邂逅
雅俊を取り巻く状況は厳しかったが、ひとつだけいいことがあった。
啓介の同類たちに〈仕事〉と称して売られた雅俊は、そこで色々な人物に接することになったのだが、その内の一人、啓介の体をメンテナンスする整体術師から、いわゆる〈閨房術〉と、それに付随する様々なツボ技を授けられたのだ。
持ち前の器用さでそれらをさっさと修得した結果、雅俊は夜を買い取った客との立場をまんまと逆転させることに成功した。
日本でも有数の腕を持つという、四十代半ばのその男は当初、「君との夜をより楽しめるように」などと言っていたのだが、やがて「教えるんじゃなかった……」と後悔していた。むろん手遅れだ。
お陰で体力的な負担が減り、昼間に居眠りをして担任に怒られる回数も少なくなり、体力が保てるようになった。渡辺医師から処方された薬による副作用で、だるさや目眩などが出はじめていたが、それも少し解消された。そして「彼」と初めて出会ったのもそんな頃だった。
「ほら、こっちにこいよ」
春の終わりも近い週末の放課後、自主練習に励む雅俊の個室に恍星が一人の男子を連れてきた。その顔を見た途端、雅俊は柄にもなく相手を指差してしまった。
「あっ、あんたあん時の!」
「―――!」
その男子も驚いたような表情をした。――多分。
なにしろ、そいつの顔は他に類を見ないような超絶美形、しかも彫刻のような無表情だったのだ。
雅俊がその男子――拓巳と出会ったのは一週間ほど前、啓介の〈仕事〉に出された晩の、そういった嗜好の男がよく使うらしいホテルの一室に連れられた時のことだった。
少々しつこくされて手を焼いた雅俊は、酒に弱い客の男に、軽めのカクテルと称してこっそりウォッカを多く入れて勧め、泥酔したところを蹴り上げてベッドに沈めると、きちんと男の衣服を調え、あとでモンクを言われないように「楽しい夜でした」などと置き手紙を残して部屋を出た。すると、角部屋のドアの前で、ハデなジャケットを着た男に連れ込まれそうな少年が、激しく抵抗しているところに遭遇してしまった。
自分のことで手一杯だった雅俊は、少し余裕ができてきたこの頃でも他人のトラブルに顔を突っ込むことは極力避けていた。ましてや夜の場合は連れ込まれるほうにもスキがあると切り捨ててもいたので、いつもだったら足早に素通りしていただろう。
それを覆してまで手を出したのは、相手の男のジャケットのセンスがヒドかったのもあったが、今にも連れ込まれそうな十六、七歳ほどの男子の動きが、明らかに不自然――顔は真剣そうなのに手足が酔ったようにふらふらしていたからだった。それは、初めて啓介に呼ばれた日に使われた薬の症状によく似ていた。
薄暗い明かりの下、動かない手足で必死に抵抗するその後ろ姿に、薬さえ使われていなければ明らかに男を退けられていたはず、と見てとった雅俊は、慎重にその男子の体を羽交い締めにしている男の後ろに近寄り、一気に手刀を後頭部に振り落とした。
「ぐぇっ!」
男はあっさりと崩れ落ち、床に這いつくばった。雅俊は一緒に倒れ込んだ少年の体を素早く引きずり起こすと、「逃げるぞ」と呼びかけ、腕を引っ張るようにして駆け出した。
途中、入り組んだ作りのホテルに戸惑うと、ここを知っているのか「向こうに裏口がある」と言い、そこからは彼がもつれる足で先導し、どうにか二人でそのホテルを逃れた。
駅の地下街の隅に置かれたベンチにたどり着き、脱力したように隣に座る男子を振り返った雅俊は、思わず途中の自動販売機で買ったスポーツドリンクを取り落としそうになった。
サラサラした長めの髪をかき上げ、少し気だるそうにこちらを見るその顔――!
(女⁉ いや、でも体つきが……っ)
それは、見たこともないほど整った顔立ちの男子だった。
ただ美形、というだけではない。美という名の衝撃、とでも言おうか。
すっとした眉の下深くに嵌まる切れ長の大きな瞳は緑がかった薄茶色で、長い睫毛がそこに陰を落としてけぶるような眼差しを寄こしてくる。高く通った鼻筋の下に続く唇はやや薄めに整い、濡れたような艶のある深い赤紫色をしている。
それらすべてが、なめらかな白皙の面の中で完璧な位置に納まった結果、艶麗ともいうべき迫力が加わり、正面からこの顔と対峙した雅俊はなにやら落ち着かない気分になった。するとその瞬間、まるで雅俊の胸中を見透かしたようにその顔が表情を消した。
「―――」
雅俊は瞬時に理解した。彼が今、「またか」と嘆息したことを。
(くそっ、おれとしたことが)
気を引き締め、雅俊は努めて冷静な口調で言った。
「災難だったな。体は大丈夫か?」
すると読みどおり、彼は「おや」という目線を寄こした。
「おれは小倉雅俊。あんたは?」
彼は少しだけ目を見開き、やがて口を開いた。
「……高橋拓巳」
やはり男だ。それに、深くていいテノールをしている。そんなことを思っていると、彼――拓巳が声をかけてきた。
「さっきは、どうも」
どうやら警戒心を解かせることに成功したらしい。
「いいさ。おれも案内がいて助かった」
なるべく正面から顔をまともに見ないよう気をつけながら雅俊は聞いてみた。
「薬を使われたんだろう? いつ頃やられたんだ。まだ抜けそうにないのか?」
すると拓巳はこちらをじっと見つめてきた。
なぜわかる?
無表情な美貌の奥で、疑問に揺れているのが伝わってくる。雅俊は口の端で笑いながら答えた。
「使われたことがあるんだよ。おれも」
「――!」
拓巳は驚いたような顔をした。多分。そして少し目線を落としてつぶやいた。
「あのホテルに連れて来られる前にいた場所で……」
美しい目元に苦しそうな気配が漂っている。雅俊は質問を変えた。
「家はどこなんだ。近いのか?」
「………」
「帰りたくないのか?」
なんとなく察して聞いてみると、拓巳はポツリと答えた。
「横浜駅まで出れば、知り合いの美容師がいる。まだ店に残っていると思う……」
「そこへ行けば大丈夫なのか?」
「……ああ」
拓巳はため息を吐き出すように返事をすると、ベンチの背もたれに体を預けた。そのまま二人でしばらく休み、拓巳が動けるようになったところで別れたのだった。
「あれ? おまえら知り合いだったのか」
恍星は涼やかな目を見開いた。雅俊は思わず彼を見上げた。
「恍星、あんたが紹介したいって言ってたのは高等部の一年だったのか」
中等部と聞き間違えてた、とこぼすと恍星はニヤリと笑いかけてきた。
「気持ちはよく解る。だがおまえは間違ってないよ。彼は中等部の一年、つまりまだ十二歳。おまえよりひとつ下だ」
な、なんだと――⁉
誕生日は秋だったよな、と続ける恍星の言葉が頭を素通りしていく。
衝撃のあまり目を真ん丸にすると、拓巳も大きな切れ長の瞳をやや見開いた。まじまじとこちらを見つめてくる無表情な美貌が、だんだん慣れてきた雅俊には「マジ……?」と驚いているのがわかり、ついムキになった。
「悪かったな童顔でっ!」
すると拓巳はある意味もっと失礼なコトを口走った。
「男だったのか……っ!」
(このヤロウ……。そりゃ、確かに混じっちゃいるがそれにしたって)
「ちゃんと名乗ったろ! 女で『雅俊』なんているかっ」
おまえに言われたくないっ、と憤慨すると、彼は肩を竦めて俯いた。
「聞き間違ったのかと……」
その横顔がホントにバツが悪そうだったので、雅俊はそれ以上突っ込むのをやめ、改めて明るい光の下で拓巳を観察した。
身長は若砂よりもあるが、かといって大柄ではない。頭が小作りで手足が長く、完璧な八頭身をしているので背が高く見えたのだ。こうして恍星と並べば、百七十五センチの彼より一回りほど小さくて細いことがわかる。ブレザーの制服が上流階級のフォーマルに見えるような雰囲気だが、よく見ればまだ成長途中の、未完成の体つきだった。
まだ十二歳……なのにあんなところで、しかも薬まで使われて――?
雅俊が内心で首を傾げると、恍星が問いかけてきた。
「いつ知り合ったんだ。学校じゃないよな。……もしかして夜か?」
「えっ……?」
雅俊は恍星を仰ぎ見た。
「なんでそう思うんだ」
すると恍星がこんな風に続けた。
「おまえたち二人はさ、置かれた立場が似てるんだよ」
拓巳が驚いたように肩を震わせる。それを横目に見ながら雅俊は続けた。
「だからおれに紹介しようと思ったのか?」
恍星は頷いた。
「せっかく、お互い近くに存在してるんだから……励みになるかな、ってさ」
「何のハゲミになるんだよ」
目を眇める雅俊には構わず、恍星は涼しげな目元を和らげて拓巳に話しかけた。
「拓巳。彼が前に話した〈霞ヶ丘の天使〉だ。納得したろ?」
拓巳も素直に頷いた。
「……ホントにいたんだな。こんな妖精みたいな可愛い…」
瞬間、拓巳に向けた目力が効いたのか、彼はそれ以上の表現を引っ込めた。チラリとこちらに目線を寄こした恍星は続けて言った。
「そしてあの小倉啓介の義理の孫――息子の後妻の連れ子だ」
「!」
拓巳の表情に驚きと理解の色が加わった。明らかに彼は小倉啓介がどんな人物かを知っているのだ。
(こいつ……)
そのことに少なからず驚いていると、恍星が雅俊に顔を向けた。
「拓巳はね。俺の勤めるホストクラブのオーナーの一人息子なんだ」
「えっ?」
「そして父親の商売にこの美貌を利用されてるのさ。もうわかるだろう? 置かれた立場が似てるって意味が」
「なんだって……?」
雅俊は自分の状況を整理し、拓巳に置き換えてみた。そして導き出された答えに恐れを抱いた。
「待てよ。立場って? まさか、実の父親が……?」
あのホテルでの様子――必死に抵抗する姿。ホテルの内部に詳しかった彼……。
「まさか、あれは〈仕事〉なのか!」
拓巳は避けるように顔を背けた。ここから見上げる横顔は深く傷ついているように見えた。
「いつからなんだ! 最近の話じゃないよな?」
立ち上がって詰め寄る雅俊の剣幕に押されたか、俯いた拓巳が僅かに口を開いた。
「一年くらい前から……」
「なっ……そんなに前なのか!」
(まてよ。今がこの外見なら、その頃はもう十四歳くらいには見えたか)
雅俊は生まれてはじめて自分の童顔に感謝した。すると恍星が少しホッとしたような笑顔を向けてきた。
「やっぱりな。雅俊なら、拓巳も大丈夫みたいだ」
「なにが?」
恍星は拓巳を眩しげに見やった。
「ほら、拓巳はこの容姿だろ? どこへ行ったってまともに仲間なんかできない。なにしろ会話にならないんだから。その上、子供っぽい態度をオーナーが嫌うから、仕草も大人びてますます同世代からかけ離れてきてるし」
確かに、僅かなやり取りの中で感じる彼の気配はおよそ年相応のものではない。雅俊も大人相手に態度を改めて振る舞ったりはするが、それは長くクラシック音楽のコンクールに携わってきた影響だ。
「なんでおれなら大丈夫なんだ」
「だって、現におまえは平気で拓巳と話してるし、どうやら表情まで読めるみたいじゃないか」
雅俊は拓巳に目を戻した。確かに、平気とは言い難いがこの前よりはだいぶ考えが読みやすくなっている。
雅俊はもうひとつの疑問をぶつけた。
「あんたは人懐こいし面倒見もいいんだろうが、なんでこいつをそんなに気にかけるんだ?」
すると恍星は少しだけ目元を歪めた。
「親は、選べないじゃないか」
「………」
雅俊の脳裏に恍星の生い立ちが思い浮かぶ。
恍星は俯いたままの拓巳の横顔に目を向けた。そこに切なそうな光が宿るのを雅俊は捉えた。
「高橋オーナーは、俺たち従業員には公平に実力主義で接するのに、拓巳にだけはおかしいんだ」
「おかしい?」
「ああ。家族は拓巳しかいないのに……束縛するかと思えば突き放したり、虐げてみたり。どうもオーナー自身が混乱しているようにも見えるんだが、どっちにしろ、そのせいで拓巳がどんどん萎れていく。それがたまらなく嫌だ」
俺は基本、楽天主義なんだ、と恍星はぼやいた。
「どんな立場に置かれても楽しくやるのが俺の主義だ。店の仕事だって結構うまくやってたぜ? 俺なりに。でも拓巳が店に連れてこられるようになって、オーナーの仕打ちが目に入ると……」
拓巳がさらに俯き、恍星の眼差しに暗い陰が宿った。
「自分の身に起きた色々な変転が迫ってきて、平静でいられなくなる。だから、どうにかして拓巳にかわし方というか、処世術を授けたかったんだ」
つまりは自分のためなのさ、と恍星は苦笑した。
「雅俊なら、拓巳の気持ちがわかってやれるだろう? 拓巳も外には理解者ができたらしいんで、あとは家というか、店のことだけなんだ」
そこまで言うと恍星は拓巳の肩を軽く押し、自分は一歩下がってドアに手をかけた。
「込み入ったことは横に置いといて、まずは似た者同士、友情を深めてみろよ」
そして「じゃあな」と手を上げ、個室から出ていった。
「まあ、座れよ」
部屋の隅に置いてある丸椅子を指し示すと、ピアノ脇に佇んでいた拓巳は素直に座った。
「あの日は、無事に帰れたのか?」
促すように問いかけると、ようやく拓巳は顔を上げた。
「あの時は世話になった」
「その後、ああいったことは?」
「今のところまだ……」
しかし拓巳の肩は震え、長い睫毛に縁取られた薄い色の瞳から光が消えた。それは、いずれまたくるだろう辛い夜を思ってのことだと知れた。
「薬さえなければ逃げられるんだろう? なんとかならないのか?」
「……家に戻れば同じことだ。また捕まる」
つまりは父親がガンなのだ。
雅俊は腹が立ってきた。自分もエラい目に遭わされてきたが、薬まで使われたのは最初の一回だけだ。拓巳が毎回使われるのは、おそらくいつも抵抗するからだろう。それだけ嫌がる息子を客に売る父親とは、一体……?
「おまえ、家を出られないのか。他に行くところは?」
拓巳はしばらく考え、やがて首を横に振った。
「無理だ。迷惑がかかる。父が許さない」
(ん……?)
雅俊は少し突っ込んでみた。
「つまりいるんだな、心当たりが。この前の美容師とかいう人か」
すると彼は遮るように言葉を重ねた。
「いいんだ。巻き込みたくない。父は恐ろしい人だから」
確かに。迂闊に人を頼って裏目に出る場合もある。
雅俊はひとまずそのことは横に置くと、別の方向から手を貸すことにした。
「まあいい。せっかくこうして知り合ったんだ。しかも極めて立場も似ている。これも何かの縁だろう。これからは時々ここに顔を出せよ。夜を切り抜ける対処法を伝授してやる」
最後の一言を聞いた拓巳が、初めてその端麗な美貌に僅かな喜びを滲ませた。すると周りの空間まで花が咲いたようなオーラに包まれた。
(こ、これじゃあ、さぞかし苦労してきたろうなぁ、本人も、周りも)
そう思った雅俊は、なんとなく自分の運命の糸が、拓巳の運命の網にじわじわと絡め取られていく気分になった。そしてその勘はあながち外れていなかった。
それからしばらくして、小夜子が個別懇談のために霞ヶ丘学園を訪れた。
ダークグリーンのツーピースに白いレースの襟のあしらったシルクのブラウスを着て、両サイドの髪を後ろにキリッと留めた小夜子は、いつもの柔らかい生地のワンピース姿より格段に大人びて見えた。が、それでも生来の幼げな外見ではせいぜい高校生程度にしか見えず、出迎えた平沢教諭の眉をひそめさせた。
しかし音楽室に通され、いざ懇談が始まると、その知識の深さ、熱心なピアノへの姿勢に教諭もしまいにはすっかり夢中になり、隣に座る雅俊をそっちのけにして音楽談義に花を咲かせていた。
普段は人見知りの小夜子だが、こと音楽が絡むと別人だ。
「いやあ、雅俊君からあなたの指導のことは聞いてはいたのですが、こんなにお若くて、しかもこの深い解釈……雅俊君の演奏がわかる気がしました」
四十代の平沢教諭に心から感心された小夜子は、嬉しそうに頬を染めて会釈した。
「ありがとうございます、先生。ところで、今後のことなのですが……」
小夜子がコンクールのことについて事情を説明すると、平沢教諭は渋い顔になった。
「小倉家のご当主が反対を……」
「理由もはっきりとはわかりません。でもこのままでは雅俊さんが大事な時期を棒に振ってしまうと心配なのです。我が家を通さず、ここの学生としてコンクールに出場することはできませんでしょうか」
小夜子の必死の申し出に、教諭は顎に手をやりながら考え込んだ。雅俊はその様子に一抹の不安を感じ、少しばかり口を挟んだ。
「あの、そういうことは前例がないというのなら、無理はしないほうがいいと思います」
「俊くん」
小夜子が咎める口調でこちらを向いた。雅俊は宥めにかかった。
「でも、学校だって立場があるんだから。先生が困ることになったらよくないよ」
平沢教諭を横目に窺いながら言うと、小夜子もハッとして目線を落とした。雅俊としては、コンクールに出場できない事情を平沢教諭が理解してくれれば、それだけでもありがたいと思っていた。すでに小夜子の来てくれた甲斐は十分にある。この上危ない橋を渡ってほしくはなかった。
「事情はわかりました。学園として雅俊君のためにどうしたらいいか、よく検討してみます」
平沢教諭は態度を保留し、懇談はそこで終わった。
公園の歩道を並んで歩いていると、小夜子がしょんぼりとつぶやいた。
「結局私、何の役にも立たないのかしら……」
雅俊は立ち止まり、下から顔を覗き込んだ。
「まだ言ってるの? せっかくここまで来たのに」
海に隣接したこの公園は観光スポットのひとつで、恋人たちが多く訪れることでも有名な場所だ。今日も平日の午後、まだ早い時間だというのに、親子連れに交じってちらほらとカップルの姿が見える。
心臓の弱い小夜子はこんなに近くにある公園だというのに、雅俊が小倉家に入るまで来たことがなかったのだという。雅俊が来てからも、小夜子の外出を嫌がる啓介の手前、そう機会があったわけではなかったが、それでも二人で何回か訪れていた。
「ほら、そんな顔しないで。少し疲れたろ? ベンチに座ろうか」
春の終わりとあって日差しは強い。雅俊は木陰にあるベンチに小夜子を誘った。
「ピアノで出るだけがコンクールじゃないよ。曲を作って応募したりもするよ」
最近始まった作曲の単元で、雅俊は早くも及第点を取っていた。
自分の曲を作る――それは新たな魅力を持つ世界だった。夢中で学ぶうちに、雅俊はひとつ挑戦したいものができていた。クラシックのピアニストが曲を作っていたあのジャンル――ロックだ。
「そういったものからはじめて、自立を目指しながらピアノのチャンスを窺っていくのもいいかな、とも思うんだ」
小夜子が顔を上げた。雅俊はまだ浮かない顔をした彼女に微笑みかけた。
「だって小夜子がコンクールにこだわるのは、早くおれにプロへの道を開かせたいからだろ?」
図星だったのだろう、小夜子は黒曜石の瞳を伏せた。
啓介のもとにいる限り与えられない自由。漠然と感じていたものが明るみに出たあの夕食会以来、小夜子は啓介と雅俊の関係がどこか不自然なことに気づきはじめている。だからこそ、今日も学校まで足を運び、コンクール出場に強い意欲を示したのだ。それがわかるから小夜子の好意を無にしたくなかった。
「早く世に出るために選ぶ道はピアノだけじゃないよ」
小夜子は覗き込むように目を向けてきた。
「ピアノならあと一息なのに。俊くんはそれでいいの? そんな遠回りな」
むろん、いいはずはない。でも……。
「おれね、小夜子。最近ちょっと見過ごせないヤツと出会ってさ」
雅俊は拓巳のことを、なるべく〈仕事〉の内容には触れずにかいつまんで話した。
「実の父親から辛く当たられて……頼れる友人がいるらしいのに、それも父親の機嫌を損ねるからって我慢しているんだ」
「まあ……」
「啓介さんとおれの関係に少し似てるよね。でも決定的に違うことがある」
雅俊は、小夜子の膝の上に置かれた細く綺麗な指の並ぶ手をそっと握った。
「おれを縛るのは実の父親じゃないし、なによりおれには小夜子がいてくれる。拓巳の話を聞いた時、もし小倉家に小夜子がいなかったらどうなってただろう、って思ったよ」
鞠江のためというだけで、今の自分にこの境遇を耐えるだけの気力が保てただろうか。
「俊くん……」
「ね、だからそんな顔しないでよ。うまくいったら、独り立ちする時に小夜子を連れていくからさ」
ごく自然に、その言葉は雅俊の口から滑り出た。小夜子はしばらくじっとしていたが、やがて手を握り返すとこう言った。
「……それじゃ独り立ちって言わないわ。私は俊くんの師匠でもあるのだもの」
その受け答えについ笑ってしまった。
「あっ、そうか。じゃあ、二人立ちにしておこうか」
笑いながら切り返すと小夜子もようやく笑顔を見せた。
あとになって思うと、漠然とではあってもこの時が自分の行き先を真剣に考え始めた最初だったのかもしれない――。
♢♢♢
ヤツが声を出す。
「あー」
伴奏がもうひとつ音階を上げる。
「あー……」
少し苦しそうだ。
「頑張れもう一声」
雅俊がさらにひとつ上げようとすると、ヤツ――拓巳が根を上げた。
「そんな高い音ムリ」
「あ、悪い」
気がつくと、音階はメゾソプラノに迫っていた……。
「じゃ、ちょっと休憩」
声をかけると、ピアノの前に立つ拓巳の表情に僅ながら安堵の色が入り混じった。雅俊は手応えに満足して言った。
「声に伸びが増してきた。音程もしっかり取れるようになったじゃんか」
丸椅子に腰かけた拓巳は仏頂面で答えた。
「来るたびにやらされていれば多少は上達する」
(無表情と仏頂面の区別がつくようになったなぁ……)
そんな感慨にふけりながら雅俊は言い諭した。
「しょーがないだろう、あんなウワサを立てられてちゃ。自分のためなんだからいい加減、覚悟を決めろ」
そう、雅俊がなぜ拓巳に発声練習なんぞをさせているかといえば、そこにはやむを得ない事情があるからだ。
あれ以来、拓巳は雅俊が使う自主練習用の個室にちょくちょく顔を出すようになった。
来たからといって何をするでもなく、狭い部屋の隅に置かれた丸椅子に座り、壁に寄りかかって練習を眺めていることが多かった。
今までそんな風に気を緩めて過ごしたことがなかったのだろう。長い睫毛を伏せ、うとうとしていることもよくあった。その姿を見るにつけ、他に安らげる場所がないのだと察せられて起こす気にはなれず、雅俊は本人の好きなようにさせていた。それがよかったのか、拓巳は少しずつ自分からも喋るようになってきた。
ところが夏が本番に差しかかる頃、妙な噂を立てられている、と恍星に告げられた。
「おい。俺は友情を深めろとは言ったが、くっつけとは言ってないぞ」
個室に入ってくるなり切り出され、ピアノから体を起こした雅俊は、後ろの拓巳と顔を見合わせてから恍星を仰ぎ見た。
「なんの話だよ、そりゃ」
恍星はドアを閉めると渋い顔で説明しだした。
「そういう噂が飛び交ってるって話さ。気をつけたほうがいいぞ。ここは男子校だからな」
「まて。そんな噂を真に受けるヤツがいるのか?」
「当たり前だろう。でなきゃ、俺がわざわざ忠告になんか来るか。高等部じゃちょっとした騒ぎだぜ。〈霞ヶ丘のビーナス〉を落としたのは〈霞ヶ丘の天使〉だった! ってな」
「……おまえいつから〈霞ヶ丘のビーナス〉になったんだ?」
雅俊が再び後ろを振り返ると、今や定位置となりつつある丸椅子の上の拓巳は嫌そうな顔で答えた。
「俺が知るわけがない」
そういう感情はわかりやすいなと思っていると、部屋の真ん中に立った恍星が拓巳を見下ろし、少し強い口調で言った。
「拓巳。おまえ授業をすっぽかしてもここには来ているようだな」
「えっ?」
雅俊が驚くと、拓巳は目線を横に泳がせた。それを見た恍星は腰に手を当てて嘆息した。
「だから余計、噂に信憑性が増している。それをやったんじゃ、いずれ生活指導を受けることになるぞ。その手の話は男子校じゃ敏感なんだ」
学業に身が入らなくなってな、と恍星は付け加えた。
雅俊は拓巳に向き直った。
「おまえ、確か英文科だったよな」
拓巳はバツが悪そうに頷いた。
驚いたことに、拓巳の発音はすでに英語をマスターしていた。なんでもその昔、母親に家出されて拓巳をもてあました父親は、幼少の彼を各種習い事や塾に追いたて、その後を家政婦に任せきりにしていたらしく、彼には意外と芸達者なところがあった。代わりにコミュニケーション能力を著しく阻害されていて、それらの事情を聞き出すのにはエラい苦労をさせられたが。
「なんで授業に出ない。いくらテストができても出席率が悪いんじゃ、そのうち学校からペナルティーを食らうぞ」
すると拓巳は目を逸らしたままポツリとこぼした。
「朝が起きられなくて……授業に間に合わないと行きづらい。でも、家には居たくない」
雅俊は頭上の恍星と顔を見合わせた。
「だからここに来るのか」
恍星が口調を緩めて確認すると、拓巳は素直に頷いた。雅俊は身につまされる思いがした。
夜遅くまで連れ出されては、朝が辛いのは当然だろう。いくら見てくれが大人びていても、まだ中学一年の拓巳では体がもたないのだ。
(同じなんだ、おれと。たまたまおれには個室があっただけで……)
雅俊は詳しい状況を聞いてみた。
「すっぽかす頻度はどのくらいだ?」
「起きられないのは、月に二回くらい……」
「なんだ、二回か」
雅俊は椅子から立ち上がった。
「そのくらいならいいじゃないか恍星。学校に来ないよりましだろ?」
すると恍星が拓巳に言った。
「じゃあ、噂が静まるまでここへは来るな。それなら学校側にまで話がいくこともないだろう」
「………」
拓巳の瞳から力が失せた。その横顔には、誰が見てもすぐに読み取れるほどの落胆が浮かんでいた。
雅俊はたまらず恍星に訴えた。
「一度居場所を与えておいてあとから取り上げるような真似はよせよ。なおさら不安定になるじゃないか」
恍星は難しい表情になった。
「なら、ここに来る理由をちゃんと作る必要があるぞ。ただ見学に来ていました、じゃ周りは納得しない」
「理由か」
音楽室、それもピアノ科の生徒が使う個室に通う英文科生徒の理由……。
考え込んだ雅俊に、やがて天啓が下った。
「そうだ。個人レッスン……秋の音楽会のステージ発表だ。有志の部のオーディションを受けることにすればいい!」
「え……?」
拓巳の困惑をよそに恍星が手を打った。
「そうか。そういえば、もう少しすると希望者が個室を使い始めるな」
音楽コースがある影響か、霞ヶ丘の音楽会は評判が高い。その中で、有志の部にある軽音楽は生徒たちの見せ場、他コースからの参加者も盛んなのだ。
「ちょうどいい。歌でも歌わせろよ。こいつ、英語の歌うまいんだぜ」
「へえ、そうなのか?」
拓巳は視線を逸らして黙り込んだ。
しつこく食い下がって聞くと、ようやく彼は事情を説明した。どうやら習っていたピアノの教師がクリスチャンで、しょっちゅう教会音楽――特にゴスペルを歌わせていたらしい。
嫌がる拓巳を「ここに来られなくなってもいいのか」と脅しつけ、そのゴスペルを少し歌わせてみると、確かにいい感性をしている。
「よし。それでいこう!」
雅俊は即決した。そして、拓巳が戸惑っているうちにさっさと個室練習の希望を申し込み、許可を取り付けたのだった。
「ヘンな噂はまだ消えないけど、先生たちは納得してくれたんだからいいだろ? それに本当に上達したし」
雅俊は参加の希望を出す時、拓巳が健康的な生活を父親によって阻害されている今の状況を逆手に取り、同情を引くように持っていった。
『だから、彼が歌うことで元気になって、お父さんにきちんと意見できるようになればと思うのです』
強権を振りかざす父親のため、精神的に参っている息子――そんな構図を訴えられ、平沢教諭はすっかり拓巳に同情的になり、心よく許可をくれた。
「夏休みに入っても使用許可が出るんだ。悪くないだろう?」
「それは、まあ……」
拓巳は渋々従っている。
「おれも毎日来るつもりだから、いつでも来たい時に来こいよ」
平沢教諭は雅俊にも朗報をくれた。
学校の名前で個人をコンクールに出すことはできないが、今年の音楽会の招待者の中にプロのピアニストとして活躍するOBを何名か入れるというのだ。
「それなら学校側としても小倉啓介氏に言いわけがたつし、耳の肥えた彼らが君を知れば放ってはおかないよ」
そんな風にして教諭は彼なりにできることをしてくれたのだった。
「そうだ。一度小夜子にも見てもらおうか。彼女はソルフェージュ(基礎教育)の指導ができるから勉強になるぞ」
小夜子に事の顛末を話すと、コンクールのことは残念そうだったが音楽会のことは喜び、
「じゃあ、家でのレッスンも、音楽会の出し物に絞りましょう」
と張り切ってくれた。拓巳のこともきっと承知してくれるだろう。
「そんな、本格的な人の前で……」
尻込みする拓巳を「そんなんじゃないさ」と笑い飛ばし、この頃の雅俊は、厳しい状況の中にも明るい兆しを感じて生活することができていた。
そうして音楽会への期待を胸に、夏休みに向かって日々を過ごしていた雅俊は、ある週末の夜、啓介の〈仕事〉で奇妙な客に出会った。
午後八時。指定されたホテルの最上階スイートに出向くと、メインルームの奥に一台の白いグランドピアノが置かれていた。
相手はすでに待っていたのか、手前にあるソファーでグラスを手にくつろいでいた。
「あの……」
雅俊が声をかけると、三十代後半ほどに見えるその男は、ゆったりとグラスを傾けながらこう言った。
「ショパンのプレリュードでも弾いてもらおうか」
「プレリュード、ですか?」
「そうだ」
黒に近い濃緑のダブルのスーツに、オールバックのヘアスタイルがこれ以上ないほどきまったその男は、特に意味があるようでもなく答えた。一般に知られるワルツでもノクターンでもなくプレリュード(前奏曲)、というところになんとなく癖を感じる。
ノーブルな雰囲気をもつその男にいささかの警戒心を抱きつつ、とりあえず雅俊は楽譜なしでもすぐ弾ける有名な七番と十五番に決め、白いピアノの前に座った。さっそく鍵盤に指を滑らせていく。
(お飾りのピアノにしてはいい音だな)
たとえ〈仕事〉の最中でも、ピアノに触れられるのは心地よい。雅俊は刹那、場所を忘れて演奏に入り込んだ。
プレリュードを弾き終わると、彼は次にポロネーズ、そしてワルツとリクエストし、エチュードから二曲弾いたところで、「結構だ」と言って立ち上がった。
かなり上背のある見事な体格をしている。
(……こいつのお相手をするのか)
雅俊がやや青ざめる思いで見上げると、彼は薄い色をした鋭い双眸で吟味するように雅俊を見下ろし、ひとつ頷いて言った。
「ご苦労だった。帰りはフロントでタクシーを呼ぶがいい。話は通してある」
雅俊は驚いた。
「あの……?」
「どうした。続きがあったほうがいいか」
男は口の端を上げながら親指で後ろを指し示した。そこには寝室へと続く扉がある。
戸惑いつつも、これで済むのならありがたい雅俊はすぐに頭を下げた。
「では、失礼します」
そして気が変わらないうちにと足早にその部屋をあとにした。ピアノだけを所望した客はあとにも先にも彼一人だった。