楽聖たちの現実
「身長は百五十六センチ、体重が三十八キロ……う~ん」
検診を終えた雅俊が診察室の椅子に座ると、カルテとデスクのパソコン画面を見比べていた主治医の渡辺医師が、白髪頭をかきながら呻いた。
「やっぱりだ。雅俊君も若砂君と同じく成長が止まりつつあるね」
彼はパソコンから顔を上げ、雅俊に向き直って説明しだした。
「しかも君のほうが早く止まりはじめている。成長ホルモンが不安定なんだ」
若砂とは、多様なタイプに別れるISの中で、体の形成が極めて似た、雅俊の知る限りこの世で唯一、性別を同じくする仲間だ。ひとつ上の幼馴染みで、母親同士が遠い親戚らしく、この総合病院を鞠江に紹介してくれたのも若砂の母親らしい。
「どうしようか」
「え……?」
「だから、君の今後の方針」
渡辺医師は雅俊の顔をじっと見つめてきた。
雅俊の担当が渡辺医師に変わってから一年が経つ。
それまで担当だった若砂の大伯父に当たるという医師は、この分野ではかなり有名だったらしいがとにかく研究者肌で、ロクにこちらの顔を見ることもなく、ただデータと数値、そして新薬の結果に没頭している感じがした。
そのマッドサイエンティスト的な医師が昨年引退し、新しく来たのがこの渡辺幸人医師だ。
彼は内科的なことに留まらず、心の相談など幅広い医療を目指す医者で、担当が彼になってから二ヶ月に一度の検診は大きく内容が変わった。特に違うのはこうして本人の意思を聞いてくることだ。
体の形成と心が持つ性別の志向、そして第二次成長期で変化するホルモンの種類……このすべてがバラバラに存在するため、性別をどうするかは本人よりも先に親が悩む。そのため以前は検診後の面談などは親とだけやり取りされていた。今は逆に親の付き添いが外され、事後報告のみになっている。渡辺医師にとって、本人の意思決定を覆す力を持つ親の存在は厄介になるからだ。
もっとも鞠江はよその親とは違い、性別のことについてあまり頓着している様子はなかった。
「音楽や芸術で生きるなら、人と違う体質であるのもまた神秘的でいいわ。それよりも腕を磨くことと綺麗でいること。そのほうが成功するためには重要なの」
鞠江のそういった考え方は、他の大人には眉をひそめられたようだが雅俊は嫌いではなかった。実際、彼女のお陰で中等部に上がるまで、自分の体について深く考えずに済んでいたのだろう。その分、今に跳ね返ってきたのかもしれないが。
「方針、っていうと?」
雅俊が尋ねると、渡辺医師は半白の髪から手を離し、小太りの体を揺すって姿勢を直してから答えた。
「うん。このまま自然にしておくと、多分君は女性化が進むんじゃないかと思います。成長曲線が女子に近いからね」
ほら、男子のほうが成長が遅いでしょう? との言葉に雅俊は眉をしかめた。
「じゃ、おれ女になるんですか?」
「そうとも言えない」
渡辺医師は細い目をいっそう細めてため息をついた。
「色々なケースがあるからね……ただ、君の場合、成長ホルモンが不足している、とも考えられるんだ。だからもし希望するなら薬で補うことができます。でもそうすると、どちらのタイプか選んでいかないといけない」
つまり男性ホルモンか女性ホルモンかを併用しないと、との説明に雅俊は即答した。
「じゃ、男性ホルモンでお願いします」
「……決断が早いね。どうしてか聞いてもいいかい?」
渡辺医師の問いかけに雅俊は言葉を濁した。
「……おれの環境で、今さら選ぶ余地があるとも思えないよ」
「それは半年前、ここに担ぎ込まれたことと関係があるからかい?」
「先生」
雅俊は渡辺医師を遮った。
「おれ、先生には感謝してる。おれみたいな子どもの意見でも尊重してくれたり、外見じゃなくてちゃんと中身を見て判断してくれるから。だから、今は何も聞かないで欲しいんだ」
渡辺医師は痛ましそうに目元を歪めた。
「それはお母さんのためかい?」
「………」
「それでいいのかい?」
彼は真剣な顔で身を乗り出した。
「私には医師として、しかるべき役所に申し出る権限もあるよ。君がお母さんに相談することができないのなら」
「よしなよ。相手は小倉一族のボスだよ」
雅俊は渡辺医師を見上げた。
「正式に籍を入れた母さんでさえ、未だに小倉家での立場を盤石にしようと必死なんだ」
そこには雅俊を無事ピアニストにする、という目標も含まれている。
「なのに、この上先生の首まで飛んじまったらそのほうがおれには損失だ」
渡辺医師はしょげたように肩を落とした。
「そんなことは心配しなくていいから、と言いたいんだけど、確かに君の主治医ではいられなくなっちゃうだろうな」
「でしょ? それは困るんだ。だからいつまでも先生に診てもらえるように、大人しくしててよ」
「中学生の君にそう言われては、いい中年の私は立つ瀬がないよね……」
彼はひとつ頭を振ると、カルテをまた手に取ってパソコンの画面を操作した。
「じゃあ一応、薬を処方するから。副作用があるので、よく説明を読んで、体質に合わなかったらすぐに連絡してください。おや」
カルテをめくった渡辺医師が次のカルテを注視した。
「次は若砂君だ。ちょうどいい。彼は君より一年先をいく人だ。成長パターンが似ているから話を聞いてごらん」
「あいつは男性ホルモン選んだんですか?」
「いや、今はまだ。彼はお母さんと意見が分かれていてね。もうしばらく様子を見ることにしたんだよ」
だから、君のこの先を考える上で参考になるかもしれないよ、と渡辺医師が締めくくったのを受け、雅俊は頭を下げてから席を立った。
「やあ、雅俊、久しぶり。元気だったか?」
受付でカードを受け取った雅俊に柔らかい笑顔で声をかけてきたのは紛れもなく若砂だった。雅俊と同じく学校帰りなのだろう。ブレザーにネクタイといった制服姿の若砂は、以前会った時よりぐっと背が高くなっていた。
「ずいぶん伸びたんだな。おれより十センチはいってないか?」
思わず頭に目を向けると若砂は笑みを深くして答えた。
「今、成長しておかないとオレには後がないんだよ」
「そうなのか?」
「あと半年もすれば十六だ。どっちにしたってもうそんなには伸びないさ」
彼は人懐こそうな夜色の瞳を雅俊の顔に近づけた。
「おまえは相変わらずのみてくれ……だけど、ずいぶん大人びた表情するようになったなあ。まあ、色々あったか」
若砂は雅俊の名字が変わった経緯を知っている。彼の母親は旧家の出なので、今も小倉家との交流があるらしい。何を察しているのか、若砂は「ちょっと来いよ」と誘うと中庭のベンチに座った。
「診察はいいのか?」
若砂の隣に座りながら雅俊は問いかけた。
「さっき先生から伝言をもらった。順番をずらすから、おまえと話をしてくれないか、って」
だから大丈夫さ、と穏やかに微笑む若砂から雅俊は目線を外した。若砂はじっとこちらを窺っていたが、やがて自分も前方にある花壇に向きを変え、ポツリと聞いてきた。
「おまえ最近、辛いのか?」
「えっ……」
「その制服は霞ヶ丘学園だよな」
学校のことか、とホッとしながら雅俊は若砂を横目で見た。
小作りな頭、愛嬌ある夜色の瞳、顔を縁取る癖っ毛、痩せ気味ですんなりと伸びた手足。制服越しに覗く体つきの、〈女〉とまでは感じないが〈男〉と言うにも違和感を覚える線の細さは雅俊にも共通したものだ。
けれども彼はその愛想のよさで相手を自分のペースに巻き込むのがうまい。数年前までは雅俊もよく悪戯に付き合わされたものだ。
「若砂、あんたは学校ではどうしてるんだ。男子の中で浮いちまって困ったりすることはないのか?」
雅俊が切り返すと、若砂は花壇から目線をこちらに戻した。
「オレか? オレはそこまで人目を引くような容姿じゃないからうまく紛れてるさ。女子に人気があるから妬まれたりはするけどね」
おまえは男子校じゃタイヘンだろ? と聞かれ、ついため息が漏れた。
「あんたよりおれのほうが男の要素が多いはずなのに……理不尽だ」
若砂は雅俊とは逆で、体のバランスがやや〈女〉に片寄っているはずだ。しかし本人は自分を〈男〉と認識しており、今も少年として暮らしている。
若砂が苦笑した。
「しょーがないよなぁ。そんな美少女ヅラしてたんじゃ、男だって惑うさ」
「好きでこんな顔になったわけじゃない。こんな体に生まれたかったわけじゃない!」
つい声に力が入ってしまった。すると若砂が染み入るように言った。
「オレだってそうだよ、雅俊。このまま自然にしておいたらどうなってしまうんだろう……いつも、そんな不安が尽きない」
「若砂――」
思わず言葉に詰まるほど若砂の声は揺れていた。彼は、自分の内面が希望する性と母親の意見が揃わないのだ。
「まだ選択の余地はあるんだろ?」
体の形成と二次成長期のホルモンの性別は必ずしも一致しない。
「その身長の伸び具合いなら、これからは男の要素が増えるんじゃないのか?」
若砂は首を横に振った。
「それだけじゃ判断がつきかねてる。うちは母さんも姉さんも背が高いからね」
「ああ、そうか」
一度見かけた若砂の母親は、確かにすらりとして上背があった。
「でも、どうころんでもオレはオレでしかない。だから今感じている自分の感覚を信じて、目の前にあることを精一杯やってる」
はっきりと言い切った若砂はしかし、僅かに憂いの残る眼差しをしていた。雅俊は反省して俯いた。
「そうだよな……苦労は人それぞれなんだ」
すると若砂がおどけたように肩をすくめた。
「なーんて、カッコつけてるけど、そんなエラソーなこと言えた身じゃないんだ。バイト先の先輩なんてさ、みんな親がいなかったり、下手すりゃ親の借金を肩代わりしてたりして……衣食住の整ってるオレなんかぜんぜん甘いの」
「そ、そうなのか?」
「うん。みんなオレとそう変わらない歳なのに、しっかりしててさ……自分が恥ずかしくなるよ」
だからさ、と若砂は雅俊の肩を軽く叩いた。
「どんな環境に置かれても、そこで諦めずに自分らしく精一杯やる。先輩たちから教えられたことをオレもやってみようと頑張ってるところなんだ」
どんな環境に置かれても――。
その言葉は雅俊の心の奥底に染み込んだ。なのでまだまだだけどね、と付け足す若砂に感謝を伝えた。
「そっか。雨風しのげるだけでも恵まれてんだな、おれは。親もいるんだし。ありがとな、若砂。なんだか元気がでたよ」
「少しは役に立ったか?」
若砂は嬉しそうにベンチから立ち上り、雅俊に片手を伸ばした。
「話がまとまったところでオレの役に立てよ。検診に付き合え」
「え~っ? だっておれ、もう帰らないと……」
「手が空いたんだろ? そこにいるだけでいいからさ。……今日は母さんがいるんだ」
若砂の母親は、形成が女に傾いていながら精神的に男でいようとする若砂の態度を快く思っていないらしい。渡辺医師の助言をものともせず、二回に一回は付き添うのだという。しかし雅俊が検診で一緒だったりすると控える気持ちが働くのか、渡辺医師と話し込んだりしないのだそうだ。
結局若砂といる時の常で押し切られた雅俊は、屋敷に帰ったあとで「今日はずいぶん時間がかかったのね」と鞠江に一言こぼされた。
♢♢♢
「痛てえ……」
雅俊の呻きを聞き咎めたか、練習を覗きに来ていた同じピアノ科の上級生、荻原恍星が心配そうに言った。
「昨日か、例の日は。またひどくやられたな」
「あんの変態クソジジイ、体力だけはあるからな……」
雅俊はもたれていたアップライトピアノから体を起こしてひとつ呼気を吐いた。
こういう時、音楽コースはありがたい。授業中、希望すれば個室練習ができるからだ。鍵はついていないが、四畳半ほどの自主練習用個室の防音は完璧でプライバシーが保たれる。
「まあ、でなけりゃ小倉一族の当主なんて務まらないんだろうさ」
それにしても、と恍星は涼やかな双眸を雅俊の顔に近づけた。
「憐れだよなぁ。なまじこんなキレーなツラしてたばっかりに、よりによって小倉啓介に捕まるとは」
雅俊は恍星の視線を避けるように顔を逸らした。
小倉家の豪勢な生活と引き替えに、啓介に買われた子供――一言でいえば、それが今の雅俊の立場だ。
小倉啓介は大財閥の会長という表の顔とは別に、裏の世界でも実力を知られる男だった。しかも夜の趣味――少年愛好癖で有名な人物だった。もっとも雅俊には知るすべもなかったが。
「で? 今度のピアノコンクールについて、何かリアクションはあったか?」
「わからない。まだ何も言われてない」
「きっとまた裏から妨害してくるぜ。あいつには、おまえを外に出す気なんてさらさらないんだ」
恍星はアップライトピアノの縁に肘をついた。
「なにしろご自慢の音楽ホールにはベーゼンドルファー。彼の開く室内演奏会はプロだって喜んで出たがるんだ。あの男としては、そこでおまえを仲間に見せびらかせれば十分なわけさ。なまじ優勝でもされて、海外留学の話が出たら逃げる口実を与えちまうもんな。小夜子さんの手前、反対はできないし」
啓介の裏の顔をもちろん小夜子は知らない。小夜子にとって啓介とは、父親の啓一よりも話しやすい、優しくて親しい祖父なのだ。
黙り込んだ雅俊に恍星が突っ込んできた。
「だからさ。早くおん出ちゃえよ。そんなところ」
「それで? あんたのバイトするヤバそうなホストクラブに来いってか?」
「そうさ。そりゃ甘い仕事じゃないけど、今のおまえの状況よりマシだろ? 俺んとこのオーナーはノルマに厳しい人だけどケチじゃないぜ」
恍星は切れ長の目を細めると、整った口元に不適な笑みを浮かべた。
高等部一年に在籍する、この端麗な容姿をした男子は少々変わった遍歴の持ち主だ。
父一人に男四人兄弟の父子家庭なのだが、父親がちょっと変わり者なのだ。株で儲けたかと思えば投資に大失敗して夜逃げしたりと、独身のギャンブラーのような人生を送っている。二人いる弟たちは親戚に預けられ、二つ上の兄は中学からバイトに明け暮れていたという。
ではなぜ、裕福な家庭の子どもしか通えないような私立学園に彼がいられるのかといえば、ピアノの才能があったからだ。
父親が儲けた時期に幼少期を送った恍星は、早くからピアノを習い、すぐに才能を認められたという。しかし、恍星が十一歳の時に父親が大きく散財し、彼は霞ヶ丘学園を辞めて公立小学校へ転校することになった。その時、父親の友人だった学園の理事長がそれに待ったをかけたのだ。
彼は恍星の学費や生活費を援助する代わりに、将来は学園のピアノ科教師になるよう父親に話を持ちかけ、契約を交わしたのだという。そして今、恍星はそれを覆すために働いているのだ。
『教師なんて柄じゃない。勝手に人生決められてたまるか』
反発した彼は衣食住の整った学園の寮を出てバイト先の従業員寮に入り、学費も納めだした。そんな恍星をもてあました教師たちは口を挟むことを控え、理事長は今のところ黙認している。
「うちのオーナーにおまえのことを話したら、ぜひ会いたいって言ってくれたぜ。ピアノだけでもいいってさ」
彼のバイトする店には、なかなか本格的なグランドピアノがあるらしい。恍星は「時給が高いから」とホストの傍ら演奏もしているのだ。
「演奏だけ……?」
「俺と同じくらいの腕前です、って説明したらそう言ったのさ」
「……あんたほどじゃないけど」
「似たようなモンだろ? だから考えておいてくれよな。おまえに紹介したいヤツもいるんだ」
「紹介? バイトの仲間か」
「仲間……とは違うんだけど、英文科の中等部一年にいるはずだ。ちょっと特殊というか、あれを見たらおまえも励まされるかもしれない」
「励まされる?」
それには答えず、恍星は「じゃ、またな」と個室を出ていった。
恍星の働く会員制のホストクラブは少年しか採らない。
その時点で違法を問われそうなものだが、そこは裏にも顔が利く業界、客層が地位も名誉もあるような富裕層の男で占められ、ほとんどが小倉啓介と同じ趣味の持ち主なわけで、オーナーはうまく権力者の伝を利用しているらしい。だからこそ恍星も啓介の噂を知っていたのだ。
恍星とは一年前、ピアノ科の合同カリキュラムで知り合いになった。その後なんとなくウマがあって色々な話をするようになったのだが、雅俊が小倉家に入った経緯を知ると、いずれ起こるだろう事態を察して忠告をくれた。
『早くあの家を出たほうがいいぞ。あの当主はヤバい』
そう言われても、当時の雅俊にはよくわからず、またわかったとしても逃れようはなかっただろう。初めて啓介の私室に呼ばれた半年前のあの日、彼は他を威圧してやまない鋭角的な容貌に笑みを浮かべ、はっきりと言ったのだ。
『鞠江の幸せはおまえ次第だ』
そして自分の欲望のままに雅俊の秘密を暴いていった。驚いて暴れると、痺れ薬を嗅がせて抵抗を封じた。もっとも体格に勝る啓介と雅俊では、それがなくても話にはならなかっただろうが。
やがて満足した様子の啓介は雅俊に告げた。
『結構だ。聞きしに勝る神秘だな。その調子で私を楽しませてくれれば、おまえたち親子の人生は保障してやろう。ただし、周りの者に訴えたり、まして小夜子に少しでも知られたりした時には覚悟してもらうことになるだろう』
痛みと衝撃に打ちのめされ、広い寝台の上に突っ伏した雅俊は、顔を上げることもできずにその言葉を聞いた。
啓介はそんな雅俊の様子など意に介さず、あとを執事に任せると、悠然とした足音を響かせて部屋を出ていった。
小松孝彦というまだ三十代半ばの小倉家の若い執事は、啓介の趣味をもちろんわきまえていた。が、主に追随して横柄な態度をとるようなことはなく、慣れた手つきで介抱すると、「雅俊さんのかかりつけの病院がよろしいですね」と言って渡辺医師のもとへと運んだ。さらに診察の結果、事態を把握した渡辺医師が警察に通報しようとすると、「あとで困るのは雅俊さんだ」と押し止め、事情を説明してくれたのだった。
雅俊は深く息を吐き出すと、痛む体をピアノに伏せた。
あれから約半年、状況は何も変わっていない。啓介は他にも何人かの相手を持っていて、雅俊が呼ばれるのは月に一、二回の頻度だ。逆らいさえしなければ、最初の日のように手荒な抱き方をすることはないが、興が乗ると長い。昨日もそうだった。そうすると決まって次の日、しばらく全身が軋んだように痛んで苦しいし、何より……。
(眠い……)
そう思う間もなく目を閉じていたらしく、その後、大胆に熟睡しているところを担任に見つかり、こっぴどく叱られるハメになった。どうやら雅俊は逆境に強いタイプらしい――。
「おじいさま、なぜですか?」
豪華なシャンデリアが照らす夕食会の席。淡いブルーのワンピースドレスに身を包んだ小夜子が、黒曜石の瞳を歪ませて左の斜向かいに座る啓介に訊ねた。
「何がだね?」
食事の手を進めながら、啓介が穏やかな口調で応じた。
小倉家では、家族が一同に会するのは週の半ばに一回、この晩餐の席だけだ。啓介を中心に右側には啓一と鞠江が、左側に小夜子と、そして雅俊が座っている。
雅俊はいきなり質問を投げた小夜子に内心で驚きつつ、啓介の様子をそっと窺った。
ブラウンのスーツを身につけ、グレーの豊かな髪をうしろになでつけたノーブルな姿はとても今年六十七歳を迎える男には見えない。息子である啓一も、顔の造作が似ているだけあってそう悪くはないみてくれなのだが、こうして食卓についたところを見比べてしまうと太陽と月だ。
小夜子が食い下がるように続けた。
「雅俊さんのコンクールの申し込みを取り下げてしまったと聞きました。せっかく頑張ってきましたのに……」
雅俊はヒヤリとして目線を食卓に戻した。小夜子に向き合った啓介が少し眉を上げたのが横目に見える。
「おや、すまなかったね。その日は大事なお客さんが来るのだよ。どうしても雅俊の演奏を聴かせたくてね。彼も承知してくれたから、てっきり小夜子には伝えたと思っていたんだが」
彼は宥めるように手前の小夜子に微笑みかけ、次にこちらに目線を滑らせてきた。それを痛いほど感じながらも雅俊は黙ってフォークとナイフの手を動かし続けた。
もちろん今のは啓介の嘘っぱちだ。が、逆らうすべもない。
(結局こうなるか。まあ、わかっちゃいたさ。それより)
小夜子がわざわざ啓介の働きかけを突き止めたのが気になる。すると当の小夜子がこちらにくるりと向きを変えた。
「雅俊さん、そうなの?」
雅俊は前を向いたまま、重い口をなんとか動かした。
「ええ――そうです。言い忘れて……すみません」
こうして嘘をつかされるのは正直、胃の腑が捩れるような不快感がある。啓介に呼ばれる夜もそうだ。
小倉家が持つ会社の取引先相手や、啓介の私的な客を招いての演奏会、そのあとに続く接待……雅俊のピアノ演奏を隠れ蓑にして、周囲の人間、特に小夜子に気づかれないよう啓介は話を振ってくる。小夜子がたまに疑問を口にしても、こうして雅俊が肯定するのだからそれ以上は疑いようもない。
そんなことを考えながらフォークを動かしていると、いつもなら引き下がる小夜子がなぜか畳みかけてきた。
「こちらを向いて、雅俊さん」
「えっ……?」
雅俊が小夜子のほうを向くと彼女の手が顎に添えられ、目線が合わせられた。
「嘘ね。あなたは嘘をついているわ。本当はコンクールに出たいのでしょう?」
一瞬、心臓が跳ね上がる。
「そんなことは」
慌てて返事を返すと小夜子が鋭く言った。
「私に嘘をつくの?」
「小夜子さ……」
雅俊は自分の不利を悟った。なまじ師弟関係にあるので正面から来られては抗い切れない。おまけに今日の小夜子には何やら迫力がある……。
苦し紛れに目を逸らすと、小夜子は添えた手を外して再び啓介に向き直った。
「ほら。雅俊さんもおじいさまに遠慮しただけで、本当はコンクールに出たいんです」
「そうかい? 雅俊はすでに私の演奏会のピアニストだ。プロのようなものじゃないか。小夜子もコンクールなど出なかったが、ここで演奏してプロの間でも評判が高い。雅俊だってそれで十分ではないかな?」
確かに、小規模とはいえ、小倉邸の音楽ホールで演奏会を開くことはプロの演奏家にとっても名誉で魅力的なことらしい。なにしろ観客の大半が富豪や知識人で占められる上、謝礼の額が半端でないのだ。
小夜子は、はにかんだ笑顔を啓介に向けた。
「私はこの体ですもの。おじいさまのお陰で色々な方に聴いていただけて感謝しています。でも雅俊さんはもっと勉強しないと」
「小夜子が教えているのだからいいじゃないか」
啓介が方眉を上げ、少し顎を引いた。機嫌を損ねている証拠だ。不安が膨らむ中、しかし小夜子は言葉を続けた。
「もっと上を目指せるのですから海外へ出なくては。おじいさまはご存じないでしょうけど、中学生ともなると、留学するためにもコンクールは大切なのです。幸いすぐに別の大会がありますから、そちらはちゃんと出させてくださいね」
にっこりと微笑んで小夜子が言葉を結ぶと、啓介も「わかったよ」と穏やかに答えた。けれどもその場にいた他の者たちには、彼が胸の奥に怒りの焔を抱いたことがわかっていた。
そして、雅俊にはそれがどこに向けられるかも……。
「なぜ、はっきり小夜子に断らなかったのだ!」
「あうっっ!」
案の定、その週の土曜日、啓介は雅俊を呼びだすと、最初の日の夜にも劣らぬ勢いで嬲ってきた。小夜子を警戒してか、いつもの私室ではなく外に連れ出されてのことだ。一流ホテルのゴージャスな最上階スイートも、こうなっては魅力も何もない。
豪華なベッドの真ん中で四つん這いにされ、乱暴に貫かれながら揺さぶられる痛みで全身に冷や汗が滲む。
「次のコンクールとやらは自分から断れるだろうな?」
啓介の言葉に、ベットに頭をついた雅俊は力なく首を振った。
「……無理です。あの人にはバレます。……音で」
「なんだと?」
途端、少し長くなっていた巻き毛の髪が後ろからつかみ上げられた。
「いっっ」
腰を押さえられ、髪を引っ張られた苦しい体勢だ。それでも雅俊は質問を試みた。
「……どうしてコンクールに出てはいけないのですか? おれはどこにも逃げません……母がいるのですから」
啓介は髪を離すと背中にのしかかってきた。腕が肌を滑り、腹の下を這う。
「おまえを公の場になど出したら、周りからすぐに声がかかるだろう。全部を断っていちいち腹を探られるのは叶わん」
「……そんなことは……っ」
否定した途端、腹の下をまさぐる手が雅俊の未だ成熟に届かない中心を握りしめた。
「ないと、言い切れるか?」
絞るように力を加えられる。
「ぁあっっ!」
電流を流されたような重い痺れが全身を襲う。
雅俊の反応を捉え、啓介が自分の欲望を解き放ちにかかった。荒々しく腰を打ちつける音が室内に響く。
「どうやら、少々甘やかし過ぎたかな……」
やがて彼はひとつ息を吐き出すと、ぐったりと脱力してベッドに突っ伏した雅俊の体を離した。
「そんな生意気な口を利くとは。……そうだな。自分がどれだけ私に保護されてきたか少し勉強させるか」
のろのろと顔を後ろに動かして見上げると、ガウンを羽織った啓介が酷薄そうな笑みを口元に浮かべていた。
「ちょうどいい、私の役に立ってもらおう。おまえに〈仕事〉を与えてやる。コンクールなど出る暇がないようにな」
その日を境に雅俊の状況がまた変わった。
彼の特殊な体質を漏れ聞き、前々から取引を打診していた啓介の同類たちに、雅俊は売られたのだ。
「個別懇談……」
夕暮れ時、屋敷の広い廊下を足早に進む鞠江を呼び止めて一枚のプリントを渡すと、彼女は美しく化粧した顔をしかめて嘆息した。
「……この週は困るわ。竹内の奥様や樋口のお嬢様からサロンに呼ばれているのに」
そういう鞠江は今日も出かけるのか、シルクのワンピースなどを着てめかし込んでいる。雅俊は平坦な声で説明した。
「春の個別懇談に来なかったから今回は来てくれって」
「あら、そうだったかしら。でも本当にこの週は忙しくて」
「進路のことも相談したいから」
畳みかけるように言うと、鬱屈を感じ取ったか鞠江が顔を覗いてきた。
「ね、雅俊さん。この週は大切な用事が目白押しなの。次の週じゃ駄目なのかしら」
目元に哀願が滲んでいる。
個別懇談の期間は一週間だ。
(担任の平沢にまた小言を言われるな……)
雅俊は内心の落胆を押し隠して答えた。
「……いいよ。じゃあ、いつが都合いいのか教えて」
「私が行きます、鞠江さん」
ふいに後ろから声がかかった。
二人で背後に目を向けると、すぐそこに小夜子が佇んでいた。
「小夜子さん……」
鞠江の口から動揺を含んだ声がこぼれた。小夜子はつかつかと歩み寄ると、鞠江の手の中にあったプリントをスッと取り、目を通した。
「来週の金曜日なら私は空いていますもの。ピアノのお話ならむしろ都合がいいわ」
彼女はあの夕食会の夜以来、コンクールの話をしても言葉を濁して避ける鞠江や啓一に苛立っているようだった。雅俊の援護をせず、啓介の機嫌を取ってばかりに見える鞠江に対しては特に厳しいようで、呼び方が最近では「お義母さま」から「鞠江さん」になっている。
そんな小夜子に戸惑いながらも、心の底では嬉しく思っていることを雅俊は自覚していた。
この環境の中で、鞠江は必死なのだと理解はしていても、啓介に対して顔色を窺い、とにかく逆らわないようにと諭すだけの態度は少なからず雅俊を傷つけていた。
顔を上げた小夜子は口元に笑みをたたえながら挑むような目線で続けた。
「鞠江さんが行くより、雅俊さんのためにいい話ができると思いますから」
「ま……っ!」
さすがの鞠江も顔を強張らせた。
「確かに私はピアノのことは素人ですけど、私だって雅俊さんのためを思って言葉を選んだり、考えて行動しておりますのよ」
言外に(あなたはできていません)と言っているのを感じ取ったのだろう、小夜子はなめらかな白磁の肌に朱をのぼらせると、受けて立つように黒曜石の瞳を光らせた。
「そうですか? それにしてはご自分の社交にお時間を取られる割合が増えてらっしゃる気がしますが」
「小倉家の嫁としてのお付き合いはなかなかに忙しいんですの。早くにお母様を亡くされた小夜子さんは、ご存じないかもしれませんけど」
「息子さんの行事に未だ一度もお出かけになれないほどですか」
刺すような言葉に鞠江が頬を紅潮させて切り返した。
「……あまり小夜子さんが口をお出しになると、先日のようにお義父さまの機嫌を損ねて、結局は雅俊さんや私が迷惑を被りますのよ」
(――!)
雅俊は思わず鞠江の顔を凝視した。彼女は目が合うのを避けるように踵を返した。すると小夜子がその背中に向かって言った。
「でしたらあなたが黙っていらっしゃればいいわ」
「なんですって?」
鞠江が足を止めて振り返る。小夜子は畳みかけるように続けた。
「今後、学校行事は私が出席します。鞠江さんが出たことにすればいいわ。できなくはないでしょう?」
「そんなこと」
「ご自分のお付き合いや立ち位置ばかり気にしてないで、母親として、そのくらいはしてくださってもいいんじゃありませんか?」
「……っ」
鞠江は一瞬、痛いところを突かれたような顔をした。が、すぐにまた背筋を伸ばすと、黒目勝ちな瞳に剣呑な光を浮かべた。
「……あとでお義父様に発覚したら、小夜子さんに強要されたと言いますわ」
小夜子も上体をぐっと伸ばして鞠江を見据えた。
「どうぞ。お好きなように」
鞠江は忌々しそうに目元を歪めると、サッと体を返して去っていった。雅俊はいつの間にか自身を覆っていた緊張を解いた。
屋敷の東棟にある音楽室に移動し、周囲に人影がないことを確かめると、雅俊は部屋の真ん中で小夜子に向き直った。
「本当に来る気なのか?」
彼女はっきり頷いた。
「ええ。学校にかけ合って、絶対コンクールに出させてあげるわ。約束したもの」
「でも」
「おじいさまのことなら大丈夫よ。今度は言わないから」
「えっ……?」
顔を覗くと小夜子は少し悲しそうに微笑んだ。
「ごめんなさいね。私、あの夕食会のあとでおじいさまにお願いして……わかったの。おじいさまが言っていた大事なお客様って、あれは口実でしょう?」
「……それは」
内心ギクリとしていると小夜子は続けて言った。
「おじいさまは、どうしてかわからないけど俊くんをコンクールに出したくないのね。だから正面から話したのでは説得できそうになくて……」
雅俊はホッとして目を伏せた。何かあるとは思っているようだが事情を知ったわけではないらしい。
(小夜子に少しでも知られたりした時には――)
記憶を追い払うように頭をひと振りすると、雅俊は小夜子に笑いかけた。
「いいんだ。小夜子がそんな風に気にかけてくれるだけでも嬉しいよ」
実際、先ほどの鞠江の態度にはさすがにくるものがあった。
(母さんは知っている。おれが啓介からどういった扱いを受けているのかを。知っていて、気にしながらそこには目をつぶって、今の華やかな暮らしを維持しているんだ)
――人間は生活していかなければならない。
わかってはいるのだが……!
「それとも、本当に俊くんの迷惑になってしまったのかしら……」
「え?」
小夜子は少し俯き加減に聞いてきた。
「私は俊くんを支えたい。ピアノを通して、あなたが飛び立ちたいと望んでいることをいつも感じているから。けれど、もし役に立たないのなら……」
しょんぼりとうなだれる小夜子の姿に、鞠江のことでかなり傷ついていた雅俊は心を動かされた。
「そんなことないよ。嬉しかったよ」
それは本心だ。たとえ、彼女の言動が裏目に出たために、この身を大人たちから苛まれる結果になったのだとしても。
「今、この家でおれの将来のことを本気で心配してくれているのは小夜子だけだ」
顔を上げた小夜子に雅俊の腕が無意識に伸びた。小夜子は抗わなかった。ここへ来た時はまだ低かった背も、いつしか小柄な彼女を抜き、こうして抱きしめても肩の上に顔がくるようになった。
「それを知ってるから、嬉しいよ」
「俊くん……」
「ただ、おれのピアノに関わったことで小夜子が啓介さんから怒られたりしないのかが心配なんだ」
啓介は雅俊には「おじいさま」と呼ぶことを禁じている。彼の趣味からすれば当然だろう。
「だから、無理はしないでほしい」
抱きしめた小夜子の温もりがいつになく全身に染みて、胸の内側に熱が燻って腕を離し難い。それでも場所柄の危うさ思いだし、名残惜しく抱擁を解こうとすると、今度は小夜子が腕を背に回してきた。
「ごめんなさい、私の力不足で……これからはもっとうまくやって見せるわ。二度と鞠江さんからあんな風に言われないように」
雅俊が顔を覗くと、小夜子は小作りな顔の中で黒曜石の瞳を爛々と燃え立たせていた。
「おじいさまには絶対わからないようにして、学校行事はすべて出席してみせるから」
「………」
なんか、目的が逸れていってないか?
そう思ったものの、口に出すのはヤメておいた。




