鈴鹿御前
夜叉王丸の悪魔になってからの初恋の相手、鈴鹿御前を主人公に書いてみました。
哀しい恋がありました。
今は昔のことではありますよ。
鈴鹿の山に「鈴鹿御前」と呼ばれる美しい鬼使いの妖女が おりましてね、峠を通る旅人に随分と恐れられていたのだとか。
その噂を知った時の帝の恒武天皇は大いにそれを憂いて、勇猛果敢で名を成す武将の坂上田村麻呂に討伐をお命じになった事からこの物語は始まるのです。
勅命を受け、鈴鹿の山奥深く分け入った田村の将軍はそこで、さながら桃源郷の如くを見、そして、年の頃は二十八・九で大層な美しい女と出逢います。
それは、田村の将軍を惑わす為に見せた「鈴鹿御前」の人の姿でありました。
しかし其の時、哀れにも恋という魔物に惑わされてしまったのはむしろ鈴鹿の方であったのです。
思いもかけぬ惑いの中で鈴鹿は、田村の将軍にこう言ってしまいます。
「わたくしには既に深い契りをかわした者がおりますが、その者は遠く奥州に棲む「阿黒王」と申す魔人、鬼なのです。田村の将軍よ。私の為にこの者を討っては下さらぬか。そうすればわたくしは、仮に命の灯火というものがありますのなら、それが消えて失せるまで将軍と共に生きてゆけますでしょうから」
鈴鹿御前のあまりの美しさに魅せられて、田村の将軍はその願いを聞き入れ、翌朝には奥州を目指し出立いたしたそうです。
そのように旅を始めて間もない或夜、将軍の夢の中に彼の守護神でもあります千手観音が現われてこんな事を申しましたとか。
「さてここに、阿黒王の秘密を残らず知るという封玉あり、これを授ける」と。
田村麻呂はこれを大いに喜び、揚々として討伐の歩を進めたのです。
一方、鈴鹿の心は千々に乱れておりました。
田村の将軍を恋うるあまり阿黒王を討って欲しいなどと言ってしまったのではありますけれど、鈴鹿の阿黒王への情が薄れたわけではけっしてなく、只々、恋という魔物が言わせた残酷な一言であったのですから。
それでも田村麻呂を恋する気持ちは次第につのり、そして阿黒王に対してはすまぬという気持ちもいや増して、鈴鹿を深々と苦しめるのでした。
そう、恋の想いというものは千里の距離など厭いはしないものなのでしょう。
それは、田村の将軍があと数日もすれば奥州にたどり着こうというある夜のこと。
鈴鹿は奥州の魔人、阿黒王の枕辺にそっと立って居りました。
気配で目覚めた阿黒王は素早く寝床より立ち上がり身構えます。が、その気配の主が鈴鹿である事を知り、どっかと夜具に腰を据え片頬で不敵に笑ったのです。
「おまえから、訪ねてくれるとは何と珍しい事か。こんな事は百年に一度もあるものでは無いぞ。一体どうしたことか?」
鈴鹿はそれには答えずに
「阿黒王よ、逃げよ」とのみ言います。
「なんのことか」
阿黒王は、いぶかしげに鈴鹿を見上げ重ねて問います。
「なんのことか」
二度の問いかけにも鈴鹿はただ
「逃げよ」
としか言わず、そのような鈴鹿に埒があかぬと思った阿黒王は、鈴鹿の右の手首を掴み 自分のほうへ引き寄せてから、左の腕をも鷲掴みして強い口調で問いつめるのでした。
「何があった」
その時、わずかに顔を上げた鈴鹿の頬には、阿黒王が初めて見る玉の雫がありましたそうな。
その雫に、阿黒王は掴んでいた指の力を少しゆるめ、代わりに鈴鹿の肩を抱き声を柔らげてこう言うのでした。
「何が起こったかも告げられずただ逃げろと言われても、出来るものではないではないか。この奥州の魔人「阿黒王」と恐れられている吾が、夢、幻に怯えて逃げたとあっては、この先吾を侮るものが出るのは必至。そうであろう?」
そんな阿国王に鈴鹿は、少し間を置いてから
「田村の将軍が、おまえを討ちに来る」と告げるのでした。
「それを、何故おまえが知っているのだ。」
答えあぐねる鈴鹿の様子を見つつ
「まあよい、それよりも吾の身をおまえが案じてくれるとは。天変地異の前振れか。しかし鈴鹿よ老婆心ぞ、吾が田村の将軍ごときに負けると思ったか。強いとの噂は吾も聞いて知ってはいるが、たかが人ではないか」
阿黒王は豪快に笑います。
その笑いを鈴鹿は遮り
「おまえは負ける、田村の将軍はおまえを討つ方法を知っている。だから逃げよ阿黒王よ」
その言葉は、阿黒王の顔に一瞬の曇りを生じさせはしましたが、少しの間を置いて、不敵な笑みを浮かべた阿黒王はただ一言
「否」と発するのみでした。
「何故だ」
「何故と聞くか、鈴鹿よ。では吾から聞こう。おまえ、もしや田村の将軍に惚れたのではないのか」
顔をくぐもらせ何も言わぬ鈴鹿を前に、阿黒王の顔からも既に笑みが消えておりました。
「ずるいぞ、鈴鹿よ。おまえの言葉を聞いて吾が逃げたら、おまえは吾をそれだけの者と思うはず。吾に対するおまえの気持ちを断ち切る手助けなぞしてやる程、お人好ではないぞ」
鈴鹿は、今度は阿黒王の目を真直ぐに見据え
「解っている、おまえがそういう男ではない事は。おまえを愛しいと想う気持ちは、この鈴鹿も変わってはいないのだ。いないが。わたしは 、田村の将軍を愛しいと思ってしまった。わたしは田村の将軍の屍なぞ見たくない。そんなものを見るぐらいなら、己の命をその場で絶とう。その一筋の思いであのような事をした。」
阿黒王の眉がぴくりと動く。
「あのような事とは?」
そ の問いに、鈴鹿は抑揚のない声で、それでも、阿黒王からは目を逸らさずに答えたのでした。
「田村の将軍の守護神、千手観音の姿を借りて、おまえの秘密を総て教えた」
阿黒王は、闇のごとく静かに..
ただ静かに鈴鹿を見ておりました。
その阿黒王に、鈴鹿はさらにこう続けるのです。
「許せとは言わぬよ、阿黒王よ。ただな、田村の将軍はわたしに惚れてはおらぬ。私の人と成った姿に、ほんの一時、惑うただけの事。だからおぬしを討ったその剣で、とって返してわたしを、この鈴鹿の鬼姫を討つであろう。だがわたしには田村の将軍は殺せぬ。だからわたしも、直ぐにそなたの元へ行く。だから・・・」
鈴鹿の言葉はそこで途切れてしまいました。
阿黒王もまた闇のごとくの沈黙し、長く間の空いた後 、こう最後の問いかけをしたのです。
「今一つ聞こう鈴鹿。何故千手観音などの姿を借りた。何故そのままの姿で田村の将軍とやらと相対さなかった」
鈴鹿の目には、みるみる涙があふれてまいります。
「本当の姿など...。鈴鹿は...鬼であろうが。いつから、どうしてこう定められたかは知らぬが、わたしは人外の者。人ではない者がどうして人と添える」
そう言い残して、鈴鹿の姿はすぅと闇の中へ吸い込まれるように失せてしまいました。
後にはまるで、何事も無かったような闇だけが残って居ります。
「 追っても...無駄であろうな…」
阿黒王は、つい今しがたまで己の両の手の内に在った鈴鹿の感触を思い出しておりました。
「田村の将軍か…鈴鹿の心をそれ程までに捕えたものとは、どのような男であろうか。」
阿黒王は左の掌を己の項に宛て、深く息を吐くと、ついでのように
「が 、しかし、ほんに恋心とは厄介なもの。まあ良い。空も白みかけた、もう眠れぬ」
そうひとりごちて、枕辺に置いてあった盃に酒を注ぎ一息に飲み干したのでした。
「まこと人に惚れるとは、うかつなことよ鈴鹿。いや、その鈴鹿に惚れた吾もまたうかつか」
気がつけば、明り取りからは既に東の光りが射しておりました。
其の後、鈴鹿の言った通り阿黒王は坂上田村麻呂に討伐され鈴鹿御前もまた愛する田村の将軍の刃に討たれたのだと。
そんな哀しい昔語りが鈴鹿の山の峠には、あったそうでありました。
・・・・・ほんに恋心とは厄介な物。
相手を好きになっても想いが叶うとは限らない。
それでも誰かを想う気持ちは偽る事が出来ない。