表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プレリュード~夜明けの彼方へ~  作者: 木柚 智弥
夜明けの向こうにあるもの
8/8

夜明けの向こうにあるもの

 それから一週間後に雅俊は退院した。

 小倉邸に戻ると、中の雰囲気が明らかに以前と変わっていることに気がついた。

 重苦しく、いつも緊張感に包まれていたような空気が取り除かれ、邸内で働く人たちの表情も明るくなった気がする。そんなことを思いながら部屋に戻ると、しばらくして新しく当主になった啓一に呼ばれた。


「そこにかけなさい」

 小松に連れられて書斎に入った雅俊に、デスクから立ち上がった啓一は部屋中央のソファーを指し示した。

 彼も、少し変わった気がした。

 濃紺のスーツを着たすらりとした姿は変わらないが、以前の、いつもどこか諦観(ていかん)しているような気配が薄れ、代わりに精悍さが加わった感じだ。

「これを君に渡す」

 そばに来た啓一は大きめの厚い茶封筒を差し出した。先に席に着いた雅俊は右手を伸ばして受け取った。まだギプスの巻かれた左手で封筒を押さえ、右手で口を広げて中を覗くと、書類のようなものが入っていた。

 雅俊が疑問の眼差しを向けると、正面に座った啓一はさらに別の書類を小松から受け取り、ガラスのローテーブルの上に広げた。

「ここに君が署名すれば手続きが完了する」

「何の……ですか?」

 探るように訊ねると啓一はあっさり答えた。

「小夜子との養子縁組だ」

 一瞬、意味がわからない。

「養子?」

「小夜子が密かに進めていたんだ。ここから君を連れて父から独立するために。法律上、君の父親は私だからね」

「でも、小夜子はもう……」

「心配はいらない。日付は(さかのぼ)って手続きする。また、書類には君が未成年のうちに小夜子が死亡した場合を想定して、うちの弁護士が後見人になるよう指名されている」

「後見人………」

「封筒の書類はアトリエの権利書だ。弁護士の桑原(くわばら)が同じものを保管している。それがあれば他の一族の者には手が出せないだろうよ」

 淡々と話を進めていく啓一の態度に、雅俊はつい聞いてしまった。

「なぜ、そんなことまでしてくれるんです。アトリエの相続権なんて、小夜子が死んでしまった今、握りつぶしてしまえばいいことだ」

 すると啓一は足を組み、以前のような皮肉の入り混じった笑みを寄こした。

「不安かい? じゃあ安心させてあげよう。小夜子との交換条件があるからだ」

「交換条件?」

「君は今のところ私の相続人の一人なんだよ。いずれ私が当主になった時、鞠江を離婚させても残る君の小倉家の相続権を放棄させる。それが条件だ。小夜子は書類が揃った時点で君に伝えるつもりだったんだろうね」

「離婚……するんですか」

「当然だろう? 私を無視して勝手をしたんだ。父が亡くなった今、彼女を妻にしておく理由はない」

 雅俊が黙り込んだのをどう捉えたのか、啓一は姿勢を崩すと少しくだけた口調になった。

「あれほど〈小倉〉に執着した鞠江がそれを失い、ここからの解放を願った君には小倉姓が残る……なんとも皮肉な結末じゃないか」

「おれが養子を断るとは思わないんですか?」

 啓一は肘かけについた手に顎を乗せて雅俊を見た。

「父を捨て、命をかけて君を守った小夜子の、いわば遺言を断る? それは君にはできないだろう」

 目を逸らす雅俊に啓一は続けた。

「本気で愛しあっていたんだろうからね」

 思いのほか湿った声に目線を戻すと、彼の眼差しには憂いが滲んでいた。

「愛憎だけは思うようにはないかない。そもそもの発端は、父が腹違いの姉に当たる女性を本気で愛してしまったところから始まるんだ」

「腹違い?」

「ああ、知らなかったかい? 父と、そして私も妾腹なんだよ。本家にはあとから入ったんだ」

 啓一は(こと)()げに告げた。

「父はそこで本妻腹の姉、凛子(りんこ)を愛してしまい、執着を捨て切れずに彼女の娘、瑠衣子(るいこ)を自分の息子の嫁にした」

 つまり、私の妻に迎えたんだな、と彼は口の端で笑った。

「さらにその嫁に手をかけた。そうして生まれたのが小夜子さ」

「えっっ!」

「だから小夜子は私の妹になるんだ」

(妹……っ!)

 雅俊は啓一を凝視した。それが本当なら、目の前にいる男は、父親が妻に産ませた子と承知しながら小夜子を自分の娘として戸籍に入れ、暮らしていたことになる。

「そんな……ばかな」

 たとえ相手との仲が冷めていたとしても、それは考えられないほどの屈辱だ。啓一という男に、そこまで自らのプライドを無視できるとは思えないのだが……。

 雅俊の視線を外すように、啓一は少し顔を下げて続けた。

「昔から血族婚を重ねてきた小倉一族は、先天的な疾患を持つ子どもが多かった。だから叔父と姪の間柄である二人から生まれた小夜子も、その(くびき)から逃れられなかったんだ」

「だから、あの人は小夜子の体をあんなにも……」

「そう。自分の執着の結果を小夜子に負わせた。その罪悪感が、異常な過保護に向かったわけだ。特に麻酔アレルギーがわかってからは怪我にも敏感になった」

 それで、不用意な外出や用事を嫌ったのだ。

「小夜子の心臓に開いた穴は、幼少期に手術すれば治せるギリギリの大きさだった。けれども大手術に耐えうる強い麻酔は彼女には使えない。そのために完治ができなかった」

「そう……だったんですか」

「父は認めたがらなかったが、主治医には、もってあと五年から八年だろうと言われていたよ」

「八年……」

「君とのつながりを、養子縁組で妥協しようとしたのもそのせいだ。正式にアトリエを渡したければ小倉でいたほうがいい。けれども本家は出たい。婚姻届けを出す日まで、自分が無事でいられるかどうかはわからない……」

 雅俊はローテーブルに置かれた書類を見た。署名欄を埋めるのは、啓一と鞠江、そして小夜子の名前。

「小夜子は、私がいつか鞠江を離婚させるつもりでいることをいち早く察したらしい」

 苦笑を浮かべた啓一は胸ポケットに手をやり、そこに刺さる万年筆を指先に挟んだ。

「一旦、養子にしてしまうと親となった者とは結婚はできない。法律ではそう定められている。けれども君が十八になるまで小倉家で暮らすことは耐えられない、そう言っていた」

 ふと、最近よく啓一と話し込んでいた小夜子の姿を思い出した。あれはきっとこの話のためだったのだ。

「小夜子は個人の資産もかなりあってね。それをそっくり君に渡したかったんだろうね。もちろん、小倉本家の相続分とは比べられないけれども」

 啓一は背もたれから体を起こすとこちらに手を伸ばした。雅俊は黙って差し出された万年筆を取り、目の前の書類の空欄に署名した。

「それで、君は今後どうする? 私としては君には何の含みもない。今までどおり本宅で暮らしてもいいし、小夜子が使っていた東棟の居室で暮らしてくれても構わないが」

 雅俊から万年筆を受け取った啓一は再び背もたれに背中を預けた。雅俊はしばらく考えたが結局首を横に振った。

「整理する時間をもらいますが、それが終わったら出ます。ここに住む気にはなれません」

「まあ……そうだろうな」

 彼はひとつ頷くと腰を上げた。話が終わったことを感じ、雅俊もソファーから立ち上がった。

「あとの細かいことは、小松がわきまえている。彼と、弁護士の桑原がいれば事足りるだろう」

 ソファーを離れ、デスクに向かった彼の背中に雅俊は呼びかけた。

「ひとつ、質問してもいいですか?」

 啓一は重厚な作りのデスクに片手をつくと振り返った。

「なんだい?」

「あなたは、小夜子を大事にしているように見えた。むしろ小夜子のほうが避けている気がした。その、嫌じゃなかったんですか?」

 もし名目上だけだったとしても、妻と父親との間にできた子を目の前にして……。

 すると啓一が初めて感情を(あらわ)にした。

 それは、怒りの入り混じった笑み――。

「私と瑠衣子は幼馴染みでね。ままごとの続きのように夫婦になった。彼女は凛子の娘だったけど、父の本妻である清子(きよこ)の姪でもあったから、私たちは早くから結婚が決められたんだ」

 淡々と話す口調には、しかし気圧されるような迫力があった。

「お互い、いつも一緒にいるのが当たり前で。小倉家の醜い勢力争いや父の画策、子どもの産めなかった清子の思惑とは関係なく、私たちは魂を分けあう存在として寄り添っていたよ」

 君たちのようにね、と続けた啓一の目がふいに激しい色を帯びた。

「だから奪われた時は衝撃だった」

 背後から憤りのオーラが滲む。

「瑠衣子をは心を病んで、小夜子を産むとすぐ亡くなってしまった」

 そのあまりの強さに雅俊は息を呑んだ。

「私は誓った。何があろうとも、小倉一族の持つ権利のすべてを必ず手に入れてみせる、と。でなくては、小倉家のために翻弄(ほんろう)されてきた私たちがあまりに浮かばれない」

 啓一はひとつ息をついた。

「力を蓄え、準備が整うその日までひたすら自分の怒りを押さえて暮らす私にとって、小夜子は瑠衣子を偲ぶよすがでもあったんだよ」

 憤りを静めた彼にいつもの表情が戻る。

「小夜子は父を好いていたから、父との確執を滲ませる私には懐かなかった。アトリエを譲られた十五歳の時に清子から事実を知らされると、ますます隔てを置くようになった。でも、君を愛するうちに少しずつ父の姿に気づき、最後に私たちは心を共有した。だから」

 啓一は回り込んでデスクに着いた。

「あの日、小夜子を病院から出した」

 雅俊は目を見張った。

「あなたが」

「結果は、思い描いたとおりとはいかなかったが……」

 そこで少しだけ啓一は顔を(うつむ)けると、思いを振り切るようにまた顔を上げた。

「あの時の判断に後悔はない。また、これだけは確信している。小夜子も自分の行動に悔いはないはずだと」

 そこには迷いのない眼差しがあった。

「ある意味、君には感謝している。小夜子の手続きを進めるのはその現れだ」

 雅俊はその目をまっすぐ見返した。

「わかりました。色々ありがとうございました」

 そして、もう会うこともないだろう、啓一に頭を下げ、書類の封筒を持ち直すと、小松に伴われて書斎をあとにした。


     ♢♢♢


「いよいよ来るのか」

 感慨深げな恍星の声に、雅俊は個室に置きっぱなしだった荷物を片付けながら返した。

「ああ。よろしくな、先輩」

 あれから二ヶ月近くが経ち、季節は冬本番に入った。怒濤の変転を味わった一年ももうすぐ終わりだ。学校が休みに入る前にピアノ科で使っていた個室を空けなければならない。

「別にそこまでしなくたっていいのに。作曲科の連中だってここは使うだろ?」

「荷物までは置いてないだろう? 使う頻度が違うし。それにけじめだからさ」

 新学期から雅俊は作曲科の生徒になるのだ。そして……。

「で、家のほうは? 荷造りは済んだのか?」

 恍星の質問に雅俊は頷いた。

「もう運送屋に預けてある。あんたの隣の部屋が空き次第、いつでも入れるさ」

 年が明けたらいよいよ拓巳の父親の店〈バードヘヴン〉に乗り込むのだ。

「でもなんでアトリエがあるのに寮に入るんだ? おまえはオーナーから入寮の義務を免除されたんだろう?」

〈バードヘヴン〉は原則、入寮が条件だ。ランクがトップテンに入ると住居が自由になるのだそうだ。ちなみに恍星は何とNO.2なのだという。けれども「金を貯めたいから」という理由で未だ居続けている。ある意味アッパレだ。

「あそこにはなるべく生活感を漂わせたくないんだ。あくまでもアトリエとして使いたい」

 小夜子の芸術が溢れた今の雰囲気を壊したくない。

「それに、郷に入らば郷に従えって言うだろ? おれは新人なんだし」

 高橋オーナーに指定された新人研修の店で働いて一ヶ月足らず、まだまだ覚えなければならないことは多い。

「なーにが新人だよ。聞いたぞ。一ヶ月の個人売り上げ記録を塗り替えたっていうじゃんか」

「まあ……」

 確かに。啓介の〈仕事〉で修行を積んだせいか、人あしらいはうまかったのですぐに結果が出た。

「お陰でオーナーにハッパかけられて、うちの新米や低ランクのホストたちは今から戦々恐々としてるぜ」

「そんなんじゃない。ただ、あんたと同じでおれも目的のために金を稼がなきゃならないから」

 小夜子が残してくれた財産は、普通の学生だったら安心して私立大学まで通える額だ。でもこれから雅俊がやろうとすることには金がかかるのだ。

「ああ、バンドやユニットは自主ライブに金かかるもんなぁ……」

 学校に復帰したあと、二人に来たというスカウトの内容を調べてみると、どれもプロダクションで研修生として勉強しながらデビューを、というものだった。だがそういった力関係で入ると拓巳がロクなことにはならない。やはりライブやコンテストで評判を取り、プロダクション側を呼び寄せるくらいになるのが理想だろう。

「それにピアノが弾けなくなった分、予定より時給が減るし」

 雅俊の左手は、やはり小指がネックになった。

『長い時間をかければ動くようにはなりますが、数年先の話です』

 担当の形成外科医から説明を受け、ピアノで身を立てる道は完全に捨てた。

 音楽会のあと、当初の目的どおり、恍星とともに雅俊には幾つか弟子入りの声がかかっていた。後々にはデビューを支援するとまで言ってくれたそれらの声をありがたく受け止め、感謝の言葉とともに事情を話して断った。

 高橋要の店〈バードヘヴン〉に入るべく面接に行った時も「ピアノは弾けません。それでも迎えてくれますか?」と聞いた。すると、

『いいだろう。おまえの価値はピアノだけではない。ただしその分、時給は下がるが。だが心配はいらない。おまえならすぐに高給ランクに昇格するだろう』

 高橋はそう受け合ったのだった。

「だから必死なのさ。できればメンバーを増やしてバンドにしたいから」

 ピアノを捨てたことで、雅俊は本腰を入れて拓巳とのこれからを考えるようになった。彼のボーカルには何の問題もないが、二人では音楽の幅が狭くなる。

「もう一人、できればギターを扱えるやつが欲しい。ただし拓巳の顔にも平気なやつがな」

「そりゃハードル高いな……」

 そんな話をしながら片付けていると、当の本人が入ってきた。

「雅俊。あと一回でおまえのロッカーは満杯だぞ。残りはどれくらいだ?」

「おまえも手伝ってたのか」

 恍星の声に拓巳は少し目を見開いた。

「恍星。いつ来たんだ」

「さっき。高等部が終わってからだ」

「そうか」

 彼は頷くと残った荷物の量を見て嘆息した。――多分。

 拓巳も少しだけ変わった。

 小夜子を失った雅俊の痛手を少しでも軽くしようと思ったのか、音楽会のあとも続けることになった放課後の個別レッスンでは、態度がより真剣になった。

 高橋オーナーとの確執は相変わらずで、雅俊が身動きできない間に二件ほど厄介な客に遭遇したこともあったそうだが、真嶋芳弘の支えもあり、どうにか踏みこたえたらしい。

『一人でもやればできるんだな』

 などと声をかけられ、高橋にはこちらが手助けしていたことをしっかり把握されていた。けれども予想したとおり「結果さえあれば」が彼の心情のようで、文句は言われなかったという。

 それがわかったからかどうか、拓巳は少し心が軽くなったらしく、周囲とのコミニュケーションが増し、恍星ともこうして会話することが増えている。だから恍星が弟子入りを断ったのは、

『もう少し学園で勉強して、大きいコンクールに挑戦します』

 などというまっとうな理由ではなく、ようやく縮めることのできた拓巳との距離を、今はまだ手離したくないとの思いがあるからだと睨んでいる。

「じゃあ俺は行く。年明けの二日、〈バードヘヴン〉で待ってるぜ」

「おう。じゃない、はい。ご指導、お手柔らかに願います。恍星さん」

 かしこまって一礼すると、彼は笑いながら「こちらこそ」と言ってドアの向こうに姿を消した。

 最後の楽譜の束を紙袋に入れて立ち上がると、ガムテープを棚に戻しながらつぶやく拓巳の声が聞こえた。

「二日から、本当に来るんだな……雅俊」

 振り返ると、揺れるような眼差しにぶつかった。

「なんだ。信じてなかったのか」

「そうじゃない。そうじゃくて……」

「心配してくれるのか?」

 高橋の店は、結果を出せない新人ホストには厳しい。〈ピアノ〉という特技を失った雅俊への気遣いもあるのだろう。あの店にはベヒシュタインがあるのだ。

 拓巳の前に行くと、雅俊はその整った顔に自分のそれを近づけた。

 拓巳の不運を象徴する、世にも稀な美貌……。

「心配はいらない。おれは接客だってこなせる。知ってるだろうに」

 肩に右手を置くと、彼の手も動いた。

「でも……」

 そっと触れてきたのは、手のひらにサポーターをはめた左手。

 雅俊の退院後、拓巳はこうして労わる素振りを見せるようになった。それまでも体の事情を明かしたことで彼から気遣かわれたりはしたが、復帰してからはそれが顕著になった。だるさや目眩など、薬による副作用もあるからなおさらだ。ただ……。

「拓巳。もし気がかりなら言っておく。おれの中の〈女〉を労わる必要はない。確かに男とまったく同じ腕力や体力はないんだろうが、それを補う技や知識は持っているつもりだ」

「………」

「おまえを助け、あの店と父親から解放する。それが目的で行くのはそのとおりだ。けどそれは自分のためなんだ」

 拓巳は、小夜子という癒し手を失った雅俊が、自分のせいでさらなる痛手を受けたりしないかと不安なのだ。

「おれの表現したいものは小夜子のものでもある。それはおまえがいないと完成しないんだ」

 だから、と雅俊は拓巳の肩をつかんだ。

「気遣ってくれるならまずは自分を守れ。それがおれを守ることにつながる」

「わかった」

「おれたちのテリトリーを築くまで絶対諦めるんじゃない。いいな」

 その言葉に、拓巳は真摯な表情で頷いた。



 そして一月二日。

 雅俊は〈バードヘヴン〉初出勤の日を迎えた。

 以前この店に来た時は特別待遇だったが、今日はベストにワイシャツ、スラックスといった新人の制服で、新年の挨拶に並ぶ従業員三十人の末端に立っている。フロアの遥か前方にあるステージ、あのベヒシュタインが黒く光る隣のスペースで、高橋オーナーが訓示を述べるのを拝聴しているのだ。

 NO.2である恍星は右隣、そしておそらくNO.1であろう端正な顔立ちの少年が左隣に立っている。拓巳の姿はない。彼は従業員ではないからだ。

(さすが世渡り上手で有名な男。うまく考えたもんだよな……くそっ)

 雅俊は改めて高橋要という男の手強さを知る思いだった。

『いくら高橋要が裏社会に顔が利いて、違法ギリギリをつくのがうまくても、未成年にあんな働かせ方をするにはどこかに無理があるはずだ。それを暴いて見せる』

 それが、雅俊とともに拓巳の解放を目指す芳弘の考えだった。

『たとえ父親でも、本人の意志を無視して客に奉仕させるなんて虐待だ。僕は絶対に諦めない』

 彼は薄茶の瞳に憤りを宿しながら、拓巳を救うべく法律の力で外堀を埋めようとしていた。これから雅俊が内側を探り、彼に情報を送ることでそれは勢いを増す。うまくいけば、拓巳はそう遠からずあの父親から自立することができるはずだと踏んでいたのだ。しかし。

(そうは簡単じゃないってことだよな)

 協力を申し出た恍星から詳しく聞いたところでは、予約を入れた上客が来店した時間のみ、拓巳は姿を現すようになっているらしい。しかも彼の予約は金では買えない。その権利は、月間で店に費やした金額が高い客の上位七名に限られているのだという。こうして高橋は息子の美貌を上手に利用し、店の売り上げに貢献させているのだ。

 にもかかわらず拓巳には直接的な金銭のやり取りがないので「働かせて儲けている」といった痕跡もない。店では、彼はただVIP席に座っているだけで接客はしない(多分、できないからだ)ので、働かせているともいえない。問題の違法行為は外部のホテルで密室……証拠がない!

(なんちゅー親だ……)

 その話を聞いた時はさすがに開いた口が塞がらなかった。ここまで徹底されるともはや食ってかかる気にもなれない。

 そんなことをつらつらと考えていると周囲が突然、ざわめいた。顔を上げると、すぐそこに高橋オーナーが来ていた。

「雅俊」

 ざわめきを振り切るように雅俊は返事を返した。

「はい」

「よく来た。成果を期待していいだろうな」

「もちろんです。おれは遊びに来たわけじゃありません。戦いに来たんです」

 誰と、とは言わなくてもわかるはずだ。

 その物言いに周囲がさらにざわめく中、高橋は口許に笑みを浮かべるとこう言った。

「それでこそ雅俊だ。小倉家を離れ、おまえの前奏曲(プレリュード)は終わった。ここからが主題だ。何を奏でてくれるか、おおいに楽しみにしている」


     エピローグ


「――とし、雅俊!」

「――あ」

 一瞬、ここがどこだかわからない。

 すると両肩をつかまれ、揺さぶられた。見上げると、さらさらの長髪に縁取られた馴染みの顔があった。

「拓巳……」

「リハーサルの時間が迫ってるぞ。いいのか?」

 その言葉に、雅俊はようやく我に返った。

 ――そうだ。ここは二千人収容のYホール。今夜は三日間のコンサートの初日だ。


 高橋要に宣言したとおり、あれから半年で雅俊は恍星に継ぐNO.3になった。その後、学業やバイトの傍らバンドの結成に向けて準備を進め、拓巳の解放が成ったあとは店を辞めてライブ活動に専念、三年経った今年の春、ついにメジャーデビューを果たした。

 雅俊が拓巳と無事にデビューを果たすまでには、いくつもの関門があった。

 そのひとつ、〈拓巳の顔に平気な、音楽の幅を広げるメンバー〉はあっさりとクリアした。

 探し始めてから二ヶ月ほと経った頃、真嶋芳弘から控えめな紹介を受けたのだ。

「あの、実は僕の叔母のうちにもギターに狂っているのが一人いてね。拓巳も何度か会ってる。祐司も拓巳の顔には反応しないんだけど、ちょっと癖のある子で……会ってみる?」

 その一声で芳弘の叔母の家を訪ね、彼の従弟が一匹狼で有名な高校生ギタリスト〈ユージ〉であることに気がついた。音を合わせてみた結果はお互い満足なものになった。なんとも灯台もと暗しな話だ。

 大きな関門である拓巳の解放は入店から約一年後に叶った。成しとげたのはやはり真嶋芳弘だった。

 周囲の助けのもと、徐々に自我を取り戻した拓巳は少しずつ父親に反抗するようになっていった。すると怒った高橋は、ライバルの同業者で、あの啓介もかくやという少年嗜虐趣味を持つ男に拓巳を大金で貸し出すという暴挙に出た。そこで約二週間、悪徳の限りを尽くされた拓巳は、雅俊たちが助け出した時には廃人寸前の有り様になっていた。

 逆鱗を刺激された芳弘はすぐさま反撃に出た。

 彼は祐司の父親の(つて)を使って地元の刑事に話をつけると、まずはライバルの男の店に乗り込み、売春の証拠を警察に示して廃業に追い込んだ。そして高橋のもとに出向くと、店を摘発するために集めた証拠や書類と引き換えに拓巳の親権を放棄させたのだ。

 助け出された拓巳は精神を病んでいて歌どころではなかった。

 しかし雅俊をはじめ祐司や恍星、そして何より数ヵ月にわたる芳弘の献身的な看病でどうにか回復し、その後は芳弘自らが拓巳の後見人となって彼を支え続けた。お陰で拓巳の精神は安定を得、ようやくライブ活動にこぎ着けることができたのだった。

 そうして結成されたロックバンド〈T-ショック〉は、横浜を拠点に自主ライブを展開、人気を勝ち得ることに成功した。さらにコンテストで名を売り、狙いどおり複数のプロダクションから誘いを受けることができた。

 デビューから半年あまり、夏前に出したアルバムは順調に売り上げを伸ばしている。

 その間には芳弘も拓巳をモデルにしてコンテストで優勝し、ヘアスタイリストとしての地位も確立した。今や彼は横浜でも評判の美容師になりつつある。


 ピアノに置かれている雅俊の手を見た拓巳が、僅かに目を見開いた。

「そのピアノ……」

 ためらいがちに聞いてくるのを雅俊は笑いながら遮った。

「ああ、小倉邸にあった小夜子のと同じなんでちょっと懐かしくて」

 雅俊の左手は相変わらずだった。

 キーボード程度なら何の問題もないが、鍵盤の重いピアノとなると小指がすぐに痛んで動かなくなる。それでも少しずつアトリエのアップライトで訓練を重ね、僅かではあるが最近は動く時間が増えてきた。

 いつの日か、また弾けるようになるかもしれない――。

 ようやくそんな風に思えるようになった。

「そんな顔しなくていい。また芳さんに心配されちまう」

 雅俊は、気遣わしげに眉根を寄せた拓巳の、さらに威力を増してきた端麗な美貌を感慨深く見上げた。

 副作用を我慢して飲み続けた薬のお陰で、雅俊はあれから十二センチ背を伸ばした。が、拓巳はさらに伸びているのでいっこうに差が縮まった気がしない。三年経った今でも相変わらず雅俊は〈天使〉と呼ばれ、拓巳は〈ビーナス〉の代わりに〈衝撃の美貌〉との異名を与えられて二十歳(はたち)前後に見られている。

 よくここまで来られたよな。こいつも、おれも。

 幸い(?)なことに、拓巳という厄介な逸材を抱えた雅俊は、次々と襲い来る災難やセクハラ被害への対処で手一杯になり、左手を思い煩ったり小夜子を偲んで涙するヒマなどなかった。

 それでも少しだけ寂しい夜は、アトリエで小夜子の残した絵に囲まれ、思い出を抱きながら過ごす時間が孤独を慰め、新たな楽曲を生む原動力になってくれた。拓巳と小夜子のアトリエがなかったら、雅俊はこんなに早くは立ち上がれなかっただろう。

「芳さんから連絡はまだか」

「さっきメールがきた。店が一段落ついたから、今から出るそうだ。予定より早めに着くだろう、と」

 ヘアメイクを担当する芳弘はつい先日、独立して店を出した。オープン前後はさすがに忙しく、拓巳の仕事にだけかかりきりというわけにもいかなくなっていたのだ。

「よかった。芳さんがいるのといないのじゃ、おまえの調子が段違いだからな」

「………」

 微妙に目線が逸らされる。どうやら自覚はあるようだ。

「けど先週出したシングルは好評だ。感謝してる」

 ファーストアルバムが三十万枚を突破した〈T-ショック〉は、プロダクションでの立場をグッと強くした。テリトリーは確実に強固になりつつある。

「雅俊さん、時間です。お願いしまーす」

 折しもステージからスタッフの声がかかった。

「今いく」

 雅俊はピアノに目をやり、(ふた)に手を添えた。

 初めて出会ったあの日に弾いた小夜子のベーゼンドルファー。

 どのホールでも大切に保管され、なかなか目にすることのできないこのピアノがなぜこんなところに置かれているのか不思議だ。

 移動の準備がなされているところを見ると、何か手違いがあったのかもしれない。いずれにしても、コンサートを控えた今日、偶然にも同じ銘柄のピアノに触れ、小夜子が寄り添ってくれたような錯覚を覚える自分はきっと不幸ではないのだ。

 雅俊はピアノの蓋をそっと閉じると、そばに佇む拓巳を見上げた。

「さあ行くか。今日もまた勝負しに。三日間コンサートを勝ち取りにいくぞ。観客の心をおまえの歌声で鷲掴(わしづか)みにするんだ」

「ああ」

「ついでに、もう少しファンに愛想を振りまいてくれれば言うことないんだけどな」

「………」

 ちょっとムリそうだ。

「まぁいいか。おまえが順調で、遠くまで届けてくれるなら」

 雅俊が笑うと、拓巳も少しだけ笑みを浮かべて言った。

「承知した」

 その背を軽く叩き、雅俊は拓巳と肩を並べてステージへと向かった。


 小夜子。見えるか? 

 おれは今、夜明けを越え、新しい地に降り立っている。

 そこから見てくれているか――?



雅俊編、完結です。才能豊かで器用……しかし約一名を拾ったために苦労人の道へ。そんな雅俊のお話を知っていただけましたなら幸いですm(_ _)m。

次の芳弘編がリンクしますので、もうしばらくお付き合いくださいまし。

2018.9,編集改訂。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ