感謝の気持ち
「ん…」
目を開けると空が白む時間だった。
テーブルで眠ってしまったせいか頭がぼうっとする。
ヴォルフの姿を探すと、まだ眠っていた。
起こさないように静かにドアを開けて外に出る。
行くあてがあるわけじゃないけれど、一人になりたかった。
アパートを出た通りで鮮やかな紫が目に入る。まるでマリナが出てくるのを待っていたようなタイミングだ。
「大家さん」
「あらマリナちゃん。 おはよう」
おはようございます、と返した声は自分にわかる程度に固かった
「今、帰りですか?」
詳しくは知らないがアパートがあるのと同じ区画に住んでいるらしいと聞いたことがある。
「大家さんって何の仕事をしてるんですか」
そう離れたところに暮らすわけじゃないのに、あまり姿を見ない。
たまに見かけるときも夜や早朝ばかりだ。
「あら、私のことを知りたいって言ってくれるなんて珍しいわね?」
「世界のどこかには大家さんのことを知りたい人だっていますよ、きっと」
「そうねぇ…、知らなくても生きていけるけどね」
暗に話したくないと言っているのかな。気分を害した様子はないけれど。
「危ないことやいけないことはしてないわよ」
心配ご無用、と笑って見せる大家さんにやっぱり話してくれないか、と思う。
彼には一方ならずお世話になっている。知りたいと思うのは好奇心だけではないのだけれど、話したくないことを無理には聞けない。
「なら、よかったです」
謎が多いけれど危ないことに関わっているなんてことは全く考えなかった。
「マリナちゃんはいつまでここにいるの?」
唐突に聞かれて少し動揺する。タダで部屋を借りていることが邪魔になったのかと思ったけれど、大家さんは笑顔を浮かべている。
「お邪魔ですか?」
今のアパートを出なければならなくなると非常に困るのだが、彼の様子を見てその可能性は低そうに思えた。同時にどういう意図の言葉なのか疑問が湧く。
(違うか。 今まで何も聞かれなかったのがおかしいのよね)
マリナの問いに大家さんは困った顔で笑う。
「まさか、そんな意味じゃないわよ。 相変わらず深読みする子ねぇ」
呆れながらも優しい顔で微笑んでくれる。
「最初にも言ったけど、使ってない部屋だからいくらでも居てくれてかまわないわよ? そうじゃなくて…。 心配してる人がいるんじゃない?」
大家さんの問いに言葉に詰まる。咄嗟に無難な答えを探すが、誤魔化すより正直に話した方が楽だと思い直す。
「いなくはないかもしれませんね。 でも、私がいなくても死にはしませんから」
師匠は、少しは心配してくれていると思う。けれど私が一人でやっていけないとは思っていないだろうから。きっとどこかでそれなりにやっていると信じてくれていると思う。
他には誰もいない…。ヴォルフに変な話を持ってきたあの人は、少しは思い出すかな?でもあれば打算が多いから、どこまでマリナ自身に興味があるのかわからない。
「私はこの街で生きていくつもりです。 残してきた、と言えるほどのものはないので」
「そう…」
淋しい人生ね、とは言わなかったがそういった目をしていた。あるいは、自分と重ねているのか。
根拠はないけれど、そんな気がした。
「それも悪いことじゃないわね。 何かあったら言って? 話くらいならいくらでも聞くわ」
「ありがとうございます。 その言葉だけで十分です」
もう十分助けてもらっている。今の話だけでは納得できないこともあるだろうに、ここにいることを認めてくれた。そのことがどれだけ救いになるか。
「大家さんも、何でも言ってください。 私に出来ることならお手伝いしますから」
そう言うマリナの目を見てふっと笑うと悪戯っぽく片目を瞑った。
「いいわよぉ。 家賃のことなら出世払いしてくれれば」
軽やかに笑うその表情が魅力的で一瞬見惚れている間に大家さんは立ち去っていく。
誤魔化されてしまった。感謝の気持ちはまだしばらくは受け取って貰えなさそうだった。




