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プレリュード~夜明けの彼方へ~  作者: 木柚 智弥
夜明けの向こうにあるもの
6/8

天使たちの勝負

 夏休みが明け、音楽会のオーディションが開かれる日まで残り一ヶ月を切った。

 以前にもまして、雅俊は真剣に練習に取り組んだ。たかだか学園内の音楽会とは、もはや雅俊には言えなかった。

 平沢教諭の心遣いのお陰でゲストに呼ばれたOBは、国内外で活躍する本格的な演奏家ばかりで、小夜子ですら「こんな方々に聴いていただけるなんて」と驚いた。雅俊の目算としては、一人でも多くのプロに自分を印象づけ、学校側に弟子入りや留学を打診してもらうのが理想の展開だ。公の顔がある以上、啓介も無視はできないだろう。

 ところが、そうなると他の連中も考えることは一緒なわけで、ピアノ科の生徒は全員がオーディションに挑むことになり、ただの校内音楽会のステージ発表枠を取るはずが、まるで全国コンクールのような様相を呈してきた。むろん恍星も「そりゃ、俺だってチャンスは無駄にしないぜ」と張り切っている。

 雅俊が選んだ二曲は、以前、高橋のもとで弾いたショパンの情緒的なプレリュード〈雨だれ〉と、技巧的なエチュード〈革命〉だ。

〈雨だれ〉はショパンが年上の恋人とのエピソードから作った曲といわれ、もちろん小夜子への想いを重ねている。

〈革命〉は、彼が旅の途中、祖国ポーランドが他国に攻め込まれて陥落したことに衝撃を受け、怒りと憤りを込めて作った曲だという。今の雅俊にこれ以上ふさわしい曲はない。

 この対照的な二つで、ゲストの耳と、恍星に勝負を挑むつもりだった。なにしろ彼は半端でない超絶技巧プログラム、リストの〈ラ・カンパネラ〉とショパンの〈黒鍵〉を持ってくるらしい……。

 持ち時間が八分なので長い曲は選んでいない。それでも〈革命〉などを集中して練習すると、この季節ではいくら冷房を効かせても全身汗だくになる。細かく速いアルペジオに左手は痺れ、オクターブ越えの連打で右手首が軋む。

「ああっ、くそっ!」

 主旋律の見せ場で指がもつれ、思わず鍵盤を叩く。

「ピアノって、こんなに激しい楽器だったのか」

 鬼気迫る形相で鍵盤に向かう雅俊を、拓巳は半ば恐れの入り混じった眼差しで見つめながらこぼした。

「そりゃそうだ。ピアノは叩く力が音の強さを左右する打楽器なんだぞ。ドラムと一緒だ」

「打楽器……」

「どの楽器だって極めるのは大変だろうが、ピアノは難曲になると特に体力勝負の(おもむき)が強いな」

「凄いんだな」 

 彼は音楽というものへの見方を改めたようだった。

 そんな彼に、雅俊は今まで以上にボイストレーニングを増やした。

「なんで腹筋……」

「そんなひょろひょろの体をしていたら、いつまでたっても今の環境から抜け出せないぞ」

 ぼやく拓巳を脅しつけ、身になることは何でもやらせた。彼は諦めた様子で黙々とついてきた。

 鞠江と決別し、小夜子に将来を誓ったあの夜の出来事を、拓巳にはすべて話した。

「ピアニストの夢を母親が……」

 雅俊は鞠江の所業に絶句する彼に宣言した。

「これからは人の力は頼らない。誰かに養われている限り、おれたちのような者は翻弄されるんだ。だから、一日も早く独立して身を立てられるように努力する。それにはおまえの力が欲しい」

「俺の? でも今度の音楽会で雅俊は」

「たとえ今回、プロから誘いを受けられたとしても、何らかの形で妨害が入るだろうから時間がかかる。小夜子が啓介のことを知ってしまった以上、そんな余裕はもうない。ピアノのほうは、複数のプロたちに顔を覚えてもらうのが目的だ」

 雅俊の知名度が上がれば、いずれは小倉邸から出さざるを得なくなる。それこそ啓介の言う「痛くもない腹を探られる」ことになるからだ。

「もちろん諦めるつもりはない。けど、まずは自立が先だ。ユニットでも、バンドでもいい。とにかくおまえのボーカルでメジャーデビューを果たす。それが脱却への第一歩だ」

 拓巳は驚いたように目を見開いた。

「……本気で?」

「おれには冗談を言っている暇はない!」

「……ごめん」

 拓巳の声が揺れる。雅俊はハッとして自分を押さえた。

 あの父親に、価値を否定されながら育ったせいで、拓巳には自分を支える(もとい)がないのだ。今は自信を持たせることを優先しなければならない。

「大丈夫だ。おまえにはそれだけの才能がある。おれの音楽を作る力と合わせれば、そうは遠くない目標のはずだ。その距離がどのくらいなのかを今度の音楽会で測れるだろう。いいか拓巳」

 雅俊の目線が拓巳のそれを捕らえると、彼は金縛りにあったように動きを止めた。

「必ず()い上がってみせる。おれを信じておまえの才能を預けてくれ」

 その言葉に、拓巳はしばらく放心したように黙っていた。けれども目線を逸らさずに待っていると、けぶるような眼差しの中に、今までにない光を宿してこう言った。

「俺に何ができるのかわからない。でも、おまえと出会った運命を信じたい。連れていってくれ」

 それからの拓巳は練習に身を入れるようになった。そうして二人は目標の日まで、お互いができる限りの努力をして過ごした。



 残暑も姿を消し、秋に差しかかった十月のはじめ、オーディションの日がやってきた。

 中等部、高等部の別なく行われるオーディションは、クラシック系が八組、その他のジャンル系が八組の計十六組の枠に対し、希望者はクラシックが二十二組、その他系が二十四組集まった。約三分の一の確率だが、この程度で落とされるようでは話にならない。前半のクラシック部門では、並みいる実力者を蹴散らして、雅俊はもちろん、恍星も余裕顔で通過した。

 問題だったのは後半、その他部門の拓巳だ。

「おい。大丈夫なのかよ、あいつは」

 恍星にまで言われてしまうほど、拓巳は緊張していた。

 オーディション会場である音楽室は、外部の見学者はシャットアウトされている。とはいえ出場者は後ろの座席で見ることが許されるし、ステージと座席の距離は近い。おまけに夏からの妙な噂のせいで、今や学園内に知らぬ者とてない二人はこの会場でも注目を浴び、特にその他のジャンル、すなわち軽音楽系でエントリーした生徒たちの目線が、コンクールでステージ慣れしている雅俊でさえ痛い。まして、初めて一人で歌う拓巳ともなると……。

「大事な一戦になるんだろ? これじゃ声に影響して、実力の半分も出せないんじゃないのか?」

 今回の経緯を伝えられている恍星が、会場の隅の座席で心配げにささやいてきた。横に座る拓巳を見やると。

「……う~ん」

 稀に見る硬質な美貌と、身に染みついた無表情のお陰で、一見、周囲の視線を平然と受け流しているように見える。それがまた、いつになく間近で見ることになった生徒たちに「さすがだな……」と妙な感銘を呼び起こし、注目を浴びる――完全な悪循環だ。結果、拓巳を見慣れてきた雅俊からすると、

(ヤ、ヤバいかも……)

 という有り様になっていた。

「ちょっと出てくる」

 仕方なく、雅俊はピアノ科の特権で控え室としてキープしてあったいつもの自主練習用個室に拓巳を連れ込んだ。

「しっかりしろ、拓巳。いつもどおりにやれば何の問題もない」

「…………………」

 薄い色の眼差しが頼り投げに揺れている。ふと思いついた雅俊は手を握ってみた。

(冷たいっ。おまけに強張ってる!)

 緊張のあまり、体が硬直を思い出してしまっているのだ。このままではそのうち声が出なくなるだろう。

(初めてじゃ、しょーがないか。クソッ、こーなったら……)

 雅俊はおもむろに隅の棚に置かれた鞄からペンケースを取り出すと、ドアのノブ付近の位置に手持ちの細い物差しを突っ込んだ。鍵とまではいかないが、こうすれば誰かが突然ドアを開けようとしても少しはもつ。

「雅俊……?」

 疑問の眼差しを浮かべている拓巳の手を引っ張り、壁際の丸椅子に座らせると、ネクタイを緩めて襟を広げるよう指示した。

「こうか?」

「それでいい」

 襟が開かれたの確認してから拓巳の背後に立ち、後ろから頭を両手で支える。

「肩の力を抜いて目をつぶれ。いいか、よく聞けよ。おまえの歌う二曲、一曲目は芳さんに向けて歌え。そして二曲目はおれ作ったあの曲だな」

 結局、雅俊にはあれ以上に拓巳の声を引き出す歌を見いだせず、この際と思ってあの曲を完成させ、オーディションにエントリーしていた。

 頷いた拓巳の、硬く強張った首筋を指先でほぐしながら、さらに耳元でささやく。

「小夜子に、届けてくれるな……?」

 拓巳は苦しそうな声を出した。

「そう、できたら……」

 雅俊は次の手に移った。

「なら歌えるようにしてやる。おれを信じろ」

 そして今度は両腕でがっちりと頭を押さえて抵抗を封じると、首筋に軽く咬みつき、そこにあるはずのツボを舌で刺激していった――。



「凄かったな、拓巳の歌」

 オーディションを終え、個室で一息ついていると、恍星が顔を出した。

「先生たちのあの驚いた顔。見たか?」

「いや? そうだったんだ」

 しらばっくれて聞き返すと、恍星は感嘆したように続けた。

「なんかこう、ただうまいだけじゃなくて、胸に迫るというか……雅俊の言ってた意味がわかった気がする」

「恍星に誉めてもらえるなら安心だ」

 雅俊は上機嫌で答えた。壁際を見やると、拓巳は丸椅子に背を丸めて座っていた。

 オーディションは無事、通過した。

 体の強張りを強引に取り除かれた拓巳は、半ば放心状態でステージに上がった。そして雅俊のピアノ伴奏が始まると、けぶるような眼差しを宙に投げながら切々と歌い上げた。どうやら雅俊の施した整体術師直伝のツボ技によって魂を飛ばされたらしく、練習で繰り返し刻み込まれた曲に反応し、ただ本能だけで歌っているようだった。

 そんな状態ではあったが、かえって雑念が消えてよかったのか、審査役の教師たちや見学の生徒を驚嘆させるには十分だった。

 彼の端麗な眉目が僅かに切なげに寄せられただけで、その場にいた者たちはあっさりただの観客と化し、金縛りにあったように動けなくなった。そこに降りかかる、透き通ってしかも深みのある声……。

 歌い終わった拓巳は、浴びせられる拍手喝采でようやく自分を取り戻したらしく、目を見開いていた。

「よく、あの状態から復活できたよなぁ。一体どんな魔法を使ったんだ?」

「ナイショ」

 雅俊は笑って誤魔化した。拓巳がちらりと目線を寄こしている。

 やがて追求を諦めた恍星が姿を消すと、背を丸めたままの拓巳が顔だけをこちらに向けてきた。

 雅俊は機先を制した。

「まあ、結果オーライってとこだな。本番はちゃんと歌に入り込んでくれよ? 芳さんも小夜子も来ると思うからさ」

 小夜子の耳は誤魔化せないんだぞ、と軽いノリで戒めると、彼はグッと詰まったあと、いささか恨みのこもった眼差しになった。

「雅俊……っ」

 それには知らん顔で横を向く。

「なんだ。ひとまず一歩踏み出せたんだからいいじゃないか。オトコは細かいこと気にしちゃダメだぜ」

「いくらオーディションのためだからって……っ!」

 食い下がる彼の瞳がちょっと涙目に見えるのは多分、雅俊だけだろう。

「じゃ、あのままほっとけってのか?」

 雅俊はピアノの椅子から動いて拓巳の前に立つと、腕組みをして見下ろした。

「言っておくがな。おまえの肩にはおれの人生も乗っかってるんだ。おれたちは一蓮托生なんだぞ。むざむざチャンスを棒に振れるか」

 畳みかけると拓巳は顎を引いて押し黙った。雅俊は顔を近づけてダメ押しした。

「おまえが承諾した時点で、おれたちはもう動き出してるんだ。この先だって、あんなことがあればおれは容赦なく必要な手段を取る。それがイヤだったらコンジョー据えて、緊張のあまり歌えない、なんてことをなくすんだな」

「………っ」

 拓巳はそれでも何か言いたげに眉根を寄せていたが、やがて根負けしたように肩を落とした。こうして二人はささやかな第一歩を踏み出したのだった。


     ♢♢♢


 やがて秋が色を濃くし、町全体を彩りはじめた。

 音楽会まであと残り二十日あまり、日々は充実していたが、試練もまた続いていた。〈仕事〉は相変わらずだったが、啓介自身に呼ばれることが復活しだしたのだ。どうやら先日の呼び出しで雅俊の存在を思い出したらしく、期間の空いた分を埋めるように、頻繁に、そして執拗に貪られた。

「ちゃんと焼き付けておかんと礼儀を忘れるからな」

「……っ」

 肌を()い回る手の感触に、以前よりも強い嫌悪を覚えるのは、ひどく傷つけられた先日の記憶にもまして、小夜子からの愛を受け、至福を味わってしまったからだろう。かといって、啓介相手に技を使って〈仕事〉内容をバラすわけにもいかず、その時間はただ耐えるしかなかった。

 小夜子はあれから啓介の動向に神経を尖らせるようになった。

 特に、雅俊への呼び出しはどんなに隠しても一発で見破ってきた。場所が屋敷でなくともわかるようで、解放された雅俊がふらふらと戻ってくると、必ず小夜子が待ち受けているのだった。

「だめだよ小夜子……。こんな遅い時間に、こんなところにいるなんて。体に障るじゃないか」

 最初、自分の部屋の前で小夜子を見つけた時、嬉しさよりも心配が先に立ち、ついたしなめてしまった。すると彼女は目に大粒の涙を浮かべ、「やっぱり耐えられない!」と言って啓介の部屋へ行こうとした。

 慌てて引き止めて自分の部屋に引き入れ、我慢してほしいと訴えると、「じゃあ、私の好きにさせて」と抱きしめてきた。小夜子は啓介が与えた傷を自らの手で癒すことで、自分の良心と闘おうとしていたのだった。

 以来、人目につく危険を考え、「呼ばれることがあったら、必ず小夜子の居室前の廊下を通るから」と約束した。気づかない日はそのまま部屋へ戻ればいい――そんな風に思ったのだが、呼ばれた日に彼女が廊下で待ち受けていない日はなかった。

 不安を感じながらも、迎え入れられてしまえば、雅俊にはもう小夜子に抗う力はなかった。

 啓介に荒らされた体を清め、差しのべられた腕を取れば、正直な心が彼女の温もりを求めずにはおかない。

(ああ……)

 重ねられる肌がもたらす熱を、唇が生み出す陶酔を、全身に受け、両腕に抱かれて眠る喜び。それは雅俊に試練を耐え抜く力を与え、それを感じることで、小夜子もまた心の均衡を保つ。そんな風にして二人は苦しい現実の中、寄り添って労わりあった。そして、それを渡されたのもそうした一夜だった。

「これを受け取ってほしいの」

 啓介からの仕業を小夜子の手によって癒されたあと、ベッドで微睡んでいると、小夜子はサイドボード用意してあったらしい小箱を雅俊の手に持たせた。

「これは……!」

 虹色に光る螺鈿細工の箱に納まっていたのは、銀の輝きを放つ凝った作りの鍵だった。聞かなくともわかる、プラチナの土台に宝石が象嵌されたそれは、アトリエの二つある鍵の片方に違いない。小倉家のしきたりによって、アトリエの所有者から鍵の片方を受け取った者は、次の相続人となるのだった。

「私の次にここを託すのはあなたよ。私の心を分けるのはあなただけ」

 アトリエの相続人は血の濃さで選ぶのではない。持ち主が心を分かつ相手を見いだした時、片方を託すのだ。それは男女の別なく、ただ心を分かつかどうかで判断され、所有者の決定に口を挟むことはできない。小倉家の家訓によって決められ、専属の弁護士がそれを書類で保証する。そうやってアトリエは代々の所有者から愛され、今に至る長い年月、保たれてきたのだった。

「でも、おれは外からの養子だし……おまけに次世代を残せないんだ……」

 小夜子が祖母からこのアトリエを贈られたことを思い出し、ついそんな言葉が出た。それは、先日の定期検診で渡辺医師から告げられたことだった。


「君の細胞検査の結果が出たよ」

 その日、渡辺医師は検査結果のデータを見せてくれた。

「君は、どちらの生殖細胞も今のところ見当たらないようだ。ここだけは若砂君と逆だね」

 それは前回の検診で会った時、本人からも聞いていた。

『あるにはあるらしいんだけど……どっちの細胞なのかは、まだ聞けないでいるんだ』

 性別の狭間で揺れる彼は複雑そうに笑っていた。

「それって、何か成長に影響があるんですか?」

 雅俊が質問すると、渡辺医師は少しためらってから説明しだした。

「いや。君自身の体には何も。むしろ薬の選択幅が増えるくらいだよ」

「へえ……」

 それは嬉しいことだった。ホルモン剤の効果なのか、雅俊はここのところまた身長が伸びていた。未成熟だった男性にも兆しがあり、愛しい女性を持つ身として、少しばかり安心していたのだ。しかし渡辺医師はこう続けた。

「ただ、君には確か、将来を誓った人ができたんだよね?」

「小夜子のことですか?」

「そう、小夜子さんだ」

 初めて啓介に呼ばれた日に担ぎ込まれて以来、渡辺医師には身に起こった出来事を隠さずに報告していた。

 鞠江と啓介のこと、拓巳のこと、そして小夜子とのこと……。それは、どうしてもついて回る投薬と体調管理に少なからぬ影響があるからだった。

「彼女にはいつか伝えないといけない。それは、二人の生活にかかわるから」

「え……?」

「本気で一生をともにと考えているパートナーなら、生殖にかかわる話は伝えないといけないよ」

 君はまだ若いけれど、将来を真剣に考えているはずだから、と彼は付け足した。

「あ……」

 つまり、子種がないということだ。

 自分がちゃんと男として成長できるのかばかりが気になって、そこがすっぽり抜けていた雅俊は、夜の世界を知り尽くしてはいても、所詮、男女のことには経験の浅いガキだった。


「ごめん。だから二人の将来のことも含めて、もう一度小夜子には考えてもらわなきゃならないんだ……」

 壁に向かって横になり、手にした小箱を抱くように背を丸めていると、小夜子の手が背中をそっとなでた。

「何を言うのかと思えば」

 声に少し笑いが含まれている。

「そんなこと、私と俊くんの間では何の問題にもならないわ。もとから承知のことだもの」

 雅俊は振り返ると背中に差しのべられていた手を少し強くつかんだ。

「大事なことだろう? おれと一緒になったら、小夜子は子どもが持てないんだ」

 本人がよくても相手によっては後々そこがネックになり、やがてカップルが壊れていく。だから隠してはいけない――渡辺医師はそう忠告してきた。

 目を伏せてそれを告げると小夜子は眉をひそめた。

「まあ……正直な先生ね。確かに、世の中にはそんな方もいるかもしれないけれど、私たちには必要のない心配だわ。むしろ、俊くんを傷つける結果になってしまってるじゃないの。いい迷惑ね」

「さ、小夜子?」

 片肘をついて身を起こすと、ふくれっ面で座る小夜子の姿があった。

「いいわ。今度の定期検診には私も同行します。これ以上ヘンなことを吹き込まれたらかなわないわ」

 小夜子は起き上がった雅俊の手から箱を取り、中から鍵を取り出すと、一緒に入れてあった銀色の細いチェーンに通し、雅俊の首にかけた。

「やっぱり。プラチナもよく似合うわ」

 嬉しそうに笑う小夜子の首にも同じチェーンが煌めいていることに気がついた。

「小夜子……」

 首に下がる鍵に手をやると、小夜子は念を押すように言った。

「アトリエを託す人に血は必要ない。あなたも知っているはずよ。次世代も同じこと」

「でも」

「あなたのことだけじゃないの。私の体では、子どもを望むことはもともと難しいの」

「え? 小さい頃より良くなったんじゃなかったのか?」

「……そうではあるのだけど」

 彼女は薄く微笑んだ。

「だから、俊くんが気に病む必要なんてないの。アトリエなら、いつかあなたが心を動かされた人に託せばいいのよ」

「そんな、いつかって……おれたちは九歳しか離れてないのに」

 おれのほうが先に旅立つかもよ? と振ると、小夜子は言葉を切り、雅俊の手に自分の手を重ねてまた続けた。

「その時は、あなたの決めた人に私が託すわ」

 そのまま体を預けてきた小夜子を抱き止めると、吐息がひとつ肌に触れた。

「確かに、私たちには血を分ける者は与えられない。でも、それよりももっと得難い、魂をすでに分けあっているわ。私の芸術をあなたが伝えてくれれば、それで十分だと思うの」

 そう言って微笑む彼女は聖母のように美しかった。そんな姿を見てしまっては、この上思い煩うことなどできない。それ以上の反論をやめ、雅俊はその言葉とともに鍵を受け取った。


 一方で、鞠江とはあれきり断絶状態になった。

 廊下ですれ違ったり、夕食会で顔を合わせたりはするものの、それ以上の接点はなかった。

 鞠江のほうは時折、気がかりそうな眼差しで声をかけてこようとすることがあったが、雅俊が先に無言で目を向けると大抵は怯んだ様子になり、結局、諦めた表情で視線を外して去っていった。その背中に一抹の憐憫を感じないわけではなかったが、胸に宿った鞠江への憤りが、もはや彼女の姿を追うことを許さなかった。

 そんな雅俊と鞠江の様子に、啓一が皮肉の入り混じった目線をくれて寄こすことがあった。けれども見咎めた小夜子が牽制の眼差しを向けると、すぐに表情を改めるのだった。ある日などは小夜子のほうから啓一を呼び止めていた。その後、何度か二人で話し込む姿を見かけたあとは、啓一のそうした態度も鳴りを潜めていった。


 拓巳も相変わらず夜の(くびき)からは逃れられないでいた。

 高橋から告げられた、「客を満足させることができるならば、別に夜を捧げなくとも構わない」という言葉を伝え、なんとか上手にかわせるようにと、あの手この手を教えたが、やはり客の条件が悪すぎる気がした。

 なにしろ高橋がつけて寄こす客は皆、拓巳の超絶的な美貌にまず目が、次に理性がやられている。あからさまに欲望を剥き出されては条件反射的に体が逃げようとし、相手はなお追いかけてくる――これでは接待もなにもない。

 そして、追い詰められて抵抗したところで「お困りの時に」と、高橋から渡された薬を客が使うのだ。小さなタオルに染み込ませてあるそれで口を塞がれ、吸い込まされると一瞬で気が遠くなり、覚めた時はすでにベッドの上、しかも手足の痺れだけがなかなか取れないときてはどうしようもない。

 それらの悪循環を聞きくにつれ、この問題には本気で危機感を覚えた。なんとか防ぐ手立てを講じなければ、せっかくの逸材も精神をやられてパアだ。

 そこで雅俊は最後の手段〈ヤバい客には同行する〉ことを決意した。

「そこまでやるのか……!」

 協力を申し出た恍星は、作戦を聞くと感嘆の声を上げた。

「毎回とはいかないだろうが、おれの体が空いている限りは手を打つ」

「俺にはそこまで徹底することができなかった……だから拓巳に拒絶されたんだな」

 そんな恍星の心情を、この頃には雅俊もほぼ理解していた。

 彼は、本当は自分こそが雅俊、あるいは真嶋芳弘のように必要とされたかったのだ。けれども拓巳は恍星には心を開かなかった。

 彼の奥底に潜む願望――拓巳の一番でありたいと願う想い。それが、拓巳の半ば本能と化した警戒心を刺激してやまず、せっかく差し出された救いの手を取ることができなかったのだ。そして恍星も、それがわかっていながらどうしても想いを捨てることができず、結果、一歩離れた位置からでしか守ってやれなかったのだろう。

 その恍星に加え、雅俊は真嶋芳弘にも協力を求め、拓巳の試練の日に作戦を実行した。

「とにかく、客に苦情を言わせず、ちゃんと帰せればいいってことだ」

 まず、拓巳が客に外出を求められた時点で恍星に合図し、行き先を確認後、可能な限り早く恍星がそれを雅俊に連絡する。

「連絡がきたら、できるだけ早く現場へ行くから」

 問題はホテルの部屋にかかる鍵だ。雅俊が間に合わなければ鍵は開けておかねばならないが、難しいだろう。

「だからできるだけ時間稼ぎするんだ」

 拓巳より先にホテルに着けば勝負は決まったようなものだ。

 いかにも店から来たフリをして雅俊が先にフロントで受付を済ませ、部屋に潜む。拓巳は案内役として来た素振りでフロントに部屋の番号だけを聞き、さっさと部屋に誘導すればいいのだ。

「その後のことは任せておけ」

 うまくいったら拓巳は先に逃がし、真嶋芳弘が動けるようなら迎えに来てもらう。そうでなければ自力で彼のもとに行く。

「不安な思いをした時は、安心できる人のそばに行くのが一番だからな」

 この計画にそって、雅俊はまんまとその夜、客と連れ立つ拓巳より先にホテルに入ることに成功した。

 あとは簡単だった。薄暗くした部屋の中で、従順を装う拓巳に客が油断しきった頃を見計らい、その背後に忍び寄る。男が手を出そうとした瞬間、後頭部のツボを軽く叩いて動きを止め、高橋から渡された薬のミニタオルを探しだしてそいつに嗅がせる。

「急げよ」

 拓巳に手伝わせて男のぐったりした体をベッドに上げ、半分目を覚ましたら本番だ。

「……?」

 客の男がまだ朦朧としているうちに、雅俊はその体に覆い被さると、首筋のツボと急所を一気に攻めて相手の理性を飛ばしにかかった。

「あっ……うわっ、あっ!」

 男は〈仕事〉でよく見るようにあっさりと昇天した。

「いい夢見なよ。じゃ」

 捨てぜりふを残し、成り行きを心配して残っていた拓巳を連れ、悠々とホテルを出ると、連絡を受けて待っていた真嶋芳弘に拓巳を渡した。

「大丈夫だったかい?」

 心配そうに聞かれ、雅俊は余裕で答えた。

「ちょろいもんだ」

 拓巳は別の意味で青ざめていた。

「スゴすぎる……」

「どうしたの?」

 芳弘が聞き返すと拓巳は言葉に詰まり、「いや、その……」とつぶやいていた。

 毎回とはいかなかったが、このパターンでどうにかやりくりした結果、心配した苦情は寄せられず、頭を悩ませていた拓巳の消耗は減った。そしてナニを学習したのか、彼も時間稼ぎの会話などをするようになり、どうにか心身の健康を取り戻していったのだった。



「時間だ、拓巳。用意はいいか」

「ああ」

 控え室代わりの自主練習用個室で、雅俊は拓巳を振り返った。明かりの下で見る顔色は平常通りだ。

「よし、いい顔だ。いくぞ」

 午後二時。その他部門の最後から三番目、二人の出場予定時間が来ていた。


 ついに迎えた音楽会の当日。第一部、午前のクラス合唱が終わり、ステージは午後の第二部を迎えていた。

 どうにか休みを取れた真嶋芳弘に付き添われ、拓巳は無事、健康な状態で雅俊のもとに合流した。

 本職である芳弘の手によって髪を整えられた拓巳は、普段にもまして光り輝き、校内を歩いているだけで暗闇に上がる花火のように人目を引き寄せていた。あるいは芳弘がいる、という安心感が、彼をいつもの冷たくてつかみどころのない表情から解き放っているのかもしれない。

 拓巳にとって、今日のステージはボーカリストとしての実力を試す鍛練の場だ。各部門にはそれぞれ賞が用意されているので、当然一位を目指す。

「気負う必要はない。でもおれたちにとってこれは遊びじゃない。学園内の発表会でもない。講堂にいるすべての観客の魂をつかみ取るくらいはできなきゃだめだ。そしておまえにはそれができると信じている」

 出場者専用に限定された出入り口の前で立ち止まり、拓巳を見上げて強く語りかけると、彼はけぶるような眼差しに光を浮かべた。

「おまえのその顔。芳さんも言ってたろ? 『美は武器になるんだ』って。今までずっと苦労してきたんだ。今日はそれが活用できることを実感しろよ」

「………」

 その励ましが気に入らなかったのか、拓巳は少し仏頂面になった。

「そんな顔ができるなら大丈夫だな。会場にはもう小夜子も来ている。頼んだぞ」

 雅俊は目線を前に戻すと、出入り口の重い扉を押した。

 途端、会場の熱気と、軽音楽の振動――ギターやドラムの音が全身にぶつかってきた。

 横合いの扉から入った雅俊の目には、千人は入るだろう講堂いっぱいに、生徒や保護者たちが群がっているように見えた。

 今日のプログラムは、ゲストのOBたちの都合でいつもとは逆、その他部門が前半になっている。例年では、その他部門はクラシック部門より保護者の観客が少ないものなのだが、なんだかいつもより多い気がする。

(こんな人いきれで小夜子は大丈夫かな……)

 ついそんな心配が先に立ってしまった。

 ピアノの出番が遅いため、後半のクラシック部門だけ来てもらうつもりだったのに、小夜子は頑として譲らなかった。

『あなたの作った曲を歌う拓巳さんの姿も見たいの。俊くんが気になるなら、小松に付き添いを頼むわ。それならいいでしょう?』

 心配して渋る雅俊を押し切った彼女は、小松孝彦とともにこの会場のどこかにいるはずだ。

 立ち止まった雅俊を拓巳が促してきた。

「行こう」

「あ……ああ、そうだな」

 ここまできて気にしても仕方がない。気がかりに引き込まれそうな自分を叱咤し、雅俊はステージ脇のドアへと足を動かした。

 ステージに上がった拓巳は、今度は初めて雅俊の曲を歌った日のように、歌詞の世界に入り込んでいった。

「―――!」

 最初のワンフレーズだけで、千人にのぼる講堂内の観客が息を呑んだようにピタリと押し黙った。

 一曲目を真嶋芳弘に、二曲目を小夜子に……。

 その言葉どおり、拓巳はこの講堂のどこかで聴いているだろう二人に向けて歌っていた。

 鍛えてきた腹筋に支えられ、正確に音階を踏む深い低音は耳に心地よく、伸びやかに響く高音は胸の奥にまでじんわりとしたものを届けてくる。想像して歌わせるのと、実際そこにいる人に向かって歌うのとでは、こうまで違うのかと目を見張るほど、彼の伝える力はパワーアップしていた。

 特に二曲目のバラードでは、その美貌に納まる不思議な色合いの双眸を観客にさ迷わせて切なげに歌うので、座席のあちこちから物が落ちるような音が相次いて聞こえた。おそらく「見つめられた」と感じた者たちが手荷物を取り落としたのだろう。ピアノ越しに横から見る雅俊には、なんとか群集の中から小夜子を見いだそうとして叶わず、アセる内心からくる表情だとわかるのだが、結果オーライなので構わなかった。

 歌が終わり、伴奏が消えても講堂内は静寂に包まれていた。が、拓巳が頭を軽く下げた瞬間、割れるような歓声と拍手で満たされた。

(よし! まずは一勝だ)

 かくして二人の挑戦は華々しい成功を収めた。この反応なら、間違いなく有志その他部門の一位を取れるだろう。


 休憩の一時、控え室代わりの個室で最後の調整に励んでいると、小松孝彦に付き添われた小夜子が顔を出した。

「素晴らしい歌だったわ。特にあなたの曲」

 小夜子は少し興奮ぎみだ。ピアノの手を止めた雅俊は椅子の上で小夜子を振り返った。

「あの曲、気に入ってくれた?」

 小夜子へのプレゼントだよ、と告げると、彼女は頬を染め、黒曜石の瞳を輝かせて頷いた。

「もちろんよ。嬉しいわ。拓巳さんは?」

「おれの練習に遠慮して真嶋さんが連れていったよ。でもそのうちここに戻ると思うよ」

 なにしろまだ前半の余韻が醒めやらぬ校内、どこにいようと注目の的だろう。

「それより小夜子。体調は? 疲れてないか?」

 脇に立った小夜子の顔を改めて窺うと、見上げているせいなのか、顔色が少し悪いような気がした。

「大丈夫。座っているだけだもの。あと一時間半くらい平気よ」

「そう……?」

 後ろに立つ小松孝彦に目を向けると、彼は笑みを浮かべながら頷いた。

「お疲れが見えましたら、私がすぐにお屋敷にお連れしますから」

 ご安心下さい、との返事に、そうだねと雅俊も返した。

 あとたった一時間半。

 そう思ったことが、この後の二人の運命を決めたのだとは、さすがにわからなかった――。



「ゲストが着席したようだぜ」

 恍星の言葉に、舞台袖にある準備室の一角で、パイプ椅子に座って瞑目していた雅俊は顔を上げた。壁に嵌まる小さな窓を覗く恍星の口元に笑みが浮かんでいる。

「早々そうそうたる顔触れだ。小夜子さんと平沢先生のお陰だな」

 壁に手をついて体を起こした彼は雅俊を見た。

 クラシック部門が始まって四十分。遅れていたゲストOBがようやく到着したのだ。順番を他の楽器演奏者と差し替えた結果、ピアノ科の生徒四人は終盤に集中することになった。恍星はピアノ科の三番手、雅俊は最後だ。

「悪いな。弾き比べとなれば俺の勝ちだ。一位はもらったぜ」

「そう簡単にはいかせないさ」

 今、ステージではバイオリンの演奏が終わり、ピアノ科の一番手が演奏を始めようとしている。

 恍星が再び窓に目を向けた。

「ああ、真嶋さんだ。背があるから目立つな。小夜子さんはどこだろう」

 雅俊も目を閉じた姿勢に戻り、両手を膝の上に置いて答えた。

「平沢先生の心遣いで、今は先生の隣に座らせてもらっている」

「本当だ。ちょうどステージの奏者に向かって左斜め後ろだな」

 ピアノに詳しい観客の激戦区、左斜め後ろは奏者の指使いが見えるチェックスポットだ。

「ある意味、小夜子は教師と立場が同じだからな」

「そうか……いいな」

 恍星の声の力が少しだけ落ちた。

「おまえは辛い環境にいるけど、心を分けあう人を持ってるっていうのは、それを差し引いてもいいくらいの幸せだよな」

「恍星……」

 雅俊が顔を上げた先に、窓を覗く恍星の憂いを帯びた横顔があった。

「精神的に強いおまえを見てるとそう思う。俺は……そういう者にはなれなかった」

 その目元に僅かな陰りが差した。彼の見つめる先には、すらりと上背のある、彫りの深い面立ちに優しげな表情を浮かべた青年の姿があるのだろう。

「俺も……いつか持てるかな。そんな相手を」

 恍星も、逃れようのない親からの仕業によって心に歪みを抱える者の一人だ。雅俊は奥に秘めていた扉を少しだけ開けた。

「『自分の感覚を信じて、目の前にあることを精一杯やる』前に、おれが落ち込んだ時に告げられた仲間の言葉だ」

「仲間?」

「おれと同じ性別で生きる仲間さ」

 小倉啓介の相手は特殊な性別。夜の世界を知る恍星なら聞いているはずだ。案の定、彼は押し黙った。

「だから恍星。あんたにもできるはずだ。父親の呪縛を跳ね返すことが。前を向け。そうすればいつか欲しいものは手に入る」

 雅俊が口を閉じると、彼はしばらく目を伏せ、やがていつもの自信ありげな笑みを浮かべてこちらを見た。

「そうだな、そのとおりだ。まずはこの勝負を取りにいくか」

 そして彼は脇を通り様に雅俊の肩に手をかけ、感謝するかのようにポンッと叩いてから準備室を出た。雅俊も後ろに続き、舞台袖で見守った。

 やがて聞こえてきた演奏は、かつて〈神童〉とまで呼ばれた彼の実力を十分に伝える出来だった。

 超絶技巧で知られるリストの〈ラ・カンパネラ〉、そしてショパンの〈黒鍵〉。七オクターブもの空間を、右手と、そして左手が時に交錯しながら移動し、信じられない速さと的確さでトリルが刻まれていく。

 力強い和音、流れるようなタッチ。雅俊がどんなに努力しても追いつかない、彼の余裕あるテクニック。

(それでも、おれは負けられない)

 彼を凌ぐ勢いがなければ、とうていプロの目になど留まらないだろう。またそのくらいの腕がなければ、この先小倉家の(くびき)から脱却することなどおぼつかない。雅俊は手を握りしめ、神の領域に近づきつつある恍星の演奏を受け止めながら、気迫で負けないよう自分に言い聞かせた。

 そして勝負の時がやって来た。

「期待してるぜ。俺の次にいい演奏をな」

 割れんばかりの歓声と拍手の中、すれ違う恍星の、汗を浮かべた顔が満足そうに輝いている。それに軽く手を上げて返しながら、雅俊はステージ中央に立った。

 客席に向かって頭を下げた時、右側に座る小夜子の姿を雅俊の目が捉えた。頭を戻す一瞬、食い入るように見つめてくる白い顔に視線を投げ、体を返してピアノに向き合った時、白と黒の鍵盤がライトを照り返して光った。

(よし、いける)

 雅俊は一呼吸置き、静かに一曲目、〈雨だれ〉を弾きはじめた。

〈ピアノの詩人〉と言われたショパンの調べは、その情景まで目に浮かぶような旋律の連続だ。

 最初はしめやかな雨の音を奏で、中盤の雷雨で打楽器の本領、重低音のフォルテが繰返し叩かれる。

 やがて雷雨は去り、柔らかな雨を表した音の連なりに戻る。恵みをもたらすやさしい雨音の、最後の一音が消えるまで神経を行き渡らせて……。

 小夜子に向けた最初の曲は無事、自分の思い描いたとおりに弾き終えることができた。

 講堂内は一瞬拍手に包まれ、再び静かになった。

 次こそゲストや恍星、そして拓巳に訴えるべく選んだ一曲だ。

 雅俊は目を見開くと、ショパンの〈革命〉に挑んだ。

 最初のダブルフォルテを叩いた瞬間、講堂内の空気が変わったのがわかった。そのまま息をつかせぬ意気込みで雅俊は鍵盤を細かく刻んでいった。

 畳みかけるようなハ短調の旋律に雅俊の心が重なる。

 〈祖国〉を奪われたショパンと〈自由〉を奪われた自分――。

 その解放への願いを目の前の鍵盤に託し、力強い右手の主旋律を追って、目にも止まらぬ速さで次々に繰り出だしていく左手。それが雅俊の〈革命〉だ。

 正確に、淀みなく音を紡ぐことを心がけた左のアルペジオ。はっきりと訴えるように響かせる右の主旋律。後半に入り、指先の力が僅かに狂いそうになるのを雅俊は気力でねじ伏せた。

(まだだ。諦めるな!)

 やがて弱まる音の連なりのあと、最後の旋律で再び強められたスピードとともに、思いのたけを込めた低音のダブルフォルテを叩きつけるように打った。

(終わった――)

 そう思った瞬間、講堂内が沸騰した。椅子から立ち上がった雅俊の目に、割れるような音とともに一斉に動く観客の姿が飛び込んできた。

(スタンディング・オベーション……!)

 頭を下げるとさらに音は強まり、歓声と拍手を背中に浴びながら雅俊は袖に下がった。

 待ち受けていた恍星が手を叩きながら言った。

「参ったな。テクニックは俺が上でも、総合点で負けそうだ」

「そこまでは……」

 頬を流れ落ちる汗をぬぐいながら返すと恍星は苦笑した。

「観客は正直だ。スタンディング・オベーションは伊達じゃない。みんな、おまえの魂の演奏に圧倒されたんだ。ショパンが乗り移って見えたぜ」

「……ありがとう」

「さあ、おまえの師匠に感想を聞いてこいよ。小夜子さんはすぐ帰る予定なんだろ?」

「ああ。もう疲れてるだろうからな」

 恍星に促され、雅俊は準備室を突っ切って外に出るドアに手をかけた。ちょうど小夜子のいる席の前近くに出られるのだ。

 しかし、ドアから顔を覗かせた雅俊の目に映ったのは、彼女の煌めくような笑顔ではなく……。

「小夜子っ!」

 周りを人に囲まれ、平沢教諭に抱き抱えられた小夜子の、気を失った姿だった。



「小松さん!」

「雅俊さん、静かに。渡辺先生をお連れしましたから」

 アトリエの二階にある小部屋の絨毯(じゅうたん)の上、急いで敷いた布団に小夜子は寝かされていた。腕を取った渡辺医師が脈や血圧を計り、女性看護師が点滴を用意する。

 診察を終えた渡辺医師は看護師に薬の指示を出し、次いでそばに張り付くようにして座る雅俊と隣の小松孝彦に対峙した。

「疲労と、少し心音が弱いです。小夜子さんは確か中隔(ちゅうかく)(心臓の部屋を分ける壁)に不具合があるんですよね。だから、汚れた血液がきれいなほうに混ざって、酸欠を起こしたんだと思います」

「このままで大丈夫なんでしょうか。入院したほうが……」

 雅俊が質問した途端、小夜子の空いた腕が動いた。

「だめ。それだけはだめよ」

 目を向けた先に、浅い息をしながらもはっきりと告げる小夜子の厳しい眼差しがあった。

 雅俊の演奏が終わった時、スタンディング・オベーションのため、次々に席を立つ観客とともに、小夜子も歓喜のうちに立ち上がったという。しかしまもなく動悸と目眩に教われ、「うちの小松を呼んで……」との言葉を残し、力尽きたように倒れたのだそうだ。雅俊がドアから出てきた時は、異変を察知した小松孝彦がちょうど駆けつけたところだったらしい。

「何かあった時はアトリエへ行くように指示を受けています」

 彼は小夜子を抱き抱えると、心配する平沢教諭や周りの人々を笑顔で宥めながら講堂を出た。そしてすぐに表情を引き締め、雅俊に耳打ちしてきた。

「目立ちすぎる。一旦、雅俊さんの使っていた個室に入りましょう」

 個室の床に雅俊のブレザーと、一緒についてきた恍星のものを敷いて小夜子を横たえると、まもなく彼女は息を吹き返した。

 状況を把握した小夜子はすぐに言った。

「もう少し休めば大丈夫よ。自分の足で歩かないと。倒れたことを知られたくないわ」

 誰に、とは言わずとも知れたことだ。

「しかし小夜子さま。どなたかちゃんとお医者様に()ていただいたほうが。万が一あとで容態が悪くなったら、困るのは雅俊さんです」

 小松の言い分がわかる小夜子は辛そうに眉根を寄せた。

「でも、お医者様になどかかったら、どこでおじいさまの耳に入るか……」

 その時、雅俊はふと閃いた。

「渡辺先生だ。あの人は事情を知ってる。きっと協力してくれるよ」

 そしてすぐに病院に連絡を入れて渡辺医師に経緯(いきさつ)を話し、こっそり来てもらうことができたのだった。

「先生、なんとか動けるようにしてください」

 小夜子は切羽詰まった様子で渡辺医師に懇願した。

「おじいさまのお帰りになる前に、家に戻っていなければならないのです」

 渡辺医師は半白の頭をかきながら答えた。

「点滴が終われば楽になるはずです。一時間もあれば大丈夫でしょう。ただ……」

「なんですか? 先生」

 雅俊が食いつくように聞くと、人の良さそうな彼の丸い顔が陰った。

「近いうちにちゃんと主治医に診てもらったほうがいいとは思います。中隔の様子を調べる必要があるかもしれない」

 渡辺医師は薬を幾つか処方し、「何かあったら連絡してください」と言い残すと、小松に送られて帰っていった。

 やがて点滴が終わると小夜子は笑顔で起き上がった。

「ああ、楽になったわ」

「大丈夫? もう少し休んだほうが……」

 雅俊が隣から背中を支えるようにして胸に寄りかからせると、小夜子は顔に手を伸ばしてきた。

「平気よ。今日はアトリエに籠って絵を描いていることになってるの。少し根を詰めてしまったと言えば、みんな納得するわ」

 確かに、小夜子は時々、絵を描いているうちに寝食を忘れてしまうことがあった。

「それよりも、ごめんなさいね。せっかくあなたが素晴らしい演奏を聴かせてくれたのに……」

 ふいにしょげる小夜子に雅俊は微笑んだ。

「いいんだ。深刻な病気とかじゃなくてよかった」

 艶やかな黒髪をなで、額に唇を落とす。

「おれ、ちゃんと弾けてたか?」

「ええ。心に迫る音だったわ」

 小夜子は柔らかい頬を雅俊の襟元に当てた。

「さあ、あまり遅くならないうちに帰るわ。俊くんは少し時間をずらして帰ってきてね」

 寄せられた唇に応え、軽く重ねる。やがて小夜子はタクシーを呼び寄せ、雅俊に見送られて先にアトリエを出た。

 次の日から小夜子は居室に籠り、おとなしく過ごした。

「今、手掛けている絵にハマってしまって……」

 たまに顔を合わせる啓一や、屋敷に出入りする人々の質問を絵でかわし、食事の時間もずらして極力人目を避けての生活を心がけていた。そこまで徹底して体調不良を隠すのは、むろん雅俊を啓介から守るためだ。

「小夜子、早くかかりつけの病院に行ってくれよ。おれ、心配で……」

 肌の色が前より透き通ってきたような気がして雅俊は何度か懇願したが、小夜子は「定期検診の日がきたらね」と笑って譲らなかった。下手に病院へ行く回数を増やすと、啓介に報告が行くからだ。

 そうまでして努力してくれたけれども、やはり衆目の前で倒れてしまっては、啓介の目をかい(くぐ)るには所詮、無理があった――。


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