海へ
出かける準備を済ませて誰もいない部屋を振り返る。
ヴォルフがいないだけで広く感じた。
もう、この部屋にはマリナしか住んでいない。
それを確かめるために毎日何度も部屋を見渡す。
部屋だけじゃなく、帰り道でも。
いない、そう確認していても、無意識にヴォルフの存在を探してしまう。
「いつになったら慣れるかな…」
この様子だとまだまだ時間がかかりそうだ。
鍵を閉めてアパートの階段を降りる。
ぎらぎらした太陽が作り出す濃い影の中から眩しい光を見つめる。
これから夏が始まる。昼が長くなる季節は熱くて眩しい。余計なことなんて考えていられないくらい。
「忙しくなればいいな…」
バイト先も少しずつ忙しくなってきていた。
夏休みという休暇期間になればもっと人が増えるらしい。
その前に少し遠出しておこうと思って、こうして出かけてきた。
遠出、と思って最初に海が浮かんだ。
叶わなかった思い出を引きずるのが嫌で今のうちに叶えておきたかった。
電車にも結局一緒に乗ることはなかった。乗っておけば向こうで役に立ったかもしれないのに。
ヴォルフが利便性を上手く説明できればの話だけど。
王都から魔力を動力とした鉄道を走らせることは不可能じゃない。
それが可能になれば、セレスタは大陸一の繁栄を手にすることになる。
街から街へ移動するのにかかる時間はぐっと短くなって、人々の距離も近くなるだろう。
会いたい人に会うことも、今よりずっと容易くなる。
離れた街に住む恋人が、都市で働く子供と田舎の親が、会いたいときに会える。それはとても素晴らしいことだ。
前から国のためだけでなく人のために働いていたつもりだけど、こうして世界を隔てた場所に来て、会いたい人がとても遠くにいるからこそ余計にそう思う。
今ならもっと力を尽くせる。考えても仕方のないことだけれど。
車窓が変化していくのを見つめる。この電車は地下にも潜るらしいけど、それにはあまり興味がない。景色が変わっていく方が、見ていてずっと楽しい。この先に懐かしい景色や待っている人がいると余計に楽しく感じるんだろう。
(作りたいな…)
乗ってみると電車はマリナの知るどの乗り物よりも遥かに快適だった。
速度は元より揺れも少ないし、安全性も高い。何故向こうの技師たちが造らなかったのかと思うくらい素晴らしい。
窓には日差しを弱める効果があるらしく、外を見ていてもそれほど負担に感じない。そのおかげで夏の陽が射す車内も熱くなかった。
(さすがにこれはムリかな?)
この窓は再現できないな。
冷房くらいなら向こうで使われていた技術を応用してどうにかなるけれど、このUVカットという技術は聞いたことがない。似たような技術も、ないだろうな、多分。
日除けにカーテンを付ければいいのかもしれないが、景色が見えなくてはおもしろくない。
ぼーっと魔動鉄道の想像をしていたらいつのまにか景色が変わっていた。
せっかくの景色を見逃してしまったが帰りもあるからいいかと思い直す。
電車を降りると不思議な匂いがした。これが潮の匂いかな?
海を目指して歩く。車内から海が見えたので、多分それほど遠くないだろう。
実は今も海は見えているけれど、建物が視界を遮っている。
開けた場所へ出るまで、真っ直ぐ海に向かって歩く。
ほどなく海が見渡せる場所へ出た。




