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プレリュード~夜明けの彼方へ~  作者: 木柚 智弥
暗闇と光と
4/8

立ちはだかる壁

 やがて夏休みに入ると、雅俊は小夜子と音楽会に弾く曲を選んだ。

「やっぱり、情緒系と技巧系の二種類がいいと思うの」

 心臓の弱い小夜子は、普段はひとつの作品しか全力では弾かない。けれどもその日は雅俊のために、候補に上げた曲を一楽章ずつ弾いてくれた。

 細い指先は的確に鍵盤を捉え、繰り返される高速のアルペジオや息の詰まりそうな長いトリルをものともしない。しなやかな腕は滑らかに、時に激しく盤上を舞う。

(相変わらず、凄い……)

 この華奢な体のどこにこれほどの力を秘めているのか、心の底にまで届くような音の響きに、雅俊は魂を奪われたように聴き惚れた。体さえ丈夫だったら、さぞかし素晴らしいピアニストとして名を馳せたことだろう。だからこそ、託された思いをおろそかにはできない。

 現実の目標があるのとないのではやる気も段違いで、雅俊は日頃の鬱屈(うっくつ)を忘れ、久々に音楽に没頭した。そんな雅俊を見た恍星は「やっぱり雅俊はこうでなくちゃ」と喜び、拓巳は面食らっていた。

 拓巳の歌の才能をさらに引き出したのも小夜子だった。

 雅俊がオーディションの出し物を決めあぐねていると、小夜子が拓巳をアトリエに連れてくるように言った。

「アトリエに。いいの?」

 アトリエは、小倉家に五代前から伝わる頑丈で洒落た作りのセカンドハウスだ。小倉家からは独立した相続権のもと、趣味人のサロンとして所有されてきたらしい。小夜子はこれを啓介の亡き妻、清子(きよこ)から譲られたのだそうで、今はアトリエとして使えるように手を入れ、アップライトピアノと絵画用具が置かれている。水回りも整い、二階には小部屋まである隠れ家的な憩いの空間だ。

 小倉家のしきたりでは、鍵の所有者である小夜子の招いた者しかここに立ち入ることは許されない。雅俊は二年前から出入りし、絵画の基礎を教えてもらうようになった。けれどもピアノは屋敷の音楽室がほとんどだ。

「とても人見知りな子なんでしょう? 本宅よりもくつろげるところのほうがいいし、私も安心だわ」

 学校に関わることについて、小夜子は不用意に啓介の耳に入らないよう小倉家の人々の目を警戒しているのだ。雅俊はありがたくその申し出を受けた。

 かくして拓巳はアトリエに足を踏み入れ、小夜子と顔を合わせた。

 拓巳に対しては初対面が一番のネックだ。なにしろこの顔を至近距離で目にすると、大半の人間がノックアウトしたように固まって動かなくなるのだ。まさか他の連中のようにフリーズしたまま動けなくなることはないだろうが、慣れるまでは少し時間が要るだろう。

(でも、小夜子なら何回か会えばきっと……)

 しかし雅俊の心配をよそに、その美貌にまつわる苦労話を聞かされていた小夜子は、ある意味実に彼女らしい対応をした。

「初めまして、拓巳さん。小夜子です。本当に綺麗なお顔なのね。さぞかしご苦労なさってきたのでしょう?」

 拓巳は戸惑ったような表情を浮かべて会釈した。

「……よろしくお願いします」

 初対面者から「ご苦労なさって」などと言われたのは初めてに違いない。

 すると小夜子はそれ以上、拓巳の顔には頓着せず、ピアノの前に彼を促してすぐに指導を始めた。どうやら彼女にとって、拓巳は美しい外装で飾られた楽器と同じに見えるらしい。稀に見る秀麗な美貌に目を細めることはあっても、興味はあくまでも声そのものにあり、彼女の音楽を妨げるには及ばなかった。

 拓巳はことのほかそれを喜んでいるようだった。

 彼にとって、美しい容姿など災いがあるばかりで何の価値もない。けれども現実として、彼の周りには外見に惑わされる(やから)がひしめいているのだ。それが、こうも頓着せずに接してくる人を目の当たりにして新鮮な驚きを味わったためだろう。いつもはただ従うだけのレッスン態度が徐々に変わっていき、終わる頃には、まるで喉を操るようにして伴奏に合わせていた。

 真剣な表情で集中する拓巳は、この上もなく美しかった。

 そうして夏休みの間を縫うように二回目、三回目と小夜子のレッスンを受けた拓巳は、自分でも首を(ひね)るほど上達していった。手応えが嬉しかった小夜子に誉められ、さらに雅俊が、

「小夜子は優しげだけど、音楽には厳しいから誉めるのは珍しいんだ」

 と明かすと、その乏しい表情にうっすらと喜色を浮かべ、辺りの空間に花を飛ばしていた。

 そんな二人の様子を見守っていた雅俊は、喜びを感じる一方で、胸の中にいつしか物思いが溜まってくことに気づいていた。そしてそれを、四回目を終えた次の日、とうとう小夜子に暴かれてしまった。



 夏の暑い夜、冷房の効いた音楽室でピアノに向かっていた雅俊の手を、脇の椅子に腰かけて聴いていた小夜子が立ち上がって止めた。

「だめよ、俊くん」

 彼女の耳が雅俊の鬱屈(うっくつ)を捉えたのだ。

 さぞかしいい加減な音が出ていたのだろう。わざわざ見てもらっていながら集中できない自分が情けない。

「ごめん……今日はもう」

 部屋へ下がろうと椅子から立ち上がると、彼女が遮るように手をつかんだ。

「何が気にかかっているの?」

「……別に、何も」

「嘘」

 即答した小夜子から雅俊は顔を背けた。

 無理だ。小夜子を誤魔化すことなどできない。

「沈んだ音を奏でていたわ。何か思い(わずら)っていることがあるはずよ」

 小夜子の片手が伸び、雅俊の頬をなでた。

 まるで幼子(おさなご)をあやすようなその仕草に胸の奥が焼けつき、気がつくと雅俊は片手で小夜子の腕をつかんでいた。

「俊くん?」

 少し見開かれた黒曜石の瞳がこちらを覗いている。

 雅俊はハッとして手の力を緩めた。

 バカだ。小夜子に当たるなんて。それこそ子どもじみているじゃないか。

「……自分の心の狭さを思い知らされてるんだ」

「狭さ?」

 雅俊は観念して(うつむ)いた。

「見るたびに揺さぶられて痛い。拓巳の力を引き出していく小夜子の才能を。それから……」

 つかんだ手をそっと離す。

「上達する拓巳を嬉しそうに見つめる小夜子を」

 自分の狭量さが居たたまれず、雅俊は小夜子に背を向けた。

 拓巳を鍛えてもらって感謝しなければならないのに、何を言ってるんだろう。

 けれども拓巳の力を引き出す小夜子を、その喜びに輝く姿を目にするとどうしても思わずにはいられない。

(――いやだ。そんな笑顔を向けないでくれ)

 こんなどうしようもない自分を誤魔化せたらいいのに……!

 そう思った瞬間、小夜子が背中を抱きしめてきた。

「……っ」

 柔らかい体から滲む温もりが冷房に冷えた雅俊を包む。

「嬉しいわ」

 小夜子の小さな頭が首の後ろにトン、とつけられた。

「俊くんにやきもちを妬かれるなんて。私にも、少しはあなたを惹きつける魅力があるのかもと思ってしまうわ」

 笑い声の混じった言葉は心をはぐらかすようで、雅俊はこらえ切れずに腕の中で体を返した。

「ふざけないでくれよ!」

「ふざけてなどないわ」

 小夜子は黒曜石の瞳を光らせて答えた。背中に回された腕が力を増した気がする。

「軽やかに飛び立ちそうなあなたの心を引き寄せて捕らえたい……誰にも渡したくない。私の心の底にある、()(まま)な願望よ……」

 小夜子は朱をのぼらせた顔を雅俊の胸に伏せた。それに強く心を押され、雅俊は細い腰を抱き寄せてなめらかな頬に片手を添えた。

「小夜子……」

 指先に肌の熱を感じながらそっと仰向かせ、吸い寄せられるように唇を重ねると、柔らかい感触が自分のそれを包むように応えた。

 それは、〈仕事〉と称して強要され、半ば諦めて応じる幾多の夜を持つ雅俊に、夢のような至福をもたらした。

 どこまでも甘く、愛おしく、体の隅々にまで切ない疼きが駆け巡る。

 これこそが〈交わす〉ということ――。

 やがて唇を離れ、上気した首筋をたどりながら雅俊は小夜子に問いかけた。

「どうしてそれが我が儘なんだ……」

「この家にあなたを縛りつけることになるから。それは、ピアノの師としてはやってはならないことだわ……」

 僅かにうわずった彼女の声に心が舞い上がる。雅俊は指先を滑らせて華奢なうなじを支えると、汗ばむ襟元に顔をうずめて唇を寄せた。

 しっとりとした肌の感触に気が遠くなりそうだ。

「小夜子も一緒に行けばいい。ここを出て」

「それは……」

 背中に回る彼女の腕が震えた。

「できないわ。おじいさまが許さない。私の体も……」

 小夜子の心臓は、成長した今もけして丈夫とはいい難い。手に入りそうですり抜ける小夜子の存在に雅俊の心はかき乱された。

「じゃあいい。ここに、小夜子のそばにいる。小夜子の他に欲しいものなんてない」

「俊くん」

「おれの体を知りながら、そんな風に言ってくれる存在が他のどこにいるんだ」

 小夜子は雅俊の体の事情を知った時、

「だからこそ、他にない豊かな感性があるのだわ」

 と、女性も身に(そな)えたことを尊重してくれた。それは鞠江の意見と似ているようでいて、今の雅俊には根本が違うとわかる。

 鞠江は他にない特徴として武器になると言っているのであり、彼自身の人間性をそこに認めているのではない。実際、啓介などはあからさまに雅俊を稀少動物扱いで、〈仕事〉相手も基本は同じだ。

 この厳しい状況の中で、もし小夜子の態度に触れていなかったら、雅俊はさぞかし自己否定の気持ちを募らせていただろう。それはまさしく今の拓巳の姿、雅俊が拓巳を気にかけるのもそれがあるからに他ならない。

「小夜子のいない場所におれの行き場なんてない」

 襟元から唇を離して顔を上げると、小夜子が悲しそうな表情を浮かべていた。

「罪深いわ……あなたは広い世界に飛び立てる翼を持っているのに。この家にいる限り囚われたままなのだわ。そして私も」

 その先の言葉を紡ぐ前に、雅俊は小夜子の唇を再び塞いだ。そうして漠然とした不安を遮り、甘い時間にすり替えていった。



 夏休みも後半になり、レッスンが佳境に入ったところで拓巳の曲が決まった。

 小夜子の助言をもとに英語の曲はやめ、日本のロック歌手のバラードを選曲した。それは、その歌手が十六歳の時に作ったもので、切なく歌い上げる名曲として幅広く知られていた。

 最初、小夜子に勧められた時は疑問だったが、歌わせてみるとなるほど、小夜子の指摘した、

「彼は歌詞を実感できるもののほうが伝える力が強いわ」

 という言葉の意味がよくわかった。これなら音楽会のオーディションなど余裕で通過するだろう。

 さらに思いついた雅俊は、最近自分で作りはじめたバラードを拓巳に歌わせてみて、小夜子の見抜いた〈伝える力〉というのが並みでないことを知ることになった。


「旋律はこんな感じで」

 ピアノ伴奏と主旋律を聴いた拓巳はすぐに曲を頭に取り込むと、まだ途中までのそのバラードを歌った。それは、雅俊が小夜子への想いを綴った曲だった。


 夜明けの向こうに息づく世界を あなたにも見せたい 

 暗闇の先にある柔らかい光を一緒に感じたい 

 差しのべた手のひらを どうか拒まないで……


 柔らかいテノールが徐々に音階を上げる。すると拓巳は歌を止め、珍しく問いかけてきた。

「これは、小夜子さんへの歌だな?」

 まっすぐ切り込むような質問に、雅俊も正面から答えた。

「そうだ」

 すると拓巳はけぶるような眼差しでじっと見つめてきたあと、「もう一度はじめからやる」と言いだした。そうして歌った拓巳の声の響きは、前とは段違いだった。

「……っ!」

 雅俊は伴奏の手を緩めずに心を保つのが精一杯になった。

 それは、一語一語を噛み締めるような、まるで拓巳自身が本当に心から語りかけているような、胸の奥に直接響く歌声だった。

(なんて力のある声なんだ……っ)

 拓巳の内面に押し込められ、抑圧されてきた伝える力。それが捌け口を見いだしたかのように声から溢れている。

 本来の彼は、豊かな感性と喜怒哀楽を持っていたのではないか――そう思わせるのに十分な、それは聴き応えのある歌声だった。

「いい曲だな。それに歌いやすい」

 この曲に対する、それが拓巳の感想だった。曲が何を伝えたいのかを実感し、自分のものとして歌ったために入り込みやすかったのだろう。

(小夜子の存在か……それとも〈外〉とやらの人か)

 一瞬、暗い感情にとらわれそうになる。しかし雅俊はそれを意志の力で呑み込んだ。

(いいさ。これ程の才能、おれには見逃すなんてできない)

 将来の方向性を模索していた雅俊の胸の内に、この時、ひとつの可能性が植え付けられることとなった。



 拓巳とのユニットに目処が立ち、ピアノのほうも曲が決まって順調にレッスンを進めていた雅俊の前に、しかしそう簡単に運命は扉を開かないようだった。

 真夏の雨の日、空気もどんよりとした夏休みの午後、個室に現れた拓巳は目に見えて具合が悪そうだった。

「拓巳? どうしたんだ」

 彼は無言のまま、丸椅子の前でしゃがみこんだ。雅俊はピアノの手を止め、そばに寄って肩に軽く手を触れた。すると硬く強張った感触がした。

(これは……)

 息遣いが荒く、顔は蒼白で首筋には汗が伝っている。とりあえず床に座らせ、壁に背をもたせかけると、ドアを叩く音がした。

「誰だ」

「俺だ。恍星だ」

 こうもタイミングよく現れたからには理由を知っているに違いない。雅俊はドアを開け、恍星を素早く部屋に引き入れると噛みつくように問いかけた。

「何があったんだ」

 ドアをしっかりと閉め、一歩離れた距離から拓巳の様子を窺った恍星は、苦い顔で雅俊に向き直った。

「昨夜、店に厄介なゲストが来て……宥めるために、急遽オーナーが拓巳を使ったんだ」

「宥めるために使った?」

「つまり、店の被害を食い止めるために、拓巳をつけてホテルに送り出したんだ」

「……!」

「拓巳の場合、普段は土日だけで、あらかじめ予約の入った上客が対象だ。それなのにオーナーは最近『条件の厳しい相手で勉強してくることも必要だ』とか言って時々拓巳を放り出す」

 雅俊は再び拓巳のそばにしゃがみ、手を触れて様子を観察した。全身が小刻みに震え、痙攣(けいれん)を起こしているのがシャツ越しにもわかる。

「よく、ここまで来られたな……」

 おそらく一時も家に居たくなかったのに違いない。

 雅俊は襟に引っかかるようにぶら下がっているネクタイを解いてやった。すると背後で恍星が大きく息をつくのが聞こえた。

「よかった。雅俊なら大丈夫なようだ」

「なにが?」

「介抱してやるのが」

「……どういう意味だ」

「俺じゃ、触れられないから」

「えっ?」

 雅俊が聞き返すと、彼は悔しげに目を伏せた。そこに深い憂いを感じ、雅俊は質問を変えた。

「こいつには安心して休める場所が必要だ。どこか知らないか」

「寮の俺の部屋で構わないんだが……」

 しかし拓巳は苦しげに目を閉じたまま首を横に振り、恍星は「だよな」と嘆息した。

 雅俊はふと思いつき、拓巳に顔を近づけてささやいた。

「あの美容師とかいう人のところはどうだ?」

 すると彼はピクリと顔を上げた。その目が狂おしい光を浮かべて訴えている。

 行きたい。今すぐ会いたい――。

 今こそ雅俊ははっきりと悟った。

(小夜子じゃない。拓巳は〈外〉の人を想ってるんだ)

 けれども拓巳はすぐに光を消し、再び顔を背けてこう言った。

「いい。ここで、少し休ませて欲しい……」

 雅俊は決断した。

「わかった、おれが()る。恍星、あんたは帰ってオーナーに伝えろ。拓巳は当分うちで預かる。用があるならおれが受け付けるってな」

 恍星の顔が(ひる)んだ。

「受け付けるって……おまえ、大丈夫なのか?」

「小倉家に足を踏み入れるにはオーナーだって覚悟がいるだろうさ。時間は稼げるだろ」

 拓巳の父親が何を考えてこうまで息子を痛めつけるのか、知りたいところでもある。

 そうしてひとまず恍星を帰してから、雅俊はアトリエにいるはずの小夜子に電話をかけ、拓巳を休ませてくれるよう頼んだ。彼女は事情があることを察し、「ここを空けるから連れていらっしゃい」と言ってくれた。


 拓巳を連れ、タクシーでアトリエにたどり着いた雅俊は、小夜子の見守る中、アップライトピアノの後ろにある大きめのソファーに彼のぐったりした体を横たえた。そして素早く小夜子を廊下へと連れ出した。

「できれば二、三日、二人だけでここを使わせてくれないか」

「え?」

 さすがに小夜子はもの問いたげな顔になった。雅俊はそれを遮るように華奢な体に腕を伸ばした。

「頼む。詳しいことは言えないけど、あいつは深く傷ついている。でも多分、そんな姿を誰にも見られたくないと思ってるんだ」

 抱きしめた背中を手のひらでなでると、小夜子は考えを巡らせるように雅俊の肩に頭を伏せた。が、やがてゆっくりと顔を上げた。

「……何か困ったら、すぐ電話をちょうだいね」

 雅俊はホッとして耳元に唇を寄せた。

「ありがとう。無理を言ってごめん。後で連絡するから」

 そのまま唇を滑らせ、小夜子の額に口づけを落としてから、外に待たせておいたタクシーへと彼女を送り出す。そして玄関にきっちりと鍵をかけ、室内に戻って急いでシャワーを浴びた。

(ここまでするなんて、おれもどうかしてる)

 流れ落ちるシャワーの奥、鏡に映る自分の姿――未だ成熟には遠い、〈男〉とは少し違う不思議を秘めた生き物。おそらく今の拓巳には、この自分が役に立つのだとわかっていた。

(しょーがない。一度助けちまったからには徹底するさ)

 バスローブ代わりに小夜子のナイトガウンを引っかけ、髪を拭きながらリビングに戻ると、雅俊はソファーにうずくまる拓巳に呼びかけた。

「拓巳。このままじゃ辛いだろう? おれの通う病院へ行くか」

 拓巳は即座に首を横に振った。

「まあ、そうだろうな」

 病院の職員といえども他人、まして医師はほとんどが男だ。こんな状態では診察で触れられるだけでパニックを起こすとわかっているのだろう。雅俊でさえ最初に担ぎ込まれた日、渡辺医師の手を拒絶して困らせたのだ。

 雅俊は拓巳のそばにしゃがむと、背中、そして首筋に指で触れた。僅かに首を巡らせ、目線をこちらに寄こした拓巳は、ガウンを羽織っただけの雅俊の姿に目を見開いた。

「雅俊……?」

「過呼吸になる前におまえを治す」

「え……」

「おれは硬直なら解いてやれる。前に〈仕事〉の相手からコツを教わったから」

 拓巳は浅く喘ぎながらも聞いてきた。

「それは夜の……小倉啓介以外の相手のことか」

「そうだ」

「雅俊も罰を食らってるのか」

「罰? ……まあ、そんなもんだ」

 軽く受け流すと、拓巳は呻きながら顔を伏せた。

「みんな、なんでそんなに平気なんだ……」

「みんな、って?」

「店の新人ホストたち……ノルマがこなせないと、あいつら夜に」

 ソファーに額をつけた拓巳の顔に嫌悪の表情が滲む。雅俊の脳裏に暗い眼差しをした恍星の姿が浮かんだ。

(俺じゃ、触れられないから)

 そういうことか。

 おそらく彼の父親の店では、成果を出せない新人には密かに別の道が用意されているのだろう。

 拓巳は自分も含め、店に勤めるそういったホストすべてを嫌悪しているのだ。それで恍星は寮へ連れるのをためらい、拓巳は拒否したわけだ。

 雅俊が体を近づけると体温を察したか、拓巳が身を(よじ)った。

 雅俊は構わずに拓巳の手をつかんだ。

「誰だって平気なわけないだろ。上辺だけで判断するのはやめろ」

 拓巳は捩るのをやめ、雅俊に切羽詰(せっぱつ)まった目を向けた。

「おまえだってさんざん外面(そとづら)で判断されて迷惑してるだろうが」

「………」

「おれはおまえの才能が惜しいんだ。だから手を貸す。心配するな。おまえは抱かれるんじゃない」

 雅俊はガウンの前をはだけた。

「おれを知るんだ」

 つかんだ拓巳の手を自分の(しるし)に触れさせる。

「あ……っ」

 拓巳の表情が理解と困惑に変化した。

 雅俊は一瞬、目をつむり、次いで拓巳の首に指を滑らせると、シャツの襟を開いて胸元に顔をうずめた。感覚の集中する一点を探りだし、唇を()わせて熱を引き出す。

「雅俊……っ」

「黙ってろ……」

 そうして雅俊は彼の自然を導きだし、体を(さいな)む硬直を別の感覚へとすり替えていった――。



 次の日、早くも向こうは手を打ってきた。

 日中、雅俊は本宅の啓介に呼び出され、今夜〈仕事〉に行くよう言いつかった。

 雅俊の〈仕事〉が、啓介の友人のサロンへピアノを演奏しに行くことだと思っている小夜子は、出かける用意をする雅俊を見咎め、

「拓巳さんが一人になってしまうわ。なんとかお断りできないのかしら。なんなら私がおじいさまに……」

 と言って雅俊を焦らせた。けれども「拓巳のことは絶対内緒にしたいから、いつもどおりにするよ」と説明すると納得してくれた。

 ソファーで寝ている拓巳をアトリエに残し、指定された関内駅近くのビルにタクシーで乗りつけると、思いがけない相手がロビーで待っていた。

「雅俊。拓巳の具合はどうだ?」

「恍星!」

「俺がおまえを買ったわけじゃないからな」

「じゃ、一体誰が……」

「もちろんオーナーだ」

「――!」

 恍星は雅俊の黒いタキシード姿を一通り見やると頷いた。

「さすが上物。よく似合ってるな」

『サロンでピアノを弾く時に使う礼装を』それが先方の要望だった。そこでピアノのリクエストも視野に入れ、こればかりは金に糸目をつけない啓介が一流の職人に作らせた、オーダーメイドのタキシードを身につけてきたのだ。

「ここの二階が〈バードヘヴン〉、うちの店だ。さっそくあの人は動いたってことだぞ。覚悟はいいか」

 恍星の表情が真剣さを増し、雅俊は気を引き締めて頷いた。すると恍星の態度がガラリと切り替わった。

「案内を申し使っています。どうぞこちらへ」

 少し気取った表情で彼は雅俊を店へと(いざな)った。


「バードヘヴンへようこそ」

 口々に挨拶を寄こしてくるスタッフ――新人らしき少年ホストたちを横目に、フロアに通された雅俊は、内装のセンスの良さに感心した。

 鞠江の関係で雅俊が目にしてきたクラブは、とかく見映え重視でゴージャスな作りが多かったが、この店は全体がモノトーンで統一され、高級な建材を使った各ボックス席は少しずつデザインが異なり、それが、学校の音楽室ほどもありそうな広いフロアの各所にゆったりと配置され、洗練された雰囲気を醸し出していた。

 すでにそれらの席のほとんどは埋まり、品のいい制服やスーツに身を包んだホストたちが給仕や接待に行き交っていた。どうやら制服姿が新人や下っ端、スーツ姿が上位ランクのホストらしい。してみると、光沢のあるダークグレーの洒落(しゃれ)たスーツを身につけた恍星は上位なのだろう。

 恍星が向かったフロア奥の一角に、周りの内装に溶け込むようにして、一台の黒いグランドピアノが店内の柔らかい照明の光を反射していた。

(ベヒシュタイン・コンサートグランド……!)

 その本格的な銘柄に雅俊の足が思わず止まった時。

「眼鏡に叶いそうか」

 聞き覚えのある声が背後からかかった。振り向くと、少し離れた先に上背のある男が立っていた。

「あなたは……」

 それは夏に差しかった頃、雅俊にピアノだけ弾かせたあの奇妙な客だった。

 今日もまた、ノーブルなダークブラウンのスーツが決まっている。すると足を止めた恍星がその男に向き直った。

「小倉さんをお連れしました、オーナー」

(オーナー……!)

 雅俊の驚きをよそに、二人がやり取りを交わしていく。

「ご苦労だった、恍星。君のゲストが三番ボックスでお待ちだ。行きたまえ」

 恍星は会釈をすると(きびす)を返し、フロアを戻っていった。

「あなたが……」

 拓巳の父親なのか。

 言葉を飲み込んだ雅俊に、彼はその硬質な容貌に薄く笑みを浮かべて言った。

「私は高橋(たかはし)(かなめ)。この店のオーナーだ。今夜はここでおまえの時間を使う。異存はないな?」

 異存もなにも、すでに自分は買われている。しかし買い手の意図に合わせるのも仕事の内だ。

「ありません」

 すました顔で返事を返すと、彼は「いい反応だ」と受け答えた。

「では、さっそく腕前を披露(ひろう)してもらおうか」

 高橋要は雅俊にピアノを指し示した。

「選曲は任せる。今日のVIPはショパンがお好きだ。相応(ふさわ)しいものを五曲、演奏したまえ」

 彼は雅俊をその場に残し、フロアの中央へと戻っていった。


「素晴らしい演奏でしたな」

 VIP席に座る、いかにも上流らしい年輩の男が連れの青年とともに手を叩く。

 同席する高橋オーナーに手招きされ、会釈をしながら彼の隣に座ると、雅俊はしばらく歓談に付き合った。

 どうやら音楽関係に精通しているらしいその客と青年、そして高橋オーナーの話はかなり本格的で、雅俊はつい立場も忘れて聞き入り、いつの間にやら歓談の輪に入り込んでしまっていた。そのせいかどうか帰り際に、

「今夜は実に有意義な時間を過ごせた。拓巳の姿を拝めなかったのは残念たが十分に楽しめたよ。今度はぜひ君を指名したいな」

 などと言われてしまった。

 雅俊が買われる時間は三時間と決まっている。午後十一時を回った頃、高橋が雅俊を下のロビーへと連れ出した。すでにタクシーが手配されていて間もなく来るのだという。

 外の熱気に備えて上着を脱ぎ、出入り口の前で会釈をすると、高橋が口を開いた。

「私の見込んだとおりだった。望むなら、バードヘヴンはいつでもおまえを受け入れるだろう」

「え……?」

「今夜のような結果を出すなら高給を約束しよう」

「今夜のような?」

「先ほどのゲスト、山崎(やまさき)哲郎(てつろう)氏はなかなかの曲者でね。接待が気にくわなければ容赦なく席を立つ。今夜のおまえはまさしく山崎氏のツボを突いたわけだ」

 うちのホストたちのおまえを見る目が変わっていくのがわからなかったか? と問われ、全然気にしていなかった雅俊は首を傾げた。すると高橋は声を立てて笑った。

「NO.1から5までが目を向けていたのに、気にも留まらないとはなんという胆力だ。ますます欲しい。小倉啓介氏の玩具(おもちゃ)にしておくには惜しすぎる」

(……っ)

 その言い様はさすがに雅俊の心を抉った。

 そんな内心が見えたのだろう、高橋は片頬をつり上げた。

「ほう。玩具と言われては立つ瀬がないか」

 皮肉の混じる表情に触発され、雅俊は負けじと言い返した。

「いえ。息子すら平気で商品として売るあなたから見れば、小倉家に囚われたおれなんて虫カゴの蝶より憐れな生き物でしょう」

「だが、おまえは稀少価値が高く、人の世を渡る才能も備えている。あの家の(くびき)さえ逃れられれば十分に輝けるだろう。拓巳とは比べ物にもならん」

 高橋オーナーは、自嘲するような苦い口調になった。

「その点、あれは私の後継者でありながら、いつまでたっても己の置かれた立場を受け入れて努力しようとしない。甘えているのだ」

 雅俊は思わず高橋の顔を仰ぎ見た。

「家庭に寄る辺もなく、心が壊れかけているのでは、努力したくともできないでしょう。あなたにも責任があると思いますが」

「あれよりもっと厳しい環境に置かれた者は山ほどいる」

「……人には向き不向きがあります。彼の才能は別のところにある。あなたの思うようにならないからといって辛く当たるのはいかがなものかと」

「先日のことを言っているならお門違いだ。私は拓巳にいつも『客を満足させることができるならば、別に夜を捧げなくとも構わない』と言い渡している。うちの者たちは皆、それで努力して成果を上げているのだ。あれだけに苦行を強いているわけではない」

「しかし、特に条件の厳しい客をあてがっているように見えますが」

「外見で得をしているのだからそのくらいのハンデは当たり前だろう。現にうちのNO.1のゲストは厳しい客ばかりだぞ」

「……それが、あなたの持論なわけですね」

「そうだ。おまえには、そういった実力勝負の世界のほうがよほどわかりやすく納得がいくはずだ。今の小倉氏からの理不尽な要求よりは」

「……っ」

 痛いところを突かれ、雅俊は言葉に詰まった。そんな様子を見越したように、高橋オーナーはさらなる爆弾を投げかけてきた。

「それに、あれを『売る』と言うのならおまえなど母親に『売り飛ばされた』と表現されるべきだろう。拓巳に(かかず)らわって私を誹謗(ひぼう)する前に、自分の立場を少しは改善してみたらどうだ?」

 瞬間、頭の中に閃光が走った。

(オーナーは今、なんて言ったんだ?)

 顔を上げると、硬い光を放つ眼差しが注がれていた。

「啓一も恐ろしい女に捕まったものだ。いくら愛人から脱却したかったとはいえ、啓一を飛び越えて啓介氏に直接交渉するとは」

「えっ……?」

 目を見開くと「彼は昔、私の常連でね」と高橋は薄く笑って続けた。

「啓一がぼやいていたぞ。『店まで与えて生活を保証してやったのに、自慢の息子を売りつけてまで妻の座を射止めるとは想像外だった』とな」

「―――!」

 稲妻に打たれたような衝撃が来た。

(母さんが、啓介に、おれを売った―――)

 むしろ逆だと思っていた。自分をピアニストにするために小倉家の力を利用しようとしたのだと。だが確かに、それは啓介よって阻まれ、鞠江にはそれを改善する節もない。

 すると、ふいに高橋が両肩をつかんできた。

「悔しいか」

 見上げた雅俊の目が高橋の薄い色をした眼差しとぶつかった。拓巳と同じ色の、けれどもあまりにも違う、相手を刺すような光を放つ瞳。

「悔しければ闘え。おまえにはできるはずだ」

 高橋は強い口調で言った。

「それができるだけの才能を持っている。それを使って跳ね返して見せろ」

「……っ」

「おまえがその気になるなら、私は小倉氏の(くびき)から解き放つ手伝いができるだろう。むろん条件はつけさせてもらうが」

 畳みかけてくる高橋の力強い両手を、雅俊は肩を振るようにして外すと一歩下がった。

「それは、あなたの店に入ることか」

 彼は両手を下ろして頷いた。

「そうだ。無償の協力などかえって胡散臭(うさんくさ)いだけだろう。小倉氏は生易しい相手ではない」

「……そうやって……っ」

 雅俊は高橋を睨んだ。胸の内側に(ふつ)々と(たぎ)るものが生まれる。

「意のままにすることでは変わらないだろう。あの人も、あなたも」

 高橋は黙ってこちらを見下ろした。

「あなたの言った言葉が本当かどうか、自分で確かめる。どうするかを決めるのは、そのあとの話だ……!」

 今にも溢れ出しそうなものを食い止めるために、雅俊は高橋を、そしてその後ろに重なって見えるすべてのしがらみを睨みつけた。

「いいだろう。それでこそ私の見込んだ者に相応しい態度だ。おまえの気が済んだら、いつでも連絡してくるがいい」

 高橋要は余裕のある笑みで雅俊を見やると、スッと(きびす)を返して戻っていった。


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