別れ
「ヴォルフ、一つだけ聞かせて」
「何だ」
「守る家も、仕える人もいなかったとしたらヴォルフは戻らなくていいと思う?」
(この世界に、残ってくれる?)
ヴォルフは少し考えて首を横に振った。
「そう…」
予想通りの答えに口元が笑みを刻む。
やっぱり住む世界の違う人間なんだな、と諦めが胸を支配する。
吐き続けた嘘が胸を締め付ける。厳密には言っていなかった、だけれど。
「私が何をしても目を閉じて動かないでいてくれる?」
声が震えそうになるのを抑えるのが精いっぱいで声が変に高くなる。
言われた通りに目を閉じて、じっとしているヴォルフ。ホント素直だ。
溢れそうになる涙をこらえて顎に手を伸ばす。
これで見納めになる顔を数秒見つめた後、目を閉じる。
上向かせた口に、自身のくちびるを重ねた。
驚いて身を固くするヴォルフ。身を引こうとするのを、肩を押さえて止める。
ヴォルフはまだ目を閉じていてくれてるかな。
生まれた熱が身体を巡り放たれる。
くちびるに感じる感触が変わった。少しだけ首の角度を変えて口づけを深くした。
かさついたくちびるの感触。くちびるを通して伝わるわずかに高い体温と、驚愕。
胸を締め付ける痛みと熱が同時に生まれて溢れる。
「…」
数瞬の後、ようやく目を開けるとヴォルフが目を見開いてマリナを見ていた。
なつかしい、顔。出会ってから6年間、ずっと好きだった人の顔だ。
「ごめんね。 ヴォルフには言ってなかったことがあるんだ…」
向こうの世界に帰る方法が他にもあるって。
「魔法は使う者の感情に大きく比例する」
怒りなどで普段使えない、大きな術を使った記録は書物にも残っている。
「魔力が足りなくても、強い感情を揺り動かすことが出来れば、異界を渡る魔法も使うことが可能になる」
ヴォルフの身体はすでに光に包まれている。これでヴォルフを元の世界に帰せる。
「準備は整っていた。 けれど…」
ぎりぎりまで一緒にいたかった。それも違う。
選んでほしかった…。一緒にいると言ってほしかった。
結局、そんなことはムリだったけど。
涙が零れそうになるのを必死に留める。これ以上情けないところを見せたくなかった。
「遅くなってごめん…。」
何かを言おうとするヴォルフが口を開く。その手は透け始めている。声が届くのは後少しだ。ヴォルフに口を利かせまいと言葉を継ぐ。
「王子にもよろしく。 馬鹿はほどほどにしてちゃんと考えろ、って」
どうでもいいことしか口には出せない。
先程よりも薄くなった手がマリナの手を掴む。
それだけで言葉が継げなくなった。
「…!」
ヴォルフが何かを言っている。声はもう届かないみたいだ。
「ヴォルフ…!」
せめてもの意地で笑みを作る。最後くらい笑って別れたかった。
「じゃあね…」
「…!」
必死の顔でヴォルフが何かを怒鳴っている。声が聞こえなくてよかった。声を聞いたら迷ってしまったかもしれない。
ヴォルフの顔を目に焼き付ける。
いよいよ身体が薄くなり、…―――消えた。向こうの世界に帰ったのだ。
「よかった…」
これで、よかった。
そう思っているのに、涙が止まらなかった。
「う…っ!」
本当は帰ってほしくなかった。
傍に、いてほしかった。
「バカな子ねぇ…」
ドアから声がした。大家さんが座り込むマリナを見ている。
「帰らないで、って素直に言えばよかったのに」
言えるわけがない。ヴォルフが大事なものはみんな向こうにあると知っているのに。
「リオ様…。 私、よくやりましたよね?」
自分の欲だけにとらわれてはいけない。それはマリナの師がよく言っていたことだ。
「仕方ないわね…」
その片割れである彼は呆れた口調でマリナの頭に手を置く。
「バカな決断だとは思うけれど、あんたはよくやったわ」
口とは裏腹に頭を撫でる手は優しい。
師の腕の中でマリナは何も考えず泣いた。