したたかな天使
T-ショックシリーズ過去編の二番手、雅俊編です。といってもこれだけで独立してる上にちょっとシリアスちっく……。けどこれがあるからあれもある、てなわけで、ご通読いただけたら幸いです(^_^)。
プロローグ
「おっかしいな……」
控え室で荷物を探っていると後ろから声がかかった。
「どうした? 何か足りないのか」
振り返ると祐司がすぐそばに立っていた。黒革の上下に身を包んだ長身の姿がこちらを覗いている。
「あれ? 早いな。ギターの音合わせ、もう終わったのか」
「ああ。次は音響チェックで雅俊が呼ばれているぞ。出られるのか?」
雅俊は祐司の前に立ち上がると、ちょっと困惑して彼を見上げた。
「楽譜がひとつ見あたらないんだ。黒い表紙のやつなんだが……」
「黒ならテーブルに置いてあったぞ。さっきスタッフが他の楽譜と一緒にステージ脇に持っていったと思うが」
「マジ? ……っていうか、おれのはよけてくれっていつも言ってるのに」
ありがとうと声をかけ、ジャケットを羽織ってステージへと向かう。
舞台袖に近づくと、お馴染みの光景が目に飛び込んできた。
声をかけながら行き交うスタッフ。テストで明滅するライトの光。乱雑に床を這う何本ものコード……コンサート前の、雑然とした準備の時間帯だ。
蛇のようにうねるコードを跨ぎながら歩を進めると、何人ものスタッフがかけ寄ってきた。
「スピーカーの配置はいつもどおりです」
「キーボードの確認をお願いします」
「曲順は変更なしですね?」
そのひとつひとつに返事を返しながら、雅俊は出来上がりつつある舞台を眺めた。
リハーサルはもうすぐだ。
夜の本番に備え、できれば午後いっぱい使って二回ぐらいは通したいな、などと、あとの二人が聞いたら「鬼畜!」とぼやかれそうなことを考えながら、舞台の縁を見回っていると、反対側の舞台袖の隅に置いてあるそれが目に飛び込んできた。
「あ……」
それは一台のグランドピアノだった。
よくコンサートホールで見かけるスタインウェイと違い、懐かしくも貴重な銘柄のものだ。
自然と足がその薄暗いスペースへと向かう。
「ベーゼンドルファー……」
無意識のままに手を伸ばし、そっと蓋を開けると、白と黒の鍵盤が鈍い光を反射した。
「………」
一瞬ためらったあと、思い切って右手の指を乗せてみる。ひんやりしとした感触が指先に伝わった瞬間、雅俊の時間が忘れ難いあの日々へと遡っていった――。
複数の拍手の音が広い室内に響く。
雅俊は鍵盤から手を下ろし、ひとつ呼気を吐き出すと、ゆっくりとした動作を心がけて立ち上がった。
目の前では漆黒のベーゼンドルファーが室内を照らすシャンデリアの光を反射している。そのなめらかな縁に手を添え、一歩横へと踏み出してから、雅俊は後ろにいる人々に向き直って頭を下げた。
今日の観客は身内。母と、そして義父の一族だ。
「素晴らしいわ、雅俊さん。ショパンの〈雨だれ〉をここまで聴かせられるなんて……十三歳を過ぎたあたりから演奏に深みが増してきた気がするわ」
そうお思いになりません? と華やかな美貌に満面の笑みを浮かべる母の鞠江に、義父の啓一が答えている。
「そうだね。僕は専門的なことはよくわからないけど。先生、どうなんだい?」
意見を聞かれた師匠――雅俊の義理の姉に当たる小夜子が、啓一の隣で柔らかそうな唇を開いた。
「ええ、お父様、お義母様。雅俊さんの才能には非凡なものがあります。今日もまあまあでした」
「まあ。小夜子さんはお点が辛いこと」
母は優雅な仕草で口元に手を添えて笑うと、座席にかけている他の親戚たちに呼びかけた。
「さあ、では皆様。別室に昼餐が用意してありますから、どうぞおいでくださいませ」
彼女はワインレッドを基調にしたサテンのカクテルドレスの裾を払うと、自らが率先して重厚な作りのドアを開け、十人はいるだろう、準礼装に身を包んだ年配の男女を誘導した。
「小夜子。君はどうするね?」
啓一が、こちらに歩み寄ろうとした小夜子に声をかけた。すると彼女は白いジョーゼットを駆使したワンピースの背中を覆うまっすぐな黒髪を揺らして首を横に巡らせた。
「遠慮します。伯父様や伯母様方によろしくお伝えくださいね」
愛らしく小首を傾けながらもきっぱりと言い切る。
啓一は困ったように苦笑した。
「あまり顔を出さないと私が文句を言われるんだが」
「そこは我慢してください。私はおじいさまの許しを得て雅俊さんの教育係を承っているのですから。生徒を放って昼餐をいただく気にはなれません」
おじいさま、と小夜子が口に出した途端、啓一の肩が揺れた。
「わかったよ。じゃあまた夜に」
啓一は名残惜しげに小夜子に笑いかけたあと、少し苛立った目線を雅俊に向けてきた。その目が(君が遠慮するべきだろう?)と訴えている。しかし気がつかないフリをして受け流すと、彼は苦い顔になりながらも大人しく出ていった。
ドアが閉まり、室内が二人だけになる。雅俊はひと息ついて緊張を解き、堅苦しい礼装の上着を脱いだ。
小倉一族の前で演奏するのは気を使うので疲れる。
「俊くん」
目の前に立った小夜子の黒曜石のような瞳が少したしなめるように光った。
「またわざと変えて弾いたでしょ」
雅俊は笑って言い返した。
「あいつらにゃわかりっこねーもん」
疲労対策に思いついたウサ晴らしだ。
「んもう、そういう問題じゃありません。ピアノに向かう姿勢を言ってるの。デビューが遠のいちゃうわ」
小作りな顔が幼げなふくれっ面になる。
「啓介さんが本気でおれをデビューさせるとは思えないよ」
「大丈夫。おじいさまは私が絶対説き伏せるから」
「………」
黙って目を伏せると、小夜子の両手が演奏で疲労した指先を包み込んだ。
「朝からお義母様に付き合わされたからお腹減っちゃったわ。厨房から何かもらって、今日は裏庭のベンチで食べましょ」
ね? と微笑む小夜子に雅俊も頷いた。確かに、ショパンやリストを合わせて五曲も弾いたので腹ペコだった。
「俊くんが来てからもう三年経ったのね」
「うん。早かったな」
二人は広大な庭の一角にあるベンチに並んで座り、厨房係のおじさんに包んでもらったサンドイッチを頬張った。昼餐の余り物で作ったらしいそれは、上等なハムやチーズが使われていて簡易食と言ってしまうのも憚られる。しばらく咀嚼に専念していると、ふいに小夜子がこちらを向いた。
「最近、学校はどう? 楽しい?」
「えっ?」
黒曜石の瞳が上目使いでこちらの様子を窺っている。雅俊はベンチ脇に枝を伸ばしている灌木へと目を逸らした。
母の再婚に伴い、雅俊が山手にあるこの小倉家に来たのは三年前の五月、小学五年に上がった直後だった。
それに伴って編入したのは代々小倉家の子弟が通う霞ヶ丘学園で、五年生での転入が珍しかったのかどうか、小学時代の二年間はそれなりに大事にしてもらって楽しかった。ピアノという特技があったのもよかったかもしれない。しかし中等部へ進んだあと、月日が経つにつれ徐々にそれは浮き彫りになった。
雅俊は顔を戻し、軽いノリで答えた。
「まあ、ぼちぼちかな」
「何かあったの……?」
小夜子が心配げに顔を寄せてきた。
「前から気になっていたの。俊くんのピアノに出ていたから」
雅俊は内心でため息をついた。
おれ――と言ってはいるが、雅俊は完全な〈男〉ではない。体内に五分の二ほど〈女〉の部分を併せ持つ、〈IS〉と呼ばれる性別だ。
パッと見の形成は男に近く、気性も強かったので、小学校では男子として特に困ることもなかったが、進学した中等部で状況が変化した。そこから先は男女別々、つまり中高一貫の男子校だったのだ。
結果、今までは気にならなかったことが、ヤローどもだらけの中に放り込まれて過ごすうちに浮き彫りになった。すなわち、
「小倉雅俊ってホントに男か? 可愛すぎるだろ?」
ってなわけだ。
自分がただ華奢でキレイと言われるだけの男だったら、「舐めてんじゃねえぞコラッ」でケンカして終わりだろうが、半分当たっているのではシャレにならない。かといって、この環境で公表する無謀さも持ち合わせてはいない。
かくして中等部進学から半年経つ頃には〈霞ヶ丘学園の天使〉との異名を与えられ、スリリングな日々を送ること今年で二年目だ。
今も下は中等部の一年から上は高等部の三年まで、隙をついては迫ってくるヤローが絶えず、秘密を抱えての生活は正直疲れる。
とはいえ、学校でのあれこれは雅俊にとって、厄介ではあっても深刻に悩むほどではなかった。自分の特殊な体質や容姿が忌まわしく思うようになったのは、そこに別の要因が割り込んできたからだ。
再び顎を動かしながら、雅俊は学校での出来事が原因と思っている小夜子に合わせた。
「たいしたことじゃない。中等部や高等部の連中に追い回されて毎日が煩わしいだけさ」
「でも、なんだかどんどんガラが悪くなってきたというか、顔つきが険しくなったというか……」
小夜子はサンドイッチを脇に置くと、まだ咀嚼中の雅俊の顔に手を添えて横を向かせた。
「こんなになめらかな肌の、まるでアーモンドのような形をしたくっきり二重の美少年顔なのに……そぐわないわ」
口の中のものを飲み下してから雅俊は答えた。
「まあ、そこは諦めてくれよ。男子校じゃこのくらいにしておかないと浮いちゃうんだよ。ただでさえピアノ科だし」
音楽コースでもピアノを弾く男子はさすがに数がいない。おまけに芸術系はスポーツ系や理数系より軟弱と取られやすいのだ。
霞ヶ丘学園では様々な科を設け、それに特化した教育カリキュラムを行っている。学園の特長のひとつ、〈才能を育てるプログラム〉の一環だ。系列の大学からは、毎年のようにプロとして活躍する人材が育っている。
「本当にそれだけ?」
小夜子の瞳が真摯な光を浮かべている。
「私には隠さないで。……わかってしまうから」
無垢で純粋なそれを惜しげもなく注がれ、刹那、雅俊の胸の奥が疼いた。
小夜子は生まれつき心臓に疾患があり、ろくに学園にも通えずに育ったのだという。そのせいなのかどうか、今年二十四歳を迎えるにしては、儚げな少女めいた雰囲気の女性だ。雅俊よりさらに小柄で華奢なせいもあろうが、母の鞠江と十二しか違わないとはとても思えない。
健康の代わりに、神は小夜子に別の能力を与えた。すなわち芸術の才能だ。
小夜子は彼女を溺愛する祖父、啓介の手によって集められた教師たちのもとで才能を伸ばし、絵画や音楽、特にピアノの才能を開花させた。それを今、雅俊に伝授しているのだ。
小夜子にはピアノを介して心情が伝わってしまう。けれども彼女にこの憂鬱の原因を知られるわけにはいかない。
結局、雅俊はいつものセリフで誤魔化した。
「今はまだ、小夜子が心配するほどのことじゃないんだ。でも、本当に困った時は相談するよ」
話を締めくくるように言うと、小夜子は「約束よ?」と言ってちょっと寂しげに微笑んだ。
自室へ戻ると、雅俊は机の上に置いたままのCDを手に取った。先日発売された、国内屈指のロックグループのベスト版だ。部屋の隅にあるオーディオプレーヤーにCDをセットし、イヤホンをつけてベッドに寝転ぶ。まもなくビートの効いた、それでいて心を揺さぶる旋律が流れてきた。
小倉家では音楽といえばクラシック、洋楽など誰も聴かない。むしろ忌避されている。けれど雅俊は半年前に起こったある出来事のあと、ラジオで聴いたこのグループの、強く、速く、そして破壊的なドラムとギターに彩られた音楽が好きになった。作曲を手がけるドラム担当者が、実はかなりの腕前を持つピアニストなのだと知り、だから惹かれたのかとも思った。ロックには、クラシックにはない爆発力がある。
以来、小倉家の人々に隠れ、様々なグループのものを貪るように聴いている。だが小夜子には程なくしてバレた。雅俊の演奏に変化を感じ取り、別のジャンルからの影響、と推測してきたのだ。彼女の耳は誤魔化せない。
不思議な人だ――雅俊の記憶が小夜子との出会いへと遡った。
雅俊が初めて小夜子に会ったのは今から四年前、この屋敷で催された、小夜子の誕生会を兼ねた晩餐会の席だった。
その当時、啓一と付き合って二年が過ぎていた母の鞠江は、初めて公の席に呼ばれるということで張り切っていた。
「あなたも、だから協力してね」
明るく意気込む鞠江に「うん」と、その頃はまだ無邪気だった雅俊も元気に応じたものだ。
当時の生活はそれなりに安定していた。
銀座の夜の世界に名を知られたホステスだった母の鞠江は、ジャズピアニストだった父、篠崎雅春が他界してから元の世界に舞い戻り、持ち前の美貌と明るさで高給を稼いでいた。父から雅俊に譲られた才能を伸ばしてピアニストにするために、金のかかるレッスンを維持する必要があったからだ。
鞠江の勤めるその高級クラブに客として訪れたのが、小倉家の跡取り息子、啓一だった。
彼はすぐに鞠江を指名するようになり、まもなく二人は付き合うようになった。けれども普段の生活にはあまり変化はなかった。やがて鞠江は啓一のバックアップで横浜に店を持たせてもらい、二人は内縁関係とやらに発展したのだが、それでも少し引っ越しただけで、雅俊の生活は学校とピアノのレッスンで会う先生や仲間がすべてだった。その均衡が破れたのはやはりこの日が境なのだろう。
きっかけになったのは、どうも小夜子の一言らしい。
それまで小倉一族は鞠江の存在を快く思わず、内縁関係のままに捨て置くつもりだったのを、どこから聞いてきたのか、息子がピアノで入賞などを繰り返していると知った小夜子が「聴いてみたい」と興味を示したのだ。
人見知りでこもりがちな小夜子の珍しい反応に、邸内の音楽ホールで演奏会を開くことを趣味にしていた祖父、啓介が鶴の一声を発し、雅俊のピアノ演奏の名目で招待が決まったらしい。
その時はまだ、純粋に小夜子のためだけの話だったのが、一気に鞠江の入籍許可までいったのは、その時の晩餐会でのやり取りのせいに他ならない。
山手の一角を占める小倉家の広大な敷地に、他を威圧するようにしてその豪邸は建っていた。
明治時代の洋館のようなどっしりとした作りの建物は隅々までよく手入れがなされ、上質な白壁にはシミひとつ見あたらない。エントランスの先に広がる吹き抜けのロビーには臙脂色のカーペットが敷き詰められ、豪華なシャンデリアがまばゆい光を辺りに放っている。そして正面、ちょうど建物の中心に当たる重厚な扉の奥が、よく室内演奏会が開かれるという音楽ホールだった。
そこに集った三十人ほどの招待客の中から啓一に呼ばれて進み出ると、紹介を受けた小夜子は少し目を見張ったあと、はにかんだ笑みを寄こした。
「はじめまして」
そのあどけない優しげな笑顔と、クリーム色のワンピースドレスに包まれた小柄な姿は、周囲の雰囲気に呑まれて少々緊張していた雅俊の心を落ち着かせた。
「はじめまして、篠崎雅俊です。お誕生日おめでとうございます」
会釈をしてから笑いかけると、小夜子は感嘆したように表情を明るくした。
「まあ……なんて可愛らしいの。ピンク色の頬に巻き毛なんて、まるで宗教画に出てくる天使みたい……」
当時、まもなく五年生になるとはいえ、二月で十歳になったばかりでは確かに幼く見えたかもしれない。けれどもピアノコンクールという激しい駆け引きのある戦場で、常にヨソの弟子どもと戦ってきた結果、自負心が強く闘争心もリッパに育っていた身としては、その表現はあまり嬉しくなかった。
しかし、銀座に名を轟かせた鞠江の美貌をそっくり受け継ぎ、どこへ行っても「綺麗な子ね」「可愛いね」などと言われ続けていた雅俊は「持って生まれた外見に逆らうと人間、ロクなことにならないのよ」と鞠江から常々諭されてもいた。さらには彼女の薫陶で女性へのサービス精神を幼少時から叩き込まれ、すっかりマセたガキに育っていたので、内心を押し隠してここぞとばかりに微笑みかけ、
「それは僕へのホメ言葉だよね? ありがとう」
などとシャレた切り返しをして小夜子を喜ばせた。
しばらくそうしてやり取りを続けるうち、楽しそうに喋りながら笑う小夜子の様子を見た啓介が声をかけてきた。
「これは珍しいな。小夜子は雅俊君が気に入ったのかな?」
小夜子は顔を赤らめながらもはっきりと答えた。
「はい、おじいさま。素敵な子と出会えてとても嬉しいです」
その時点で方向は決まりかけていたようだが、それをさらに後押ししたのはやはりピアノだろう。
そろそろ演奏を、ということで小夜子に導かれ、ホールの奥に据えられたグランドピアノの前に立った時、雅俊はその高雅な姿に目を奪われた。
「すごい。ベーゼンドルファーのインペリアルだ……」
それはドイツの超一流メーカーのコンサート用ピアノで、有名な音楽ホールなどでしかお目にかかれない逸品だった。それまで雅俊が先生の伝で弾かせてもらったグランドピアノでも、ホール以外ではベヒシュタインが精一杯だ。
「これは、亡くなったおばあさまが私に贈ってくださったの。プロの方にも使っていただいているし、ちゃんとお手入れしてあるからいい音だと思うのだけど……」
上目遣いに視線を寄こしてくる小夜子は、外のものと比べての判断がつかない様子だった。なので、真ん中の鍵盤を指で叩いて、
「ああ、いい響きだね……」
と感想を伝えると、本当に嬉しそうに笑った。その無垢な笑顔がなぜか心に触れ、少し熱くなった内心を誤魔化すように雅俊はピアノに向かった。
そうして演奏した三曲、有名なショパンの〈英雄〉〈華麗なるワルツ〉〈子犬のワルツ〉は、招待客から熱心な拍手を受け、小夜子の心をも引きつけたようだった。ただし、よく弾けたからではない。
「素晴らしかったわ、雅俊さん。でも残念なところが幾つかあるわ」
そう言ってレクチャーをはじめた小夜子の姿に、今度は雅俊のほうが驚いてしまった。さっきまでの少女めいた儚さが一変し、ピアノへの真剣なアドバイスは、先生にも劣らず的確で痛いところを突いてくる。
「だから、この部分ではもっと押さえて弾かないと、あとにくるこのクレシェンドが活きてこないし、曲調が味気ないものになってしまうの」
夢中になって解釈を講じる小夜子に、啓介から笑いを含んだ声がかかった。
「小夜子。ここは君のアトリエではないよ。皆が驚いている」
「あっ……すみません、おじいさま。私ったら……」
啓介の指摘に、ここがどこだったかを思い出した小夜子は真っ赤になってもとの少女に戻った。それを見た啓介が小夜子に質問した。
「雅俊君を、もっと見てみたいのかな?」
小夜子はピアノの前に座る雅俊の顔をチラリと見ると、「はい」と恥ずかしそうに俯いた。それを受け、啓介もこちらに視線を寄こした。そして。
「私も……もう少し成長した彼に大いに興味があるな……」
彼は鷲のような鋭い眼差しでじっくりと雅俊を眺めると、ひとつ頷いて感想を漏らした。その時、雅俊は小夜子の心を弟子として捉え、啓介の心をも動かしたのだった。
鞠江が啓一との入籍を許されたのは、それから半年後のことだった。
小倉家に迎えられた二人はしかし、親戚一同からは歓迎されなかった。だが、何の用事があるのか、しょっちゅう出入りする一族の者たちのあからさまな視線に頓着することなく、雅俊は屋敷で働く様々な人たちと知り合いになった。そこで愛嬌を振りまいて人気を勝ち得、ちゃっかりと自分の環境を快適にしていった。
――人間は生活していかなければならない。
父が亡くなった時、環境が一変した雅俊に対して鞠江が言った言葉だ。以来、処世術を身につけながら生きてきた雅俊にとって、小倉家という安全な牧場でのみ草を食み、感情を露わにして、当主である啓介の寵を得ようと振る舞う一族たちは、世間を知らない幼児のように思え、その態度や、時折漏れてくる嫌みなど取るに足らないものだった。ただし、それを態度に匂わせたらそれこそ厄介なので、外見上はあくまでも神妙にしていたが。
そんな一族の態度に小夜子は憤慨していた。
「あなたは正式に本家の家族なのだから、堂々としていてね」
一族の集まりがある時などは、できる限り雅俊のそばに寄り添って雄々しく背筋を伸ばしていた。他の大人に言われたなら(実は何とも思っちゃいねーヨ)と内心突っ込むところなのだが、小夜子のそういった態度は不思議に心を和ませてくれるので、雅俊はその感情のままに、
「うん、ありがとう小夜子さん」
などと笑顔で応えて彼女を喜ばせていた。そうして自分でも奇妙なことに、彼女とはいつしか義理の姉弟としてだけではなく、ピアノの師弟関係を通じてかなり親密な関係を築いていった。
雅俊にとって、小夜子は初めて出逢う、知性を兼ね備えた純真な魂だった。
ホステスであった鞠江やピアノで接する女の子たちは、誰もが上昇志向が強く、頼もしくはあっても安らぎには程遠い。かといって、同学年の女子では精神年齢が違いすぎて話が合わない。小夜子はそこを埋めるような存在だった。
一方、人見知りの小夜子にとって、雅俊は共通の感性を持ちながら、緊張する必要のない異性――すなわち子どもだった。
しかも、小夜子の知らない話題も豊富で何でも気兼ねなく聞ける相手だった。ある意味レディ・ファーストだった雅俊は、何を聞かれても驚くことなく質問に答え、小夜子の世間知らずをからかうこともなかったので、安心して尋ねることができたのだという。
あのまま何事もなく過ごせていたら、「僕」から「おれ」へと変化する必要もなかったのに――。
そう思ってみても、今さら時を戻すことはできないのだった。