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プレリュード~夜明けの彼方へ~  作者: 木柚 智弥
夜明けの向こうにあるもの
7/8

決着

 運命のその日、雅俊は屋敷の音楽室で、後ろのソファーにもたれて座る小夜子に〈雨だれ〉を聴かせていた。

 日曜日の午後、すっかり色づいた中庭の紅葉がベランダの窓ガラス越しに映り、秋の気配を色濃くしていた。

「綺麗ね……」

 小夜子がうっとりとつぶやいた。雅俊は鍵盤からチラリと窓へと視線を投げ、「そうだね」と相づちを打った。

 彼女は笑いながら訂正した。

「違うわ。俊くんのピアノのことを言ったの」

「え……?」

 ピアノの手を止めて振り返ると、小夜子は肘かけに腕を置き、目を閉じたまま微笑んでいた。

「この前の演奏、〈革命〉もよかったけれど、私はこちらがより素晴らしく感じたわ」

「そう?」

 雅俊は少し高揚した。ああいった情緒的な曲で、小夜子から賛辞を得るのはなかなかないことだ。

「あなたの心が届くような、隅々まで神経がいき届いた旋律で……もう、私が教えることなどないくらい」

「それは誉めすぎだよ」

 雅俊は苦笑して椅子をずらし、体を反転させた。小夜子と正面から向き合う。

「いいえ。あのオリジナル曲の繊細な感性といい……私の持てるものは、もう十分あなたに伝わっているのね。これからは他の先生もお招きしなくては」

「そんなことは」

 ないよ、と言おうとしたその時。

 バンッ‼

 突然、破れんばかりの勢いでドアが開かれ、啓介が凄まじい形相で乗り込んできた!

「雅俊!」

「おじいさまっ?」

 驚いた小夜子がソファーから立ち上がると、啓介は吠えるように言った。

「ここにいたのか小夜子! おまえは直ちに病院に行きなさい!」

 そしてピアノの椅子から立った雅俊の胸ぐらをつかんで叫んだ。

「この、身の程知らずがっ!」

 ガッッ!

 頬を殴り飛ばされ、ピアノの足に倒れ込んだ雅俊は頭を強くぶつけた。

 一瞬、気が遠くなる。

「俊くんっ!」

 駆け寄ろうとする小夜子を啓介の腕が捕らえ、阻んでいるのが朦朧(もうろう)とする視線の先に見えた。

「やめておじいさま! 何なさるの⁉」

「小夜子! おまえは雅俊の学校で倒れたそうだな」

 その瞬間、雅俊の背筋を稲妻が走り抜け、小夜子の黒曜石の瞳が見開かれた。

「鞠江からすべて聞いたぞ。さあ小松、小夜子を病院に連れていけ。早く!」

 見ると、部屋の入り口にグレーのスーツ姿がおぼろげに見えた。

「嫌ですっ! 俊くんをどうなさる気なの⁉ おじいさまっ‼」

 悲鳴にも似た叫びは、しかしドアの閉まる音とともに聞こえなくなった。雅俊にはその音が小夜子との絆を絶ち切る音に聞こえた。

 脱力する雅俊の髪と首を啓介がつかんで引きずり上げた。

「よくも私の目を盗んで小夜子を消耗させたな。いい度胸だ」

 雅俊の耳に、啓介の息遣いが妙に生々しく届く。

「おまえにはたっぷりと仕置きをしてやる。私の意を無視したらどうなるのか、身に染みるようにな……」

 地獄の底から響いてくるような声を、雅俊は絶望とともに聞いた。


 音楽室から引きずられるようにして啓介の私室に放り込まれた雅俊は、奥の寝室で今までにない折檻を受けることになった。

「この痴れ者がっ。小夜子の命を削りおって!」

 啓介は雅俊を寝台の上で裸に剥くと、壁に飾られていた刃のないサーベルを手に取り、鞭のようにして全身に叩きつけてきた。

「ひっ! あぅっっ!」

 背中が摩擦で焼けつき、太腿が腫れる。

 さらに足で蹴られ、平手で張られ、朦朧としてきたところに、次なる試練が与えられた。

「そうだ。おまえにこんなものがあるからいかんのだ!」

 啓介はおもむろに雅俊の背中を足で踏みつけると、左腕をぐいっと引っ張り上げた。関節が抜けるかと思うほどの痛みが左肩を襲い、思わず顔を歪めた時、手首と指を両手で握り直す感触がした。

(まさかっ)

 全身に戦慄が走る。

「待って……っ!」

 反射的に身をよじろうとした次の瞬間。

 バキッ! ボキボキッ!

「ぅわああ―――っっ‼」

 脳天を突き破るような激痛が来た!

 ボキッ! ボキッ!

 啓介の手が、雅俊の左手の指をへし折っていく。

「あっ! ああっっ!」

 離された瞬間、手を抱えて雅俊は転げ回った。

「う、あぁ……っ!」

 全身に脂汗が滲み、目から涙が溢れる。うずくまった雅俊を、しかし啓介は容赦なく手にかけた。

「よけいなことを考えず、おまえはここで、私を愉しませておればいいのだ」

 言いながら両手首をつかんで仰向けにし、強引にのしかかって足を割り込ませてくる。

「おまえの価値はもともと腕になどない。それをわからせてやろう」

 そして啓介は、痛みと絶望で脱け殻のようになった雅俊の体を存分に味わい、貪りつくしていった。

 ――啓介の言葉の端々から、雅俊はすべてが明るみに出た経緯を知った。

 それはやはり学園内の保護者の関係からだった。同じく子弟を通わせている仕事相手が何の気なしに言った一言、

『で、小夜子さんは大丈夫だったのですか?』

 これがすべてを崩壊させた。何のことかと聞く啓介に先方は面食らいながらも音楽会での出来事を伝え、それを聞いた啓介は帰ってくるなり鞠江を呼び出したのだ。

『なぜ雅俊の学校行事におまえが行かず、小夜子が出席して倒れるのだ!』

 激怒する啓介に鞠江は震え上り、経緯を洗いざらい喋ったのだった……。


     ♢♢♢


 川崎市、S総合病院――。

 見晴らしのいい南棟、五階の特別室で、男の声が響いた。

「もう少し食べませんと、力がつきませんよ」

 白衣を着た医師が目を向けた先に、高級な作りのベッドに半身を起こして座る女性の姿があった。艶やかな真っ直ぐの黒髪、小作りな頭、やや伏せた瞼の奥には黒曜石の瞳。――小夜子だ。

 この病院は小倉家の出資で成り立つ、いわば傘下の会社のような位置づけで、医師たちがまるごと小倉家の主治医なのだった。

 脇のテーブルに下げられた昼食の残りに医師がため息をつくと、小夜子が口を開いた。

「……でしたら家に帰ります。家族の顔を見ながらいただけば、もう少し食も進むわ」

 医師は横に立つ女性看護師と顔を見合わせた。

「それは、まだいけません」

 看護師が返事を返すと小夜子は顔を上げた。

「もう、私に施せる治療なんてないはずです。そうでしょう?」

 小夜子に見上げられた医師の顔が一瞬、歪んだ。

「なのに、外から鍵をかけてまで私を帰さないなんてっ」

「小夜子さま……」

 看護師がうろたえ、医師に顔を向けた。それを見た小夜子はハッと口を閉じた。

(いけない、つい……。騒いだらまた鎮静剤を打たれてしまうわ)

 小夜子は素早く取り繕った。

「いえ、ごめんなさい。言い過ぎたわ。おじいさまにご心配をおかけしたのだもの。我慢しなくてはいけないわね」

 まだすべての経緯(いきさつ)を知らないらしい二人にいかにも反省している風を装う。案の定、彼らはあからさまにホッとした様子になった。

「会長も小夜子さまが無茶ばかりすると嘆いていらっしゃいました。でも、今の小夜子さまをごらんになればきっと喜んでくださいますよ」

 看護師の言葉に医師も頷く。最初の日に比べてずいぶん従順になったと喜んでいるようだ。

「夜のお食事は、もう少しいただくよう努力するわ。今日は、おじいさまは何時にいらっしゃるのかしら」

 さりげなく質問すると、看護師が人の良さそうな笑顔で答えた。

「今日は来られないそうです。明日の朝、一番で来る予定だとおっしゃっておられました」

「そう、ありがとう」

 小夜子が微笑むと、医師は「では、また来ますよ」との声を残し、看護師とともに去っていった。

 一人になった途端、小夜子は上掛けの羽根布団を剥いだ。

(ここにいらっしゃらないのなら、きっと俊くんのところに行くはずだわ)

 小夜子はナイトドレスの裾をからげて床に降り立つと、脇にあるクローゼットを開けた。隅に、ここに連れられてきた時に着ていたブラウンのワンピースと白いカーディガンがある。携帯は啓介に取り上げられてしまったが、小松がそっと忍ばせてくれたハンドバッグと中の財布はそのままだ。

(しばらくは誰も来ないわ。最初で最後のチャンスかもしれない)

 小夜子は素早く着替えると、バッグを持ち、靴を履いてバルコニーに向かった。

 バルコニーの先にはフェンスがあり、その向こうには別棟の屋上がある。ただし、一メートル以上あるフェンスを乗り越えた先には五十センチばかりの隙間があり、そこには五階分の高さが口を開けている。

(怖いけど、そこさえ頑張れば外に出られるわ)

 この一週間、じっと我慢して観察し、脱出手段を考えてきた。これが一番成功率が高そうなのだ。

(なんとしても、俊くんをおじいさまの手から取り返して匿わなければ)

 啓介に付き添う小松孝彦の日に日に青ざめていく様子から、小夜子には、雅俊がどう扱われているのかが正確にわかっていた。

(ごめんなさい、俊くん。すべて私のせい……いえ、小倉家の呪われた血のせいだわ。強く、美しいあなたが眩しくて、愛さずにはいられなかった)

 小夜子が意を決してバルコニーへと続くガラス窓に手をかけた時。

「待ちなさい、小夜子」

 背後から肩に手が伸び、小夜子を押さえた。驚いて振り向くと、そこには――。

「お父様……!」

 いつの間に部屋に入ってきていたのか、紺色のスーツを着た啓一が、音もない静けさで小夜子を見下ろしていた。

「いつからそこに……」

 今さら誤魔化そうにも、外出着を着てバックまで持って窓に手をかけていたのでは隠しようもない。

(ああ、どうしたら……!)

 すると啓一が口元で笑いながらこう言った。

「屋敷に戻るんだろう? バルコニーはだめだ。外から丸見えだからすぐにバレてしまう」

「え……っ」

「行くなら当分は気づかれないようにしないと」

 啓一は小夜子の手を取ると、入り口のドアへと向かった。

「今なら廊下は人が少ない。奥の階段なら人目につかなくてすむ」

 そして小夜子を連れて廊下に出ると、外につけられた鍵をかけ、足早に階段へと向かった。

 一階に降り、一般患者のいるロビーを避け、誰もいない廊下の一角まで来たところで啓一は小夜子の手を離した。

「隔離病棟の裏口にタクシーを手配してある。もうすぐ来ると思うから、この廊下を真っ直ぐ行ったら突き当たりを右へ曲がりなさい」

「お父様、どうして……」

 息を切らしながら質問すると、啓一は小夜子の背中に手を当ててさすった。

「どうしてかって? 今、私があの人に逆らうのは意外かい?」 

 小夜子は赤面して(うつむ)いた。あからさまに肯定しているようで気が咎める。

「君は、雅俊と一緒になるために私と取引したろう。それを履行(りこう)するための布石だ、と言ったら納得するかい?」

 小夜子が顔を上げると、啓一は「だから、ただの親切心からじゃないよ」と苦笑して背中から手を離した。

「あの人は今、狂気の一歩手前でね。雅俊を監禁したまま離さないんだ。時々悲鳴が聞こえるんだけど、小松やメイドたちが私室の世話をしにいっても奥の寝室に閉じ込めて鍵をかけてしまうから手が出せない。このままじゃ暴行殺人事件に発展しそうだ」

(俊くん……っ)

 淡々と聞かされる内容がなんとも恐ろしい。

「だから、小倉の名に傷がつく前に君に動いてもらおうと思って。自分の手を汚さずにね」

 小夜子は焦燥に駆られながらもまだ戸惑っていた。

「でも、これが知られてしまったら、お父様はおじいさまに責められるわ。ただでさえお二人は……」

 啓一は遮るように軽く片手を上げた。

「私の心配はいらない。でも、君の今の言葉はあらゆる意味で嬉しいよ」

 目元に柔らかい笑みが浮かぶ。

「少しは私のことも見直してくれたのかい?」

「それは、そうです。私は今まで、物事が何も見えていなかったのですから」

「だったら私には手を貸す価値があるさ。雅俊は、君をあの人から引き離してくれたんだからね」

「だから、私に協力してくださるの?」

「ああ」

 頷いた啓一の眼差しが色を濃くした。

「それに、君には無駄な時間を費やしているゆとりはないだろう?」

 小夜子はハッと目を上げた。瞬時に体が震える。

「それは……」

「いくらあの人が認めたくなくて隠しても、立場上、私は親なんだから調べればわかるよ」

 だからね、と啓一は続けた。

「したいことを精一杯やればいいと思って。なに、人生なんて誰もが限られている。君にだってまだ色々なことができる。だから後悔しないように生きなさい。瑠衣子(るいこ)の分まで」

 啓一は小夜子の肩から手を下ろした。小夜子はゆっくりと顔を上げた。

「お父様……いえ、違う呼び方のほうがいいのかしら」

 それを口にのぼらせると、啓一は笑みを深くした。

「なんでも。お父様でも、それ以外でも」

 瑠衣子は婚約してまで私を啓兄さま、と呼んでいたよ、と啓一は笑った。 

「では……」

 小夜子は啓一の胸につくようにして頭を下げた。

「私にはお父様はただ一人です。お父様、長い間ごめんなさい。ありがとうございました」

 そして再び顔を上げ、体をくるりと返すと、小夜子は雅俊を取り戻すための一歩を踏み出した――。



(小夜子――?)

 ふっと目を覚ました雅俊は、伏せていた頭を僅かにもたげた。

 瞬間、全身に鈍い痛みが走った。けれどもどこがどう痛いのか、だるくてはっきりしない。雅俊は息をつくと、頭を布団の上に戻した。

 夢を見ていたようだ。

 あれから数日が経ち、雅俊は未だこの部屋に囚われている。

 啓介の私室も小夜子の居室と同じで、一軒家のように何でも揃っている。が、動く気力がない。へし折られた左手の指だけは、そのままではあまりに痛いので、居間で見つけた固い手帳を添え、切り取ったシーツを巻いて固定した。青黒く腫れ上がった指が中でどうなっているのか、恐ろしくて見る気にもなれない。

 啓介は暇を見つけてはこの部屋に来て、昼夜の別なく雅俊を苛んでいる。昨日だか一昨日などは、友人らしき男まで二人ほど連れてきて代わるがわる(なぶ)られた。いい加減、試練が厳しすぎてなんだかもうどうでもよくなってきている。

(疲れちゃったよな……)

 そう思ってしまう最大の理由は、もう二度と小夜子とは会えなさそうな現実と、左手とともに砕かれたピアニストの夢……。

 そんなことを思いながらガウンを片手で手繰り寄せ、寝台の上で丸くなっていると、突然廊下を駆けてくる足音が響き、乱暴に鍵を開ける音がした。

「小夜子はどこだ!」

 血相を変えた啓介が寝室に怒鳴り込んできた。

「え……?」

 のろのろと起き上がろうとすると、啓介の手が髪の毛をつかんで雅俊を引きずり上げた。

「小夜子が来ただろう! 正直に言え!」

「小夜子……さんは、病院にいるのでは、ないのですか……?」

 その名前に反応して、掠れた声を出した時。

「私ならここです、おじいさま」

 小夜子の凛とした声が、啓介の背後から響いた。

「小夜子!」

 振り向いた啓介の前に、開け放たれたドアから入ってくる小夜子の姿があった。

「私が姿を隠せばおじいさまは必ずここにいらっしゃる、そう思って、開けてくださるのをずっと隠れて待っていました。その手を離してください」

 持ち上げた手に握られていたのは――。

「その銃は!」

 それは、啓介が小夜子に持たせた護身用の改造モデルガンだった。ちゃんと火薬と弾がセットされた本格的なものだ。至近距離で人に撃てば……。

「相手が大怪我をする。そうでしたわね、おじいさま」

「小夜子、やめなさい!」

「動かないでっ。私は本気です。これ以上雅俊さんを傷つけるなら迷わず撃つわ! さあ離して!」

 叫び返された声に気圧されたか、髪をつかむ啓介の手が緩んだ。すかさず雅俊は頭を下げ、その手を逃れて寝台の縁に身を寄せた。見上げた啓介の目が血走ったように濁って見える。

 銃を構えた小夜子が呼びかけてきた。

「俊くん、動けるのならここに来て」

「小夜子……っ」

 その声に励まされ、雅俊は身体中の痛みを無視して起き上がると、啓介を迂回して壁伝いにそこを離れた。

 僅か数メートル足らずの距離が、地獄の果てのように長く感じる。

 本棚や小テーブルに右手をつきながら入り口に近づき、華奢な両腕を突っ張って銃を構える小夜子の隣にたどり着くと、ふいに息を呑む音が聞こえた。

「俊くん! その手は……っ」

 胸に抱く左手の、シーツの切れ端から覗く青黒い指先を小夜子が凝視している。

「……まさか」

 彼女は啓介と雅俊の顔を交互に見返し、すぐに事情を看破した。みるみるうちに小作りな顔に怒気が立ちのぼり、黒曜石の瞳から涙が溢れ出した。

「おじいさまがっ……!」

 啓介の顔に苦虫を潰したような表情が浮かんだ。

「……ここまでなさるなんて……っ!」

 絞り出したようなその声が震えてきた。額に汗が浮き、顔面が蒼白だ。

(もしかして、かなり無理をしてるんじゃ……)

 そう思った時、その言葉は発せられた。

「いくら、私を慈しんでくださった実の……実のお父さまでも、これは許せないわ‼」

「―――!」

 一瞬、耳を疑う。

 しかし次の瞬間、雅俊は見た。驚愕に目を見開き、心底感情を(あらわ)にした啓介の顔を。

「小夜子! それを……っ!」

「もちろん、知っていました。もうずっと前から」

 雅俊は混乱した。

 では、小夜子は啓一ではなく、啓介の娘だというのか⁉

「そんなバカな。まさか、啓一が」

 放心したように啓介がつぶやくと、小夜子は首を横に振った。

「違うわ。アトリエをくださったおばあさま――おじいさまの、形だけの奥さまだったあの清子(きよこ)さまから聞いたのよ……」

 小夜子の目からまた涙が溢れた。

「だから知っていました。どうして私が弱い体なのか。なぜおじいさまが私を気にかけてくださるのかも」

 両腕が徐々に下がっていく。

「どんな理由があろうとも、私を大事にしてくださっているのには代わりない、そう思っていました。でももうだめ。これ以上は耐えられない。お別れです、おじいさま」

「何を言うんだ、小夜子!」

「私は雅俊さんとここを出ます。これ以上、おじいさまを憎んでしまう前に。限られた命だからと思ってきたけど、もう無理……」

(――えっ?)

 その言葉は、啓介とはまた別のところで雅俊を貫いた。

「限られた……?」

「ごめんなさいね、俊くん……」

 涙に濡れた小夜子が雅俊を横目で見た。

「あなたには言えないことが、たくさんあったのよ……」

「行かせないぞ、小夜子っ!」

 啓介が咆哮を上げて突進してきた。

「誰にも渡すものか!」

 彼は小夜子につかみかかると銃に手を伸ばした。雅俊が手を出すより早く小夜子が叫んだ。

「いやっ! 私はお母さまじゃないのよっ!」

 そして。

 パァ―――ンンッ!

 一発の銃声が屋敷に響き渡った――。




「雅俊くん……気がついたかい?」

 ぼんやりとした視界に馴染みのある丸い顔が映る。

「渡辺先生……」

「気分は? 目は回ってないかい?」

「ここ……病院……?」

「そうだよ。君は救急で担ぎ込まれたんだ」

 まただね――。痛ましげに嘆息する姿に、雅俊は状況を思い出した。


「小夜子っ!」

「まだ動いちゃだめだ!」

 渡辺医師の手が肩を押さえた。

「麻酔が切れたばかりなんだ。目が回って倒れてしまうよ」

「麻酔……?」

「その手じゃ、まだ体を支えられないよ……」

 手、と言われて気がついた。左手の感覚が変だ。目をやると、布団の上に投げ出された左手は手首から先がギプスで固定されていた。

「ひどい目に遭ったんだね。指なのに、長い手術だったんだよ……」

 彼は肩を震わせると、人当たりのよさそうな顔を歪ませた。

 あの時、銃声とともに目の前で血が飛び散り、そして小夜子が倒れた。

「小夜子っ!」

 雅俊と、そして啓介の叫びが室内に響き、次の瞬間、まるでスローモーションのように啓介の体がゆっくりと半回転しながら倒れていった。

「――⁉」

 驚きのあまり、意味不明な言葉を口走りながらうつ伏せに倒れた小夜子にすがりついたのと、「旦那さま!」と小松孝彦の叫び声がしたのが同時だった。

 片手で小夜子の肩をつかんで仰向かせると、血にまみれた蒼白な顔が目に飛び込んできて――。

「小夜……っ!」

 叫ぼうとしたところで記憶が途切れている。


「小夜子はどうなったんです! ここには来ていないんですか⁉」

 伸ばされた渡辺医師の腕を片手でつかんで聞くと、彼は沈痛な面持ちで説明した。

「小夜子さんは手術室にいます。まだ終わっていないよ」

「どんな様子なんですか。どこかに弾が当たったはずだ」

「モデルガンの弾だそうだね……距離が近すぎて、首の付け根の血管を傷つけてしまったんだ。今、それを塞ぐ手術を受けている最中だよ。ただ」

 食い入るように見つめると、渡辺医師の表情が陰った。

「小夜子さんは、麻酔にアレルギーのある体質なんだそうだね。だから、手術に入るのが手間取って、かなりの血を失ってしまったようです……」

 彼の言葉を理解した瞬間、雅俊は弾かれたように起き上がった。

「……っ」

 途端に白い壁の室内がグニャリと曲がった感じになり、上半身が揺れた。

 胸の奥から吐き気がこみ上げてくる。

「雅俊君!」

 渡辺医師の手が肩をつかんで支えている。雅俊は腹に力を入れてどうにかそれらをこらえると顔を上げた。

「お願いです先生。小夜子のいるところに連れていってください」

「君だって安静が必要なんだ。身体中、打撲と傷だらけじゃないか。肋骨にはヒビまで入って……今動いたら回復が遅れてしまう」

 雅俊は首を横に振って渡辺医師の白衣にすがりついた。

「先生。おれの指はもう、だめでしょう……?」

 彼は一瞬口をつぐむと、何かを振り切るように続けた。

「何日も経っていたようだから、変な形で癒着してしまうところだったけど、折れた四本の内、三本は大丈夫だそうだよ。ただ、残りの一本が……」

「どの?」

「小指が。骨が細かった分、ダメージが大きくて。複雑骨折だったそうだから」

 回復には長い時間がかかると思います――そう結んだ渡辺医師の言葉を呑み込み、雅俊はしばらくの間、目を閉じて痛みに耐えた。

 今はそれを横に置かなければならない。

「おれのことはいい。小夜子のところに連れていってください」

「雅俊君……」

「このままじゃあんまりだ。お願いです、先生……っ!」

 あまりに憐れだったのだろう。渡辺医師は根負けしたように言った。

「……わかりました。支えるから、一緒に行きましょう」


 小夜子は手術室からなかなか出てこなかった。

 脇にある待機室の椅子にもたれてじっとしていると、寝室で明かされた内容についての様々な疑問が頭に浮かんだ。けれども今は深く考える気力がない。

 病院のパジャマを着ただけの雅俊に、どこから調達したのか、渡辺医師が大きめのパーカーを羽織らせてくれた。

「小倉家の人は、誰もここには来ていないんですか……?」

「ああ、みんな啓介氏のほうに行ってしまっているな」

 渡辺医師は、救急指定でもあるこの病院に雅俊たち三人が搬送されてきたあと、連絡を受けて駆けつけた啓一が、啓介を主治医のいる川崎のS病院へ移動させた経緯を説明してくれた。

「啓介さんは一体……?」

「おそらく脳梗塞だろう、ということだったよ」

「じゃあ、今は」

「あちらの病院で治療を受けているようだけど、私の見たところ予断を許さない様子だった。だから、一族の人は啓介氏の容態が気になって、ここには来ないと思うよ。ただ」

 事情を把握しているのか、彼は気遣う様子になった。

「鞠江さんはわからない。まだ姿が見えないけど、連絡しようか?」

「……いや、いいです」

 雅俊は首を横に振った。今さら鞠江の顔を見たいとも思わない。彼もそれ以上はそこに触れなかった。

「君の病室をここの斜向かいに移しておいたから、ひとまずそこで横になってください。何かあったらすぐに呼びに行くから」

 渡辺医師の心遣いを、今度は雅俊も素直に受けて頷いた。

 その後まもなく手術は終わり、小夜子は集中治療室に移された。

「小夜子……」

 ふらつく足を叱咤し、感覚のない左手を吊ったまま、雅俊はそばに寄らせてもらった。

 首の付け根を中心に包帯を巻かれた小夜子は、まだ意識はなかったが、手を握ると温かく、生きていることが感じられた。様々な機械と点滴のチューブに囲まれた一角で、触れられるのは手のひらだけ。それでも、二度と会えないと覚悟した小夜子の姿を目にし、絶望のどん底にいた雅俊は、自分の中に再び熱いものが生まれるのを感じた。



「雅俊君……」

 渡辺医師の呼び声に、雅俊は目を覚ました。

 小夜子の温もりに触れ、少しホッとして用意された病室に入ったあと、さすがにそれ以上意識を保つことができず、ベッドに伏せるなり吸い込まれるように眠ってしまったようだった。時計に目を向けると、あれから四時間が過ぎている。

「起き上がれそうかい……?」

 半身を起こして頷くと、彼はこう続けた。

「小夜子さんが呼んでいる。隣の部屋に移動したから、行ってあげてください……急いで」

「―――!」

 雅俊は即座に起き上がり、スリッパを履くのももどかしく小夜子のもとへと駆けつけた。

「小夜子っ」

 病室のドアを開けると、白い布団に包まれて横たわる小夜子の姿が目に入った。

「さ……」

 彼女の顔色もまた、紙のように白かった。そこには先ほどまであったはずの、生命の息づく気配が感じられなかった。こちらを見た白衣の面々が、医師の一人を残し、まるで雅俊にその場を譲るようにして出ていく。

(そんな……っ)

 飛びつくようにして枕元に駆け寄ると、閉じていた小夜子の瞼がゆっくりと開いた。

「ああ、俊くん……」

 小夜子は僅かに顔を傾け、布団の下で手を動かした。雅俊は震えながら右手を差し入れ、小夜子の腕を出して手を握った。

「ごめんなさいね……もう少し、時間があるかと……思ったんだけど……」

 黒曜石の瞳には、不思議な静けさがあった。

「……っ」

 雅俊は吊った左手ごと小夜子に覆い被さった。喪失の恐怖が全身を襲う。

 ――いやだ!

 心が悲鳴を上げる。

 いやだっ! 耐えられない!

 その叫びが聞こえたのか、小夜子の手が雅俊の手を離れ、胸に伏せた頭をなでた。

 繊細でやさしい、小夜子の指先。

「ねぇ、俊くん……私たちは、ずっと一緒ね」

「小夜子……っ」

 肘をついて頭を上げ、白い顔に右手を添えると、儚げな笑顔が目に映った。

「私を連れて……飛び立ってくれる?」

 徐々に輪郭が霞む。

「あなたの目指す先を、私も見てみたいの……」

 ね? と微笑む小夜子に顔を寄せ、雅俊もなんとか声を絞り出した。

「いいよ……どこへ行こうか」

 彼女のなめらかな頬に涙が一滴落ちた。すると小夜子の手が、ゆっくりと差しのべられ、雅俊の目をぬぐった。

「そうね……夜明けの、向こう側かしら……」

「夜明けの……?」

 雅俊が小夜子に捧げた曲だ。

「あなたの、これからが始まるところ……拓巳さんも連れて、行くんでしょう……?」

「―――」

 それは、二人を縛るものからの脱却――プロデビューへの挑戦を言っているのだと知れた。

(ああ……)

 そうだ。自分はもう足を踏み出している。それを投げることは、小夜子から受け取ったものを無にすることになるのだ。

 小夜子の目に、僅かな光が浮かんだ。

「私たちの想いを……きっと彼は、表現してくれるわ……」

「そう……だね」

 たとえピアノを失っても、拓巳がいる限り諦めることはできない。

「あなたに伝えたものの中に、私はいるの。だから、寂しくないのよ……」

「……そう……」

 もう、言葉がうまく出せない。

「いつも一緒に……いるから……」

 頭を抱き寄せるような手の動きに合わせ、雅俊は顔を近づけると小夜子の唇に自分のそれを重ねた。

 やさしく、温かく雅俊を癒してくれた、もう二度とは手に入らない小夜子の口づけ――。

 想いのたけを込めて交わし、そっと離すと、彼女の眼差しが一瞬、笑みを深くした。

 その目尻から一滴の透明な雫が落ちた時、雅俊の頭を抱いていた手が滑るように落ちていった。

「小夜子……っ」

 瞼が静かに閉じられていく。

 それが、彼女との最期の別れだった――。



「雅俊君、いいかい?」

 ドアをそっと開けて入ってきた渡辺医師の姿を、ベッドに横たわった雅俊はぼんやりと眺めた。

「小松さんがいらしたよ」

 渡辺医師が体を脇に寄せると、執事として啓介に付き添っていたはずの小松孝彦が現れた。

 スーツがいつものグレーから黒いものに変わっている。雅俊が顔を少しだけ動かすと、小松は頭を軽く下げ、次に背筋を伸ばした。

「今、小夜子さまのご遺体を小倉家にお送りしてきました。お悔やみ申し上げます」

 のろのろと目線を合わせると、彼はさらにこう告げてきた。

「そして先ほど、旦那様もお亡くなりになりました」

 ―――!

「重ねてお悔やみ申し上げます」

 再び頭を下げた彼に、体を起こした雅俊は聞いた。

「啓介さんが?」

「はい。死因は動脈硬化による脳梗塞でした。これからお二人のご葬儀の手配に参ります。雅俊さんは、どうなさりたいですか?」

「え……?」

「葬儀に関しまして、啓一さまから雅俊さんの希望を伺うように承っています」

「それは……」

 どういう意味だ? と尋ねようとすると、小松は付け加えた。

「お二人はひとつのご葬儀で送られることになりますので、無理はしなくてもよい、と……」

「……ああ」

 確かに、このぼろぼろな有り様で一族の前に立ったら、さぞかしいい噂の種だろう。啓一としては、これ以上、小倉家の汚名を増やす気にはなれまい。

「わかった。ありがたく遠慮させてもらう」

 雅俊が答えると、小松がそこではじめて仕事を離れた表情になった。

「小夜子さまから、幾つかの指示をいただいております。本宅へお戻りになられたらお伝えしますね。小夜子さまの物は、他の一族の方々には手を触れさせませんから」

「……ありがとう」

「それと、これを雅俊さんへと」

 差し出されたハンカチを開くと、いつも身につけていたあのプラチナチェーンに通されたアトリエの鍵が出てきた。

「搬送された時に一旦意識を取り戻されまして、万が一の時は外してお渡しするように、とのことでした」

 僅かに揺れたその声に顔を上げると、小松が目をしばたたかせていた。

「小夜子さまのご遺志は、私が責任をもって果たして参ります」

 彼は目元を震わせると、丁寧に一礼して去っていった。



 真夜中、小さな明かりを点し、べッドの上で膝を抱えていると、そっとドアを開ける音がした。

 目を向けた先に佇んでいたのは――。

「拓巳。芳さんも……」

 どうやって入り込んだのか、二人は静かに歩み寄ると、ベッド脇に立った。

「恍星から聞いた。大丈夫か……?」

 拓巳が顔を覗いてきた。そして吊られた左手に気がつくと、痛そうな顔をした。

 真嶋芳弘が説明した。

「恍星君のお客さんに、小倉啓介氏の友人がいるらしくて、君が学校に来なくなったのを心配してみんなでずっと探っていたんだ。だから、救急車で運ばれたことはすぐにわかったんだよ」

 あとは小松さんが色々協力してくれたんだ、との言葉で雅俊は二人が今ここにいる理由に納得した。

 きっと小松孝彦が呼び入れたのだ。

 拓巳が雅俊の右手を取った。

「小夜子さんが……っ」

 言葉が出ないようだ。彼にとっても、小夜子は信頼を寄せることのできた数少ない人の一人だったに違いない。

 拓巳はしばらく(うつむ)いたままでいたが、雅俊が手を握り返すと気がかりそうに左手のギプスを見た。

「その左手は、大丈夫なのか?」

 事情もある程度察しているらしい。

「ああ。小指以外はどうにかなるそうだ」

 小指はもしかしたらだめかもしれないけどな、と続けると彼の眼差しが揺れた。

「じゃあ、ピアノは……?」

「時間が、かかるだろうな……」

 それはもはやピアニストとしては時期を逸することを意味していた。

 二人の顔が痛ましそうに歪み、雅俊は目線を外した。

「いいんだ。小夜子と約束したから。彼女がおれにくれたものを表現する。それはピアノだけじゃない」

 確かにピアノの比重は大きかったけれど。

「小夜子とおれは他にも方法を見つけた。そうだろう?」

 雅俊が再び目を向けると拓巳は逸らさずに受け止めた。

「おまえを連れて、おれは()い上がって見せる。誰にも手出しできないところまで。だから……っ」

 そこまで言って、限界がきた。

「もう少しだけ、待ってるんだぞ……」

 頭を膝に伏せると、途端に熱いものが膝頭をぬらした。

 右手を離した拓巳の手が背中をなではじめた。ぎこちなく動く手の温もりを感じていると、ポソリと耳元で声がした。

「音楽会、クラシック部門は、恍星と雅俊が同点一位だった」

 伏せたまま頷くと拓巳が続けた。

「その他部門は俺たちが一位だった。それで……」

 なかなか出てこない言葉のあとを芳弘が引き継いだ。

「ヘンな、スカウトみたいな問い合わせが学校に来ているらしいんだ。でも拓巳の話じゃ要領を得なくて」

 ………無理もない。

「その話をみんな雅俊に振ってある。だから、待ってるよ」

 芳弘がそう告げると、拓巳はやはりぎこちなく頭をなで、二人は来た時と同じように、そっと去っていった。


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