越境:間
勇悟が光に呑み込まれて消えていった。
私は何も言わずに彼を見送った。「じゃあね」なのか「またね」なのか。何と言って別れればよいのか、私の中ではっきりしていなかったからだ。
今朝は地球に残るつもりでいた。でも。
残された二人を見る。勇悟のパパとママ。二人とも抱き合って、ぼろぼろと泣いていた。しかしそれは、彼の葬儀で見たものとは違う。暖かい涙だった。笑顔を浮かべながら、彼を見送っていたのだ。
もし私が地球を離れるとしたら、私のパパとママも同じように送り出してくれるだろうか。それはわからない。しかし、勇悟が最後に漏らした二人への言葉は、二人への思いに満ちあふれたものだった。彼は二人と今生の別れを遂げるというのに、最後まで清々しい態度で、未練を残さなかった。
まさか地球まで勇悟が助けにきてくれるなんて。
思い返すと、彼も無茶をした。スタジオーネに帰れるかもわからないのに。昨晩の念話では『戻るつもりはない』と言っていたのに。私のために、ここまでやってきてくれたのだ。私のためだけに。
「識音ちゃん……あなたは、勇悟の事、知っていたの?」
彼の母が考え事をしていた私に話しかける。
「……はい。黙っていてすみませんでした。言うべきか悩んでたんですが……」
結局、踏ん切りがつかなかったのだ。彼にも止められていた。
「そう……。きっと、あの子がそう頼んだのね。」
母親にはお見通しだったようだ。私はこくりと頷く。
「私……一週間ぐらい前に彼と再会したんです。でも、彼はもうこの世界の住人ではありません。彼はもう、違う世界で生きていく覚悟を決めていたんです。」
「あの子はいつもそう……。自分でこれと決めると、決して曲げようとしないの。ふふ、馬鹿な子よね。……あーあ。そっか……。行っちゃったか……。」
彼の母は勇悟がいた場所を見ながらぼんやりと呟いた。しかし、その表情は暗いものではない。目元は赤く腫れているが、葬儀の時とは大違いだ。
「勇悟はここから遠く離れた場所で幸せに生きている。それでいい。それでいいじゃないか。それを聞けただけで、俺は満足だ。」
彼の父もまた、どこか清々しい表情で微笑んだ。勇悟と違って厳しい印象を受ける顔だが、今は勇悟の優しい笑顔が重なって見える。
私はどうだろう。
もし、このまま彼と会えないとしたら。
ぎゅっと身を強ばらせる。
先ほどまで抱きしめられていた。
彼の体温がまだ残っている。
いやだ。
いやだよ。
やっぱり、私は勇悟がいないと。
勇悟と一緒にいたい。
彼と共に生きていきたい。
どうしても。
◆
勇悟の両親に改めて挨拶をして、家を後にした。
すでに日が落ちかけている。夏なので日は長いが、もうそろそろ夜が来る。真っ赤な夕暮れの眩しさが私の目を刺してくる。向こうの世界に太陽はない。あるのが当たり前だったものがなくなると、不安な気持ちになる。
ひとりで帰り道を歩きながら、色々な事を考えた。地球の事。スタジオーネの事。パパとママの事。友人達の事。小さい頃の事。将来の事。そして。
何を考えていても、結局は彼に行き着いてしまう。
勇悟の顔が、私に向けられた優しい笑顔が、頭から離れなかった。
家に着いて、玄関を開けるとすぐに母が飛び出してきた。
「識音! あなた、どこに行ってたの!? 大丈夫なの!?」
そうか。私は家を飛び出したんだった。あの話の流れでは、下手をすれば私が死のうとでもしていると思われかねなかった。心配をかけてしまった。
「うん、ごめんね、ママ。大丈夫だよ。ちょっと勇悟の家に行ってたんだ。」
「そ、そうなの? 仁木さんのお宅に……」
「うん……勇悟に会いたくなっちゃって。」
「そう……。あのね、識音。勇悟君の事は——」
「ママ。大切なお話があるの。」
私は母の言葉を遮った。
「識音……?」
困惑する母。しかし、私はしっかりと話をしなければならない。どうしても。
「パパはまだ帰ってきてないよね?」
「ええ……。識音、大切なお話って、今朝言ってた事かしら。」
「うん。あのね。私の大切な人の話なの。」
「……あなた……。」
母は何かを悟ったようだ。少し表情が暗くなった。その顔を見ると、決意が鈍りそうになる。でも、私は目を逸らさなかった。堂々と想いを伝えなければならない。
「もう……。わかったわ。とりあえず、パパを待ちましょう。さあ、ご飯の支度をするから手伝って。」
「うん。ありがとう、ママ。」
◆
その後、帰ってきた父と食卓を囲みながら、大切な話がある事を切り出した。朝にも伝えていたので動揺は少なかったが、父が手に持った箸が震えていた。
「そ、そうか……うん。なあに、まだ中学生だもんな。け、結婚は出来ないし。大丈夫だよな……。だよな?」
実は彼と結婚まがいの事はしていると言ったらどうなるのだろうか。魂のつながりはまだほんのりと暖かい。私の事を勇悟が見守っているようで嬉しかった。
食後のテーブルにそのまま向かい合って座る。父はそわそわとせわしない。私の顔をちらちらと見てくる。母は静かに私の話に耳を傾けてくれるようだ。じっと私を見つめていた。
「パパ、ママ。あのね。私には、大切な人がいるの。」
それを聞いた父はガーンと擬音が聞こえてくるようにショックを受けた様子で白目を剥いた。母には先ほど伝えてあったが、しかし息を呑んでいた。
「その人の名前は、仁木勇悟君。」
今度は母も口を開けて驚いた表情になる。
「あのね。彼はまだ、生きているの。」
「な、何を言ってるの識音。彼はもう……」
「うん。この世にはいない。でもね、こことは違う世界。地球じゃない世界で、彼は生きているの。」
「あなた……」
ぱくぱくと口を開け、何を言うべきか迷っているようだ。それはそうだろう。傍から聞いていると、世迷い言にしか思えない。違う世界で生きてるなんて、信じてもらえるわけがない。娘が妄想の世界に入り浸っているとしか思えないだろう。
「信じてもらえないのはわかってる。それでも、パパとママには言っておきたかったから。私は勇悟の事が好き。勇悟の事を愛してるんだ。」
「あい……し……」
白目を剥いていた父がガクガクと震えだした。母は父の様子を見て、かえって冷静になったようだ。ため息をついて、私を説得しようとする。
「識音。もう勇悟君はいないのよ。あなたが彼の事を好きだったのは良くわかってる。でも二度と彼と会うことは出来ないの。」
「それは違うよ、ママ。」
即座に母の言葉を否定する。
「彼にはまた会える。私が、彼のいる世界にいけば。」
「……っ! し、識音! それはダメ! 絶対にダメよ!」
そう。当然、こういう反応になる。母は勇悟が死んだと考えている。彼のいる世界とはつまり死後の世界。私が彼の後を追おうとしていると勘違いしているのだ。しかし、スタジオーネに行けば戻ってこれない以上、死後の世界と大差ないのかもしれない。
「聞いて、ママ。」
「いいえ! 聞きません! あなたは——っ!?」
母が驚愕の表情で固まる。
「し、識音が、識音がいっぱいだぁ……」
父が素っ頓狂な声を上げる。
私の隣には、私が立っていた。
その私の隣に、また別の私。
私の周りを5人の私が取り囲んでいた。
「パパ。」
「ママ。」
「私は。」
「東識音は。」
「こことは違う世界で。」
「彼と一緒に生きる。」
「好きな人と生きるよ。」
「ごめんね。」
「ごめんなさい。」
私の【分身】が次々と口を開く。どれもが実体を持った私。父も母も声にならない声を出しながら、顔を青くしている。これが、私の異端の証明。
「な、何よこれ……識音、これって……」
「私はね。彼のいる世界に一度行っているの。この力は、その時に身につけたもの。神様に頂いたものなの。」
「う、嘘だろ……」
「嘘じゃないよ。それに、私の命は彼に救ってもらったものだから。彼のために使いたいの。彼と生きていきたい。一緒にいたい。」
私の訴えに、母は震え声で応じる。
「し、識音……でも、それじゃあ、あなたは……」
「うん。多分、もう地球には戻ってこれない。もうパパとママとも会えなくなると思う。ごめんなさい。」
「だ、ダメだ! 会えなくなるなんてそんな! 許さないぞ!」
「パパ……」
「大体お前はまだ子供じゃないか! そんな歳で親元を離れるなんて! 絶対に不幸になる!」
しかし私は、父の言葉にゆっくりとかぶりを振る。
「ううん。大丈夫だよ。勇悟がいるから、大丈夫。それだけで私は幸せだから。」
「う……」
私の力強い言葉に、父は口をつぐんでしまう。
「識音……。いくらなんでも急すぎるんじゃないかしら。もうちょっと、時間を掛けて考えた方がいいわ。あなたの気持ちはよくわかったけど……。」
「ごめんね。でも、たくさん自分で考えて出した結論なの。それに、勇悟にも『ちょっとだけ待って』って約束してる。神様にも早めにお返事しないといけないんだ。だから——」
——なるほど。人の身に過ぎた力はその為か。
またあの声だ。
男とも女ともわからない中性的な声。私を追い詰めた声だ。
父も母も声を聞いたらしい。戸惑いながら辺りを見回している。
——あの男……あれは我が子ではない。外からやって来た異物だ。そして、お前もまた異物。我が庭でその力、振るう事許さぬ。
我が子? 我が庭? 何を言っているんだろう。神様なのだろうか。でも、私の知っている神様ではない。ユーピテルでもミネルバでもない。先ほどはミネルバと言い争いまでしていた。
——お前の魂、救済してやろう。その身に能わぬ力、生きるには辛かろう。
まただ。また『救済』と言った。この存在は、先ほどもその言葉を口にしていた。この世界からの解放と言っていた。言葉面はキレイに聞こえる。でも。
「救済なんて必要ないよ! 私は自分の意思で、この世界から出るんだから!」
——世界から、出る? 何を言っている。お前のいるべき世界はここだ。我が子が我が庭を離れる事は許さん。お前の魂は我の元へと還るのだ。
「いやよ! 私は! 私は!」
ピカッ。
目の前が真っ白になる。
だが、私の身体に異変はない。
暖かく白い光で視界が覆い尽くされていた。
『いい加減にしなさい。』
低い声が鼓膜を揺さぶる。地の底から聞こえてくるような、聞く者全て有無を言わさず平伏させるような絶対的な声だった。ガクガクと手足の力が抜けて、椅子に腰掛けたまま何もできない。全身が粟立ち、意識を手放しそうになるのを必死に堪える。聞き覚えがあるはずの声なのに、全くの別物のように感じられた。
この感情は。
畏怖。
『君は、やりすぎた。』
——な、なんだ、お前は。
『これ以上、看過することは出来ない。我々は、君を罰する。』
——我を、罰するだと? この絶対者である我を? 我は神。何人たりとも我の上に存在する事など適わない。全ては我が創り、我が滅するのだ。
『ふ……。傲慢だね。君は神などではないよ。そして、神は決して最上ではない。絶対でもない。神だって人と同じように間違えるし、恋だってするんだ。』
——黙れ! 神は絶対! 我は全知全能! 見せてやろう我の力!
私は身動きが取れずに黙って神と『神』の会話を聞いていた。父も母も、何が起きているのかはわからないが、何か超常的な事が起こっているのはわかっているようだ。顔を青白くしながら、自然と上を見上げている。もちろん、そこにあるのは家の天井だけだ。
『神』の叫び声が響く。
ゴゴゴ……、と地面が大きく揺れ出した。立っていられないほどの揺れだ。記録に残る大震災に匹敵する震度だ。
ピシャ、と窓の外でフラッシュが焚かれた。続いて轟音。ザアザアと雨まで降り始め、あっという間に豪雨となった。
「きゃあっ!」
思わず悲鳴を上げて、机にしがみつく。母は頭をかばうように抱え込む。父は隣に座っていた母をかばうように立ち上がって抱きしめる。
家中がガタガタと揺れている。耐震処置を施してある家具は倒れてはこないが、本棚から本が飛び出している。パリン、とお皿の割れる音が聞こえてくる。もはや座っているのが精一杯だ。
『やれやれ。地球は君の庭じゃなかったのかい? 自分で壊してどうするんだ。』
そして、パチンと指を鳴らす音。
すると、嘘のように地面の揺れがぱたりと収まる。
窓の外に集まってきていた雷雲がぱっと四方八方に散っていく。
空には明るい満月が輝いていた。
——くっ! ば、馬鹿な! 我の力が……! 使えないだと!?
『君は封印させてもらう。人は君の玩具ではない。君の力こそ、過ぎたものだ。』
——や、やめろ……! 我を信ずる者達がいるのだ! 我は神として——
『君には同情しよう。君は人々の想像力から生まれた存在。人々が願い、信じ、求めた存在だったはずなのにね。人々は都合の良い時だけ君にすがり、君を利用し始めた。都合の良い『神』という役割を君に求めはじめたんだ。最初は上手くいっていたのに、どうして、こうなってしまうのだろうね……。』
低い声は、悲しげにそう呟くと、またひとつ、パチンと指を鳴らした。
——い、嫌だあああ!! 我は神!! 我は!! わ……
その言葉を最後に、何も聞こえなくなった。
◆
『さあ、東識音。そろそろ君の返答を聞こう。』
低い声は私に語りかけた。先ほどまでとは違う、柔らかい声色だ。しかし、絶対である事に違いはない。畏怖をもって讃えられる本当の神なのだから。私はこくりと頷いて、返答の前に眼前の二人と相対する。
家の中の惨憺たる有様を見ながら、私は両親と顔を見合わせた。二人とも抱き合いながら血の気が引いている。まだ目の前で起きた事が信じられないようだった。
「パパ、ママ。私、行くね。」
私の声を聞いて、思い出したようにハッとなる母。
「し……識音……本当に、勇悟君の元へ、行くのね……?」
「うん。最後まで色々と迷惑を掛けちゃってごめん。でも、やっぱりダメなんだ。私は多分、地球にいるべきじゃない。あの『声』が言っていた事、一部は間違ってないよ。私がもらった地球では大きすぎる力。勇悟のために使いたいの。」
「う……うう……識音ぇ……パパは嫌だ……やだよぉ……」
駄々をこねる子供のように首を振っている父。そんな風に言われると、私も困ってしまう。泣いたままお別れするのは嫌だった。
しかし、そんな父の背中を、母が慰めるように優しく撫でた。
「あなた……。識音が決めた事なのよ。」
「ううう……。識音ぇ……。パパ寂しいよぉ。」
「もう。仕方ないじゃない。あなたもいい加減、子離れしなさいな。」
母は困ったような笑みを浮かべながら、未だに泣きわめく父をポンポンと叩く。母は私をちらりと見て、また口を開いた。
「識音。勇悟君と一緒にいるのはいいけど、あなた達はまだ子供だって事を忘れちゃダメよ。困った時は、周りの大人を頼る事。約束ね?」
「うん……。」
「それと、あなたももう子供じゃないんだから、自分の行動には責任を持つの。」
「え、言ってる事が矛盾してない……?」
「だってしょうがないじゃない。親から自立する子供っていうのは、そういう事なのよ。あーあ。識音の花嫁姿、見たかったなぁ。」
「は、は、花嫁……」
ウェディングドレスを着た自分を想像して思わず頬が熱をもつ。想像の中で隣にいるのは、もちろんタキシードを着た彼だった。
「識音ぇぇぇぇ!! うわぁぁぁん!」
父もそれを聞いて一層と激しく泣き出した。きっと、私の結婚式ではこんな風に泣いてくれたんだろうな。それを想像すると、胸がズキンと痛む。
「あーもう。ダメねこれは。ほら、識音。早く行きなさい。」
父を胸で受け止めながら、母は私に笑いながら手を振った。
「……うん。じゃあね、パパ、ママ。元気でね。」
私は最後に別れを告げて、宙を見上げる。
(ユーピテル様。私は、スタジオーネに行きます。勇悟と共に歩みます。)
『そうか。まあ約束だからね。いいだろう。東識音、君を転生させる。』
低い落ち着いた声が響くと、私の身体が白い光に包まれ始める。
勇悟を送り出した時と同じ光だ。
その時、母の胸で泣いていた父がバッと顔を上げた。
「識音! パパ、お前の幸せを願ってるから! いつでも、どこでも、お前のこと、絶対に忘れないからな! 識音! ありがとう! 最高の娘だ!」
母もまた、目に涙を溜めながら。
「識音……。元気でね……。勇悟君と仲良く……幸せにね……!」
ずるい。ずるいよ。
こんなの。
こんなの、泣いちゃうに決まってるよ。
「パパ! ママ! ありがとう! ありがとう!! 元気でね! バイバイ!」
精一杯、手を振りながら叫ぶ。光が私を包んだ。
ふっと意識が遠くなる。
そして私は、地球を離れた。
読んで頂きありがとうございます!




