第5章 呪われた儀式
気がつくと、ぼくは全裸でテーブルの上に寝かされていた。
202号室のリビングルームだ。
真夜中なのだろう。薄暗い照明で部屋の中がぼんやり見える。
体を動かそうとしたが金縛りに遭ったように四肢が言うことを聞かない。
声を上げようとしたが口が動かない。
ただ首が回るのと指先がかすかに動かせるくらいだった。
テーブルの周囲には黒装束に身を包んだ四人の人影がある。
黒いフードコートで全身を覆い、首には黒い十字架のペンダントをしている。
黒いドミノマスクで顔の上半分を隠していたが、体型から誰だかすぐ想像できた。
北川家の三人とカヨ婆さんだ。
「気がついたかな」
北川俊介さんの声だった。
「君の体には今、特殊な麻酔薬が投与してある。意識はあっても、体が動かないのだ。
裏野川幼女殺人事件を知ってるかな。被害者の幼女はちょうどこの部屋で、我々が黒ミサの生贄に捧げたんだ。
チェンソーで首を切り落とす直前、薬が切れて幼女は大声で悲鳴を上げた。隣室の君には聞こえたかな。
実はぼくたちは『マタロウ宗』という秘密宗教の信者なんだ。裏野ハイツでは君を除く、全住人が『マタロウ宗』の信者だ。
『マタロウ宗』は隠れキリシタンと土着の犬神信仰が合わさって、この周辺地域で江戸時代後期から信仰されているらしい。一方で、欧米の悪魔崇拝と明治初期に興った神道系新興宗教が融合したという説もあるようだ。詳しいことはぼくも知らない。
ところで『マタロウ宗』では定期的に黒ミサを行い、犬神様に人間の生贄を捧げなくてはならない。
犬神様が生贄の肉や臓腑を食し、その残りは我々信者が食す。
この前、君にごちそうしたカレーライスを覚えているかい。中に入っていた肉は豚肉ではなく、黒ミサで生贄に捧げられた幼女の肉なんだ。おいしかったかな。
山崎は我々が雇った屠殺係だ。生贄を殺したり、四肢を切断したり、死体をゴミ袋に入れて処理したりするのが彼の仕事だ」
するとそこへ巨大な白い犬を連れた黒装束の男が入ってくる。
ドミノマスクをつけていたが、おそらく101号室の木島礼次さんだろう。
犬はベージュのマフラーで顔を覆われていた。
木島さんは犬の首輪を外して犬を自由にすると、マフラーを取り去った。
ぼくは仰天した。
犬の顔が人間なのだ。人面犬がこの世にいるとは思わなかった。
しかもどこかで見た顔だ。
裏野ハイツに引っ越した日、カヨ婆さんに見せられたお孫さんの写真。その写真にうつっていた青年の顔にまちがいなかった。
「魔太郎様が降臨されます」
木島さんが言う。
人面犬は目を大きく見開く。
「我ハ魔太郎ナリ......」
犬がしゃべる。
「我思ウ。故ニ我アリ」
周囲の信者たちは口々に「魔太郎様」とか「アーメン」とか唱えながら人面犬に向かってひざまずき、人差し指で十字を切って合掌する。
「そろそろお浄めの時間です」
カヨ婆さんが言う。すると幸子さんが無言でうなずく。
カヨ婆さんが何やら奇妙な呪文を唱える。
おもむろに幸子さんが黒いフードを投げ捨てる。全裸だった。下には何も着ていなかったのだ。
幸子さんはテーブルの上に乗り、仰向けに寝かされているぼく体にまたがるようにして、しゃがみ込む。
ドミノマスクと首から下げた黒い十字架のペンダント以外、一糸まとわぬ姿の幸子さんは、そのままの恰好で放尿をする。
黄色い液体がぼくの全身を濡らしていく。
黒ミサではこれが”お浄め”の聖水なのか。
罪深い淫らな聖水を垂れ流しながら、幸子さんは少し前屈みになると、右手でぼくの顎を荒々しく掴む。そしてぼくの怯えた顔を楽しむように怪しく微笑むと、肉食獣が獲物を貪るように、乱暴にぼくに口づけする。
それは性欲というより、食欲がなせる倒錯した愛の行為だ。性欲の愛を超えたところに食欲の愛がある。そんな妄想をぼくに抱かせた。
用を足すと幸子さんはテーブルから降り、裕介君が鉈を持ってぼくに近づく。
鉈を振り下ろそうとする直前、ぼくの体に感覚が戻ってくる。
ぼくは突然、上半身を起こし、裕介君を突き飛ばす。
「薬が切れたのか」
背後で俊介さんの声。
ぼくはテーブルから飛び降り、カヨ婆さんを突き飛ばして、洋室に飛び込む。
人面犬が牙をむき出して襲い掛かる。
ぼくは人面犬の顔面を思い切り殴ると、人面犬は「ヒィイーン」と唸り、床に転がる。
「魔太郎様、ご無事ですか」
木島さんが横転した人面犬に駆け寄る。
その間にぼくは物入れに入って、穴から101号室へ飛び降りる。
後はさっきと同じだ。
ゴミ袋をかき分け、101号室の玄関から外に飛び出すと、駅に向かって夜道を駆け抜けた。
「助けてくれ」
ぼくは大声を上げた。
全裸で外を走っていることは承知していたが、今は恥ずかしがっている場合ではない。
「どこへ行くんですか」
ぼくが訊いても増岡警部は無言のままだった。
車は野村刑事が運転していた。
ぼくと増岡警部は後部座席に座っていた。
そのうちに河原が見えてきた。
「ここで降ろしてくれ」
増岡警部が言うと、野村刑事は車を停めた。
「さあ、行くぞ」
増岡警部はぼくの手を引いて、川の方へ歩いていく。
裏野ハイツから全裸でマラソンしたぼくは、駅前の交番に飛び込んだ。
「おまわりさん、助けてください。ぼくは殺されかけたんです。あいつらが追ってくるかもしれない」
ぼくは一気に自分がここまで逃げてきた経緯を説明した。だが気が動転していて順序立ててわかりやすく説明できる精神状態ではなかった。だから警官の方でも、ぼくが何をしゃべっているのか半分以上わからないという表情だった。
警官は途中でぼくの話を遮り、バスローブとサンダルを持ってきてぼく着るよう指示した。
バスローブを着てサンダルを履くと、警官はぼくを奥の部屋のテーブルに座らせ、書類を持ってきて必要事項を記入するよう指示した。その間、警官は別のデスクに座り、スマホでどこかへ連絡していた。
ぼくは書類に自分の氏名と住所を書き込んだ。
警官が戻って来てぼくの前に座ると、ぼくはもう一度、順序立てて説明した。
警官は今度はノートにメモを取りながら、ぼくの話を聞いてくれているようだった。
しばらくして一台の車が交番の前に停まり、今朝の増岡警部と野村刑事が現れた。
警官は増岡警部に敬礼すると、ぼくを警部に引き渡した。
そのままぼくはわけもわからず強制的に車に乗せられた。
川が見えてきた。
河原に花束が二つ置いてある。
「あそこが裏野川幼女殺人事件の死体発見現場だ」
増岡警部が言う。
「どうしてここに連れてきたんですか」
「後ろを見てみろ」
ぼくは言われた通り振り返る。
すると黒いフードを来た五人の裏野ハイツの住人たちが佇んでいる。
彼らの背後では人面犬が落ち着きなく、動き回っている。
「昔はこの河原で黒ミサをよくやったもんだ」
増岡警部が言う。
「裏野ハイツの202号室で黒ミサをやるようになったのは、五年くらい前からだったかな」
気がつくと増岡警部が拳銃を抜き、ぼくに銃口を向けている。
増岡警部の首には黒い十字架のペンダントが月明かりを浴びて怪しく光る。
この男もやつらの仲間だったのか。
「野村さん、助けてください」
ぼくは野村刑事の方へ駆け寄ろうとする。だが野村刑事は冷たく微笑みながら手でそれを制す。
野村刑事はポケットから黒い十字架を取り出し、おもむろに首にかける。
「観念したまえ。みんな身内なんだ」
吉岡警部が言う。
「あまり苦しまないように殺してやるから、安心しろ」
吉岡警部は銃を向けたまま、ぼくに一歩近づく。
ぼくは「わああああ」と声をかぎりに大声をあげる。
だが誰も助けには来てくれない。
ぼくの絶叫はすぐに一発の銃声にかき消された。