遥かな里(三)
ミアイの母親は東ガラットで生まれ育った女衆だった。属する狩り組は五年も続けて稼ぎ頭になるほど優秀だったというから、『囮』役の有能さも伺える。ミアイの俊敏さも母セアンから受け継いだのだろう。
しかしセアンの両親が立て続けに病に伏した。東ガラットは薬の産地で比較的安く薬剤を入手できるものの、家族に二人も病人がいてはいくら稼いでも追い付くわけがない。
診察費や薬代、日々の暮らし向き全てが一人娘のセアンの肩に掛かった。まず無理を押して父の看病をした母の生命が尽き、父の世話を頼むための手間賃も必要となった。そして病の発症から一年半後、父も母を追って亡くなった。働き詰めのセアンが父のそばで転寝をしている隙に、ひっそりと眠るように逝った。
セアンの元には両親が残した生家と滞った薬代だけが残った。当時の領主は、例え時間が掛かっても構わないと温情を示したが、どこからか聞きつけた隣国の商人がセアンに渡りをつけたことで状況が一変する。他の者が止めるのも聞かず、生家を手放したセアンは東ガラットを後にした。
「ミアイの母さんは……、金持ちの『おめかけさん』になったんだって」
跡継ぎを望む富裕層が借金を肩代わりして、セアンを身請けしたのだ。遠方から呼び寄せたのは風聞を気にしたのと、余人より丈夫で健康な若い女性を求めたからだ。
きょうだいもおらず両親と過ごした家に一人いても辛かった。生きることに疲れて自棄になっていた。そして、最後の時を共にできなかったことに対する負い目もあった。
異国で暮らし始めたセアンはすぐに元気な赤子を産んだ。もしその子が男児であれば、跡継ぎの生母として恙無い余生を送れたに違いない。だが、セアンが産んだのは己と同じ髪をした女児だった。
正妻の産んだ唯一の男児は虚弱で、成人できないだろうと医者に言われていた。他の妻との間に娘は何人もいるので女は不要だったのだ。数年後容姿に問題がないことを確認した父親は、娘を『養女』に出すと決めた。
ミアイの父親は地位も財産もあったというから、相手は格上の貴族か豪商だろう。母親は天涯孤独の平民の出身でうるさくいう親族もいない。容姿を気にしていたとなれば、目的はほぼ決まっている。表向きは養女でも実際にはただの身売りである。
「だから、ミアイの母さんはそこを出たんだって。隣の王国から二人でここまで逃げて来たんだって言ってた……」
持ち出した貴金属を金に換えながらの逃避行だったという。宝石類は安く買い叩かれてすぐに路銀も底を尽いた。生まれ故郷に帰り着いたセアンは、今まで動けたのが不思議なほど衰弱していた。数日後、娘のことを領主に託したセアンは、ミアイに看取られて息を引き取った。
シムとて食い詰めた実の親に切り捨てられ、売られた先から逃げた身だ。半端仕事にすら就けず店先の食べ物をくすねて食い繋いでいた。ミアイの気持ちも、母親がどうやって娘の腹を満たしていたかもすぐに思い当たった。今際の際で〈月〉を持つ娘だと明かされたミアイは、母のかつての狩り仲間の家に預けられた。
「その人はさ、足を痛めて狩り人を降りたんだって。息子しかいない人たちだったから、すっごく可愛がってもらったって言ってた。ミアイは、その人にもらったナイフを今でも大事に使ってるんだ」
テンたちと関わるきっかけになった小刀の鞘は、今ではテンが作った物に交換されていた。新調することも容易いが、ミアイは同じ物を使い続けている。
「跡継ぎねえ……。男がそんなに良いわけじゃないのにな」
後継者争いの犠牲になったカクが呆れる。世間では男子に跡を継がせるのが一般的である。だが巫女を祖に持つこともあり、東ガラットでは女系の血統での継承に対しても他氏族よりずっと寛容だ。
「ミアイはさ『もし自分が男だったら母さんに楽をさせてあげられたのに。そしたら、あんなに辛い目に合うことなんてなかったのに。自分はいらない子供だったんだ』って言ってた……」
戻ってきたミアイは仲間が自分を見る目で察したようだ。肩を落とすシムを打つ真似をしただけで許す。そして自らの境遇をぽつぽつと語った。シムが話した内容とほぼ同じだが、野盗に遭遇したときのことになると、まざまざと蘇った恐怖に顔から血の気が引いていた。
「……川の近くで休んでるうちに二人で寝ちゃったのよね。物音で目が覚めたときには夕方で、すぐそこに奴らがいたのよ。仕方ないから奴らがいなくなるまでそこでじっとしてたんだけど、途中でどうしても我慢できなくなって、とうとうおしっこを漏らしちゃったの……。母さんはそのときは何も言わなかったけど、夜が明けて奴らがいなくなってからわたしを褒めてくれたの。わたしは母さんの膝に座ってたから、母さんの服も汚しちゃったのに『一言も喋らないでよく我慢したわね』って。それから二人で川に入って服と身体を洗って、小さな火を熾して乾かしながら、奴らが忘れていった干果を食べたの。固くてそのままじゃ食べられないから火で炙って柔らかくしてね。とても甘くて美味しかったわ――――」
ドルディア領内に入ってからも念のため隠密行動を続けた。捜索の手が及んでいることを恐れて夜間に行動して昼に眠った。人里はもちろんのこと街道も避けて野宿した。
初夏なので火を熾すのも最小限に抑え、母がどこかから持ってくるパンや肉の切れ端を分け合って食べた。森に入ると食料は周囲から調達できるようになり、ひもじさはましになった。しかしその頃にはセアンの身体は限界だったのだ。
ミアイは動けなくなった母の代わりに食べ物を探しに出た。木の実は無かったが山菜を少し見付けた。苦いけれど栄養があると母に教えられた夏の野草だった。遠くまで行ってはいけないと言われていたので、それを持って野宿していた場所に戻った。
岩陰に横たわる母の周りを怖い顔をした四、五人の男が取り囲んでいた。手にしていた山菜がぽとりと落ちた。あっという間に捕まったミアイは無茶苦茶に抵抗した。それまで朦朧としていたセアンが娘の悲鳴に覚醒した。飛び付いて男の手から娘を取り返したものの、背中に庇うのが精一杯だった。
死に掛けた半病人の反撃に色めき立つ他の者を、ミアイを捕らえていた男が止めた。男の手にはミアイがセアンからもらった『お守り』が握られていた。そしてその男の腕にも全く同じ腕輪があった。
「今なら分かるけど、随分前から東ガラットには着いてたのよね。だけど母さんはテスにだけ会いたかったみたい。『森』に人が入った痕跡があったから、あちこちの集落でも警戒しててわたしたちはそれに捕まったの。バルミロおじさんは母さんと同じ狩り組にいた人よ。母さんがわたしにくれたお守りは、何年も続けて稼ぎ頭になった記念に作った腕輪で、同じのは狩り組の四人しか持ってなかったの。母さんは自分に何かあったら、それをちゃんとした人に見せて『ガラ=テスに会いたい』って言うようにって……」
それが七つのときで、以後若衆となって寮に入るまでバルミロ夫妻が里親だった。
始めて見たバルミロ宅はとても小さく、ミアイは「お人形のおうち」だと思った。しかしそれはミアイの生家が資産家だったからであって、自由民の住まいとしてはごく普通の家屋である。突然娘の母親になったバルミロの妻ケラルトは、汚れ放題のミアイを暖かく迎え入れた。いくら言って聞かせても、ミアイは母親の枕元から離れなかったのだ。
用意しておいた湯で身体を洗い髪にも櫛を入れてから清潔な古着に着替えさせた。息子しかいないので下着以外は全て男服だ。急な話で女児用の服を縫う暇が無く、せめて食事くらいはと、夫が作ったとっておきのシカ肉の燻製で新しい娘をもてなした。
「あんなに美味しい燻製は始めてだったわ。治療所でも食事は出してくれたし美味しかったけど、母さんが心配であんまり食べられなかったのよね。あ、ねえ、そういえば……。もしかしてわたしの〈月〉を導いてくれたのはテンのお母様なの?」
「……たぶんそうだ」
少し間があったのはミアイの年を数えていたからだ。ヤスが強い髪をばりばりと掻いた。
「てえことは俺もそうか」
今度もテンは肯定する。シムは『移住』した年の秋にティーアが任に就いたので、正規の巫女に導きを受けている。
「でも、よく覚えてねえんだよな」
「わたしもそうよ。裸にされて薄暗い幕屋に入ったら、中に『きれいな女の人』がいたくらいしか……」
ヤスの記憶も大差無いものだった。テンの母親の姿を思い出そうとして上手くいかない。頭を振って無理なことは諦める。
流行り病で父と妹を一度に亡くし、マリダポールの下町で宿屋を営む父の弟のところに二人で身を寄せた。そうするうちに異能力に目覚めたので、母の故郷の東ガラット村に移り住んだ。母一人子一人でそれなりに苦労もしたが、この狩り組の中では自分の境遇が一番普通だとヤスは思った。