第1章 入居の挨拶
ドアホンを何度押しても返事がない。
「あんた、202号室に何の用かね」
振り向くと灰色の着物姿の老婆がにらんでいる。
「実はぼく......今日、203号室に越してきた小野寺と申します。お近づきのしるしに、ご近所にタオルを配ろうかと思いまして......」
老婆は不審な顔でぼくの全身をなめるように見回した。
ぼくは簡単に自己紹介した。
ぼくの名前は小野寺和彦。先週、二十一歳になったばかり。裏野工科大学の三年生で専攻は情報工学科。
これまで学生寮で暮らしていたが、相部屋が嫌なのでここ裏野ハイツに引っ越してきた。
実家は群馬県の前橋で、父は市役所の公務員。
家族は両親の他に高校生の妹が一人いる。
紙袋から粗品と書いた紙に包まれたタオルを一つ取り出し、老婆に渡すと、
「あんた、若いくせに気がきくねえ」
と言いながら、今度は自分のことをしゃべりだした。
老婆の名は浦島カヨ。年金暮らしで七十歳を越えているようだ。
201号室の住人で、裏野ハイツはもう二十年以上住んでいるという。
カヨ婆さんはふと懐からボロボロになった写真を取り出し、「これ、あたしの孫なんだけどねえ」と言って、ぼくが訊いてもいないのに、お孫さんの話を長々と始めた。
大学を出ると外資系大手証券会社に就職。やり手の先物取引ディーラーで、まだ二十代なのに年収三千万円以上の高給取りだという。
英語もペラペラで、ニューヨーク本社へは月に一度、出張しているとのこと。
先月、金髪の彼女を連れて、ここに遊びに来たという。
写真にはブランドのスーツに身を包んだイケメンの青年がうつっていた。
「小さいころは甘えん坊だったけど、こんなにりっぱになるとは思わなかったねえ.....」
「それはそれは、よくできたお孫さんで......」
ぼくにとっては、カヨ婆さんのお孫さんがどんな人でも正直どうでもよかったが、とりあえず話しを合わせるしかなかった。
「とにかくあんたに言っとくけど、202号室だけは近づいちゃいけないよ。ここは”開かずの間”だからね」
「えっ?なんかあったんですか」
「おいおいわかるよ。越してきたばかりのあんたが知らなくていい」
カヨ婆さんはそう言い残して、201号室に帰った。
裏野ハイツは築三十年の木造アパートだった。
1LDKで家賃4.9万円。敷金なし。9畳のリビングルームと6畳の洋室。
少し薄気味悪いアパートだが、JR浦野駅まで徒歩7分という立地条件を考えると、ちょっとした”掘り出し物”物件と言える。
少なくとも、ぼくのような一人暮らしの学生にしてみれば、かなり贅沢な住居だと思う。
コンビニ、郵便局、コインランドリーが徒歩10分圏内にあり、生活に不自由することはなさそうだ。
タオルの入った紙袋を持って階段を降りる。
今日は日曜日だった。タオルを配って挨拶できるのはこんな日しかない。
平日は職場や学校でアパートを留守にしている人も多いだろう。
101号室のドアホンを押すと、五十代くらいのにこやかなおじさんが出てきた。
半分が白髪、半分が黒髪のごましお頭だった。
「今日、越してきた小野寺です。つまらないものですが、よろしければお使いください」
タオルを渡すと、おじさんは「ご丁寧にどうも」と言いながら頭を下げた。
おじさんの名前は木島礼次。光学機器の中堅商社に勤める会社員とのことだった。
ゴルフが大好きで社内コンペでは何回も優勝したことがある。職制は総務部長代理で部下が二十名ほどいる。
ぼくが「すごいですね」と言うと、自分の上に総務部長と総務副部長がいて、「部長代理なんて不要な役職ですよ」と笑いながら謙遜した。
「最近、景気悪くてねえ。その分、残業も減ったのはうれしいけど」
「そうなんですか」
「ネット通販のおかげで、ここ十年、流通業界の再編があって、商社はどこも大変ですよ」
部屋の奥から、突然、「ガォォー」という呻き声がする。
それは明らかに人間のものではなかった。まるで肉食獣の雄叫びだった。
「どうしましたか」
ぼくが訊くと、
「ご心配なく。私の父です。もう寝たきりの老人でして......」
気のせいか、これまでにこやかだった木島さんの表情が少し曇った。
長居しては失礼だと悟り、ぼくは一礼して101号室を後にした。
隣の102号室は、二階の202号室同様、ドアホンを押しても返事がない。
ただの留守なのか、それともまたしても”開かずの間”なのか。
「おまえ、何しに来た」
低い声が背後から聞こえる。
振り向くと、二メートル近くありそうな大男が屹立している。
強い悪臭が鼻をつく。長い間、風呂に入ってないのだろう。
褪せた緑色の作業服を身にまとい、髪と髯はボサボサで伸び放題。
年齢は四十代くらいだろうか。
日焼けした浅黒い顔にするどい眼光。
ぼくは思わず身震いした。
山道を散策して、突然、熊に出くわしたときと同じ心境だった。
「おまえ、警察の回し者じゃねえだろうなあ」
「違います。今日、裏野ハイツに越してきた小野寺という者です」
「小野寺だと?」
「はあ......」
ぼくが紙袋からタオルを取り出すと、大男は荒々しくタオルをひったくる。
粗品の紙を破り捨て、顔を拭いた後、鼻をかみ、地面に投げ捨てる。
「おまえ、おれに文句あるって顔してるぞ。言いたいことあるなら言ってみろよ」
大男はぼくを挑発するように、地面に落ちたタオルを足で踏みつける。
「い、いえ、文句はありません......」
大男はポケットから出した鍵でドアを開け、102号室に入りかける。
「一回しか言わねえから、覚えとけ。おれの名は山崎竜太郎」
そう言い終わる前に、音を立ててドアを閉める。
後に残されたぼくは茫然とその場に立ちつくすしかなかった。
それにしろ、202号室の”開かずの間”に始まり、木島さんの部屋の奥から聞こえた奇妙な声といい、山崎竜太郎と名乗る乱暴者といい、1LDKで家賃4.9万円の意味が少しずつわかってきた。
アパート管理会社からしてみれば、”わけあり”物件だから、ディスカウント価格を設定したということか。
まだ挨拶を済ませてないのが103号室だ。ここでも何かしら”わけあり”に遭遇するのではないか。
ぼくはそう思いながら、おそるおそる103号室のドアホンを押してみる。