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そう遠くない未来

本編よりほんの少し未来のお話。読まなくても本編に差し支えはありませんが、読んでいただくと作者の描きたい『彼女』の物語をなんとなく感じていただけると思います



「行け、その先に逃げた!」


「ほんとか? いないぞ!」


 家の窓を開けて通りに飛び降りる。右手に握りしめた小さなネックレスを首に通すと、彼女は追いかけてくる声に責め立てられるように、汚れた制服のスカートの裾を摘まんで走り出した。


 焼け焦げた避難誘導のビラが、風に吹かれて飛んでいく。彼女は昨日、避難所に指定された図書館から抜け出してきたところだった。残してきた弟の姿を思い浮かべ、熱くなる体を前へ、前へと進ませる。


「いま、戻るからねっ……シュウ……!」




「止まれ!」


 銃声がし、足元に火花が散り、廃車の窓ガラスが割れる。それに驚いた彼女は足をもつらせて派手に転び、痛みに呻いた。



「うぅっ、いったぁ……」


 すぐに立ち上がろうと両手で地面を押すが、血の滲んだ手が沁みて涙が出る。それでも持ち上げた体の上から、誰かの足が思い切り踏みつけてきて、彼女は再度地面に横たわった。


「よし、捕まえた!」


 すぐ上で男が叫ぶ。肺が潰れるように苦しい。どれだけ体に力を入れても、どれだけ叫んでも逃れられなかった。


「暴れんじゃ、ねえ!」


 苛立った男が彼女の後頭部を銃で殴りつける。視界が一瞬で黒くなり、少し遅れて体の感覚もなくなっていった。


「……シュ、ウ……」










『――緊急速報です! ダムが突如爆発し、決壊しています! 職員やツアーに参加していた学校と連絡が取れず……

 ……あれは? ちょ、カメラ寄って! ……生存者です! 女性らしき生存者が……じゅ、銃を持っています! それに、あのバンダナは……レジス、タンス……!?――』



『――聞いたか? こないだのレジスタンスの事件、あれ裏切りだってよ。しかも仲間を何人も病院送りだと。やったのは確か、幹部のスナイパーの……なんてったっけな。

 ……ああ、そうだ。ヒカリとかいう女だ――』














「……ら、早く……」


「……っさと起きろ……!!」


 鈍く痛む後頭部に、咳き込みながら意識を取り戻す。慌てて周囲を見渡せば、周りは銃を持った男――兵士たちに囲まれていた。思わず後ずさり、かえって注目を浴びてしまう。右手には荒れた病院、左手には赤い家。家の二階の窓から顔を出す棚の上の犬のぬいぐるみさえも、まるで彼女のことを見ているようだ。



「ようやく起きたか、お嬢ちゃん。部下が手荒な真似をして申し訳ない。ここで何をしていたんだ?」


 タイヤの潰れた車のボンネットに座っている礼儀正しい隊長が、彼女に問いかける。


「……わっ、私、ただ失くしたものを探しに来た、だけです……」


 震える手を握り、爆発しそうな心臓を押さえる。


「こんな状況で?」


「……大事な、形見なんです……」


 右手の人差し指にはめた古臭い指輪を握りしめた。


「お願い、します、見逃してください。誰にも、何も言いませんから。だから、お願いします」


 口を真一文字に結んで、頭を下げる。



「ああ、もちろん。我々は軍人だ、罪のない人々を苦しめるわけがない。君の仲間はどこにいるんだ? 皆まとめて保護しようじゃないか」


 白い歯を見せる男が、立ち上がって彼女に手を伸ばす。だが少女は咄嗟にその手から離れると、唇を舐めて胸の中に不信感を隠した。


「なっ、仲間……? 私たちは、ビラに従って図書館に避難してるだけで……」


 言葉を言い終える前に、横腹を蹴り飛ばされる。体が吹き飛び、地面を二度転がった。





「かっ、はぁっ……!」


「だーもうめんどくせえ。隊長、こんなガキは痛めつけりゃとっとと吐きますよ」


 その声は最初に彼女を踏みつけた男の声だった。目頭に涙を溜める少女の髪を掴んで、無理やり体を引き起こす。


「おいっ、やめろ!」


「新入りが口出すんじゃねえ! 単刀直入に聞くぞ、てめえの仲間はどこにいる?」


「だからっ、図書館に避難してます! 痛い、離してくださいっ!」


「そいつらじゃねえ、てめえの仲間だよ! 俺たちの仲間を何十人も殺しまわってる、あの屑野郎の居場所を答えろっ!!」


「本当に、私なにもっ」


 鋭い痛みと共に、ぶちぶちと髪の毛が何本か抜ける。いくら何も知らないと訴えても、涙を流して懇願しても、その責めが止むことはなかった。







「隊長、この子は制服を着てます、民間人でしょう? 印のついたバンダナも身に着けていませんし、今すぐ安全な……」


 部下の一人が見るに見かねて耳打ちする。だが隊長は眉一つ動かさず首を横に振った。


「甘いな。影に隠れて我々に牙を立てる薄汚れた奴らだ、民間人に偽装する程度、造作もないだろう」


「ですがっ」


「もう無駄だ、やめろ」


 少女の隣にやってきた隊長が、部下の手を離させる。解放された少女の体が力なく地面に倒れこんだ。


「やめて……助けっ、助けて……」


「そうか、教えてくれる気にはならないか、残念だ。情報を渡されたら面倒だ、殺せ」


「了解」


 銃口が彼女の頭を捉える。


「そんなっ、隊長!」


「死体をここに広げておけば、奴等への見せしめにもなるだろう。この子が例え“レジスタンス”の仲間だとしても、民間人だとしてもな」



 本当のことを言えば、この軍人たちが探している組織については検討がつく。数日前に図書館へ避難するようビラを配っていた人たちこそ、レジスタンスという組織だ。この国ではもう何度も彼らについて報道されている、知らない人はいないと言っても過言ではなかった。だがそのメンバーや、彼らがどこにいるのかを知っている人間は少ない。一つわかっているのは、彼らが自分たちを守るために戦ってくれているという事。


「さっさと吐きゃ捕虜として生きられたんだがな。恨むんならてめえを恨め」




 俯き、涙が一滴指輪に落ちる。それを滲んだ視界で追っていた彼女は、最後の意趣返しと言わんばかりに声を張り上げた。


「私はっ、何も知らない! っ、助けて!!」



「……うるせえ悪あがきだ」


 兵士たちは躊躇することも、考え直すこともしない。ただただ無慈悲に、引き金に指をかける。




 そして次の瞬間、銃声が響いた。







「……え……?」


 目の前の兵士が、何が起きたかわからないという風に目を大きく見開いている。それは周りの兵士も、彼女も同じだった。だが周りと違って、目の前の兵士だけは最期まで理解できない。何故引き金を引いていないのに銃声がしたのか。何故自分は首を傾げているのか。


 何故自分が道路に倒れ、目の前が暗く、赤くなっていくのか。



「敵です、隊長!」


「ああ、銃声は一つだけだ、慌てるな」


 周りの兵士たちが車やゴミ箱の影に隠れるのに対し、隊長は目の前の光景を処理しきれない少女を掴み、人質にした。歯向かう気力もなく、ねじり上げられた左手の痛みでなされるがままだ。


「敵は?」


「おそらく右手の赤い家です!」


「随分近いな……聞け! こいつが貴様の仲間かどうかは知らんが、助けたいんだろう?」


 返事はない。だがそれで十分だと、隊長は小さな少女の背中に器用に体を隠した。


「あまり下手に動くと、君も私も一緒に撃ち抜かれるだろうな」


 その脅しも相まって、手酷い打擲(ちょうちゃく)を受けた体は動かなくなった。ただ手足を震わせたまま、涙を流し続ける。彼女の心は恐怖でいっぱいだった。




「よし、二人、家に突入しろ。お前は援護だ、俺も車の陰に行く」


 部下に指示を出し、少女を引きずって車の陰に隠れようとする。だが震えて思うように動かない彼女の足のせいで、上手く後退することができない。


「おい、後ろに下がれ、ゆっくりだ!」


 耳を叩くような声で茫然としていた少女が意識を取り戻す。それでも言う通りに動かない体に、せめて少しでも心を落ち着けようと、数分前の自分を振り返る。銃声、怒声、銃口、剥き出しの歯。その途中で場違いな犬のぬいぐるみを思い出した。



「……?」


 視線を上げると、やはり赤い家の二階にぬいぐるみはあった。だがさっき見た時と違い、何故か横を向いている。不思議に思いそちらに視線をずらしてみる。



 窓ガラス。ぬいぐるみのある子供部屋。その奥の長い廊下。突き当りの部屋。その天窓の外の屋上に、誰かがいた。家を一つ挟んだ屋根の上、意識して見つめなければ決して気付かないであろう隙間を縫った先に、何か長いものを持って、こちらを見ていた。



 ――だい、じょう、ぶ?



 唇の動きなど到底見えない。それはこの距離もそうだが、何かバンダナのようなもので顔を覆っているせいでもあった。それでも少女には、そう言っているように感じた。



「おい、下がれって言ってるのが聞こえないか? 早く……」


 風を切るような音と、何かが右頬を掠める感覚。それに引かれるように、不意に言葉を止めた隊長を振り返り……尻餅をつく。彼女の足元に赤い血だまりが広がっていった。



「お、おい、やっぱりこの銃声はあいつだ、あの狙撃手が生きてたんだ!」


 家へ近づいていた兵士たちが驚きの声を上げて足を止める。すぐさま玄関に張り付いてしゃがみ込み、そこで地面に横たわる隊長に気がついた。


「隊長! くそっ、隊長もやられてる!」


「黙ってろ! 本部へ通達、“フラン(franc)ティラール(tireur)”と接触した! 近くの部隊はいないか!

 …………くそっ、だったら先行部隊に伝えとけ! ヘリ持ち出しといて狙撃手一人殺せねえてめえらクソ野郎どものせいで、仲間が死んだってな!!」


 兵士たちの言葉の意味は少女にはわからない。それでもその焦りだけは嫌でも伝わってくる。



「……よし、準備は良いか? 行け行け行け!」


 ドアを蹴り開けて、階段を駆け上がっていく。そしてそれと同時に、家の屋上から一つの影が飛び降りてきた。



 大きなケースを抱えて足と腕で着地と同時に前転し、少女を通り越し廃車のボンネットを滑る。陰に隠れる兵士は驚きで対応が遅れた。その一瞬の隙に腰から拳銃を抜いた影は、胸に三発の銃弾を叩きこむ。


 例え防弾チョッキを着込んでいようと、その衝撃まで受け止めることは出来ない。体に穴を開けるほどの衝撃をいくつも受けて、兵士は呼吸が出来ずに倒れこんだ。



 ぬいぐるみのある部屋からいくつもの銃弾が影目掛け飛んでくる。だが銃弾の代わりに丸い何かを車の陰から窓に投げ入れると、慌てる足音の後、窓枠に足をかけた兵士が、爆発で吹き飛ばされた。




 あっという間の出来事に、少女の思考が追いつかない。ただ一つわかるのは、不意に現れたこの人が、あの兵士たちを全員殺してしまったと言う事だけだ。





「……はっ、はっ、はぁっ……」


 胸を押さえる苦し気な男が、這いつくばって車の向こうから姿を現す。そしてそれを追いかけるように、楽器ケースを背負い軍人たちと似たベストを着た影が少女の前に現れる。それは女性だった。口元を赤いバンダナで隠しているが、少女よりも4、5歳は年上のようだ。



「ぐっ、くそ……なん、だ、お前は一体何者だ……!」


「さあ」


 吼える男に向かってナイフを構えた彼女。その手が振り下ろされる直前に、少女は無意識を声を出していた。


「待っ、て……!」


 ナイフを構えたまま、女性はこちらを振り返る。


「……その人は、悪い人じゃないから……だから、殺さないで、ください……」


 彼は何度か隊長に尋問をやめるよう言っていた、その言葉は聞き入れられなかったが。それを聞いた正体不明の女性は、それから何かに気付いたのかぐるりと回りを見渡していた。




「いるでしょ」



「なにが、だ……」




 少女は知らないが、彼女の呼び名はいくつかある。作戦の主力部隊をその支援ごと壊滅させられた指揮官は、苦渋と称賛からその守り神をパドロック()カテナチオ(かんぬき)と呼んだ。空気を切り裂く銃声を忘れられない兵士は、その姿を見せない敵を死神やフランティラール(狙撃兵)と呼び恐れた。





「支援兵が一人、いるんでしょ?」


 その言葉と同時に彼女はしゃがみ、同時に、彼女のいた空間を一発の狙撃弾が引き裂いた。



「なっ……」



 車に飛び込んだ彼女は、反対のドアを開けて、着ていたジャケットを投げ飛ばした。敵の狙撃手もそれを撃つほど馬鹿ではなかった、精々一瞬意識をそちらに向けただけだ。


 その一瞬が、真の意味での命取りだった。車内から彼女が放った銃弾ははるか遠く道の突き当り、折れた高層ビルの窓の一つに邁進した。ひたすらに息を潜め、必殺の瞬間に引き金を引いたはずのスナイパーは、なぜ自分が撃たれるのか、理解する前に意識を深い血だまりに沈めたことだろう。




「……本当に、お前は何者だ……」


「あなた達は、戦えない、戦う意志のない民間人を何人も殺し、今この子までも手にかけようとした」


 車から出た狙撃手は落ちたジャケットをはたいて、生き残った男に一歩ずつ近づく。楽器ケースのロックが一つ外れていた。


「私は私のしたことを正当化するつもりはない。だけどあなた達軍隊は、助けると言って差し伸べる手にナイフを隠して、この国の背中に深々と突き立てた。子供も、老人も、あなた達は全員殺した」


 兵士の胸に足を下ろす。うめき声が叫びに変わるのに、あまり時間はかからなかった。



「……忘れないで、そしてあなたの仲間によく伝えて。お前たちが殺し損ねた私は、大切なものを壊す人間を許さないって事を。私は、決して諦めないって事を」



 じたばたする男から足を下ろすと、一切の興味を失ったように視線を切る。男は一度、傍に落とした銃を見たが、諦めて這いつくばるように逃げていった。







「君、大丈夫?」


 拳銃をホルスターに戻した彼女は(うずくま)る少女の背中に手を伸ばす。だがその手が触れるより早く、少女は怯えて後ずさった。


「……私も、殺すんですか……?」


 その目は酷く怯えている。楽器ケースを背負った女性が、腰の後ろに拳銃を差して、軍人の使うベストを着ているんだ。無理もないだろう。そもそもそのケースだって、長方形の武骨なデザインはさながらジュラルミンケースのようだった。たくさんのシールやステッカーが貼ってなければ、とても楽器ケースには見えない。


 


 女性は赤いバンダナを首元にずらして顔を見せる。その表情は歴戦の勇士の様に厳ついものではなく、さりとて懐柔させる様に笑顔を浮かべているわけでもない。ただ幼い女の子の様に、傷ついた心を隠すよう微笑んでいた。


 そこで初めて知る。少女が赤いバンダナと思っていたそれは、元は紺色だったバンダナが額から流れる血で染まっただけだということに。そして端の方に、何か丸い印が刺繍されていることに。



 目の前の女性こそが、兵士たちが探していた人間だということに。



「……あなた、は……」


「私? 私は……ヒカリだよ。ご存知の通り、元“レジスタンス”の狙撃手」


「……っっ!!」




『――じゃあ行ってくるよ、モモカ。ショウの面倒をちゃんと見るんだぞ。大丈夫だ、今日はダムの点検だけだからすぐ帰ってくるよ――』


 両親との最後の会話を思い出す。その暖かくて大きな手が、彼女を撫でてくれることはもうない。二人が働くダムは爆破された。人々を守ろうとするレジスタンスを抜け出した人間が、何十人もの命と共に、決して狭くはない範囲の街を水底に沈めた。





「あなたが、『ヒカリ』……!?」


 目を見開いて、後ろに後ずさる。その名前は知っていた。この国の住民なら誰でも聞いたことがあった。


 『死神』『殺人鬼』そして『裏切者』。どれも全て、彼女を指す言葉だった。



「なんでっ、こんなところに……!」


 手が隊長の血だまりに染まる。不意に冷たい“それ”に触れた少女は、無我夢中でそれを――拳銃をヒカリに構えた。



「はっ、離れて、ください!」


 手の震えは止まらないし、そもそも拳銃の構え方なんか知らない。それでも少女は、それを向けずにはいられなかった。


「……それは拳銃だよ、おもちゃじゃない。殺す気がないんだから、人に向けるのは良くないな」


「わかってます! 答えてください、どうしてこんなところに、どうして、どうして私を助けたんですか!」


「だって、助けてって声が聞こえたから」


「……あなたが殺した私の両親も、きっと助けてって言ってたはずですっっ!!」


「……っ……!」



 思わず口走った言葉に自分で驚く。だが、言ってしまったものは決して取り返しはつかない。




「……君、もしかして……モモカちゃん?」


 綺麗な唇を薄く開いて、ヒカリは小さな驚きの表情を浮かべた。だが少女――モモカはそれ以上に、名前を知られている驚愕で目を見開いた。そんな彼女の肩をヒカリが突然掴む。


「危ないっ、っっ!!」


「えっ?」


 その動きに全く反応できなかったモモカは、驚いて思わず全身に力を入れた。その直後、道の先から鳴り響く銃声が二人を襲う。有無を言わさず押し付けられた車には無数の銃痕が出来たが、銃弾がエンジンを貫いてくることはなかった。


「いたぞ、後続隊の仇を討て!」


「狙撃手と観測手か? 奴をやれば英雄だ、何があっても殺せ!!」




「増援、もう来たのか……」


 車から片目だけを出して様子を見るヒカリのことを、モモカは震えて見ている。正確には、彼女には見ていることしかできなかった。


「……合図したら、あそこまで一気に走るよ」


 そう言って苦し気にヒカリが指さしたのは、車のすぐ横にある病院の入り口。自動ドアのガラスは割れていた。だがモモカはすぐに首を横に振る。



「なっ、何言って、なんで私を助けようとなんて……」


「……なんで、って言われても……理由なんかないよ?」


「そっ、そんな偽善信じるとでも……それに、それにわたっ、私の、私のせいで……」


「……大丈夫、落ち着いて?」


 ヒカリは横腹を押さえる手を服で拭いて、モモカの頭を優しく撫でる。彼女の服とベストから、ゆっくりと血が滲み出てきていた。モモカが驚いた拍子に引いてしまった引き金が、ヒカリの腹から横腹にかけてを貫く銃弾を発射した。息は荒く、地面には血だまりがゆっくりと広がっていく。


 だがあくまで穏やかな笑顔を絶やさないヒカリは、血に染まったベストから細長い筒を取り出すと、金属のピンを苦心しながら抜いて、車の反対側へ投げる。数秒経って、煙が通りに充満し始めた。


「ふぅっ、行くよっ!」


 飛び出したヒカリは歯を食いしばり、なおモモカの手を離さない。一方、わざとでなくても人を撃ってしまったモモカは放心していて、手を引かれるまま自動ドアの枠に足を引っかけて病院のロビーを滑って転んだ。


「立って、地下へ!」



「煙が晴れた、行け、行け!」


「捕まえたら身ぐるみはがして連れてこいっ、殺したならその病院に吊し上げろ、味方を殺しまくった屑に報いを受けさせてやれ!!」


 恐ろしい叫びが聞こえ、立ち上がり一心に階段を降りる。もはや何もかもから逃げたかった。追ってくる兵士からも。銃を向け、ひどい言葉を投げかけ、腹を撃ち抜き、それでも助けようとしてくれるヒカリからも。そしてすぐに怯えて体が動かなくなる自分からも。








「……ふぅ……入り口と階段にはバリケードを作っておいたから、しばらくは平気。地下には非常時に備えて物資があるはずだから、ここで落ち着くのを、まとっか」


 少しして階段を降りてきたヒカリの顔色は、先程より白くなっているようだった。すぐにケースやベストを体から外すと、廊下に座り込んで壁にもたれかかる。息は荒く、苦し気だ。



「あの、これ……」


 一足先に地下を捜索していたモモカは、清潔なタオルや医療用道具が詰め込まれたバッグを抱えて、ヒカリの傍らにゆっくりと置いた。


「……ごめんなさい。私が驚いて銃を撃っちゃったから、謝って許してもらえることじゃないけど、でも、私のせいで……」


「大丈夫、気にしないで。撃つつもりなかったのは、私が一番わかってるから。ね、“モモちゃん”」


「それって……」


 その呼び方をする人は二人しかいない。どうしてヒカリが名前を知っているのか不思議だったが、その理由が今わかった。


「……両親に、聞いたんですか」


「うん、弟のショウくんもね」


 それだけで彼女には衝撃だった。てっきり、両親の事など知りもしないと思っていた。ましてや、両親がヒカリに自分たちの事を話しているなど、考えたこともなかった。燃え盛り決壊するダムを見たときから、深い悲しみと爆破犯への恨みでいっぱいだった。


 捲った服を咥えたヒカリは、負傷した箇所に消毒液を振りまいている。どうやらここで、自分で応急処置を行うようだ。モモカは反対側を向き、ヒカリの苦しそうなうめき声を黙って聞いている。





「……少し、話を聞かせて、もらいたいです」


 暫くして、遠慮がちにモモカがぽつりと呟いた。


「いいよ。麻酔も終わったし、私も気を紛らわせたいしね。モモカちゃんが知りたいのは、あのダムの事件について、だよね」


 両親の働くダムが爆破され、決壊したのはまだたったの数か月前だ。そしてその三日後、爆破犯と見られていたレジスタンスという反政府組織の狙撃手――ヒカリが組織を裏切り、アジトを破壊したという噂が流れた。


 だが目の前の彼女は「助けて」という悲鳴でモモカを助け、負傷しても案じるのはモモカの安全。その姿は大量殺人者や裏切者の烙印など微塵も感じさせなかった。



「……それだけじゃなくて、ヒカリ、さんのことを、聞きたいです」


 僅か十数分前まで、モモカはヒカリこそが両親を殺した張本人だと思っていた。それどころか自分の仲間を裏切る最低な人間だと信じていた。


 だけど目の前のヒカリがそんな人間だとは、モモカにはどうしても思えなかった。


「どうして自分の仲間を裏切ったのか、どうしてあの時ダムにいたのか、……どうして、この国がこんなことになってるのか。ヒカリさんなら、知ってるんじゃないですか?」


「……そうだなぁ、話すとしたら最初から、かな。結構長くなっちゃうよ?」


 頷いて、モモカはヒカリの方を振り向く。今からまさに傷口を塞ぐところで、湾曲した針がヒカリの肌に突き刺さっていた。思わず両手を握りしめて背筋を震わせるが、深呼吸をしてじっとヒカリの目を見つめた。


 ――私のせいなんだから、目を逸らしちゃダメ。


 ヒカリもそんなモモカの様子を見て、驚いたように唇を尖らせる。それから一度手を止めると、昔を懐かしむように頭を壁に預け目を閉じた。



 ヒカリはモモカより年上とはいえまだかなり若い。それなのにこうして銃を持ち、自分を治療できる知識も持っている。それだけで彼女の事を知らないモモカにさえ、その人生が大変なものだったことは簡単に想像できた。きっと今ヒカリは、その一つ一つをゆっくりと振り返っているのだろう。


 ヒカリの左手が、ずっと背負っていた傍らの楽器ケースを撫でる。たくさんのシールが貼られたそのケースの中から出てきたのは、ギターなんかではなく無数の傷がついた狙撃銃だった。いたるところの塗装が剥げ、それなのに何故かモモカの心に浮かんだ感想は、「綺麗」という一言だった。






「この銃は、文字通り私の“手”なの。これがあったから私は死なずに済んでるし、生きていられた。

 ……本当の始まりはもっとずっと前、だけど私たちにとっての始まりは3年前。私たちが、あの橋を落とした時から。あのときから私たちには、前に進む以外無かったの――――」





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