



「それならいい、任務に戻れ、ザ・ミラージュ。全ては一つの夢のために」


「ええ。全ては一つの、夢のために」




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