君を忘れない
4月7日、水曜日。晴れ渡る青い空を、雲が追いつ追われつ駆けていく。そんな清々しい天気も、病室で横になるヒカリには関係のないものだった。
薄い消毒液の匂いが漂う病室。患者が少ないからと宛がわれた個室は、彼女一人には広すぎた。テレビや冷蔵庫、トイレや風呂が部屋の中にあるのは少女としては助かるが、ソファやテーブルは使うことはないだろう。
テレビでは数年前のドラマが再放送されている。小さな冷蔵庫からプリンとティラミスを取り出すと、ベッドに腰かけてプリンの蓋を開けた。
「おはようございます、ヒカリさん。あ、お食事は全部お召し上がりになられてますね、良かったです。
失礼します、体温測らせてくださいね」
ノックをして看護師が入ってくる。それに気づいたヒカリはテレビの音量を下げると、空の容器を捨てて体温計を受け取った。
「左手に何か違和感があったりとかはしませんか?」
「いえ。時折ジンジンと痛みますけど、動かそうとしなければ特には」
ピピピと鳴った体温計を渡して、左腕を動かす。撃ち抜かれた肩に高圧ガスを至近距離で受けた掌。鉄パイプの一撃を受けた頭にもだが、ズタボロになった左腕には文字通り指先に至るまで、包帯がぐるぐると巻かれていた。
「後程担当医の方が傷口の様子を確認しにまいりますので、その時一緒に包帯もお取替えしましょ」
「わかりました。それと、お聞きしたいんですけど……なんで私、入院させられてるんですか?」
両手の人差し指で布団を軽く叩き、いまいち状況を把握しきれていないことを示す。
「傷の手当と包帯と薬の処方だけなら、通院で良いと思ってたんですけど。いや、入院計画書に目を通したからわかってはいるんですけど……」
「だってヒカリさん、こうでもしないと休まないって担当医の方がぼやいてましたよ。体を休めてくださいと何度言っても聞いてくれないから、丁度いいんだって」
「はあ……」
頭を下げて出ていく看護師を見送って、再びテレビのボリュームを調整する。確かに今は休むのにいいかもしれない。戦闘や作戦、訓練の連続で体を休めたことはほとんどなかった。右手で欠伸を隠すと、ベッドに背中を預けて布団を腹にかける。完全にくつろぐ姿勢だった。
「じゃあ、まあ、お言葉に甘えて、休ませていただこうかな」
サイズの合わないスリッパが床をこする音や、胸腔ドレナージの機器内部に溜まった血液が空気でボコボコと泡立つ水音。点滴のかかったカートを引きずり、時折漏れるため息や、医療器具を乗せたワゴンを押す足音が、三つ隣の病室を開けた気配。
耳をすませば、直接見なくともわかる情報は多い。敵意や殺意を感じ取る超直感だけに頼るのではなく、五感を養う訓練も日ごろから欠かしてはならない。
「……って、結局“訓練”か。好戦的とか言われてもしょうがないかな」
いつかの友達の言葉を思い出し、複雑な気持ちになっていると、遠くから階段を上がってくる足音が聞こえた。
「あれ、この足音……」
ビニール袋のかさかさいう音と、靴のかかとを地面に擦るように歩く足音。それがヒカリの病室の前で止まり、第二関節で叩く軽いノックの音がした。
「入っていいよ、シュン」
引き戸を開け入ってきたのは、ベージュのニットを着たシュンだ。驚きを隠すような苦笑いを浮かべて、袋から飛び出した花を取り出す。
「入ってくる前に名前呼ばれるとびっくりしちゃうよ。左腕はどう?」
「肩の銃創は上手く処理されてるし、感染症の疑いもないって。それに手の爆傷も、いくつかの薬の服用と療養に一週間くらい休めば問題ないんだって。まあ、傷跡は長い間残っちゃうみたいだけどね」
しょうがないけどね、と小さく舌を出しおどけるヒカリ。上手い言葉が見つからなかったシュンは、透明な花瓶をベッドの傍に置いて、そこに小さな青い花を生けた。
「……Forget―me―not?」
「……? 花言葉? まあ知ってるんだろうけど、勿忘草だよ。青はお見舞いには良くないと思うけど、ヒカリはこの色、好きでしょ?」
ヒカリのヘアピンの一つ、青い蛍光色のそれに非常に似た色で、青色とはいえ見ていて心が晴れやかになる。
「シュンって大人っぽいよね。お見舞いの花は暗いとあんまり縁起良くないとか、この年で普通知らないでしょ」
そう言われたシュンは、照れくさそうに眉毛を掻いて、隠し事を曝け出すように口を開いた。
「実は、本屋さんで調べてきたんだ。病院だからなんとなく明るい方が良いのかなとは思ってたんだけど。
それにそう言うけど、ヒカリだって知ってるんだね」
シュンはそこまで言い切ってから後悔した。お見舞いのマナーなんてものは、実際に行くことにならない限り考えることはない。
「んー、まあね。……丁度いっか、私ちょっと行かなきゃいけないところが……」
少しの間考え込んだヒカリは、ベッドから立ち上がってスリッパに足を通した。だが一歩を踏み出そうと右足を上げた体が、不意にバランスを失う。
「あっ、危ない!」
シュンが慌ててヒカリの肩を支え、倒れる寸前で彼にもたれかかる。
「……うぅ、ごめん、立ちくらみが。血出し過ぎて貧血になっちゃったかな」
「それなら僕も付いてくよ。ふらふらしてる怪我人を置いてったら、あとで僕がミズキに怒られちゃう」
そう言われ困ったような表情を浮かべたが、すぐに頷いた。
「ついて来ても気分のいいもんじゃないけど……でもどうせ、大丈夫って言ったってきかないもんね。それじゃ、ご同伴お願いします」
財布を病衣のポケットに入れ、部屋を後にする。
「ねえ、そのプリザーブドフラワー、どうするの?」
購買で買い物をした二人は渡り廊下を歩き、ヒカリの病室があるA棟からもう一つのB棟に向かっていた。ヒカリの右手には先程のシュンと同じように、淡い紫色の花が顔を覗かせたレジ袋を提げている。
「病院に売ってる理由なんて、一つしかないよ。シュンはこの花知ってる?」
「えーっと……あんまり花に詳しくないんだ、ごめんね」
「平気平気、これは紫苑だよ」
色の名前にもなっている、綺麗な色の花だ。決して明るい色ではないが、ヒカリにはこの花を選ぶ理由があるのだろう。
階段を二つ三つのぼり、最上階に上がる。購買やエントランスのある正面玄関からはかなり離れていた。通りすがる病室の名札は、名前の隣に黄色や赤のシールがついている。
「ここって……」
「うん、まあ、お察しの通りかな」
言葉も少なく、早足で廊下を歩く。シュンはそれに遅れないよう黙ってついていった。
「……着いた、この部屋だよ」
そこは階段から遠く離れた病室。A棟と違いひどく静かで、心電図のモニター音が反響してくる廊下の一番奥の部屋。その名札は――
「……”77号室の、マミ”」
シュンが、思わず口に出して読み上げる。
「そ。マミのお母さんはスピリチュアルな本とかいろいろ読んでて、入院するときも無理いって番号を77に変えてもらったの」
病室の前で立ち止まったまま、ヒカリは名札を睨みつけている。
「そう、なんだ。ラッキーセブンって言うし、早く快復するようにってことなのかな」
「さあ、どうなんだろう。私はそうじゃないと思う。割り切れない七角形、七日目の休息日、六つの世界を輪廻した先にある、7つ目の世界。
……なんて、昔調べた本に書いてあっただけなんだけどね」
ヒカリは吐き出したため息を隠そうと、無理やり作った笑顔をシュンに向けた。
「とにかく、入ろっか。マミちゃんに話したいことも沢山あるしさ」
その病室はとても綺麗だった。窓からは日差しが伸び、テーブルには小振りな花が飾られ、ゴミ箱にプリンの空容器が捨てられていることもない。
だがよく見れば、それは綺麗というにはあまりにも寂しい部屋だった。枯れることのない花の葉にはうっすらと埃が積もり、お菓子はおろか、ティッシュの一枚も使われた形跡がない。
何より部屋の持ち主は、来客にも関わらず言葉の一つも発さず、人工的に作られた安らかな笑顔で眠り続けていた。
部屋を見渡していたシュンは、元々置いてあった花に見覚えがあることに気付く。ついさっき自分で用意した勿忘草だ。
「マミ、久し振り。ごめんね遅くなっちゃって。最近忙しくて、中々会いに来れなかったよ。でも、沢山マミに話したいこともあるから、それで許して……埋め合わせてくれないかな」
目を閉じたままの部屋の主――マミの隣で、ヒカリは花を交換しながら話しかける。幼馴染のシュンでさえ見た事の無い“後悔”の滲んだ表情を浮かべながら。
「ヒカリ、この子の意識は……」
「もう4年間、眠ったまま」
認めたくないように、首をゆっくりと縦に振る。その姿で気づいた。4年前に中学校で起きた、3人の女生徒による飛び降り事件。付き添いで救急車に乗るヒカリの姿をシュンは覚えていた。そして更にその奥――真っ赤に染まった制服を着て担架に横たわる生徒のことも。
「マミだけ、エリとミリとは違う落ち方をして、そのせいで1人だけずっと……」
ヒカリは硬く拳を握りしめた。それが怒りからなのはシュンにもわかるが、その矛先がどこを向いているかまでを察せるほど、ヒカリは感情を露わにはしなかった。
「違う、落ち方?」
「……後から落ちたマミが、エリとミリの上に落ちたの。そのせいで、1人……」
花弁を撫でる指に力がこもり、くしゃりと歪む。
「……そうだよね、マミはずっと1人、この病室の中で苦しんでるんだよね。人の声も届かない隅で、見舞いに来るのは私だけで……ずっと苦しいんだよね……」
ヒカリがマミの右手に触れる。その右手は太陽に照らされたせいで温かく、ともすればこの瞬間にも握り返してくれそうなほど。しかし、ただその一瞬を渇望するヒカリは、その時が恐らく来ないであろうこともわかっていた。
「……私は、マミのことを、ずっと……」
目にかかる髪の毛を払ったヒカリは、今まで体験したことをひとつずつ、ゆっくりと物語にしていく。それはまるで眠りへ誘う子守唄のようでいて、意地になって話すことをやめられない子供のようだった。
「ヒカリ、さっき言ってたのって……?」
ヒカリの紡ぐ物語が一段落ついた所で、シュンは口を挟んだ。顔に疑問視を浮かべるヒカリは、「見舞いに来るのはヒカリだけってところ」と説明されて苦笑した。
「説明もなにも、そのまんまだよ。マミを見舞いに来るのは私だけ」
「でも、お母さんはわざわざ無理いってまで病室ナンバーを変えてもらったくらいなんでしょ? ……あ、まさか、事故か何かで?」
そこを追及されヒカリは、あー……と口を開く。
「その……マミの家族は、両親もお兄さんも皆元気だよ。お父さんは少し前にテレビで見たし」
「それなら一体どうして……」
一度も親の顔を見た事の無いシュンは、何故娘に会いに来ないのかをヒカリに尋ねる。そこにはもしかしたら、本人も気が付かないほど小さな羨望が混ざっていたのかもしれない。珍しく食い下がってくるシュンに、ヒカリはマミの手を離し椅子から立ち上がった。
「マミは子供が大好きで、あるとき私にだけ、保育士になりたいっていう夢を教えてくれたんだ。丁度ミズキみたいにね。高校で最初に私に話しかけたのもマミで、エリとミリっていう双子を入れた4人で、学校ではいつも行動してたの」
それはヒカリの口から語られるにはあまりに珍しい、普通の学生生活だった。その様子を見るに、マミは本当に大切な友人なんだとすぐにわかる。
「あの日は、私が初めて3人と外で遊んだ日だった。日曜日、太陽が肌を焼く日、私達は商店街で色々なことをした。ゲームセンターでお揃いのキーホルダーを取ったり、キラキラの写真を撮ったり、夜ご飯を食べたり。なんせ人生で初めてだったから、苦しいくらいにドキドキしたの。
問題は、そのあとだった。ゲームセンターを出たらもう22時で、怖くなった私は帰ろうって言ったの。だけど2人はまだ平気だって言って、マミも2人が言うならって……3人の家はそこから近いし、どうしても怖かった私は、断ってから家路についた」
4年前に起きた中学校での飛び降り事件のあらましは知っていたが、ヒカリの口から語られたことは無い。それは当然だった。誰だって自分の身の周りで起きた事件を話したくはないし、それが自分の過失だと思い込んでいるなら尚更だ。
「それで、私が別れた後3人は男達に目を付けられて、次の日、学校で……」
口を噤み、当時の記憶を呼び覚ます。そこには隠しておきたい事実があった。
「屋上から飛び降りた……」
黙り込んだヒカリに代わって、報道された情報と照らし合わせて言葉を繋げる。それは事実であったが、それだけが真実ではなかった。だがヒカリは苦しそうに頷き、曖昧に微笑んだ。
「その日からだっけかな。雨に打たれると気持ち悪くなっちゃうようになったのは」
「……それで、彼女の家族は一体……?」
結局疑問は解消されていない、とシュンは訝しげに疑問を呈する。
「……マミの父親は潔癖で、仕事にばかり熱心で、あんまり家族の事を顧みるような人たちじゃなかったんだって。娘が汚されて、挙句の果てに自殺を企図した。それがきっと、耐えられなかったんだろうね」
以前マミ本人から聞いた事を思い出し、ヒカリは悲哀に満ちた溜息をつく。それがシュンには不思議でたまらなかった。
「家族を辱められたのが耐えられないとしても、娘に寄り添うのが……」
「……? 違うよ。耐えられなかったのは、家族が酷い目に遭ったことじゃない。自分の近しい人が汚くなったこと。しかも自殺を企てておいて、中途半端に生きてること。だからマミを遠ざけて、運が良ければ死ぬよう祈ってるの」
孤児院出身で家族に一種の憧れを抱くシュンにとって、およそ耐えられる話ではないかもしれない。それでもシュンは黙ってヒカリの話を聞き、目を瞬かせていた。
ヒカリは再び病室に入り、マミの横で彼女の手を包み込むように握る。
「だからせめて、こんな私でもマミの傍にいてあげたいの。それが私の、責任だから」
――……どうしていつも、ヒカリはこんな表情を浮かべるんだろう。
ヒカリがこうやって自分を押しつぶすような表情をするたび、シュンは人差し指に服の裾をくるくる巻き付ける。そうして心優しい少年は、いつも胸の中に少しずつ棘のような痛みを抱えていった。
「……だけど」
ヒカリは手を伸ばし、シュンの服の裾を掴む。
「大丈夫、私はどこにも行かないよ。こう見えて私だって、少しずつでも変わってくんだから。いつまでも過去に縋りつくわけにはいかないから」
晴れやかな笑顔。今までにも何度か純粋な笑顔を見たことはある、だがヒカリが自分に関係することでこんな憂いのない表情を浮かべたのは、シュンにとって初めてのことだった。これはきっと、あの廃工場で見た兵士――アズマによる影響で間違いないだろう。
「……うん。そうだね」
彼らとレジスタンスを取り巻く環境が変わりつつあることに、シュンは小さな不安を感じる。それでも今は、目の前の幼馴染の前向きな変化を笑って受け入れた。