第3章 深夜の出来事
裏野ハイツに引っ越してから、順調に一週間が過ぎた。
その間、不審な出来事には全く遭遇しなかった。
ところが裏野ハイツが”わけあり”物件であったことを思い出したのは、大学の学食でAランチを食べているときだった。
「ところで”開かずの間”があるアパートって知ってる?」
同じゼミに所属する山木君が言った。
「ネットサーフィンで見つけたんだけど、条件の割に家賃が異様に安いアパートには、よくお化けが出るところが多いみたいだね。中でも”開かずの間”があるアパートは、すごいらしいよ」
”開かずの間”と聞いて、ぼくは裏野ハイツの202号室を思い出した。
「すごいって、どうすごいの」
ぼくと山木君は学食の隅の席で向かい合って座っていた。
ぼくはAランチ、山木君はカレースパゲッティーを食べていた。
「空き部屋が出てアパート管理会社が入居者を募集すると、家賃が安いんですぐ誰かが入居する。だけどしばらくするとまた同じ部屋が空き部屋になる。だからほとんどいつも入居者の募集広告が出ているらしいんだ。
入居してみたらお化けが出たんでまたすぐ引っ越すんじゃないかな。だからいつも同じ部屋が空き部屋なんだ」
ぼくは山木君に裏野ハイツのことを話そうかと思ったが、ふと言葉を飲み込んだ。
ネットで話題になっている”開かずの間”があるアパートが裏野ハイツのことなのか、別のアパートのことなのかは定かではない。
ただ何かしら名状しがたい奇妙な胸騒ぎがした。
その日の夜、洋室のベッドで寝ていると、突然、隣の部屋から女の子の悲鳴が聞こえた。
ぼくはベッドから飛び起きた。
続いて「ウィィィィイーン」という機械音。
202号室だ。”開かずの間”に誰かいる。
急いで部屋の明かりをつける。カラーボックスの置時計はもうすぐ午前二時になろうとしていた。
悲鳴はもう聞こえなかったが、機械音は断続的に続いていた。
鳴り始めてから五、六秒すると止み、止んだかと思うと、また鳴り始める。
ガラス戸を開け、ベランダに出てみる。
身を乗り出して、隣の202号室を覗くと、明かりが点っている。
不意の機械音が止み、明かりが消える。
まちがいなく、今、202号室には誰かがいる。
すると突然、音をたててガラス戸が割れ、子馬ぐらいの巨大な白い犬が飛び出した。
白い犬は二階のベランダを飛び越え、地面に着地すると、隣接する児童公園を駆けていく。
中央の砂場まで来ると、白い犬は夜空の満月に向かって猛々しく「ガォォー」と咆哮する。
それを見てぼくは身震いした。
まるで地獄からやって来た悪魔の大王だった。近づく者を畏怖させる圧倒的な威圧感と、この世のものとは思えない、とてつもない邪悪さを漂わせていたからだ。
悪魔の大王は児童公園を後にし、路地を越え、向かい側にある住宅街の民家の屋根に一気に駆け登ると、驚くほどの跳躍力で、屋根から屋根へと飛びうつり、ほどなくしてぼくの視界からその姿を消した。
今、見たものは何だったのか。
ベランダから202号室を見るとガラス戸は割れている。
これは夢ではない。
ぼくはそう確信したが、抗いがたい睡魔に襲われ、部屋に戻ると明かりを消してベッドに飛び込んだ。
朝起きて時計を見ると寝坊していた。
ぼくは着替えを済ませると朝食を食べずに大学に向かった。
昨夜の奇妙な出来事のことは覚えていたが、特に気にすることなく、一日が過ぎた。
夕方、大学から戻ったぼくは、まっすぐ自室の203号室に帰らずに、何の気なしに裏野ハイツに隣接する児童公園に足を運んでみる。
敷地が狭い児童公園は中央に砂場があり、その手前にブランコがある他は殺風景だった。全体に芝生が植えられ、四方はイチョウの木が覆っていた。
砂場に近づくと、白い棒のようなものが落ちている。棒の周囲は赤い染みで汚れていた。
しゃがんで拾ってみると骨のようだった。
ぼくはふと昨晩のことを思い出す。
巨大な白い犬がこのへんにで遠吠えしたのだ。
もしかしたら、この骨はあの犬がくわえていて、ここで落としたのかもしれない。
「まあ、小野寺君じゃない」
振り向くと北川幸子さんと裕介君だった。
買い物帰りなのか、幸子さんはいっぱいになったエコバックを肩にかけている。
ぼくは反射的に持っていた骨を砂場に投げ捨てる。
「夕飯まだでしょう。よかったら、今日はうちで一緒に食べない?カレーライスなんだけど」
「えっ?いいんですか?」
「うちではカレーのルーを買うと、全部いっぺんに料理する主義なの。そうじゃないとおいしくないからね。でもうちは三人家族でしょう。ルーは10食分だから余っちゃうの。腐らせるのやだから、小野寺君にも手伝ってもらいたいんだけど......」
「カレーは大好物ですけど......でも......」
「じゃあ、決まりね。北川家の特製ポークカレーをご馳走するわ」
こういう場合、遠慮した方が礼儀にかなっているどうかわからなかったが、何事も誘われると断れないのがぼくの性分だ。
ぼくは幸子さんたちの後をついて行った。