告白
見事に結い上げられた髪を、鏡で映して首を斜に傾ける。
花魁桂川は、鏡越しに髪結いの佐吉と目が合った。佐吉の視線が今日は痛いくらいに突き刺さるが、それを気が付かないふりをしてキセルを手に取ると、朱色の格子に腰を掛けた。
「今日もご苦労さん。あんまり熱っぽい目で見られると、遊女たちがざわめき立つから止めてくんな」
格子越しに吉原の通りを見下ろして、口の端に差したキセルから、煙をすうっと吸い上げる。
「桂川さん、身請けが決まったと聞きました。本当ですか」
遊女たちから醒めた表情がいいと言われている佐吉が、いつになく目に力を込めているのを、目の端で見た。
佐吉は桂川が新造(デビューしたばかりの遊女)の頃から髪を結ってくれている、年齢の近い髪結いだった。どんなに辛い夜であっても、次の日に佐吉に会って、必ず髪を結い上げて貰う。佐吉の手はいつでも桂川を励ますように優しく、温かかった。
「うん、やっとだ」
言葉短く返事をすると、どんよりと厚い雲を見上げた。今にも降り出しそうなそんな雲行きをしている。
「俺と、逃げちゃくれませんか」
佐吉の切羽詰まった言葉は端々が揺れている。ぴくっとキセルを持つ桂川の手が止まる。
「佐吉さん、逃げてどうする? どうせ捕まって、死ぬまで殴られて、最後はおはぐろどぶに浮かぶのさ。あんた、そんな最期を迎えたいのかい?」
桂川は佐吉を見もしないで答える。佐吉は化粧っ気のない、桂川の美しい横顔を睨みつけて、膝の上で握られた拳に力を込めた。
「逃げおおせた者も居ます。俺はずっとあんたが好きだった。あんた以外考えられないんだ」
桂川は「はは」と乾いた声で力なく笑う。
「逃げおおせたって同じこと。どこまでも追手がくるじゃぁないか。結局、幸せなんかありゃしないのさ。
あんたは私が好きなのか。だから何だって言うんだ。夜な夜な同じ言葉を吐かれてる私にゃ、届きはしないのさ」
佐吉がガクッと首を落として、そしてこれ以上ないくらい拳を強く握りしめていく。血管が浮き出るほど強く握るそれを、桂川は伏せたまつ毛のまま視線をゆるりと移動させて垣間見る。
「解りました。俺はもうここへは来ない。あんたの晴れ姿は見れないが」
そこまで言うと言葉に詰まり、きゅっと口を引き結ぶ。
「達者で暮らしておくんなせい」
吐き出すようにそれを言うと、横に置いていた髪結いの道具をかき集めて立ち上がる。佐吉が動くと、いつも使っている髪結い用の油の香りが仄かに桂川に届く。
出ていこうとする佐吉に桂川が言う。
「好いてくれてありがとう」
佐吉は一瞬足が止まるが、振り返らずに部屋から出ていく。
桂川はキセルを口に運んで、再び外を、そして空を見やる。見られるのを待っていた様に細かい雨が地上に向かって、一斉に落ちて来た。
一緒に堕ちる訳にはいかないじゃないか。
好いた男を地獄に落とすわけにはいかないじゃないか。
桂川の目から雨粒よりも大きな滴がほろほろとこぼれ落ちる。それでも桂川は雨を見つめてキセルを吸う。
好いてくれてありがとう。
男にそんなこと言ったのは初めてだったよ。好かれて嬉しいと思ったのは初めてなんだ。
あんたにかけた最後の言葉。私にとっちゃあ、一世一代の告白だったんだけど……。
一緒に、逃げられたらどんなに幸せだったか。あんたとなら地獄にだって喜んで堕ちるけど、でもあんたは、このまま行けばまっとうな暮らしが出来るんだ。地獄になんて堕ちなくても幸せになれるんだ。
降り出した五月雨が、地面を濡らしていく。雨が降る。この雨はいずれ上がるだろう。
桂川はこぼれ落ちる涙を指で押さえる。これでよかったんだ。桂川は愛しい人に結い上げられた髪を涙で濡れた指で、そっと撫でた。
「好いてくれてありがとう。私もあんたを好きだったよ」
震える声が、雨音に埋もれていく。