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プレリュード~夜明けの彼方へ~  作者: 木柚 智弥
夜明けの向こうにあるもの
5/8

泥沼の中の光

 アトリエに戻り、リビングのドアをそっと開けて体を滑り込ませると、薄明かりの下で拓巳がソファーから身を起こす気配がした。

(……起きてたのか)

 それ以上、足が進まなくなる。まだ感情が整理しきれていないらしい。

 入り口で立ち止まったままの雅俊に、タオルケットを肩から外した拓巳が(いぶか)しげに呼びかけてきた。

「雅俊……?」

「……ああ、なんでもないんだ。遅くなって悪かったな」

 辛うじて声を絞り出すと、拓巳はソファーを離れ、雅俊のそばまで歩み寄ってきた。

 足運びが昨日よりしっかりしている。

 雅俊はどうにか笑みを作って彼を見上げた。

「だいぶ持ち直したようだな。気分は悪くないか?」

 目の前に立った拓巳は無言で頷いた。

「そうか。まあ、あと一日休めば」

 そこまで言ったところで、まるで遮るように拓巳に抱き寄せられた。

 薄いワイシャツ越しに体温が伝わってくる。

「おまえの心が泣いている。傷ついて、悲鳴を上げているのがわかる」

「拓巳……」

「〈仕事〉だけじゃ、雅俊はこうはならない」

「よせ……っ!」

 それ以上、(あば)かないでくれ――。

 足から力が抜けそうになった瞬間、背中に回された腕の力が増し、支えられるようにしてソファーに連れていかれた。そこでまた拓巳は雅俊を抱え直すと、背もたれに体を預けて背中に手を滑らせはじめた。

 それは昨夜、すべてが終わったあとで、放心したように胸に伏せてきた彼に、雅俊が慰めを込めてした行為に似ていた。

 ためらいなく触れてくる拓巳の手……。

 昨夜、雅俊を知ったことで、彼は自身が警戒すべき〈男〉という範疇(はんちゅう)から雅俊を外したのだろう。

 しばらくの間、ぎこちなく背を滑る手のひらの温もりを雅俊は感じて過ごした。

「ありがとう……もう、大丈夫だ」

 どのくらい時が過ぎたのか、雅俊が身を起こすと、拓巳は無言のままけぶるような眼差しで問いかけてきた。

「おまえの父親の店に呼ばれたんだ」

 正直に答えると拓巳の顔色が目に見えて変わった。雅俊は急いで付け足した。

「ひどい仕打ちをされたわけじゃない。客の接待でピアノを弾いただけだ。ただ、そのあとで少し話をして……おれの知らなかった事実を教えられたんだ」

 それを口にのぼらせた途端、止まらなくなり、雅俊は自分のこれまでの来し方や小倉家での立場、そして先ほど聞かされた高橋要の話を拓巳に語った。誰にも喋ったことのないような過去まで話したのは、やはり衝撃が大きかったからだろう。あるいは拓巳という、同じ立場を共有する聞き手を得たからかもしれない。

 雅俊が話し終えると拓巳が聞いてきた。

「これから……どうするんだ」

「むろん、確かめる」

 拓巳は僅かに目を見張った。

「もし、本当のことだったら……?」

「わからない。でもこのまま目を塞いで現実から逃げても意味はない。そんな風に生きたくはない……!」

 拓巳の肩に頭をついて呻くように言うと、彼は肩に手を滑らせながらポツリとつぶやいた。

「雅俊は、強いんだな……」

「そんなんじゃない。ただ、おれには自分を粗末にすると悲しむ人がいるんだ」

「小夜子さんか」

「そうだ」

 それは本来、親であるべきなのに――。

 そう言ってみてもはじまらない。小夜子がいるだけでも自分は幸せなのだ。

「彼女の目は誤魔化せない。だからおれはこのことを曖昧(あいまい)にはしておけないだろう。おまえだっているんだろう? おまえを心から心配してくれる人が」

 雅俊が顔を上げると今度は拓巳が(うつむ)いた。

「きっと、おまえが傷を受けるたびにその人も痛い思いをしているだろう……だから拓巳。大事にしてくれる人に報いたいんなら、まずはおまえ自身が自分を守れるように努力するんだ……!」

 自分にも言い聞かせるつもりで絞り出した言葉を、拓巳は真摯(しんし)な眼差しで聞いていた。



 次の日の夕方、雅俊は拓巳から強引に聞き出した〈美容師〉なる人に連絡をとった。拓巳には必要と判断したからだ。

 名を名乗り、事情を打ち明けると、その人は「すぐに迎えに行きます」と言ってきた。

 待ち合わせた横浜駅に血相を変えて現れたその人は、電話での丁寧な口調と拓巳の様子から、面倒見のいいハスキーな女性だろうと考えた雅俊の予想に反し、すらりと背の高い、なかなか整った顔立ちをした二十代前半に見える青年だった。

(この人が拓巳の? これ程の目に遭わされて、男にはもう触れられるのも嫌そうなのに?)

 その心情が手に取るようにわかったからこそ、小夜子に頼んでまで(かくま)ったのだったが。

 しかし、やってきたその人――真嶋(まじま)(よし)(ひろ)と名乗った青年も、拓巳に付き添う雅俊の姿を認めると、驚いた顔でこう(たず)ねてきた。

「君が、拓巳を世話してくれていたのかい……?」

 疑念を隠せないでいる様子に、彼が雅俊に何を見ているのかを察し、間違いなくこの人も拓巳の事情をある程度知っているのだと悟った。

「おれはホスト仲間じゃない。同じ中学の二年だ」

 眉をひそめて答えると、彼は顔を赤らめて頭を下げた。

「そ、それは失礼しました。拓巳を助けてくれてありがとう」

 そして雅俊の横に立つ拓巳を切なげに見下ろすと、そばに歩み寄り、肩をそっと抱くようにして声をかけた。

「どうしてもっと早くに連絡を寄こさないんだ。いつものように夜、店に来なかったから、ずっと心配していたんだよ……」

「ごめん……」

「さあ、まだぜんぜん顔色がよくないよ。ちゃんと寝てない証拠だ。しっかり休まないと」

「………」

「僕なら大丈夫。一旦店に戻るけど、すぐに帰ってくるからね」

「でも……」

「子どもは余計な心配はしないの。君の家には誰もいないんだろう? 家の人に文句を言われる筋合いはないね」

 家の人、と言いながらそれが父親を指しているのだとわかる。含みがあるらしい物言いに、雅俊は少なからず驚いた。

 この一見、優しげな青年は、明らかに拓巳の家庭事情を知り、その上であの父親に(いきどお)っているのだ。しかもこのやり取り。これ程の美貌を目の当たりにしながら、まったく頓着する様子もなく、腕の中に包み込むような接し方。これはまるで……。

(まったくの子ども扱い?)

 見ると、拓巳も表情に乏しくはあるものの、彼を前にしてなんとも無防備な様子になっているのがわかる。

 雅俊はようやく二人の関係を理解した。

 なぜなのかは不思議だが、この青年には、拓巳が今置かれている姿の本質――手厚い保護を必要とする傷ついた子どもにちゃんと見えているのだ。そして、すべてを承知した上でそれを果たそうとしている。彼のもとで、おそらく拓巳は生まれて初めて子どもとして愛情をかけてもらい、喜びを味わったのだろう。

(なるほど。拓巳にとって失いたくない大事な人とは〈親〉のような愛情をくれる人だったんだな……)

 雅俊はこの青年に対しては自分を装わないことに決めた。

「真嶋さん。あんたに聞きたい」

「なんだろう、雅俊君」

 彼は柔和な眼差しながら、打てば響くような反応で返してきた。

「雅俊でいいよ。あんたは拓巳のことをどこまで真剣に考えているんだ?」

「僕も芳弘でいいよ。それはどういう意味だい?」

「おれはちょっとこれから勝負に出なくちゃならない。それには拓巳の父親が絡んでくるかもしれないんだ。拓巳はおれにとって貴重な才能を秘めた逸材だから、なんとかこれ以上、傷を増やさないようにしたい。だから芳弘……(よし)さんが支えてくれるなら心強い。けれども、それには覚悟が必要になると思う」

 彼はハッとしたように表情を消した。

「それは、あの父親と向き合う覚悟かい?」

「そうだ。今すぐじゃないけど、拓巳を庇うならいずれはそうなる。あの男――高橋要は一筋縄ではいかないぞ。拓巳を巡っていつか必ず対立することになるだろう。あんたはあの男からどこまで拓巳を守ってやるつもりなんだ」

 切り込む勢いで問いかけると、真嶋芳弘は黙った。

「もし守り切ってやれる自信がないのなら、中途半端に手を出すのはやめてくれ」

 芳弘が顎を引き、拓巳の顔色が変わった。雅俊はそんな拓巳にも言い聞かせた。

「おまえが芳さんを頼りたかったのに我慢したのはそこが不安だったからだろう。そんなんじゃ、何かあった時のダメージが計り知れなくなるんだぞ」

 図星を指された拓巳はうなだれた。すると芳弘が彼を庇うように身を乗り出した。

「ずいぶんはっきりものを言うんだね。僕には高橋要と対峙するだけの器がないと言いたいのかい?」

「気に障ったのなら悪い。けど、あんたは美容師なんだろう? 高橋要はかなりの実力者なんだ。裏から手を回されて、首でも飛ばされることになったら傷つくのは拓巳なんだぞ。はっきりしておかないとこの先が危ういだろう」

 すると芳弘は、その彫りの深い眼窩(がんか)()まる茶色の目で雅俊を見据えるようにして言った。

「僕の首なら心配はいらない。どうとでもして見せるから。こう見えても結構かわし方はうまいよ。拓巳のことに関して、あの父親が何を仕かけてこようと僕から手を引くつもりは絶対にない」

「だめだ芳弘」

 拓巳が彼の肩にすがるようにして訴えた。

「本当にあの人は危険なんだ。芳弘にもし迷惑が」

 芳弘は即座に首を巡らせた。

「怒るよ拓巳。僕に何度同じことを言わせるんだ」

 薄茶の眼差しに一瞬、蒼白い火花が散る。その鋭さには雅俊ですら気圧されるものがあった。

「……っ」

 まして拓巳に太刀打ちできるはずもなく、目線に射ぬかれて押し黙る。芳弘は眼差しを和らげ、再びこちらに向き直って続けた。

「だから余計な心配はせずに、君は君の戦いに専念してくれたらいいよ。僕も拓巳のために応援するから」

 雅俊は芳弘の印象を訂正した。

(優しげな身ごなしに騙されるところだった。眠っているだけで、こりゃとんでもない逆鱗(げきりん)を隠し持った龍だな……)

 その勘は、後々証明されることになるのだった。



 それからそう日を置かずして、雅俊たち親子が崩壊する日がやってきた。

 その前日、連日の暑さから小夜子が少し体調を崩した。看病に付き添った雅俊は次の日の夜、突然、啓介に呼ばれた。

 私室に足を踏み入れると、余裕を失った様子の啓介はすぐに雅俊を奥の寝室へと連れ込み、寝台の上に引きずり上げた。

「最近、音楽室にいる時間が増えていただろう! 小夜子に負担をかけたのではあるまいな!」

「待ってくださ……っ」

 抵抗する間もなく服を剥がされた雅俊は、まるで獲物のように組敷かれて強引に貫かれた。

〈仕事〉で楽をしていたせいか、久しぶりに身に刻まれる暴力は雅俊を苦しめた。

「やめ……っ、ぁあっっ!」

 小夜子が絡むと彼はいつもこうなる――そこが不思議だ。

(それとも、本当に、おれが負担をかけたのか……っ)

 自分を疑う気持ちが伝わるのか、啓介は容赦なく己の(たぎ)りをぶつけ、荒々しくつかんでは懲らしめるように苦痛を与えた。

 やがて啓介が投げ捨てるように体を離した時、すでに意識を半分飛ばしていた雅俊には、彼がいつ寝室を出ていったかすらわからなかった。

 痛みをこらえてズボンを穿き、シャツを羽織ってなんとか部屋を出た頃には、時計の針は夜中の十二時を回ろうとしていた。

 広い屋敷の際奥にある啓介の私室から西棟の先端にある雅俊の部屋まではかなりの距離がある。が、すぐ下の応接室にあるベランダから中庭を突っ切れば半分で済む。全身が軋み、足を動かすのも辛かったので、雅俊はいつもなら使わないすぐそばの階段を下りて応接室へと向かった。そこで、見たくない現実にとうとう遭遇してしまった。

 応接室のドアノブに手をかけると、中から声が聞こえてきた。

「別にいいじゃないの、啓一さん」

 僅かに開いた隙間から確認するまでもない、それは鞠江の声だった。

「あなただってよろしくおやりでしょう? 私にも一人くらい目をかける者がいたっておかしくありませんわ。小倉家の人間なら誰でもしていることじゃありません?」

「それは、小倉家の者ならね」

 啓一の声には苦笑が混じっている。

「君は厳密には小倉家の者とは言い難いから、お遊びはほどほどにと助言しているんだよ。相手には事欠かないだろうからね」

(相手……)

 どうやら愛人のことらしい。上流マダムのお約束、というわけだ。

 ドロリとした赤黒いものが腹の底を焼く。

「失礼なおっしゃりようね」

 鞠江の声が少し高くなった。

「私はあなたの正式な妻でしょう? れっきとした小倉家の一員です」

「私に断りもせず、魅力的な息子を当主に売り込んでやっとつかんだ妻の座だね。そんな紙切れ一枚で安心しないほうがいいよ」

「ま……っ」

「あの人の趣味を知るやいなやの早業だったね。差し出されたあの子もかわいそうに。ピアニストなるつもりだったんだろう? 彼が自分のものにしている間はその望みは叶えられない。それを知りながら君は雅俊を売ったんだ」

 ―――!

 雅俊の心臓が跳ねた。

(ピアニストの望みが叶わなくなることを知ってた?)

 すると鞠江が毒の混じった声音を発した。

「あなたがちっとも煮え切らなかったからでしょう。あの子だって、小倉を名乗れるのだから少しくらいの苦労は我慢してもらうわ」

 その瞬間、雅俊の中で何かが弾け飛んだ。

 ついさっき、啓介から受けたばかりの仕打ちが脳裏を駆け巡り、頭に血がのぼって目の前が赤く染まる。

 鞠江の考えは確かに一理あるかもしれない。もっと厳しい環境にいたら、どんな目に遭わされても小倉の名を手に入れるべきなのかもしれない。けれど――。

(店まで与えて生活を保証してやったのに)

 高橋の言葉に心を刺し貫かれていた雅俊には、黙って聞き流すことはできなかった。

 握っていたドアノブを静かに回すと、雅俊は部屋に足を踏み入れ、素肌にシャツを引っかけただけの、まだ啓介から受けた凌辱の跡も生々しい姿を二人の前に晒した。

「雅俊さん!」

 鞠江の声が響く。二人はまだ外出着のまま、ソファーの奥、今は火の気のない暖炉の前に立っていた。

 鞠江はさすがに狼狽(ろうばい)したように顔色を変えた。啓一は少しだけ目を見張ると、皮肉の入り混じった笑みを口元に浮かべて雅俊に声をかけてきた。

「おや、噂をすれば、だ。かわいそうに、綺麗な顔が少し腫れてるね。艶のある巻き毛もバサバサだ。今夜のあの人は、小夜子のせいで相当機嫌が悪かったと見える。大丈夫かい?」

 雅俊はわざと揶揄しているような啓一の態度をあえて無視し、自分の知りたいことだけを聞いた。

「啓一さん。先ほどの話は事実ですか?」

 彼はおもしろがるような表情で答えた。

「君は本当に胆力があるね。そのとおりだよ」

 雅俊は鞠江に向き直った。

「そして母さん。あれがあんたの考え方なんだな。おれがピアニストになるよりも、あんたが小倉家に入ることのほうが大事だと!」

「そ、それだって、結局はあなたのためでしょう。私はあなたを養っているのだもの!」

 必死に取り繕う姿が虚しい。

「そうだな母さん。たとえそのために、啓介さんの命令ひとつで知りもしない男どもに夜の相手として売られたり」

 雅俊が一歩近づくと鞠江は後退(あとずさ)った。

「今夜のように、気の荒れたあの人からこの体をどんなに手酷く扱われたとしても、耐えるべきなんだろうな」

 言いながら、つい先ほどの凌辱を思い出して震えだった。雅俊は立ち止まって両腕を自分の胴に回し、こらえながら続けた。

「けど、だったらなんで堂々とおれに言わないんだ!」

「それは……!」

「自分はおまえを養っていくために必要なことをしている。だから耐えてくれ。そう言えばいいじゃないか! 前の母さんならそうしたはずだ!」

 鞠江の眼差しが落ち着かなげに揺れた。

「それともさすがに恥ずかしくて言えなかったか?」

「なんですって?」

 鞠江の顔が強張る。雅俊は口元で(わら)った。

「啓一さんが親しい人に言ったそうだぞ。『店まで与えて生活を保証してやったのに、息子を売りつけてまで妻の座を射止めるとは予想外だった』とね」

「……っ!」

 驚愕に目を見開く鞠江から視線を外し、雅俊は啓一を見た。

「そう、でしたよね」

 高橋から聞いているぞ、との声が届いたのだろう、啓一は笑みを浮かべたまま悪びれずに頷いた。

「ああ、確かに。友人に話したことがあるよ」

 向き直った先に、蒼白な鞠江の顔があった。

「なのにおれには、おれをピアニストにするために体を張って頑張っていると思わせた。啓介さんから『母親の幸せはおまえ次第だ』と言われた時」

 とうとう、こらえていたものが目尻から溢れ出した。

「おれは母さんのためだけに、初めて受ける凌辱を我慢したのに……っ!」

 体の底から絞り出すようにして言った時、背後でカタッと物音がした。前にいる二人の目が見開かれ、直後、鞠江が喘いだ。

「小夜子さん!」

 悲鳴のような掠れ声が聴覚を通過した瞬間、雅俊の全身が固まった。啓一も皮肉な笑みを消し、僅かにバツの悪そうな表情になった。

 しばらくの静寂のあと、身動きできない雅俊の後ろからその声は響いた。

「なんてこと……!」

 足音が近づいてくる。

「なんてひどい……あんまりだわ」

 目の縁が涙で霞む。やがて雅俊の視界に、その小柄な姿が入ってきた。白い薄手のガウンを羽織った夜着姿の小夜子は、雅俊を背に庇うようにして目の前に立つと、正面にいる二人に対峙した。

「鞠江さん。今日こそあなたを軽蔑するわ」

 初めて聞く、それは吐き出すような低い声。

「なんて恐ろしい人なの。そしてお父様は冷酷な方ね。まるで他人事のようにおもしろがってるなんて。おじいさまも……ひどすぎる。でも」

 小夜子の声がそこで震えた。

「一番愚かで残酷なのは、何も気づかずに無邪気に笑っていた私……っ」

 小夜子は薄い肩をわななかせると、両手で顔を覆った。雅俊はその肩を両手でつかむと自分のほうに振り向かせた。

「小夜子、部屋へ戻ろう」

「俊くん……」

「戻ろう」

 懇願するように重ねると、小夜子が腕を伸ばした。

「そうね……戻りましょう」

 指先が雅俊の目尻をぬぐう。

「この人たちと話すことなど、もう何もないわね……」

 そのまま彼女は雅俊の手を取ると、ドアのほうへと歩き出した。

 雅俊は一度だけ鞠江を振り返った。

 蒼白な顔でこちらを見る瞳には、焦燥と不安が渦巻いているのが見てとれた。そこにはもはや〈母〉の姿はなく、一人の華やかな、けれども空虚な女の姿があるだけだった。もう二度と手にすることのない肉親の情を、かつて与えてくれた存在に心の中で別れを告げ、雅俊は目線を小夜子に戻した。

「雅俊さんっ!」

 鞠江の振り絞るような声がした時、後ろでドアが音を立てて閉まった。十四年に及ぶ自分たち親子の、それは決別の音だった――。



 その夜、小夜子は雅俊を西棟の自室へは戻さなかった。

 雅俊が部屋の入り口まで付き添うと、小夜子は手を離さず、自分の居室へと続く廊下のドアを開けた。

「小夜子……?」

 そして雅俊の背中を押した。

「小夜子、今日は遅いよ。もう休まないと。おれ、戻るから」

「……自分の体は自分が一番よくわかっているわ。本当にたいしたことなどなかったのに」

 悔しそうに唇を噛む小夜子は、この雅俊の姿の原因が自分にあることを聞いてしまったようだった。

「でも、おれのために悲しむ小夜子を見るのは辛いんだ」

「だったら私の好きにさせて。その姿のあなたが目に焼きついたままでは、それこそ私の心臓が止まりそう……」

 そうまで言われては、逆らうすべもなかった。

 小夜子の住まう東の一角は、屋敷の中から半ば独立した敷地にある。長い廊下でつながれたそこは、成人した小夜子が健康に、そして静かに暮らせるようにと啓介が建てさせたものだという。

 小夜子は居室に向けて雅俊を再び押すと、本宅と居室を隔てる廊下のドアに鍵をかけた。カチャリと響いたその音を聞いた時、小夜子もまた何かを決意したのだと悟った。


「こちらへ来て……」

 備えつけられた浴室でシャワーを使い、ガウンを羽織ってリビングに入ると、小夜子は雅俊を奥の寝室へと導いた。そして薄明かりの下で、のしかかる疲労にぼんやりした雅俊をベッドに就かせると、目に涙を浮かべてつぶやいた。

「ごめんなさい。辛かったでしょう」

 縁に腰かけ、横たわった雅俊に手を伸ばした小夜子は、僅かに腫れた右頬に触れ、さらにガウンの襟元を開けて、そこに刻まれた青黒い痣や鬱血(うっけつ)した手跡を見つけると、絶句したように目を見開いた。

「ひどい……なんてひどいの……」

「小夜子」

 雅俊は涙の止まらない彼女に手を差しのべ、その華奢な体を自分のほうへともたせかけた。

「泣かないで……」

 小夜子の体が重ねられると、心地よい温もりが全身を覆った。そばに寄せられた顔を捉えて唇を探ると、すぐに柔らかい感触に塞がれた。

(ああ……)

 荒れ果てた心の奥底に(あか)りが(とも)る。

 そのまましばらくの間、雅俊は小夜子からの慰めを受け取って過ごした。

 やさしい手のひらが傷ついた体をなで、指先が強張った背中をほぐしていく。時折触れる唇は熱を伝え、鞠江によって凍りついた心を溶かしていった。

 やがて全身に熱を巡らせた雅俊が身を起こし、柔らかな体に腕を絡めると、小夜子は包むようにして応えてくれた。

「小夜子――」

 抱きしめて唇を落とすと、彼女は震えるようにして受け止めた。白く、穢れなく滑らかな肌が、雅俊の腕の中で徐々に色づいていく。どこまでも柔らかく、しっとりと優しい感触が、肌をさすらう指先に、唇に悦びをもたらす。

 それは、激しく求め合って伝え、確かめ合うものではなかったけれど、紛れもなく愛を交わす行為のひとつだった。

 夢の時間から醒めると、雅俊は小夜子に聞いた。

「どうしてあの場所に?」

 小夜子は雅俊の胸に顔を伏せ、つぶやくように答えた。

「具合が良くなったから、心配をおかけしたおじいさまに挨拶をと思ってお部屋へ伺おうとしたら、小松に止められたの」

「小松さんが」

「今は雅俊さんが呼ばれているからって。でも、その言い方がなんだか気になって……だから、雅俊さんにも用事があるからちょうどいいわと言ったの。そうしたら……」

『小夜子さまが顔をお出しになると、後で雅俊さんが困ることになるんです』

 小松孝彦はそう言って小夜子を引き止めたという。

「『どうしても、というなら夜半頃になさってください』と言われて、驚いて理由を聞いたけれど、教えてはくれなくて。ただ」

『あなたも、ご覧になればおわかりになるはずです』

 諭すように告げられ、一旦部屋に帰ってから、出直してきた、と小夜子は言った。

「だからはじめはおじいさまが、また誰か難しいお客さまを接待なさったのだと思ったの。でも、夜遅くまで俊くんを拘束するのは前から気になっていたことだったから、今日こそ言わなくてはと思って、静かになるのを待って……」

 お部屋に伺おうとして応接室を通りかかったら――小夜子はそこまで言うと両手で顔を覆った。宥めるように、雅俊は胸に伏せる頭に手のひらを滑らせた。

 しばらくすると、顔から手を外した小夜子がポツリと言った。

「私のせいだわ」

「え?」

「あなたを、一刻も早くここから出さなければ」

「小夜子……?」

 雅俊が目をこらすと、小夜子は黒曜石の瞳に思い詰めた光を浮かべていた。

「これ以上、あなたを犠牲にはできないわ」

 眼差しの強さが、まっすぐな気性からくる憤りを表している。それは雅俊に離別の不安を呼び起こした。

「小夜子のそばを離れるのはいやだ」

 雅俊は華奢な体を抱きしめて訴えた。

「そばにいられるなら今のままでいい」

「バカなことを言わないで! だったら私がおじいさまに言うわ。これ以上、俊くんを手にかけさせたりしない」

「だめだ!」 

 雅俊は慌てて遮った。

「小夜子が知ったことを啓介さんに悟られたら、どんなことになるか」

 おそらくただでは済まないだろう。

「放り出されるだけならいいけど、多分そうはならない。きっとあの人はおれを手元に縛りつけて、小夜子とは二度と会わせないよ」

 小夜子の顔が悲しそうに歪む。

「悔しいけど、今のおれに啓介さんを跳ね返す力なんてない。母さんのことは割り切れるけど、今の状況で小夜子にまで会えなくなったら、さすがにおれ、やっていく自信ない」

「そんな……じゃあ、このままでいるしかないの……?」

 辛そうに伏せようとする顔を雅俊は両手で包んだ。

「今すぐには無理だ。でも、いつかここを出てみせるよ」

 そして拓巳の才能と自分の曲のことを話した。

「拓巳さんとユニットを」

「クラシックとはまた違うジャンルだけど、拓巳のあの力が出せれば望みはあると思う。音楽会でそのあたりの手応えを見たいと思ってるんだ」

 もちろんピアノも手を抜かない、そう告げると小夜子は考える顔になった。

「これからは、どんな手段でもいいから早く身を立てる方法を考える。それができるまでは我慢だ。だから、小夜子も今は見て見ぬ振りをしてくれよ」

 小夜子の顔が再び辛そうに歪められた。

 今までまっすぐに生きてきた小夜子にとって、それはもっとも意に反する苦しい選択だろう。しかし今はそれに耐えてもらわねばならない。

「大丈夫。こう見えてもおれ、結構しぶといよ。いつか必ず自分のテリトリーを築いて見せる」

 そして小夜子の心の痛みが少しでも和らぐよう願い、胸の奥にしまっておいた言葉を取り出して伝えた。

「その時には小夜子も来てほしい」

 つぶらな黒曜石の瞳が見開かれた。

「一緒に、生きていってほしいんだ」

「俊くん……っ」

 雅俊は両手の中にある顔を真剣に見つめた。けれども絶句したままなかなか応えない小夜子に、だんだん不安が募ってきた。

 人見知りで、音楽のこと以外ではかなり内気な小夜子が、この先、他の男に目がいくことなどないだろうとは確信している。ただ、本当なら三年はあとに告げるつもりだった言葉だ。

 雅俊自身は、気概は人一倍強いつもりだし、夜の試練が豊富すぎてもはやそこに幻想などカケラもなく、小夜子以外にはあり得ないと思い定めていた。が、なにしろ見てくれが天使だの言われてしまうツラでは中身の決意と釣り合わない。体の問題もあるし、なによりこんなガキでは将来への約束など笑い飛ばされて終わりだ。むろん小夜子に限ってそれはないと思うから言ったのだが……。

「おれじゃ、だめか……?」

 色々な考えが次々に頭に浮かび、なんだか自身がなくなってきた。すると、そんな心情を見抜いたのか、雅俊の手をすり抜けた小夜子がギュッとしがみつくようにして身を寄せた。

「ひどい人……!」

「えっ……?」

 予想外の言葉に面食らっていると、胸に伏せられた小夜子の目のあたりがひんやりとしてきた。

「こんなに切ない日に、そんな大事な言葉を言われていったいどんな顔をすれば」

 怒ったような声音に、さすがにこんな経験はつんでいないのでどう対応したらいいのかわからない。

「ご、ごめん」

 伏せた頭をなでながら途方にくれていると、しばらくして小夜子が少しだけ顔を上げた。睫毛が涙を含んでいるのが見える。

「ありがとう」

 ポツリとつぶやかれたそれが、肯定の言葉だとはわかった。けれども不安が渦巻きはじめていた雅俊はもう一声をねだった。

「それじゃ、遠慮されてるみたいだ。違う言葉が欲しい」

「まあ……」

 小夜子は、今度はしっかりと顔を上げ、涙に潤んだ瞳を細めて答えた。

「嬉しい――嬉しいわ。私も、ずっと俊くんのそばで生きていたい……」

「小夜子」

 ようやく安心し、雅俊は彼女を抱きしめて唇を深く重ねた。言葉の中に僅かに含まれた、諦めにも似た何かを撥ねつけ、希望する姿だけを植え込むように。


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