医務室 1
目を開けると柔らかい白色の天井が目に入る。
ここは王宮の医務室だ。
意識を失ったマリナをここまで運んでくれたんだろうか。
倒れる前のこともちゃんと覚えていた。
『お前の父親に会いに行きたい』
ヴォルフの声が頭の中で繰り返される。
手を振り払って怒らせてしまった。
ヴォルフの言い分が正しいのはマリナだってわかっている。
けれど…!
考えたくない、思い出したくない。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
(あんな人のこと思い出したってしかたないのに)
マリナがどうしようとあの人には何の関係もない。
マリナの血縁は今は父親だけだ。
母親はマリナが幼い時に死んだ。
よくある話だ。体の弱い女性が子供を産んだ後、体調を崩し亡くなってしまう。
マリナの母親も同じようにマリナを生み落した後亡くなってしまったそうだ。
父親は母の死を受け入れられず酒に浸った。
とてもよくある、どこの町にもひとりはいそうな人間の話。
正直マリナには父親に共感する気持ちが全く湧かない。
そこまで嘆き悲しむなら子供を作らないようにすればよかったし、産まないよう説得すればよかったのだ。
結果生まれたマリナを疎むのは筋違いだと思う。
父親がまともにマリナを見たことはない。
目の前にいてもいないようにしか扱われなかった。
きっと、マリナを含めた誰も父親の目には入っていない。
殴られたりこそしなかったものの、食事さえ放棄されたのは死んでも構わないと思っていたからだろう。
何も考えていなかった可能性もあるが。
命を懸けて産んだ子供にそんな扱いをされた母親も浮かばれないような気がする。
師匠に連れられて生まれた町を出ることが決まった時も父親は顔さえ見せなかった。
どうせどっかで酒を飲んでいたんだろうけれど。
昔は腕の良い大工だったんだよ、と父母の昔話を聞かせてくれた近所のおばさん。
余り物だからと食べる物を持って来てくれたおばさんたちの厚意がなければ師匠に見つけられる前にマリナは死んでいただろう。
その無責任さにも腹が立つ。
父親の昔の話を聞くたびに、そんなに母を大事にしていたなら子供なんて産ませなければよかったのだと憤りしか生まれなかった。
ベッドに起き上がって憤りを心の中で処理していると気配を察してベッドの周りを覆っていた布が取り払われた。
「なんだ、起きたなら声をかけなよ」
伺いもなくカーテンを開けて入って来たメルヒオールに眉を顰める。
ただ彼がマリナをここまで運んでくれたのは確かなようだ。
「ありがとうございます、メルヒオール」
お礼を言うと嫌そうな顔をしてメルヒオールが文句を言う。
「お礼なんて言う前にさ、倒れないようにしなよ。
あんなところで魔力暴走なんて笑えない」
見た感じ人はいなかったけれど、だとしても王宮の一角を破壊したとなれば大きな問題だ。
メルヒオールが通りかかった偶然に感謝する。
「全くそのとおりですね、申し訳ありません」
謝ると更に顔を顰めた。
「ほんと可愛くないな」
いきなりの暴言にマリナも顔を顰める。
余計なお世話なんだけど。
「はいはい、そこまで。
メルヒオール? うちの子を連れて来てくれたのは助かったけど、暴言はそこまでにして頂戴。 診察が先よ」
師匠がメルヒオールの後ろから顔を出す。
ほっとして身体から力が抜けた。
「師匠…」
「こっち見て」
師匠の長い指がマリナの顎を掴む。
流れる魔力の行方を探るように瞳が身体を辿る。
「一応落ち着いているみたいね。 吐き気とかは無い?」
「今は大丈夫です」
吐き気も今は収まっている。答えると師匠の瞳がマリナの瞳に向く。
じぃっとマリナの奥を探るような瞳は目を逸らすことを許さない。
「倒れる前、何があったの」
「それは…」
如何に師匠と言えど話しづらい。ましてメルヒオールもいるし。
「アイツと喧嘩してただろ」
言葉を躊躇ったマリナを余所にメルヒオールが事の次第を口にする。
師匠の手に力が篭ったのを感じてメルヒオールを睨むのを止めた。
「きっかけではありますけれど、ヴォルフが原因ではありませんよ」
庇うわけではないけれどメルヒオールの言葉を否定する。
「えー、触るなとか言ってたじゃん。 アイツが強引なことでもしたんだと思ったけど?」
師匠の目がすっと細められる。マリナを睨んでいるのではなくても怖い。
「違いますよ」
くだらない思い違いだ。
大きく溜息を吐く。
「父親に会うか会わないかということで意見が合わなかっただけです」
言いたくなかったんだけど、と肩を落とす。
マリナの言葉を聞いた師匠は僅かに眉を顰めて手を離す。
「そんなくだらない話してたの?」
黙って身を引いた師匠と反対にメルヒオールが踏み込んでくる。
くだらなかろうと他人が踏み込んでくる話じゃない。メルヒオールを睨む。
「だって会う必要ないだろ? 会いたいなら向こうが来ればいいんだから。
ほっぽり出しておいて挨拶に来いって言う方がおかしいよ」
「別に来いとは言われてはいませんよ」
「じゃあ何、捨てた親にわざわざ挨拶に行こうっていうの?
無神経なこと言うね」
嘲笑うように口元を歪めたメルヒオールにゆらっと身体の中で力が揺らめく。
マリナの怒りを感じてメルヒオールがあっさりと謝る。
「怒った? ならごめん、俺なら絶対に会いたくないなと思って」
メルヒオールはそうかもしれない。
メルヒオールは由緒正しい子爵家の生まれだけれど、高すぎる魔力を疎んだ両親に虐待されて育ったという。
詳しく知る必要もないので聞いたこともないけれど、放置されていただけのマリナよりも陰惨な子供時代を過ごしたのだろうと、周りの話しぶりで察していた。
直接聞いたことはない。興味がない、それ以前に自分なら話題にもされたくないと思ったからだ。
それがどんな感情によるものでも絶対に触れられたくない場所。
マリナにも同じような場所はある。
そこにヴォルフは触れてきた。
無神経、そう言ってもいいような行為。
けれどそれが悪意でも、無神経な善意でもないのはわかっていた。
「そんなに悩むなら俺みたいに近づいてくることを禁止してもらえばいいのに。
俺は師長にそうしてもらってとっても助かったよ」
師匠に拾われた頃ならそんな選択肢もあったかもしれない。
「今はそうしてもらわなきゃならない程子供じゃないですから」
煩わしさがあっても双翼になったのは、守られてるだけの子供ではいたくなかったからだ。
「あっそ」
興味を失ったみたいにメルヒオールがそっぽを向く。
子供みたいな仕草に苦笑する。
せっかく自分の対処法を教えてあげたのに否定されたと拗ねているみたいだ。
マリナたちの話を黙って聞いていた師匠がマリナの額に手を当てる。
「顔色悪いわねえ、もう少し休んでらっしゃい」
「休むなら部屋で…」
同じ休むなら自分の部屋の方が良いと主張してみるけれど却下された。
「ダメよ。 今日はここで休んで行くこと。
朝は起こしてあげるから」
決定されてしまった。師匠の邪魔になりそうなので部屋に帰りたかったんだけど。
でもそう言って心配してくれるのがうれしい。
「メルヒオールはもう戻っていいわよ。 ありがとう」
「別に。 たまたまだから」
師匠がお礼を言うとメルヒオールはそっけなく答えて医務室を出て行った。




