黒い記憶
初投稿の為、至らぬ点が多々ございますが温かい目で見て頂けると助かります。
やはり駄目だ。
また、いつもと同じ朝を迎えてしまった。
変わるはずがないと分かっていても期待してしまっている自分がいる。
朝から弱気じゃ駄目だ。
気分を切り替えて、目を開いた。
気だるい体を起こし、辺りを確認してみる。
ベッドの上で眠る彼女はまだ起きていなかった。
どうやら早く目覚め過ぎたようだ。
彼女を起こしては悪いので、俺は静かに布団を片すと顔を洗う事にした。
寝ている彼女を起こさない様にゆっくりと蛇口を捻り、少量の水を手に溜めて包み込むように顔を洗う。
さっきまであった眠気の様なもやもやした物が消えて多少はすっきりした気がする。
蛇口を閉めてタオルで自分の顔を包み込むと溜め息が漏れた。
彼女は依然目覚める様子はなかった。
時計を見てみるといつも起きている時間より三十分も早い。
通りで起きる気配が無い訳だ。
もう一度部屋に戻り、壁に掛けてある自分の上着から煙草を取り出す。
部屋を出る際に寝ている彼女を見てみるが…実に幸せそうに眠っている。
口はぽかーんと開かれ、気のせいか笑っている様な寝顔だ。
枕を胸に抱きしめ、布団は下敷きになっている。
…彼女は寝相が悪かった。
キッチンで換気扇を回すと煙草を一本取り出しライターで火を点ける。
ゆっくりとフィルター越しに煙を吸い込むと煙草の先端がジリジリと焼けた。
口から煙草を離すとむわっと紫煙が昇る。
喉から胸へ煙が肺に行き届き、今度はそれを吐き出す。
すーっと白煙が勢い良く俺の口から出て行く。
その行為を繰り返し行っていると、段々煙草は短くなっていった。
さっきまであった部分は灰となり、手元の灰皿でぼろぼろになっている。
煙草一本を吸い尽くすと手持ち無沙汰になった。
彼女はまだ起きる様子はない。
俺は意味も無くキッチンの中を歩き回ってみる。
床のタイルは固くて冷たい。
素足だと少しひんやりして気持ちが良かった。
そこで何か思い出せそうな気がした。
足を止めて床を見つめながら、考える。
何か、何かあったのではないか。
過去という言葉を思い浮かべながら、昨日の出来事、一昨日の出来事、順々に記憶を手繰り寄せる。
しかし三日、四日前の記憶となると朝食が何だったのかさえ曖昧になる。
特に何事も起きていなければ漫然と過ごした日々などいちいち正確に覚えている人などいないだろう。
だがこの家で初めて目覚めるより以前…つまり一ヶ月以上前の記憶に関しては自分が何処で何をしていた、何者なのかという事すら思い出すことが出来ない。
俺の記憶は一ヶ月前から始まっており、それより前の記憶があまりに綺麗に抜け落ちている。
そうなると本当に自分には過去というものがあったのかと怪しくなるが、こうして煙草を吸うぐらいの年齢であることは推測出来る為、少なくとも二十年以上は生きてきたはずの記憶の痕跡があるはずだった。
考えても相変わらず何一つ思い出すことは出来ず、何となく煙草をもう一本取り出して吸い始めた。
そこへ寝惚け眼の彼女が現れた。
「…何してんの」
とても眠そうだった。
彼女は大きく欠伸をすると冷蔵庫を開けて、牛乳パックをそのまま口につけて飲む。
「飲む?」
うっすらと目を開けて聞いてくる。
「…いい」
「そう? それじゃご飯食べよっか」
そう言って彼女は俺と同じ様に顔を洗い始める。
俺は何となくその光景を眺めていた。
顔を洗い終えると不思議そうに俺に向ける。
「ん、どしたの?」
「いや…」
「それじゃ、準備手伝ってよ」
言われた通りいつものように冷蔵庫から昨日の夕飯の残り物を持って部屋へ向かう。
部屋はカーテンを開いていたお陰で明るかった。
テーブルの上に持って来た料理を置いて、またキッチンへ戻る。
「あー…今日も眠い…」
キッチンでは彼女が一人ごちりながらご飯をよそっていた。
「はい、これも持って行って」
茶碗を二つ受け取り、また部屋に運ぶ。
これで朝食の準備は整った。
そこへ彼女も飲み物とコップを二つ持ってやって来る。
「ほーい、食べよ食べよ」
机の前に座ると彼女は早速食事に手をつけた。
俺もそれを見てから食事に手をつける。
この光景も今ではすっかり馴染んだ。
こんな日々が一ヶ月近く続いていた。
その事実にどうしようもない焦燥感がある。
それでも今、俺が何をしようとどうにもならない事は分かっていた。
だから俺はこうして流れに身を委ねるしかない。
「あんた、今日はどうするの?」
食事を続けながら聞いてくる。
「………分からない」
俺にはそう答えるしかなかった。
「ま、頑張ってね」
どうやらこの家の主である彼女の目も大分覚めてきたようだ。
彼女の名前は雪希。
俺を…拾った人だ。
彼女の話によると今から一ヶ月程前、仕事の帰り道に倒れていた俺を発見したそうだ。
頭部に擦り傷を負っていたがそれ以外に外傷はほとんど無かったらしい。
だが意識が無かった俺をその場で見捨てる訳にもいかず、自宅のすぐ近くだったこともあって俺を運んで介抱してくれた。
そのお陰で俺は無事翌日に目を覚ました。
しかし目覚めた俺には記憶の一部が失われていた。
何故倒れていたのか、その前に何をしていたのか、発見される前の自分の行動が何一つ思い出せなかった。
おまけに身分が分かる物も持っていなかったため、自分の名前さえも分からなかった。
記憶喪失。
恐らくそれが今の俺の病名ということになる。
目覚めると彼女は当然病院に行くことを提案したが、俺は何故か病院に行くことを拒否した。
理由は分からない。
行ってはいけないという、意味の分からない脅迫じみた観念があったのだ。
しかし雪希は俺を追い出したり警察に通報するどころか、逆に居候することを提案してきた。
疑いはあったものの、行く宛も記憶もない俺はひとまずその言葉に甘えることにした。
それから一ヶ月近く、こうして何事も無く雪希の家に泊まらせてもらっている。
居候させてもらってからもずっと雪希の様子は至って変わる事無く、平然と生活をしている。
その姿を見ているうちに俺は彼女を信用しても大丈夫だと思えるようになっていた。
雪希は一緒に生活しているうちに色々と思い出せるだろうと言ってくれている。
俺もいつまでも厄介になる訳にもいかないため、毎日記憶を辿る努力はしていた。
だが得体の知れない何かが、例えるなら時限爆弾みたいな物が俺の中に仕掛けられているような気分だろうか。
俺は記憶が戻るのを恐れている気がする。
しかしその反面、当然ながら記憶を取り戻したい気持ちも十分にあった。
その葛藤に苛みながら、現在に至る。
相変わらず雪希は嫌な顔一つしない。
かと言って喜んでいる様にも見えなかった。
彼女が何を考えているのかそれは未だに分からないが、邪険にする訳でなく深く干渉しても来ないため、今の俺にとってはありがたいことだった。
「ごちそうさまー」
そう言って雪希は立ち上がり、着換えを始めた。
俺は着替えを見ないようにして食べ終わった食器等をキッチンに運ぶ。
そしておかずを冷蔵庫の中にしまうと食器を洗う。
こういった家事は今の俺の役目だった。
雪希は平日は仕事のため朝から夜まで家にいない。
そこで俺は雪希がいない間、家事をやることを自ら提案した。
こうして寝泊りをさせて貰い、その上食事まで摂らせて貰っているのだからこの位は当然だろう。
「じゃあ私は行って来るね」
玄関の方から雪希のそんな声が聞こえてくる。
「いってらっしゃい」
俺はキッチンで洗い物をしながら玄関にいる雪希へ返す。
「いつもと同じ時間に帰るからね」
「分かった」
短いやり取りの後、ドアの閉まる音がした。
食器を洗い終わると特にやる事もないので部屋に戻る。
テレビをつけてみるとニュースがやっていた。
芸能人のスキャンダル、交通事故、世界情勢、最近のスーパーの諸事情。
知っているニュースもあれば、知らないニュースもある。
こういった時事ネタを知っているということは、一ヶ月以上前の記憶というか、知識は残っているということだ。
ただそこから有益な情報が得られる訳ではない。
しかし他にやる事もないので俺はそのままニュースを見続けた。
番組が終わる頃になると天気予報が始まる。
「今日は晴れのち雨…」
外を見ると雲一つ無い快晴だが、夕方過ぎから大雨になるらしい。
本当に雨なんて降るのだろうかと疑ってしまう。
天気予報が終わると、占いが始まった。
乙女座、天秤座、さそり座…。
次々と各星座の今日の運勢が発表されていく。
だが俺には今日の運勢が分からない。
自分の星座が分からないからだ。
俺の星座は一体どれなんだろうか?
ぼんやりとそんな事を考えてると番組が終わってしまった。
そのままチャンネルを変えてテレビを眺め続けるがどれも面白くない。
上着から煙草を取り出し火を点ける。
そういえば何で俺は煙草を吸うのだろうか。
吸い始めたきっかけは、いつから吸い始めたのだろう。
しかし思い出そうとしてもその記憶が無い。
ここ最近になって分かってきた事だが、恐らく俺は自分自身の過去の出来事に関して記憶がないようだった。
これが何を意味するのか、それはいくら考えた所で今は何の答えも見えない。
雪希の話によると俺が所持していた物はコートの中にあった煙草と、一錠だけの薬だけだ。
「薬か…」
立ち上がり掛けてある上着のポケットからその薬を取り出してみる。
一錠分だけの物で、何の薬なのかは分からない。
普通の薬と違い、気になるのは小分け袋に入っている点だ。
万が一これが毒物だとしたら…という理由から飲んではいないが、果たしてこの薬は一体何なのだろうか。
もしかして俺は何らかの持病を患っているのだろうか。
しかし考えたところで溜息だけが漏れた。
やはり自分のことは分からないままである。
病院や警察に行けば色々手掛かりは掴めると思うが…
「…それだけは駄目だ」
訳の分からない自分の主張に苛立ちを感じながら俺は薬を上着のポケットへ捻じ込む。
…暇である。
洗濯物はないし、掃除は昨日したばかりでやることが特に無い。
結局まだ早い時間帯だが夕食の材料を買いに行くことにした。
外は見事に晴れていて日差しが心地良い。
商店街ですれ違う人々を眺めながら通い慣れてきたスーパーを目指す。
街の人々は様々な表情をしていた。
当たり前の事ではあるが、いつ見てもその表情一つ一つに新鮮さを覚える。
別におかしいことなんて何もない、極々普通のありふれた光景。
だがそんなありふれた光景を見ているだけで不思議と心が軽くなっていく気がした。
そんな中、ふと見掛けた幼い子供連れの母親。
どうやら幼稚園に送っている途中のようだった。
仲良く手を繋いでいるその光景はとても微笑ましい。
そして羨ましくも胸が締め付けられるような光景だった。
そこで俺はふと違和感に気付く。
羨ましい。
何故俺はこんな感情を突然覚えたのだろう。
俺の幼少期と何か関係があるのだろうか。
俺の幼少期とは一体、どんなものだったのか。
だがそれよりも今の一番の疑問はこの胸の痛みだ。
訳も分からずひたすらに胸が締め付けられるように苦しい。
同時に頭の中を掻き回されるような、白紙に鉛筆で何かを滅茶苦茶に書き殴ったような酷く気味の悪い感覚が襲ってくる。
視界もそれに伴いグルグルと回り出した。
おかしい、今までこんな事は一度だってなかった。
俺の記憶が何か関係しているのだろうか。
あるいは俺は何かの病気で、あの薬はこの症状のための…
「ぐぅ…!」
そんな思考をしている余裕もどんどん無くなっていった。
段々と頭の中が白くなり、体中から血の気が引いていくのがよく分かる。
さらに吐き気まで催し、その場に立っていることさえ危うくなってきた。
このままでは危険だと判断した俺は、何とか商店街を出て小さな公園に逃げるように駆け込んだ。
激しい胸焼けに襲われ、何かのスイッチが入ったように俺は公園の水道場に辿り着いた途端勢い良く吐き出してしまう。
「うえぇぇぇ! ぐっ…はぁ…はぁ…うっ…」
そのまま全てを吐き出し何とか息を整える。
公園に誰もいなかったのが幸いだった。
口の中を濯ぎその場を綺麗に流すと近くのベンチに倒れるように腰掛けた。
だが体からは今も血の気が引いていて、視界はぼんやりと霞んでいる。
ひとまず休むためにも、俺は目を閉じて考えることをやめた。
それからしばらく経って、公園にはちらほらと子供連れの親子が現れ出す。
その頃にはすっかり体調は元に戻り、先程のような状態に陥ることはなかった。
自分に一体何が起きたのか。
落ち着いてきた俺はそこで再び考え出す。
今回のはまるで何かの発作のような突然の出来事だった。
こんな事は今まで一度も無かった。
だが考えてみると俺の身に何が起きたか、現時点で思い付くことがいくつかあった。
まず俺が持病を持っている可能性だ。
雪希と一緒にいるようになってからこんなことは今までに無かったが、あの一錠の薬が関係しているのかもしれない。
仮定として、俺は記憶を失った日、何処かへ向かっていた。
それほど遠出の予定はなく、一錠分だけ薬を持って出掛けたとする。
実際俺の持ち物などから推定するとその辺に散歩に出掛けるような程度の物だった。
そして何らかのアクシデントで記憶を失い、それから初めて発作が起きたという仮定。
だがこんな症状の発作的な病気があるのだろうか、という点が気になる。
あるとしても内臓器官などの病気というより、脳…どちらかと言えば精神的な疾患に思える。
精神的な病気だとすれば、思いつく限りで今回の症状に当てはまりそうな病名も確かにいくつか浮かんだ。
たがそこで重要になるのは原因だ。
精神的な疾患だとした場合、この発作が起こる原因というものが存在すると考えられる。
無論、原因などなく突発的に起こる物もあるだろう。
だがしかし、突発的な物とした場合、雪希の家で過ごすようになってから今まで何も起こらなかったのは妙な話だ。
まして精神疾患で薬物投与されているのだとしたら、それは風邪の様にあっさり治るものではない。
そうなると俺は過去に何かしらの心理的外傷や相当なストレスなど、病気を抱えるほどの心理的問題があり、今も尚その治療中だった可能性が高い。
そしてその何らかの原因に俺は触れて突発的に発作が起きた…そう考えると色々と辻褄が合う。
以上のことから病院などを拒絶する、という気持ちにも何となく説明は付きそうだ。
だがこれだと一つだけ引っかかる点があった。
持っていた一錠の薬が処方された薬だとして、何故それを小分け袋に入れていたのだろうか。
処方された薬なら本来はちゃんと梱包されている。
それが小分け袋に入っているということはわざわざ自分か、もしくは近しい人間によって入れ替えられたことになる。
更にほとんどの薬はその名が刻印されていたり、ある程度見分けがつくようになっている。
だが、俺の持っている薬にはそんなものが一切無かった。
見た目だけではお菓子と言われても頷ける物だ。
そんな得体の知れない薬をわざわざ小分け袋に入れて持っているというのは、持病の薬だという仮定に違和感を感じざるを得ない。
しかしここで俺が発作を起こした原因というものを考察してみる。
もし原因があって起きた発作だとすれば、恐らくその原因とは先程見掛けた親子だ。
俺にあった心理的外傷がどういったものかは未だに分からないが、あの親子の何かがその原因に触発して突然思い出したかのように発作が起きたと考えられる。
記憶を取り戻した訳ではないが、俺の過去にはあの親子を起因とする様な何か衝撃的な出来事があった可能性が高いかもしれない。
だがもしもこれがただの心理的外傷から来る後遺症みたいなもので病気ではないとすると、ここでまた新たな疑問が生まれる。
結局俺が持っている薬のような物は一体何なのだろうか。
手掛かりを掴んだ気はするが、パズルのピースが確実にいくつか不足していた。
どれも決定打とはならない。
何処にでもいるようなただの親子を見ただけで、何が俺をあそこまで反応させたのだろうか。
今目の前には子供連れの家族は何組か現れているが、それを見ても今は何ともないのは何故か。
もし俺が子供連れの親子という物に何かあるのなら、今も何かしらの反応があるはずだ。
だが今は何ともない、ということは原因が違うのか?
それともあの親子だけにあった特別な何かが…?
先程見掛けた親子の事を思い出してみるが、羨ましいという感情が沸き、それに対してどうしようもない衝動が込み上げてきたこと以外は分からない。
羨ましい…確かに羨ましいと思えた。
だがあの衝動は…。
思い出しているとまた段々と気分が悪くなってきた。
それと同時に、自分自身が恐ろしく感じる。
あの胸の苦しみ、衝動…それはあまりに恐ろしい負の感情。
どうしようもないぐらいの、気が狂いそうなぐらいの殺意。
羨望から来る嫉妬の怒り、悲しみ。
自分自身を、全てを引き裂きたい破壊願望。
あの家族を見て、どうしてそんな衝動に駆られるのか。
何も分からなかった。
ただこうして初めて自分を思い出すきっかけに触れて考えてみた収穫はあった。
思い付いた二つの可能性、どちらも共通するのは俺の過去に何かがあった、ということだ。
持病なのかどうかは未だ確証はないし、肝心の過去の原因も分からないまま。
だがあの薬が自分の病気に対しての物かどうか聞かれたら違うような気はする。
するとあの薬は一体何なのか…。
俺の記憶を思い出す活路はそこにあるように思えた。
「ただいまー」
あれから買い物をして帰宅し、夕飯の支度が済んで部屋でバラエティ番組を眺めていると雪希が帰ってきた。
「…おかえり」
「うん、ただいま」
嬉しそうに雪希は答える。
「…どうかしたのか?」
「いやぁ、家に帰ってきておかえりって言って貰えるとやっぱり何か嬉しくなるね!」
そう言いながら雪希は妙に照れている様子だった。
今までもそうだったが、こういった家庭的なやり取りをすると雪希は恥ずかしそうにしている。
だが一人暮らしをしていればそんなものなのかもしれない。
とにかくこんな事で雪希に喜んでもらえるのなら、俺としても嬉しいことだった。
「あー、今日も疲れたぁ」
などと言いながら相変わらず俺に気遣う様子もなくその辺で着替え始める。
今朝もそうだったが、雪希は俺を男として見ていないのだろうか?
それとも信頼されている?
変に意識されても困るし、俺自身どうでもいいことだから気にはしていないが年頃の女性である事を考えるといささか悩ましい。
「ねぇねぇ、今日も夕飯作ってくれたの?」
「あぁ…温めればすぐに用意出来る」
「悪いねぇ。ありがと」
そう言って笑顔を向けてくれる。
…可愛い。
素直にそう思える魅力ある笑顔だった。
だが雪希はシャツを着る前で…下着が丸見えだった。
「あ、こら!こっち向くんじゃない!」
「ご…ごめん…」
そう言いつつも雪希は本気では怒っていなかった。
まったくもーなんてぶつぶつ言いながらも少し楽しげな様子で、正直彼女が何を考えているのかよく分からない。
だがそんなことはどうでも良かった。
彼女の胸元…下着に隠れていたが、両胸の間から縦に伸びる痕があるのを見つけてしまった。
触れていい話題かどうか一瞬悩んだが、俺は思い切ってそれについて聞いてみる。
「…その胸の傷は…」
「ん、あぁこの傷? 昔ちょっとやらかしちゃってねー…」
だが聞いた後に俺は後悔した。
雪希の言葉は悲しげだった。
一緒に暮らすようになってから、一度もこんな声は聞いたことがない。
「…変なこと聞いてごめん」
「うん…まぁいいよ、気にしないで」
「…じゃあ夕飯出すよ」
「手伝おうか?」
「いや、すぐに済む」
逃げるように俺はキッチンに入ると夕方に作っておいたおかずをレンジで温めていく。
どれも美味しいとは言えない代物だが食べられない程ではないし、何より彼女の食生活を見ればこの方がまだ健康に良い。
雪希の生活は年頃の女性とは思えない程に怠惰で、料理は当然、掃除すら滅多にやらないような有様だった。
一人暮らしのせいというのもあるのだろう。
しかし出来る事なら食事はちゃんと摂って、掃除もしっかりやったほうが良いに決まっている。
結果、それは全て俺が自分から申し出てやらせてもらっている。
「ごーはーん、まーだー?」
「もう少し待ってくれ」
「お腹空いたぁ~」
聞こえてくる声からは先程のことは気にしていないように思えた。
すっかり普段の調子だ。
…きっと今頃パジャマに着替えて、だらしなく床に寝そべっているのだろう。
一緒に生活してから一週間しか経っていないが、彼女の今の姿が容易に想像できた。
「…まったく」
呆れながらも俺の口から笑みが洩れた。
程無くして着替えを終えた雪希が現れ、食事の準備も整った。
「いっただっきまーす」
「いただきます」
小さなテーブルを挟んでお互い床に座り、丁寧に手を合わせて軽くお辞儀する。
生活そのものは怠惰なのに、こういった作法は妙にしっかりしていた。
「わーい、今日も美味しそっ」
「それスーパーで特売してたただのコロッケ」
「私はそれで満足なのー」
「いつも何食べてたんだよ?」
「カロリーフレンドとかエネルギーインゼリー」
「うわぁ…」
…典型的に駄目な一人暮らしだ。
「お、コレはあんたの手作り?」
「…ただの野菜炒めだよ」
「ほ~う、どれどれ」
期待に目を輝かせ、野菜炒めを箸でひょいとつまみ口に放り込む。
「んぐんぐ…」
目を閉じゆっくり咀嚼する雪希。
まるで料理番組の審査員のような表情だ。
たかが野菜炒めに期待されても困る。
…と思いつつ、やはり感想が気になる。
味付けは問題無いはずだ…一応少し薄めにしておいたからしょっぱくて食べられないなんて事はないだろうし…。
野菜も水を少し加えて火をちゃんと通してるから大丈夫だし…。
そんな考えを巡らせていると、雪希はゆっくりと箸を置いた。
「うん…うん…。凄く美味しい!」
「あ…ありがとう…」
彼女の満面の笑みを見ると、釣られて俺も笑ってしまう。
「あれ、照れてる?」
「照れてなんかない」
「ほっほー、分かり易いわねあんた」
「う、うるさい。早く食べろ」
「はいはーい。ねぇ、今日は何か手掛かりあった?」
いつものように雪希は質問してきた。
毎日のように夕食の時に雪希はこうして俺に質問してくる。
今までは何も無く、それに対して雪希もそうと一言だけ返して食事をしていたのだが。
「あると言えばある…かな」
「お、何々?」
俺は昼間の事をどう伝えようか悩んだが、自分自身よく分かってもいないので包み隠さず全てを話してみた。
「…という訳だ。俺自身まだよく分かっていない」
話し終え、雪希を見てみると食事を忘れ箸を持ったまま神妙な面持ちで頷いていた。
「何かありそうね…」
「あぁ、過去に何かあったとは思うんだけど…」
「うん…」
そこで雪希が妙に思いつめた表情をしていたのが気になった。
俺のことを心配して考えてくれているのだろうけど…。
見ず知らずの俺に良くしてくれ、こんなに真剣に考えている彼女に何か違和感を覚える。
赤の他人にここまでしてくれるのは単に雪希がお人好しだから…なのだろうか?
「…あ、もしかして!」
「な、何か分かったのか?」
「子供を見てたら欲情…したとか?」
「それは無い」
「あ、じゃあお母さんに」
「それも無い」
雪希のアホな発言を遮る。
真剣に考えているかと思えば…何を言い出してるのだか。
というか女性にしては親父臭すぎる発想だ。
一人暮らししてる女性って案外こういう…
「…あれ?」
「どうしたの?」
…そう言えば俺は雪希以外の女性を知らない。
いや違う、女性だけではない。
「俺は…友人や…家族も覚えていない」
やはり俺の過去だけでなく、周りに関する記憶も綺麗さっぱり抜け落ちているのだ。
料理や他の一般知識などは一週間以上前の物でも覚えている。
ここまで自分に関する記憶だけが無いとなると、何か意図的な物を感じざるを得ない。
まるで何者かに改造されたような気分だ。
それか自分で…消したのか。
消したいほど、それほど何か嫌な記憶だと言うのだろうか?
「俺は一体…」
「………」
本当の自分がすぐ側にいるような気がする。
思い出そうと思えば、すぐに思い出せる気がする。
この身に、脳に焼き付いているはずだ。
しかし何かが拒絶している。
記憶を取り戻す訳にはいかない。
今のままが良い。
今が一番幸せだ。
誰かが俺にそう囁いている気がした。
「………」
しかし分からなかった。
自分がどうすればいいのか、自分が何をしたいのかも。
「ふぅ、まったく…」
雪希は突然立ち上がると俺の真正面に座った。
微かに笑っているが、何故か今にも泣きそうな、悲しげな表情をしている。
「ほれ…サービス」
そう言って雪希は優しく、俺の頭を胸に抱いた。
「…胸当たってる」
「だから…サービスだってば」
何故だろうか。
さっきまでの苦悩が嘘のように、急に心が落ち着いた。
俺はこうして誰かに抱きしめてもらうのが好きなのだろうか。
それとも雪希だから、なのだろうか?
「…もう大丈夫」
「そう?」
「…ありがとう」
「…どういたしまして」
俺を解放した雪希の表情は明るくはなかったが、先程の悲しげな表情ではなく心なしか嬉しそうな…素直な笑みを浮かべていた。
改めて雪希には救われてばかりだと思い知らされる。
感謝しても、まったくし足りないぐらい程だ。
「さ、食事の続きをしよー」
確かに…今のままが…今が一番幸せなのかもしれない。
「………」
「何よニヤニヤして…。そんなに私のおっぱい良かった?」
「そんなんじゃないよ」
「あ、結構自信あるんだぞ?」
「へぇ」
「わ、私の胸ってそんなに魅力ないのかしら…!」
そんなやり取りをしていると雪希はすっかりいつもの笑顔になっていた。
釣られて自然と俺の表情も穏やかになる。
記憶を取り戻すとか、そんな事はどうでも良くなるぐらい心地良い空間だった。
それを自覚した時、俺は自分の気持ちに気付いた。
「雪希」
「うん?」
「好きだ」
「……え…あ……」
一瞬の沈黙が訪れる。
自分でも驚くほどすんなりと伝えてしまった。
この言葉が自分の首を絞めるかもしれない。
この空間を台無しにしてしまうかもしれない。
そんな危険もあるはずだが、不思議と俺は心配などしていなかった。
だが返ってきた反応はまったく予想していなかったものだった。
「ふ…ふぇ…う……!」
彼女は驚きのあまり目を見開いたまま涙を流し始めた。
「あ、俺…ごめん…」
「違うっ…! 悪くなんてない…っ!」
「じゃあ何で…」
何でそんなに辛そうにしているんだ…?
聞く前に雪希はしゃくり上げながらも必死に声を上げた。
「嬉しいのっ…嬉しいけど…駄目なの…っ」
その言葉に余計に俺は混乱した。
「それがあなたの選んだ答え…なんだよね?」
「え、あ…あぁ…」
「本当に私でいいのね…? どうなったって知らないわよ…?」
その言葉にどんな意味が込められているのか。
俺はこの時点では分かっていなかった。
だが雪希を選んだ事に後悔は一切無い。
彼女の真剣な瞳をしっかり見つめながら俺は答えた。
「雪希しかいない」
「…バカ」
雪希は諦めたかのようにふっと笑うと、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あんたってホント…うん…でもいいかな…」
「さっきから何をぶつぶつと…」
「ただの独り言よ…バーカ…。もう何言っても帰らせてあげないんだから…」
「はは、そうしてもらえると俺も助かる」
「ホントもう…」
そう言って雪希は俺に抱きついてきた。
俺も初めて雪希の体を抱き締める。
「もう二度と離さないんだから…」
記憶はまだ取り戻していないけどもう焦りはない。
記憶がないなら、これから作っていけばいい。
思い出はこれから…雪希と作っていくのだから。
しかしこの選択によって俺達が最悪な結末を迎える事になるなど、この時はまだ知る由も無かった。
「………」
朝を迎えた。
当然ながら記憶は戻っていないが、何かが違った。
昨日までの焦りとか不安は感じない。
妙に心地良い目覚めだった。
ふとベッドの上で眠っている雪希を見る。
「すー…すー…」
とてもよく眠っていた。
当然相変わらず寝相が悪い。
どこでどう寝違えたのか前後逆に寝ている。
枕は太ももの間に挟まれ布団は彼女の腕の中で丸まって抱かれていた。
「…まったく」
恐らくこの安心感は…雪希のおかげなのだろう。
昨夜気持ちを伝えて、応えてくれて。
たったそれだけの事なのに、まるで世界の色が変わったようだった。
あまり見惚れている訳にもいかないので、自分の布団を片すと俺は雪希を起こした。
「朝だぞ」
「ん~…むにゃ…」
「起きろ」
「う~ん…もう…時間…?」
ゆっくりとベッドから体を起こす。
雪希がちゃんと目覚めたのを確認すると俺は顔を洗うため洗面所へ向かう。
蛇口を捻って水を出すと俺はいつものように顔を洗い始めた。
「………」
何だか調子がいい気がする。
よし、今日の夕飯は少し豪勢なものを作ってみよう。
雪希が喜んでくれそうなものを作ってあげたい。
「よし…」
タオルで顔を包み込み、鏡を見てみると俺の顔は微かに笑っていた。
後ろで気配がしたので振り返ると眠そうな目をこすりながら雪希が立っていた。
「おはよう」
「ん…おはよー…」
昨日と同じ様に冷蔵庫からパックの牛乳を取り出したそのまま口をつけて飲みだす。
「飲む?」
「俺はいいよ」
「そう…」
昨日と似た様なやり取りをすると、ふらふらと雪希も洗面所に向かい顔を洗い始める。
その間に俺は朝食の準備を進めていく。
昨日の残り物のおかずを温めご飯をよそい、出来たものを次々と机の上に並べていく。
準備がほとんど終わった頃にさっきよりも目が覚めた様子の雪希が部屋に戻ってくる。
「あー眠いなぁ…」
二人で机を挟んで座ると手を合わせいただきますと合唱し食事に手をつけ始める。
「今日はどうするの?」
「そうだな…」
もう無理して記憶を探す必要もそこまで感じないし…。
「まぁ…いつもと同じ様に過ごすよ」
その答えを聞くと雪希はそっかと言いながら柔らかい笑みを浮かべた。
朝食が済むと雪希は着替えたり化粧を始める。
あまりそちらを見ないようにして俺は食器を片付け始めた。
「あ、私今日は少し早く帰るからねー」
部屋からそんな声が聞こえてくる。
「分かった」
さて、今日の夕飯はどう豪勢にしようか。
そんなことを考えながら食器を洗う。
食器が洗い終わりその場で一服していると準備を終えた雪希がキッチンに顔を出す。
「それじゃ行って来るね」
「あぁ」
「うーん…」
「…ん?」
何だ…人の顔をじーっと見て…。
顔に何か付いてるのかと思って手を伸ばそうとした瞬間だった。
「ん…」
突然近付いてきた雪希は俺の顔に手を伸ばすと突然俺の唇に自分の唇を重ねてきた。
一瞬何が起きたのか分からず、俺はただ雪希のされるがままになる。
どのぐらいの時間が流れたのかよく分からない。
長く感じたキスだが実際は数秒程度だったと思う。
目を閉じていた雪希はゆっくりと瞳を開き、名残惜しそうに離れた。
「嫌…だった?」
呆気に取られている俺を見てか、雪希は不安げな表情で見つめていた。
一緒にいてこんな表情は初めて見た。
それらに気付いた瞬間、俺は一気に顔が熱くなるのを感じた。
「い、嫌なんかじゃ…ない…!」
慌てて言い繕おうとしたが、それがかえって雪希を喜ばせた。
「あれぇ、照れてる?」
「べ、別に…」
「ふふ…あんたのそんな顔見るの初めて」
そう言って雪希は再び唇を押し付けてきた。
二度目となると少しは落ち着いて考えられる。
俺はそっと雪希の背中に腕を回して優しく抱きしめた。
それに応えるかのように雪希も俺の首へ腕を回し、優しく頭を撫でてくれる。
決して情熱的ではないキスだが、空っぽだった何かが一瞬で満たされていくような気分だった。
ただ唇を合わせ、お互いを抱き寄せ温もりを感じることが、こんなにも幸せだったなんて知らなかった。
今度はどちらともなくゆっくりと離れ、お互いを見詰め合う。
そして恥ずかしそうに笑う雪希を見ると俺もつられて笑みが漏れた。
「好きだよ」
うっとりした表情で告げる雪希に言葉でなくおでこにキスをして俺は応える。
「じゃ、じゃあ行って来るねっ」
少し小走りで玄関に向かうとそのまま雪希は仕事へと向かった。
「………」
まだ唇に雪希の感触が残っている。
抱き締めた時の雪希の香りが俺を興奮させる。
自分が男だと改めて認識させられた。
煙草を口元に持っていくが、何だか勿体無いような気がして箱に戻すとそのまま居間でテレビをつける。
昨日と同じニュースが流れていたのでぼーっと眺める。
すると天気予報が始まった。
「今日の夕方から明日の昼にかけてまで大雨が降るでしょう」
そういえば昨日は降らなかったが、今日はどうなんだろうか?
窓から空を見ていると、昨日と違い遠くに薄暗い雲が広がっていた。
これは駅まで雪希を迎えに行ったほうがいいのかもしれない。
天気予報が終わり、そのまま今日の星座占いを見る。
「山羊座のアナタ、今日の恋愛運は最高潮! 人生で最良のパートナーに出会えるかも!?」
人生で最良のパートナーか…。
俺がもし山羊座だとしたら…最良のパートナーって…
「あぁ…何言ってるんだ…」
妙に気恥ずかしくなり煙草に火を点ける。
その時、煙草が残り数本しかない事に気付いた。
…買出しのついでに新しいのを買ってみよう。
雪希の金だけど、そこは今のところ気にしないようにしておく。
「何かバイトでも始めようかな…」
外に出るとまだ空は晴れていた。
そして今までと違って買出しに出掛けるのが楽しかった。
視界に映る世界も心なしか今までに比べて色がついているというか、輝いているように感じる。
思わず笑顔になりそうになるのを堪えて、商店街に向けて足を進ませた。
今日の献立を何も考えずにスーパーに入ってみたが、野菜などが特売だったし今夜は冷え込むと予想し鍋をチョイスしてみた。
雪希の好き嫌いが分からないため、とりあえず一般的に好まれそうな物を買い込んでいく。
「重………」
そして帰宅の途中。
俺の両手には鍋の材料が詰め込まれたビニール袋が握られていた。
買いすぎた気がするが、残ったら明日の朝に少し調理して丼物にしてもいい。
そんな事を考えながら歩いていると煙草の販売機が目に入った。
俺は煙草の自販機の前に立って自分が吸っている煙草と同じ銘柄のボタンを押す。
何だか初めてのおつかいをした気分で新鮮だった。
今思えばこうして自分の欲しいものを買ったのは初めてだ。
何だか煙草が過去と現在の俺を繋ぐ何かのような気がして少し嬉しくも感じる。
新しい煙草をビニール袋の中に放り込み再び歩き出そうとした時、突然後ろから声をかけられた。
「もしかして…信二か?」
その名前を聞いた瞬間に頭に一瞬亀裂が生まれたかのよう痛みが走る。
そして何処かで聞いたことのある声。
体中から汗が噴き出し、瞳孔が開かれていく。
だがそれでも俺は確かめなければならない。
恐る恐る振り返ると、そこにいたのはスーツを着た見知らぬ男性だった。
「………」
「お前生きてたのかよ…良かったぁー!」
男は安堵の息を洩らし、満面を笑みを浮かべていた。
しかしその笑みが、酷く恐ろしいものに感じる。
「マジで心配したんだぜ。お前どうしてたんだよ?」
「いや…その…」
「おいおい、どうしたんだよ…どっか調子悪いのか?」
そう言って心配そうな顔を向けてくる男性。
どうやらこの男は俺の事を知っている様だ。
だが何かがマズい。
俺が生きていることがバレてしまった。
「おい信二…大丈夫かよ?」
「お…俺は…」
バレて何がマズい?
何故俺はそんな事を思った?
それよりこの男は何者だ?
その場からすぐに逃げ出したい衝動を必死に堪える。
答えがあった。
俺の正体を知る、一番の手掛かりが今目の前にある。
探し求めていたはずの物が手の届く場所にあるにも関わらず俺は躊躇っていた。
だが頭の中に入った亀裂から徐々に溢れ出すかのように、記憶の断片が勝手に呼び起こされる。
「き…じま…」
「あぁ、そうだよ木島だよ。おいおい…しばらく会わないうちに親友の面も忘れちゃったのかー?」
木島…そうだこいつは木島…。
俺の…橋場信二の…敵だ。
「久しぶり…だな」
「ホントだよ、携帯に連絡しても繋がらないしさ…。それより信二、親御さんがお前のこと心配してたぜ?」
親。
その言葉を聞いた瞬間にどす黒い感情が俺を支配した。
喉は渇き、頭の中は蒸発した様に何も考えられないのに体からは血の気が引き自分から自分が失われそうな錯覚に陥る。
それでも意識は保ち、俺は慎重に言葉を選び木島に尋ねた。
「…お前は俺を探しに来たのか?」
その言葉で僅かに変化した木島の表情を俺は見逃さなかった。
「そうか…そうなのか…」
「そりゃ親友が失踪したって聞いたら探しもするだろう?」
「親友…そうだな…」
反吐が出そうだ。
親友、家族、友達、そんなものは俺にとって全て虚構の存在。
「おい信二…お前本当に大丈夫なのか? 今何処に住んでるんだよ、とりあえず移動して…」
「大丈夫…あぁ大丈夫さ…」
そう告げて俺は歩き出す。
しかし当然の如く木島は俺に寄り添ってきた。
だが俺はそれを跳ね除ける。
「今更…そんな真似しなくていいんだよ。木島…出世は出来たか?」
「おい信二、お前何言って…」
「茶番は終わりにしよう。報告したいならすればいい。ただな、俺を親友と呼ぶなら残された時間ぐらい好きにさせてくれ」
「何言ってんだよ…信二…」
「悪いな、親友…」
呆然と立ち尽くす木島を置いて、俺は飛びそうになる意識を必死に堪えて歩き出した。
追跡を警戒して、普段とは違うルートを進んでいく。
歩を進める度に記憶がどんどんと溢れ出す。
今になってみれば、何故こんなにも記憶を失っていたのか不思議で仕方ない。
だがこれらの記憶だけを失った理由というのも今なら納得出来る。
細い路地に入り、追跡者の影を探すがどうやらいないようだった。
一安心して雪希の家へ歩き出すと、天気予報通り夕立のような強い雨が降り出した。
しかし俺は足を止めようとはしない。
冷たい雨がのぼせた頭を冷やしてくれるようで心地良かった。
冷静さを取り戻し、記憶を失った日の事を思い出す。
「…死ねなかったのか」
俺は死に損なった。
記憶を失ったあの日、路地に倒れていた俺。
あれは飛び降り自殺を謀ったためだ。
しかし結果はこの通り、失敗に終わった。
しかも奇跡的に外傷はほとんどなく、一時的な記憶喪失だけで済んだようだ。
良かったのか悪かったのかは分からない。
ただ…生きていた事に感謝する部分はある。
雪希との日々だ。
記憶を失ってからの日々は、人生の中でも至福の時だった。
それを思えば死にたくない。
だがしかし、このままでは下手をすれば雪希も橋場の犠牲となる。
…やはり俺が出て行くしかない。
苦しむのは俺だけで十分だ。
雪希からはたくさんのものをもらった。
死ぬはずだった俺が生き延び、夢のような日々を過ごせた。
俺はもう…それだけで十分だ。
そう思うと不思議と心が軽くなった。
しかし頬には雨と涙が混じり流れた。
このまま雪希と一緒に過ごしていけたら、そんな淡い夢を夢見れば見るほど涙は止まらなくなる。
しかしもう二度と、誰も俺に巻き込まないと決めたのだ。
由香里の悲劇は二度と繰り返させない。
今度こそ…確実に終わらせる。
広沢信二。
それが俺の旧姓だ。
日本の経済界でも名を轟かせている橋場家。
その橋場家の血縁関係に当たるのが我が家だった。
橋場家の長女であった母が平凡な会社員である父の元に嫁いだ訳だが、二人は決して橋場に頼る真似はしなかった。
今となっては記憶もほとんどないような幼い頃だが、父と母、姉と俺は幸せな日々を過ごしていた。
決して裕福な暮らしではなかったが、優しい父と母の面影は今も心に残っている。
そして大好きだった姉。
いつも姉に付き纏っていた記憶だけはよく残っている。
優しくて強くて、いつも俺を守ってくれていた姉だった。
だが俺が小学生になる前に悲劇が起きた。
一家で旅行中に事故に遭った。
原因は居眠り運転をしていたトラックの追突でバランスを失った父の運転する車はガードレールを越え峠の下へ落下した。
今でもはっきり覚えているのは追突された瞬間の衝撃とガードレールを突き破った瞬間の父と母の叫び声。
そして峠から転落した車両からは二人の子供が救出された。
それが俺と姉だ。
後部座席に座っていた母は横にいた姉を抱き締め、助手席にいた俺は父に抱かれていたそうだ。
二人が身を挺してくれたおかげか、姉は胸に大きな傷を負ったものの死を免れ、俺は父の大きな背中によって守られ軽症で済んだ。
しかし残された俺達には何も無かった。
思い出の詰まった家も、家具も、何もかもが無くなっていた。
俺達に選択肢など与えられる間も無く姉は父方の親戚の家へ、俺は母方の実家である橋場家に引き取られた。
その時から俺の悪夢は始まった。
小学校に入ってからもショックから立ち直れない俺は良いイジメの的だった。
それに対して名家の看板を汚すなと義父や義母からはよく叱られたものだ。
そして小学校高学年になる頃には実の両親の死を受け止め、必死に遅れた分の勉強に励んだ。
決して自分のためではなく、新しい両親を喜ばせるために。
それが俺に出来る最良なことだと思っていた。
でも両親は一度も喜ぶことはなかった。
それを自分の努力不足だと言い聞かせ、親を喜ばせるためなら色々とやってきた。
それでも俺は…最後まで認められる事はなかった。
むしろ頑張っている俺が目障りなのか、段々と俺への風当たりは冷たくなった。
俺と比べて実の息子である義兄の成績が伸び悩み、その怒りは全て俺にぶつけられていた。
暴言は当然のこと、時には暴行も受けていた。
酷い時は入院させられたことだってある。
だけど俺は諦めなかった。
有名な大学に入学した。
そして大学で生まれて初めて恋人が出来た。
家では苦しい日々だけど、大学での生活は実に充実していた。
大学で頑張って、良い仕事に就けば認めてもらえるかもしれない、そんな夢を描いていた。
しかしそんな夢はあっさりと打ち砕かれた。
橋場の家に来てから付き合いのあった木島。
どうやらこいつは昔から俺の監視役だったようだ。
そして同じ大学だった木島は俺の大学生活の全てを親へ報告していた。
この男がそこまでする理由は唯一つ。
橋場の力を借りたかったからだ。
そんな自己保身のために俺は売られた。
俺の大学での充実した日々を聞いた親は俺を憎んだ。
それも当然だ。
実の息子は大学にすら入れなかったのだから。
そして橋場の家は鉄砲玉を雇った。
多額な報酬で裏世界の人間を雇ったのだ。
その鉄砲玉によって…橋場という力と親友だったはずの木島のせいで恋人は殺された。
表向きには犯人の突然の凶行によるものと報道されていたが俺は事件後、犯人からの手紙によって真相を知ってしまった。
それから大学は何とか卒業したものの、絶望に閉ざされた俺は無気力な人間になった。
毎日何をするでもなく、僅かな食料と水分だけ摂取して生きるだけの日々。
そんな俺を見兼ねたのか、あるいは計画通りだったのか分からないが、ある日突然義父に言われた。
「もう死んでくれ」
そして義父から手渡された薬。
一瞬理解出来なかった。
だが、その時の俺は不思議と笑いが込み上げた。
これで終わることが出来る、と。
数日後の深夜、見知らぬ土地の建物の非常階段に俺は座り、夜景を眺めながら煙草を吸っていた。
これが最後の現世。
別れを言う人などいない。
親から渡された薬は毒だ。
飲めば数秒後に死に至れる。
だがそんな終幕は嫌だった。
最後の最後まで奴らの思い通りになるのは癪だった。
終幕ぐらい、自分で幕を下ろす。
薬をポケットの中にねじ込み、煙草を吸い終える。
「結局…新しい煙草ほとんど残っちゃったな…」
力なく笑うと俺は静かに目を閉じた。
最後に生き別れた姉の幸せを祈る。
「…さようなら」
この世に別れを告げ俺は体を空へ放つ。
落下感を味わうのも一瞬で、俺は何かにぶつかった。
叩き付けられるのではなく、ぶつかったのだ。
驚き目を見開くとそこにはよろめいた鳥がいた。
漆黒の闇を翔る鳥が俺の体に直撃したようだった。
鳥はよろめきながらも何事も無かったかのように羽ばたいて行く。
こんなことがあるものなのか…そう思っていると鳥にぶつかった衝撃で落下地点は予想から相当ズレていた。
下を見るとそこには大きな木が生えていた。
このままでは死ねない…そう思った瞬間に俺は恐怖を覚える。
咄嗟に体を丸め木の茂みに落ちて行く。
落下しながら体の数箇所を枝にぶつけた。
その途中、一本の太い枝が額に直撃した瞬間に俺の意識は途切れた。
そして記憶喪失。
今にしてみればこれは現実逃避したいという俺の衝動から起きたように思える。
消し去ってしまいたい程の黒い記憶。
人間の脳は意外と便利に出来ているらしい。
本人が激しく望めば、記憶が書き変わる事だって起こり得る。
当然望む一部の記憶を失うことだって可能だだろう。
きっと俺も忘れたかったのだろう。
現実を、自分を、橋場の名前を。
ずぶ濡れになって俺は雪希の家に戻る。
しかしここにももう長居は出来ない。
置手紙だけでも残して行こうと俺はずぶ濡れのまま居間に上がる。
明かりがついていないことから雪希はまだ帰宅してないようだった。
タオルを手に取り、滴る水滴を拭き取ってから俺は紙とペンを探し始める。
しかし暗くてよく見えないため、仕方なしに俺は居間の明かりをつけて物色し始める。
雪希が戻って来る前に終わらせなくてはいけない…。
そう思い焦っていると、後ろから突然声をかけられた。
「…帰宅して早々、何を探してるの?」
驚きのあまり後ろを振り返るとそこには部屋着に着替えた雪希がいた。
「な…何で…」
「何でって、ここは私の家でしょ。中々帰ってこないからちょっと一眠り…ふぁ…」
いつもより帰って来るのが早い。
しかしそこで今朝のやり取りを思い出した。
「まったく…何を探して…ってちょっと! あんたびしょ濡れじゃないの…!」
驚いた様子で雪希は俺が持っていたタオルを奪い取り、ガシガシと頭を拭いてくる。
成すがままにされていた、そんな普段通りの雪希の様子を見て涙が込み上げてきた。
「ご…めん…」
俯き表情が悟られないように呟く。
雪希もあえて表情を伺うことなく、頭を拭く手が優しくなった。
「…どうしたの?」
「…記憶が…戻った…」
「そっか…良かったじゃない」
次に伝える言葉が思い浮かばなかった。
今すぐ出て行くことを告げなければいけないはずなのに、どうしても伝えられない。
「やっと…会えたね」
「…え?」
悩んでいると、今まで聞いたことのないような優しい口調で雪希はそう言った。
しかしそれよりも言葉の意図が分からずに俺は混乱する。
「信二、でしょ」
名前を告げられた途端俺はさらに混乱した。
雪希が俺の名前を知っているはずがない。
記憶をいくら辿っても雪希と出会ったこともない。
だとすると雪希も実は橋場と繋がりのある人間なのだろうか。
何が何だか分からなくなっていた。
しかし困惑してる俺の様子を察知してか、雪希は変わらず優しい声で続けた。
「ゆき姉…って昔は懐いてくれてたのにな」
そこで俺の記憶に引っかかる部分が浮き上がった。
ゆき姉。
それは俺が姉と生き別れる前に使っていた呼び名だ。
それを知っているのは俺の幼少期を知る者、つまり実の家族だけだ。
まさかと思い、俺は俯いていた顔を上げて雪希の顔を直視する。
「嘘…だろ…ゆき姉…」
「何年ぶりだろうね…。もう二十年近く経つのかな…?」
信じられなかった。
こんな奇跡が起こるものか?
「世の中って意外と狭いんだなーって思ったよ。まさか道端で倒れてるのがよりによって生き別れた弟なんてね」
そう言う雪希の目からは涙が溢れていた。
その涙を拭おうともせず、タオルで俺の頬を優しく包んでくる。
「ずっと会いたかったよ…」
その優しい微笑みを前に俺は何も考えず彼女を抱き寄せキスをした。
雪希はそのまま俺の頬を包みながらキスに応えてくれる。
互いの唇が深くまで重なり、互いに求めるがまま舌を絡め合う。
俺達は血の繋がった姉弟だが、そんな事は気にならなかった。
姉と弟としてでなく、男と女として再び出会った。
それから今まで築いてきた感情は姉弟のそれではない。
「ん…弟とこんなキスしちゃった…」
「今更雪希を姉としては考えられないけど…」
「ずっとお姉ちゃんしてなかったからね…また昔みたいにお姉ちゃんに甘えていいんだよ?」
「ははっ…ゆき姉ぇーって?」
「あ、それちょっといいかも」
さっきまで出て行こうと考えていたことがすっかり頭から消えていた。
この奇跡的な再会が俺の黒い記憶を全て吹き飛ばしていた。
何よりこの世にはもういないと思っていた理解者が、まだここにいた。
彼女なら分かってくれる、きっと答えを教えてくれる、そんな期待が胸に満ちていく。
「ゆき姉…じゃあ一個だけ甘えてもいいかな」
「ん、なぁに?」
「俺は…生きていて良いのかな…」
その質問の返事に唇を塞がれた。
先程のように情熱的ではなく、撫でるような優しいキス。
それが雪希の答えなのだろう。
俺は…生きていていいんだ、彼女の側にいても…いいんだ。
「この世にね、生きてちゃいけない人なんていない」
「でも俺は迷惑を…下手すれば雪希の命に危害が及ぶかもしれない」
「一緒に事故に遭って、私達だけが生き残った。信二は私にとって世界で最後の家族…。もう…一人にしないでよ…」
「…いいんだね?」
「それ私が昨日聞いた。そして信二は選んでくれた。姉弟だっていい、一緒にいられるのならもう何もいらない」
そう答える彼女は曇り一つ無い笑顔だった。
その顔を見て、俺も顔が綻ぶのが分かった。
もう一度彼女の体を強く抱き寄せる。
こうして誰かを愛したかった、誰かに愛されたかった。
愛というものをこの身で感じていたかった。
橋場の家にいる間も姉のことは忘れていなかった。
だが、広沢の家に関わることは厳禁とされていたし、広沢の家も橋場の家は快く思っていなかったため姉と連絡を取る手段も無かった。
それからの悪夢のような日々で俺は自分がこの世に一人きりだと勘違いしていたが、そうではなかった。
ずっと、生き別れてからも今まで俺を想ってくれていた家族がいる。
その家族が今では恋人として俺を愛してくれている。
それだけでもう十分だ。
橋場の家に愛を求めていたが、今となってはもうどうでもいい。
今俺に出来る事はこの腕の中にいる女性と一緒に生きていくことだ。
「辛かったよね…何もしてあげられなくてごめんね…」
「いいんだ、お陰でこうして再会出来た」
「そうだね…。木島君にもちゃんとお礼言っておかないと…」
「木島…何で雪希が知って…」
「信二が橋場の家に行ってからのこと…全部教えてくれたんだよ?」
馬鹿な…何故あいつが雪希の存在を知っている。
第一何故そんなことを雪希に…。
あいつは俺を…
「木島君ね、信二を助けたいって言ってた。恋人の話は…木島君も凄く苦しんでた。自分のせいでって…」
嘘だ、あいつは橋場の力が欲しくて…自分の将来のために…
「だから橋場の家に取り入って、色々情報収集してたみたい。信二はさ…恋人が死んだ事件の真相…犯人からの手紙で知ったんだよね」
「何で…そこまで…」
「あれね…木島君が信二に知って欲しくて自分で書いたんだよ」
容疑者の男から俺宛に謝罪の手紙が届いたと、木島に渡された。
そこには事件の、橋場の真相が、男の自供とも取れる内容が書いてあったのだ。
木島は由香里の友人だったこともあって、容疑者と面会をし、その際に手渡されたと言っていた。
すでに男には有罪判決が下されており、事実由香里を殺したのは男で間違いなかったものの、俺自身憔悴しきっていて犯人それ以上をどうこうしたいなんて思いはしなかった。
しかし今考えてみれば確かに容疑者が警察への証言と異なる事実を俺にだけ手紙で話すというのはおかしな話だ。
その手紙の真相は犯人から俺へ宛てられたものではなかったのだ。
事実を知る木島が耐えられなかったか、はたまた俺への罪滅ぼしなのか…何れにせよ容疑者ではなく木島から俺への謝罪文だったという訳だ。
「彼は色々調べていくうちに私の存在を知った。でも広沢の家にいる私には何も出来ない…だから自分が架け橋になるって…」
「じゃあ…俺は今まで…」
昼の出来事を思い出した。
雪希の話が本当だとすると…俺はあいつに…。
「木島に謝らないと…」
「うん、でも大丈夫だよ…。信二のことは私よりも彼のほうが分かってるから…」
何だ…俺は昔から一人じゃなかったんじゃないか…。
家族と…親友に見守られていたんじゃないか…。
俺の目から大きな涙が溢れ出し、その場に崩れ落ちた。
自殺なんて…バカじゃないか…。
それこそあいつらの思い通りじゃないか…。
俺は…雪希と木島の気持ちを裏切ろうとしてた…裏切り者は俺じゃないか…。
「もう…絶対死んじゃ駄目だから…」
崩れ落ちた俺を胸に抱きかかえる雪希の声が震えていた。
それはまるで命令というよりも懇願しているようだ。
今まで縛り付けられていた心が解放されたようだった。
溢れ出す涙は悲しみよりも喜びへと変わる。
愛されている喜び、愛せる喜び。
闇に閉ざされた世界が色をつけ、生きているという実感を噛み締める。
「絶対…死なない…俺は生きる…最後まで生きる…」
力強く雪希に抱き付く。
昔のように、姉に縋る弟のように俺は泣きじゃくりながら抱き締めた。
そして雪希は俺が泣き止むまでずっと抱き締めてくれていた。
これで終わった訳じゃない。
全てを終わらせるには橋場の家との決別が必要だ。
穏便に済むとは思えないが、不思議と恐怖や不安は無かった。
それは俺を支える人達の存在があるから。
だから俺は数日後、自らの意思で橋場の家へ戻った。
義兄は相変わらず部屋に引き篭もっている様だったが、構わず俺は義父と義母と対峙する。
「…今まで何処にいたの?」
「何処でも…いいでしょう。俺が死ねばそれで…」
「でも生きてるわね」
早速とんでもないやり取りだった。
今までのように遠回しなやり取りではなく、直球だった。
どうやら今回の件で確実に死んで欲しかったようだ。
「…死ねなかったんです」
「私は死ね、と言ったはずだ」
義父が威圧的にそう言い放つ。
最後の最後まで持っていた微かな希望が今完全に失われた。
どうやら俺の居場所をここで見出す事はもう不可能らしい。
「死ねなかった…。飛び降りたけど…助かってしまって…」
「薬を渡しただろう、何故飲まなかった?」
「………」
「…この能無し」
「死ぬことすら出来ないとはな…」
「どうして私達を苦しめるのよ…あんたのせいで勇介は駄目になってしまって…」
勇介…それは今も尚引き篭もってる義兄のことだ。
「この疫病神! あんたなんて家族全員で死んでおけば良かったのよ!」
家族のことを言われ一瞬怒りが込み上げて来た。
しかし家族はまだ生きている。
俺にはまだ雪希がいるんだ。
「…大丈夫、もうこの家からは出て行くから」
「当然だ、お前の面など見たくもない」
「この家の子だった事実が残っているだけでも忌々しいわ…」
ここまでくると笑えてしまった。
どうしてこの人達はここまで俺を嫌うのだろうか。
だがそんなことはもう今となってはどうでも良かった。
「…じゃあ、俺は荷物まとめて行くよ…。さよなら…義父さん、義母さん。今まで…ありがとうございました」
「………」
誠心誠意、今まで育ててくれたことを感謝する。
嫌われていたし、酷い扱いもされてきたけど…ここまで生きてこれたのは両親のお陰だ。
雪希と出会えたのも両親のお陰だと考えれば、感謝の気持ちが沸かないはずがない。
俺は今度こそ最後の別れを告げる。
最後に振り返ってみると、両親は今にも俺を殺してしまいそうな…そんな目を向けていた。
使い慣れた自分の部屋に戻ると早速荷物をまとめる。
橋場の家に来てからの日々を思い返すが、今となっては良い思い出だ。
手帳やお気に入りの服など、必要最低限の荷物をカバンに詰め込む。
「……………」
しかしその様子をドアの隙間から義兄が覗いていた。
「…義兄さん?」
「………」
俺が頑張れば頑張る程落ちていった兄。
部屋に引き篭もり続けたせいで体は醜く肥え太り、心も歪みきっていた。
伸びきって乱れた前髪から垣間見える双眸から伺える感情は憎悪しか感じ取れない。
失礼ながらも、そんな奴がドアの隙間から覗いているとどうしても不気味さが拭えなかった。
だが俺は気にせず作業を続けていると、ふと独り言のような小さな声が耳に届く。
「お前なんて…死んでしまえ…」
「………」
俺は義兄に目を向ける。
その醜い姿…見ていると何だか哀れに思えてきた。
何故あなたはそこでそんなことをしているのだ。
橋場の家を背負って立つ男が、こうして燻っていていいのか。
俺に叶えられなかった夢…あなたなら叶えられるのではないか。
しかし俺は何も発することなく、見捨てるように視線を逸らし荷物の整理を続ける。
「…っ…ぎぃっ……!!」
それが癪に障ったのか怒りを露にするが、そのまま自分の部屋へと戻っていった。
結局…最後まで兄弟らしいことも出来なかったな…。
しかし因縁やしがらみを頭から振り切る。
これからが始まりなんだ。
気持ちを切り替え、まとめた荷物を持って駅まで歩いていく。
この橋場の家から雪希の住んでいる家までは電車を使えば大した距離ではなかった。
最初は重かった足取りも、これからの事を考えると少しずつ軽くなっていく。
今までの橋場家での日々を思い出しながら歩き、駅に到着すると改札の前に見知った男が立っていた。
「終わったのか?」
「…うん」
木島だった。
どうやら雪希から連絡がいったようだ。
「これからも大変だと思うけど…頑張れよ」
「木島…あの…俺…」
「…俺はお前の親友だぜ? 細かいことは気にするなよ」
「ありがとう…」
「それより…悪かったな、俺は結局お前のために何も…」
笑っていた木島の表情が曇る。
それは自責の念に駆られているようだった。
「…仕方ないさ。お前は頑張ってくれた…勘違いしてた自分が恥ずかしい」
「でも…」
「細かいことは気にするなよ、俺達は…親友だろ?」
その言葉に木島の表情が和らぎ、いつもの笑顔を取り戻す。
差し出された木島の手を俺は強く握り締める。
「姉ちゃんと…彼女と幸せにな」
「あぁ…また一緒に遊ぼう」
俺達は笑みを交わすとそこで別れた。
それから数時間後。
新しい我が家に帰り、出迎えてくれたのは最愛の彼女だった。
橋場の家と別れを告げてから一ヶ月。
恐ろしい程平穏な日々だった。
新しいスタートということで俺も仕事を探し始めた。
雪希はヒモ生活、主夫なんてどうだろうかと提案してきたが断固として断った。
そんな仕事先を探しながら家事にいそしむ。
男として情けない気もするが、それでもそんな日々が輝いていたんだ。
しかし完全に絶ったはずの因縁は終わっていなかった。
その日は雪希の仕事が休みで、昼からぐーたらしていた。
「今日の夕飯はー?」
この辺のやり取りは記憶を失っている間と大して変わり無い。
相変わらず雪希は家事全般が駄目だ。
だがお陰様で俺の料理の腕はめきめきと上がっていた。
「何が食べたい?」
「えーとね…信二!」
「はいはい…」
「何よー、信二だって私のこと食べたいんでしょー」
「じゃあ今日はお姉様の大好きなすき焼きにしましょうかね」
「すき焼き! これだから信二大好き!」
一緒に暮らしてみて思ったことだが、昔はあんなにお姉ちゃんっぽいと思っていた雪希も今では逆に妹の相手をしているような気分だった。
たまに姉らしい姿を見て頼りになるのだが、基本的にずぼらなためどうにもこっちから甘えようという気が起きなくなる。
むしろ雪希のほうからやたらと甘えてくるからこっちが甘える隙がないというのもある。
しかし今まで雪希も一人ぼっちだったことを考えるとその気持ちも分からないでもなかった。
だからこそ、これからもっと幸せにしてやろうと俺も強く決意出来る。
「じゃあちょっと食材買ってくるよ」
「うん、はいお小遣い」
「………」
「ん、どうしたのかな?」
「お小遣いって…やめてくれよ…。第一これは雪希の食材でもあって…」
「あれー、でも信二君はうちにお金入れてるのかなぁ?」
ヒモの辛いところだった。
早く仕事探さないと…。
そんなこんなでお金を受け取り俺はスーパーに買出しにやってきた。
すっかり通い慣れたため何処に何があるのかほとんど熟知している。
「お…今日は牛肉が安いのか…」
日頃から通っているため値段の相場まで頭に入っていた。
折角の休日だし、何より雪希は肉が大好物だ。
安かったのもあって普段より俺は肉を多めに買うことにした。
大量の肉を見て雪希はどんな反応をするのか、それを今考えるだけでも何だか楽しみになってきた。
改めて自分でも主夫が板についてきた気がする。
戦利品を手に軽い足取りで家に向かう。
そしてもらっていた合鍵をドアに差し込んだ瞬間に違和感を覚えた。
閉めたはずの鍵が開いている。
嫌な予感がした俺はドアを開くとすぐさま居間の様子を見ようとした。
しかし居間に広がる光景は見るに耐えないものだった。
一瞬時が止まったように思える。
平穏な日々に突然訪れた惨劇。
一緒に挟み合っていた食卓から滴る血。
テレビに飛び散った血。
壁にこびりつき、ズルズルと痕の残った血。
何処を見ても視界に入るのは血、血、血、血。
だが居間に雪希の姿はない。
最悪の結末が脳裏に浮かぶ。
あるはずがない、こんな非現実的な事が起こるはずがない。
しかし俺は恐怖でその場から動けなかった。
まだ寝室を見ていない。
確認をしなければいけない。
しかしもし…そこに…雪希が…
「嘘だ…こんなの…嘘だ…」
居間に充満した血の匂い。
吐き気を覚えるがそんなこと気にしていられる場合じゃなかった。
俺は天に祈るような気持ちで寝室へと一歩ずつ歩み寄る。
寝室は家を出た時と同じで明かりはついていなかった。
しかし、俺が寝ていた床に俺以外の誰かが横たわっていることは確認出来た。
明かりをつけなくても分かった。
窓から差し込む月の光。
目が慣れてくるとそれが誰か判別するのに時間はかからなかった。
「雪…希……」
ぐったりと横たわる雪希の横で崩れ落ちる。
「雪希…なぁ…ただいま…」
そっと体を揺さぶるが雪希はビクともしない。
それどころか触れた手に生暖かい、どろっとした物が付着した。
気が狂いそうになるのを必死に堪えて、俺は震える手で明かりをつける。
そこにいた雪希は無残な姿だった。
人間の所業とは思えない程に体中を刃物で切り裂かれていた。
微かな希望を胸に、彼女を抱き起こす。
「雪希…返事してくれよ…なぁ…ゆき姉…」
しかし彼女は動かない。
彼女の重みが腕に圧し掛かる。
まるでモノみたいだった。
人形のように雪希は動かない。
鮮血で染まった胸に耳を当てるが、心臓の音は聞こえない。
だらりと垂れた腕を取り脈を測ってみるが、指先に伝わる鼓動はない。
震えているせいだ、俺が震えて混乱しているせいで分からないんだ。
そう思い手首を頬に当てるが何も感じない。
体中が血まみれだった。
そしてこれが全て雪希の血だと理解した瞬間に俺の中で何かが切れた。
「あ…あぁ…うぁ…」
誰だ…誰がこんな真似をした…。
俺は息絶えた雪希を強く抱き締めながら、自分の中でどす黒い感情が沸き上がるのを感じた。
その時だ。
俺の後ろから気配を感じた。
ゆっくり振り返ると、そこには見知らぬ男が血まみれの包丁を持って構えていた。
「お前が…殺したのか…」
男は覇気のない俺を見たせいか、思った以上に動揺していなかった。
あるいはこの男が殺しに慣れているのか…それは分からない。
ただ一つ、分かる事がある。
「お前が…雪希を…殺したんだな…」
体中の血管が沸き上がるのを感じる。
毛穴全てが開き毛が逆立つような感覚を覚える。
そして頭の中はただ目の前の男への殺意。
その気配を感じ取ったのか男が包丁を持ったまま俺に突進してくる。
「うあぁぁぁぁっ!」
俺はその男から逃げるどころか逆に突進する。
男はその対応が予想外だったのか一瞬動きが怯んだ。
しかし俺は相手が刃物を持っているにも関わらず相手の目の前に踏み込み、包丁の刃を握りそのまま奪い取る。
得物を奪われた男は咄嗟に逃げ出そうとするが俺は迷い無く奪った包丁で男の背を突き刺した。
何度も、何度も、何度も、何度も、男が倒れ息絶えても尚、背中に隙間無く包丁を突き立てる。
骨に当たっても骨ごと貫く。
内臓という内臓を全て破壊しつくす。
うつ伏せだった男をひっくり返すと今度は胸を包丁で何度も突き刺す。
まるで骨抜きをした魚のように刺した手応えを感じなくなると俺は包丁を手放すが、その時男の着ていたコートに封筒が入っているのを見つけた。
血まみれの手で封筒を開くと中には手紙が入っていた。
そこにはこの家の住所と、俺と雪希の名前…そして特徴が書かれていた。
だが俺はこの字に見覚えがあった。
そうだ、この男は雇われたんだ。
「…許さない…絶対に…許さない…」
俺は倒れている雪希を抱き起こす。
そして雪希の顔を見て気付いた。
「怖かったよな…そうだよな…」
涙の痕。
どれ程の恐怖を味わったのか一瞬で分かった。
そしてこうなった原因は俺だ。
俺のせいで雪希は死んだ。
こんな事が許されていいのか。
俺が憎いなら俺を殺せばいいだろう。
死ななかったからか?
生きているから、俺と雪希を今度はまとめて殺そうと?
悲しみと怒りが俺の限界を超えて、自分の中で処理出来なくなる。
「ああああぁぁぁぁぁぁっ!」
思い切り叫んだ。
近所迷惑なんて事は頭にない。
とにかく叫びたかった。
力の限り叫んだ。
喉が枯れると俺は雪希の血を啜った。
全て一緒になる。
もう絶対に離れないと約束したんだ。
その辺にあったタオルを手に取り、雪希の顔を綺麗に拭いてやる。
ふと右手を見ると手の平はバックリと切れてどす黒い血が溢れていた。
「…終わらせてくるよ、全て」
雪希の血が染み付いたタオルを右手に巻き付けて止血する。
俺はゆっくりと雪希を持ち上げ、居間に移動する。
テーブルをどかし、その場に横たわらせた。
そして持っていた煙草を彼女の横に添える。
「安らかに眠ってくれ…俺もすぐ行くよ…」
そう告げ冷たくなった唇にキスをすると、壁にかけてあったコートを羽織る。
犯人を串刺しにした包丁を再び手にして俺は家を後にした。
適当にタクシーを拾って橋場の家まで向かう。
金なんて持っていない。
到着すると持っていた包丁で運転手を脅して降車した。
運転手は俺が降りるとすぐさま逃げ出す。
俺はご立派な橋場家の門の前に立ち、虚ろな目で空を仰いだ。
そして暗い天蓋へ向かって一人ごちる。
「なぁ神様…俺はどうすれば良かったんだ…」
雪希はもう向こうに行ったのだろうか、そんなことを考えながら俺は門をよじ登り、正面から家へと入ろうとする。
しかし当然ながら鍵が掛かっていたため、庭の窓を蹴破って家に侵入する。
そこには食事中の義父と義母がいた。
「し、信二…?」
俺の普通でない様子を見て義父が激しく動揺しているのがよく分かる。
虚ろだった俺の目は奴らの姿を見た瞬間に炎が灯った。
復讐という名の炎が。
堪えきれない殺意を必死に抑えながら、俺は右手に巻き付けたタオルを解く。
そして持っていた包丁を逆さまにして一緒に右手にもう一度、強く巻き付けた。
「な、何をするつもりなの…」
「決まってるでしょう…復讐ですよ…」
左手と口でぎゅっとタオルを結ぶ。
これで準備は整った。
居間を見てみると義父はいなくなり、義母は必死に電話に向かって叫んでいる。
抑えていた殺意に身を任せて俺は一気に駆け出した。
逃げ出す義母を追い掛け台所に追い詰めた時、突然後頭部に衝撃が走った。
振り返るとそこにはゴルフクラブを持った義父がいた。
「し、死ねぇっ!」
しかし二打目は俺の脳天を外し、肩に当たった。
「…ねぇ父さん、何でいつも殴るの? 俺いつも頑張ってたのにさ…何処が気に食わなかったの…?」
ジリジリと距離を詰める。
義父はその迫力に押されてか、俺が近付くほど離れていった。
しかしその距離を一瞬で詰め、迷うことなく胸に包丁を突き立てる。
肋骨の間を通って内臓まで刃が届いたのが分かった。
「ぎゃあぁぁぁぁっ!」
叫んだ瞬間にはすでに包丁を抜き、今度は心臓目掛けて刃を立てる。
「ひぎゃあぁっ! だ、誰か…助けっ…!」
その言葉を聞いて俺は包丁を抜くとそのまま解放してやる。
目の前でムカデのように這いずり回り、俺から逃れようとする義父。
いつの日だったか…逆の立場でこんな事があった。
その時は確か胸を灰皿で殴られたんだっけ。
肋骨が折れたけど、原因は木から落ちたという事にされた。
今になってみれば折れた肋骨が内臓を傷めなくて良かった。
「でも…お返ししなきゃ…」
逃げる父の胸を掴み、上半身を起こす。
「や…止め…伸二…」
「じゃあ最後の一回ね…」
胸の奥深くまで突き刺し、力強く抉る。
凄い勢いで血は溢れ、タオルは一瞬で真っ赤に染まった。
そして義父は瞳孔を開いたまま動かなくなった。
「……次は…母さん…」
「うわあああぁぁぁぁぁ!!!」
振り返ると包丁を持った義母が突進してきていた。
避ける間もなく、立ち上がった俺の胸に包丁が突き刺さった。
痛い。
でも今まで受けてきた痛みと比べればこの程度の痛みは大したものではない。
俺は義母の腕を掴み、一気に引き寄せると横から首元へ包丁を突き立てた。
「かっ…!」
短い悲鳴をあげたと同時に首元から大量の血が噴き出す。
義母は必死に噴き出す血を止めようと両手を首に当てるが止まる気配は無い。
数秒後その場で事切れた人形のように無造作に倒れ、床には溢れ出る義母の血が広がっていった。
「…あと一人」
胸に刺さったままの包丁を引き抜くと、心臓の鼓動に合わせて血が溢れ出る。
「…雪希…もうすぐだから…」
顔を濡らす返り血の上から涙が伝った。
不思議と痛みはない。
気付けば殺意も何も無くなっていた。
ただこの一家を皆殺しにする、それだけのために自分が生きているようだった。
残った一人は二階の自室だろう。
胸から溢れる血を気にも留めず、俺は義兄の部屋へ向かう。
ドアを開けようとするが鍵が掛けられていた。
だがつまり義兄はこの中にいる。
俺はドアを蹴破った。
「うわああぁっ!」
そこには窓から逃げようとしていた義兄がいたが、怖気ついて飛び降りられなかったらしい。
「お、落ち着けよ伸二…!」
逃げ出すのを諦めると義兄は腰が抜けているのか、その場に座り込んで必死にあとずさっていた。
「俺はお前の味方だ!」
「そういえば兄さん…母さんによく有りもしない事を色々言って…怒られる俺を見て笑ってたよね…」
「親父の相続金は二人で山分けしよう! な! 悪くない話だろ!」
じりじりと義兄に詰め寄る。
「俺…皆の事好きだったよ…」
「お、俺だってお前は大事な義弟だと…!」
「家を出る時…死ねって言ったよね…」
「あ、あれは嘘だよ! 母様に言えって言われてさ…!」
「ウソツキ…」
義兄の前に立ちはだかり見下す。
「…し、死ぬのは、おおおおお前だぁっ!」
隠し持っていたカッターナイフを握り締め義兄は俺目掛けてその刃を立てた。
カッターは脇腹に食い込んだがそのまま中で刃が折れる。
「あ…あぁ…ぁ……」
刃を失ったカッターを見て義兄の顔が絶望で青褪める。
そんな様子を気に留める事なく、俺は義兄の頭を左腕でしっかり固定すると思い切り包丁を兄の頭部に突き刺した。
頭蓋骨を貫いた感触が右手に伝わる。
「ぎゃあああああああああぁぁぁぁっ!!」
断末魔の様な叫びを上げる義兄。
耳障りだったため俺は頭に突き刺さった包丁をグルリと反転させる。
「うぎゃがぁああああああぁぁぁああ!」
じたばたと暴れるが頭はしっかり固定しているため逃れる事は出来ない。
段々と抵抗する力が弱くなり、義兄が完全に動かなくなるのを確認すると右手のタオルを解く。
頭に刺さった包丁はそのままにして、タオルを持ったまま俺は再びリビングへ戻った。
「父さん…母さん……」
瞳孔を開いたまま倒れている父の隣に座る。
「………」
俺は何となくコートのポケットに手を伸ばし義父から貰った薬を取り出した。
今思えば、言われた通りこの薬を飲んでいれば全てが何事もなく終わっていたのかもしれない。
こうして家族を殺す事も、最愛の女性が死ぬことも無かったのかもしれない。
「…は…ははは……」
そうだ、俺が飛び降り自殺なんかしないでこの薬を飲んでいれば雪希に出会うこともなかった。
そうすれば彼女が死ぬこともなかった。
「全部…俺のせいか…」
生きていちゃいけない人間なんていない、雪希のその言葉を思い出した。
分かっている。
死ぬことの愚かさは分かっているんだ。
でも雪希のいないこの世に何の未練がある?
「…あれ」
段々と目の前が白く霞んできた。
俺の胸から溢れている血は決して少なくない。
「そろそろか…」
雪希のいる所へ行ける。
そう思うと勝手に笑みが零れた。
ふと人の気配を感じて振り返るとそこに血相を変えた木島が息を荒くして立っていた。
「し、信二…これは…」
リビングの惨劇を目の当たりにして木島は混乱しているようだった。
しかし俺の胸から溢れる血を確認すると駆け寄ってきた。
「お前この怪我…! 誰にやられた!」
「そこで…死んでる家族だよ…」
体を支える力を失い倒れかけた俺を木島は抱き留めた。
最期は親友の腕の中というのも悪くない。
「まさか…お前が…」
「ごめんな…遊ぶって約束…守れそうにないや…」
「ば…そんなの治療してからでいい! すぐに救急車を…!」
そう言って携帯を取り出そうとする木島を俺は制す。
「何でだよ信二! まだ助かるかもしれないだろ!」
「いいんだよ…もう…いい…」
意識が遠のいていくのが分かった。
これが死ぬという事なのだろうか、別に走馬灯も何も頭を駆け巡らない。
ただひたすら体が重く、眠たかった。
雪希はこんな事を考える暇も無く死んだのかと思うと俺の目から涙が溢れ出した。
「木島…最後に頼みがある…」
「最後なんて言うな! きっと助かるから諦めるなよ!」
木島は俺の手に握られたタオルを奪い取ると、胸の傷口に強く押し当てる。
それでも溢れる血は止まらず、タオル越しに溢れ出した。
「雪希を…綺麗な墓に埋めてやってくれ…」
「雪希さん…? ま、まさか…」
そして木島は気付いた。
過去の過ちを、この一家は再び犯してしまった事を。
すると慌てふためいていた木島の表情は落ち着きを取り戻していた。
「そっか…頑張ったな信二…。任せろ…二人一緒に…立派な墓建ててやるよ…」
そう言う木島の唇は震え、必死に涙を堪えているのが分かった。
「ありがとう…親友…」
笑顔でそう告げる。
思えば木島には苦労ばかり掛けてしまった。
俺と関わったばかりに、こいつの人生もおかしくしてしまったのかもしれない。
それでも、俺のために涙を流してくれる友人が目の前にいる…それだけで心が満たされていった。
「最後ぐらい…親孝行して…逝くとするか…」
「何だって…? 何て言ったんだ信二?」
ずっと持ち続けていた小分け袋から一錠の薬を取り出す。
「おい、何だよそれ…やめろ信二…」
怪訝な顔を向ける木島を気に留めず、俺はその薬を飲み込んだ。
飲み込んで数秒後、突然体の内部から激しい痛みが駆け巡る。
痛みは苦しみへと変わり、一歩一歩死に近付いていく。
普通なら叫び暴れるところだが、生憎とそんな気力はもう残っていない。
「おい信二! 何を飲んだんだ! 信二!」
耳元で木島が何かを叫んでいるが、その声はもう俺には届かなかった。
暗く閉ざされていく意識の中、目の前に雪希の姿が浮かび上がる。
そして完全に意識が消える直前、雪希は酷く悲しそうな笑顔で俺に向かって両手を伸ばした。
俺の選んだ選択肢は間違いだったのだろうか、雪希はこんな事を望んでいなかったのか。
しかし今となっては確認する術もない。
答えは向こうで聞くとしよう。
信二の傷口から流れ出る血はまだ温かかった。
しかし弱々しい呼吸すら無くなり信二は木島の腕に抱かれたまま静かに息を引き取る。
一度ならず二度も。
この橋場の家に住み着いた悪魔を呪うと同時に、己の無力さが堪え切れずに爆発した。
木島は泣いた。
まるで信二の怒り、怨嗟を代弁するかのように力の限り叫んだ。
橋場の家から信二の監視を頼まれた頃から木島はこの家に巣食う悪魔の正体を調べていた。
歳を重ねる毎に分かっていく真実。
何度も信二に全てを明かそうとしたが、ただでさえ憔悴している彼にそれらを伝える事はトドメを刺すようなものだった。
だが堪えきれなくなって由香里が殺された際に容疑者に成りすまして手紙で事件の真相を伝えてしまった。
抜け殻のようになっていた信二に復讐心でもいい、心を取り戻して欲しかったのかもしれない。
だが親友の未来のために自分の人生を捧げる決意は全て失敗に終わった。
家族との和解を考えていたことがそもそも愚かであった。
大学時代、彼の生活を報告したのは自分。
そして雪希と共に暮らしていた事を報告したのも自分だった。
縋る様な思いで今度こそ信二に手を出さない様に頼み込んだがそれすら無駄に終わった。
それどころかそのせいで二人は死んでしまった。
そう、こんな事になったのは全て自分のせいだ。
泣き叫び気が狂いそうな思いで木島は目を覆いたくなるような周囲の惨劇を見渡す。
これは全て自分のせいなのだ。
倒れている信二の義母が握っていた包丁が目に入った瞬間に黒い衝動が襲い掛かってくる。
罪を償う方法はこれしかない。
だが突然雪希に言われた言葉が彼の頭に蘇った。
それは信二が大学に入る前の事だ。
信二の監視を続ける事と橋場家の真実を知っていくうちに、彼は自分自身どうすればいいか分からなくなっていた。
もしかしたら自分のせいで余計に信二を苦しめているのではないかと考え死のうとした事がある。
苦しい日々にも関わらず優しく接してくれる親友。
その親友の事を思えばとても自分がやっている事が正しいと言える自信はなかった。
だが唯一世界の残された彼の家族である雪希との連絡を絶つ訳にもいかないし、それを伝えて信二に動揺を与える訳にもいかなかった。
何より今更どんな顔をして今まで自分がやってきた事を伝えればいいのか分からずにいた。
そうして死ぬかどうか悩んでいた事を、雪希に相談した事があった。
兄弟のいなかった木島にとって雪希は彼にとっても姉のように思っていたのか、愚痴を零すような…冗談半分で言ったつもりだった。
しかしその言葉に雪希は死んでいい人間なんて存在しない、と真剣に伝えた。
そして木島がいたから雪希は絶望から救われたと。
そう言って感謝する雪希には驚かされたものだが、そんな今は亡き彼女の言葉が木島の脳裏に蘇った。
「俺は…どうすればいいんだよ雪希さん…」
腕の中で安らかに眠る信二を見て再び涙が込み上げてくる。
残された者の気持ち、それが初めて分かった。
まして肉親を全て失った悲しみ、それを幼少期から背負ってきた信二の事を思えばその苦労は計り知れない。
「なぁ信二…俺はありがとうなんて言われる資格はないんだよ…」
だがその言葉に対する返事はない。
罪を償う方法は分からないが、これからこの罪悪感を持って生きるのが罰なのではないか。
だとしたらここで死ぬ事は許されないだろう。
「お前に見合う親友になるためにも…俺頑張るから…だから…」
木島は親友に最後の挨拶を済ませると己が今やるべき事を始めた。
それから数年の月日が流れた。
事件後、警察に全ての真相を話した木島だが、ただ静かに彼等を眠らせたいという願いから信二の犯行はニュースで報道される程度で終わった。
一家惨殺事件、犯人は養子、犯行動機は復讐…心を打つ事件は真相だけ明るみにし人々の記憶からはすぐに消えていった。
あの惨劇を覚えている者は自分だけでいい…それが木島の出した答えだった。
そして信二達の命日、新たに二人の遺骨が納骨された広沢家墓地の前に木島は立っていた。
「元気にやってるか信二。俺は元気にやってるよ」
墓石の前で手を合わせてその向こうにいるであろう親友に向かって語りかける。
「俺に出来ることなんてこれぐらいしかなかったけどさ…ちゃんと約束通り雪希さんとお前を…綺麗な墓に入れてもらったよ」
彼等の墓に訪れる人間は木島ぐらいだった。
だがだからこそ彼は毎年欠かさず墓参りに訪れる。
「お姉ちゃん待ってよー…」
と、そこへ同じく墓参りに訪れたのか幼い姉弟が木島の後ろを駆け抜けていった。
そしてその後から姉弟の両親と思われる人物が現れ一礼すると二人を追いかける。
そんな家族の後姿を見て木島は自然と笑みが零れた。
「向こうで家族みんな幸せにな、親友よ」
目を通して頂きありがとうございます。
少しでも楽しかったと思ってもらえると作者冥利に尽きます。
かれこれ十年近く前に書いた作品ですが如何だったでしょうか?
感想などございましたらお気軽に聞かせてください。
この度は本作品を読んで頂き、本当にありがとうございます。