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第2章 歓談と噂話

「裏野工科大の学生さん?優秀なのねえ。あそこの大学って、かなり偏差値高いでしょう」

 北川幸子さんが言った。

「それほどでもないですよ」

 ぼくが言う。

「特に情報工学科って、ITベンチャー企業の創業社長をたくさん輩出してるでしょう。すごいわ」

「まあ同級生の中にはITベンチャーの起業を目指しているやつも結構いるみたいですけど、ITバブルの時代と違って、今は難しいんじゃないですかねえ」

 ぼくはコーヒーをすする。


 先ほど103号室のドアホンを鳴らすと、小学校低学年くらいの男の子が出てきた。

「ぼうや一人?」

 男の子は黙ってうなずく。

「パパやママは?」

 男の子は首を横に振る。

「どちらさまですか?」

 不意に背後から声がするので振り返ると、三十歳前後くらいの女性が佇んでいる。

 ボブカットの知的で上品な顔立ち。レースクイーンを思わせる細身の長身で、ピンクのブラウスにベージュのキルトスカートが似合っていた。

 買い物帰りなのだろう。食料品をいっぱいにしたエコバックを下げている。

「あの......どちらさまですか?」

 彼女はもう一度、今度は不審そうな顔で言う。

 こんな美人を見たのは久しぶりだったので、ぼくは一瞬、我を忘れていたのだ。

「あっ、実は......ぼくは小野寺和彦と申します」

 自分は今日、裏野ハイツに越してきた者で、ご挨拶を兼ねてタオルをお配りしているとぼくが説明すると、彼女は「こんなところでは何ですし、お茶ぐらい飲んでってください」と言って、リビングルームに通してくれた。

 こういうときは遠慮するのが礼儀なのかどうかわからなかったが、ぼくは彼女に誘われるまま、コーヒーをごちそうになった。

 103号室は北川さん一家が住んでいた。

 ご主人の俊介さんは食品業界のビジネスマガジンの編集記者だった。土日でも休日出勤に呼び出されることが多い不規則な仕事だという。

 奥さまの幸子さんは主婦の傍ら週二回ほどスーパーでアルバイトをしていた。

 息子の裕介君は近所の裏野保育園に通っていた。もうすぐ5歳とのことだが、体が大きいので小学生くらいに見える。


「でもあの大学、学費も高いんで有名でしょう。ご実家は資産家でいらっしゃるの?」

「そんなことないです。それにぼくはこれまで一度も学校に学費を納めたことがないんです」

「えっ?学費を滞納してるの?」

「そうじゃないんです。ぼくは特待生だから学費は免除なんです」

 裏野工科大学の入学試験をぼくは全受験生の中でトップの成績で合格した。合否発表の直後、大学の事務局から連絡があり、特待生なので入学金と一年分の学費が無料になることを告げられた。

 その後も成績が主席だと次年度の学費が無料になる。ぼくは二年連続で主席だった。

 今年も主席をねらっている。そのためにも学生寮でなく、落ち着いた一人暮らしの静かな環境で、心行くまで勉学に励みたい。だから裏野ハイツに越してきたのだと説明した。

「小野寺君ってすごいのね。秀才しか入れない裏野工科大で、毎年、一番の成績だなんて、本当に超エリートだわ」

「いやあ......たいしたことないですよ]

 人からほめられるのはうれしいが、幸子さんのような美女からほめられると、少しドギマギしてしまう。

「ところで、二階の浦島さんにはもうお会いになった?」

「ああ、あのお婆さんには最初に挨拶しました」

「浦島さんって、よくお孫さんの自慢話するでしょう」

「ええ」

「私なんか、ここに越してきた初日、いきなり浦島さんに一時間近くお孫さんの自慢話聞かされたの。もう、ちょっと疲れちゃって」

 ぼくはそれを聞いて思わず吹き出した。

「まあ、あの年になるとお孫さんの自慢話しか楽しみがなくなるのかもしれないわ」

 気がつくと裕介君はリビングルームの隅で一人で携帯用ゲーム機で遊んでいる。

 なにかしらぼくがここにいることを嫌がっているようだった。

「ところで、一つお聞きしたいんですが」

 ぼくが言った。

「浦島さんが、202号室が”開かずの間”だって言ってたんですけど、どういう意味なんでしょう」

「さあ、詳しくは浦島さんにお聞きになって。二階のことはよくわからないし......。でも、202号室はただの空き部屋なんじゃないかしら。水道管が故障したんで、修理が終わるまではアパート管理会社としても、賃貸できないとか、そういう理由があるんだと思うわ」

「それと101号室の木島さんなんですけど、さっき挨拶に行ったとき、部屋の奥から動物の鳴き声みないな声がしたんです。あれは何なんですか」

「さあ、木島さんはペットを飼ってないと思うし......。高齢の寝たきりのお爺さんがいると聞いてますけど......」

「いや、あれは人間じゃなくて、明らかに動物の声でした」

「だったら、酸素吸入器みたいな機械の音とか、そういうのが動物の声に聞こえたんじゃないかしら。今、いろんな生命維持装置があるでしょう」

「......」

 不意に裕介君が席を立ち、洋室へ入ると、不機嫌そうにドアを音を立てて閉める。

「それと、102号室の山崎竜太郎って何者なんです」

「えっ?102号室の人に会ったの?」

 ぼくは無言でうなずく。

「わたし、まだ一回もお隣さんの姿を見たことないのよ」

 幸子さんの話では、102号室には無職の中年男が住んでいるとの噂だが、一日中、部屋に籠ったきりで、住人の姿を見たことがないという。

 また噂では彼には凶悪犯罪の前科があり、警察がいつも見張っているとのことだった。


「ただいま」

 玄関から男の声がする。俊介さんが帰ってきたのだろう。

「じゃあ、ぼくもうお暇します」

「まあ、もう少しいてもいいのよ」

 リビングルームに現れたのは黒縁眼鏡をかけた小柄な真面目そうな男性だった。年齢は三十代後半ぐらいだろうか。

「今日はお客さんが来てるのかな」

「おじゃましてます」

 ぼくは立ち上がって俊介さんに一礼した。

 幸子さんが俊介さんにぼくのこととぼくがここにいる経緯を手短に説明した。

「小野寺君ですか。今日、この上の部屋に越してきたんですね。今度また暇なときでも、気軽にうちに遊びに来て下さいよ。ごちそうしますよ」

「はあ......お気づかい、ありがとうございます。こちらこそ今後ともよろしく」

 ぼくはそそくさと北川家を後にした。


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