明日
式典が終わってマリナは自室で休んでいた。
身体がすっぽり入る大きなソファに座って息を吐く。
戻ってきた数か月ぶりの部屋は懐かしさを感じさせてマリナはここに馴染んでいたことを初めて意識した。
(離れて初めてわかるものね)
前は特に自分の居場所と思ったことはない。
けれど戻ったらとても落ち着く。
気づかない内にここは離れがたい場所になっていたのかもしれない。
王子の側もヴォルフの側も、そこが自分の居場所だと言えるように力一杯生きたい。
扉の横にある紋章に目を向ける。
王子がくれた双翼の証。
これを与えてくれたときには特別な意味はなかったのだと思う。
ただその時期に一番優れていた魔術師に与えただけ。
だけど今は違う。マリナが必要だと言ってくれた。
その事実がうれしい。
じっとしていられない気持ちが身体を動かす。
ヴォルフとの約束の時間にはまだ早かったけれど上着を羽織って外に出た。
マリナは城壁の上で空を見上げていた。
帰ってきたという感慨が胸に落ちる。
藍色の空に月が輝いて美しかった。
こんな美しい空を見たのは師匠に連れられて故郷を出たとき以来かもしれない。
それくらい印象的な空だった。
息を吸うと身体中に力が満ちていく。
(今なら何でもできそうな気がする)
高揚感に身を浸して空を見ていると後ろから声がかかった。
「待たせたか?」
視線を下ろすとヴォルフがこちらに向かって歩いてくる。
「そんなには」
マリナが勝手に早く来ていただけだ。
ヴォルフと向かい合う。
こうしてわざわざ呼び出して話をするのは初めてだった。どういった話なのかと訝るマリナを気に留めず、ヴォルフはマリナがしていたように空を見上げる。
「良い夜だな」
ヴォルフの言う通り風も穏やかで気持ちの良い夜だった。
「そうね、静かで」
巡回の騎士たちが通る様子がないのはヴォルフが人払いでもしたんだろうか。城壁の上には人がいない。
時折眼下に灯りが見えるだけだ。
「ああ、話をするのに邪魔だったからな、巡回の順番をずらすように言ってある」
「そう」
やっぱり。でもそこまでする話ってなんだろう。
機密に関わる話なら執務室でした方が話が早いし安全なのに、よくわからない。
「お前とちゃんと話をしておきたかったからな」
「話?」
ヴォルフをじっと見つめる。
沈黙が落ちる。ヴォルフも黙ってマリナを見ていた。
「……」
「……」
ヴォルフの口が何かを言おうとして閉じる。
珍しいことに言葉を探しているようだ。
瞳だけが雄弁に語っていた。
やがて諦めたように溜息を浮く。
「駄目だ、やっぱり上手い言葉なんて出てこないな」
「上手く言おうとするからおかしなことになるんじゃない?」
言葉を尽くして何かを成そうとするなんてヴォルフらしくない。
まず行動せよ、が信条だと思うくらい不言実行な男だ。
「マリナ」
ヴォルフが一歩距離を詰める。
静かに伸ばした手がマリナの右手を取った。
「次の休みは一緒に街に出よう」
(一緒に?)
「王子の側を二人とも離れるのは良くないんじゃない?」
もともとマリナたちは王子の側を長く離れたことはほとんどない。
異世界に行っていた間が例外中の例外だっただけで。
まして戻ったばかりなのだし、しばらくは双翼が揃っていることを知らしめるためにも王子の側にいた方が良いと考えている。
「別に一日中とは言わない。 半日街に降りるくらいなら大丈夫だろう。
この前のことで近衛も俺たちがいない状態の護衛について改めて取り決めたらしいしな」
まあ、そこについては戻ってくるまで何も問題なく王子を守ったことで信頼はしているけれど、今の状況では少し躊躇われた。
「何かあったらすぐにわかる距離ではあるからかまわないけれど…、何をしに行くの?」
「指輪を買いに行く」
簡潔な言葉。何を言ったかはわかるけど意味がわからない。
「何で指輪?」
ヴォルフはアクセサリーを好まないしマリナも必要な時以外ほとんど付けない。
イヤリングやネックレスの類なら夜会で使うからわかる。持ってるけど。
何に使うんだろう。
「ああ、もしかして魔道具にするの? それなら材料はあるけど」
魔道具を作るなら完成したアクセサリーに魔術を込めるより最初から魔術を込めた石などをアクセサリーにした方が効率が良い。
どうしても既存の物に魔術を込めると威力が弱い物しか出来ない。
そんなものを使わせるのは一角の魔術師だと自負しているマリナとしては不満だ。ヴォルフもそういうつもりは無いらしく首を振った。
「違う」
「じゃあ何で? あまりアクセサリーなんて必要ないでしょう」
しかも指輪限定で求めるなんて本当に理由がわからない。
「婚約、もしくは結婚の証に揃いのリングをする風習がある」
「どこで?」
そんなの聞いたことがない。侯爵家で、はないよね聞いたことないし。
「向こうの世界で、そういった習慣があると聞いた」
ヴォルフの言葉に目を瞬く。
「へえ、知らなかった」
そういえば麻子さんも店長も指にしていた気がする。
単なる装飾品じゃなかったんだ。
それでなんで指輪の話になるんだろう。
こっちにそんな風習はないし、そもそもペアのリングなんて売っていないと思うんだけど。
「マリナ、俺はな…。 あっちの世界に行って本当に良かったと思ってるんだ」
ヴォルフの目が真剣な光を帯びる。
「向こうの世界に行く前は何も知らなかった」
何を、とは聞かない。
「一番近くにいたのにな」
「それは…」
マリナは別に知られたくなかった。好き勝手に話す貴族たちにそれは無理なことだとすぐに知ったけど。
「ヴォルフは、私の過去の話も聞いたんでしょう?」
「ああ、色んな話を聞いた」
事実に基づいていても噂である以上興味を掻き立てるような切り口のものだろう。
「知ったところで別に何も変わらないでしょう」
ヴォルフが同情でマリナを迎えに来るような単純な人間ならマリナは今ここにいない。
「私たちの信頼関係の間に過去はあまり関係ないと思うし」
「まあ、過去を知ったことに特に意味はなかったな」
そうだよねえ。過去を知る前から双翼としての信頼関係はちゃんとあったんだから。
「でも知れて良かった」
目元を少し緩ませてヴォルフが答える。
「何よりも向こうの世界でお前が見せていた表情を知れて良かった。
普通に笑ったり、怒ったり。 あんな顔をしているところは見たことがなかった」
笑わなかったわけではない。けれど作らない自然な表情をしていたかというと疑問が残る。
王子とヴォルフの前でも気負いが取れなかったのだと思う。
自分を偽ったりしていなくても、自然体でいるのは難しい。
「私も、ヴォルフとあんなに話したのは初めてかもって思った」
誰よりも傍に居たけれど、仕事の絡まない雑談をしたのなんて多分数えるくらいだった。
あの世界の話をして、この国の話をして、お互いの事を話した。
「ああ、向こうの世界でなければ得られなかった機会だったと思う」
そうかもしれない。何のしがらみもないあの場所だから素の自分を出せたんだと思う。
「だから、忘れたくない。 向こうの世界のことを形にして残したいんだ」
それで揃いの指輪なんだ。
「こちらにないからこそ見る度に思い出す、そんなものを作りたい。 それをお互いの証にしたいんだ」
ようやくヴォルフの真意がわかった。
忘れたくない、マリナが思っていたよりもヴォルフはあの時間を大切に思ってくれていたみたいだ。
うれしい…。すっごく。
「だから…」
ヴォルフの手がマリナの指を撫でる。
未だ取られたままの右手。ヴォルフの指がマリナの薬指の付け根を撫でた。
「つけてほしい。 二人の証を」
胸の奥が焼け付くように熱い。
鼓動が激しく鳴っている。壊れそうなくらいに。
「だったら、向こうの世界に買いに行こっか」
リオ様にも会いたいし。お礼もちゃんと言ってない。
手を見つめながら言葉を返すと驚きを含んだ声が上から降ってきた。
「出来るのか?」
顔を上げると目を瞬いてマリナを見つめるヴォルフの顔が見える。
「当然」
「だがお前を迎えに行くときの術は半月は掛かったぞ」
軽く答えたマリナにヴォルフが驚いた声で言う。
マリナは自信に満ちた声で答えた。
「私を誰だと思ってるの。 それくらい軽いわよ」
今なら向こうの世界に行って、帰って、もう一度行くくらいは出来る。帰って来れないけど。
にやりと笑った私にヴォルフが哄笑した。
「ははっ、それでこそお前だな。 本当に頼もしいよ」
俺の片翼はお前しかいない、その言葉が何よりもうれしい。
次の休みが楽しみだ。
溜まった政務を片すのもきっと苦にならない。
明日はきっと忙しくなる。それにすら心が浮き立っていた。
(あ、そういえばリオ様に会ったって師匠に言ってない)
何も言わずにいなくなった弟を態度には出さずとも心配していた。様子を話したらきっと安心する。
帰ってきてからまだ師匠とは一言も話をしてなかった。
でもいいか、すべては明日。
今はただ抱きしめてくる腕を力一杯抱きしめ返すだけだった。
そうしてせっかく買った指輪だったけど、ヴォルフのだけは紐に通して首に提げることになった。
なぜかは…、二人の秘密ということで。
第一章 完 といったところです。
応募時は『双翼の帰還』で完結させていたんですが、ちょっとだけ長くなりました。
完結ではないです、まだ続きます。
甘くなりきらない二人の関係を楽しんでもらえたらいいなと思います。




