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水の音:間・後編

自傷行為表現が含まれます。気分を害する恐れがありますのでご注意ください。

「なん……で……勇悟……」


教室の扉を開けて入ってきたのは、私の知っている彼だった。制服を着ている。私が転校してきて再会した時の勇悟の姿だ。『スタジオーネ』で別れた時のままの彼がそこにはいた。


彼はつかつかと、無言で私の隣の席まで歩いてくる。私とは目を合わせない。いや、誰とも目を合わせずに俯きながら歩いている。その顔は無表情だ。


そのまま、彼は自分の席に着くと鞄を机の脇に掛けて、机に突っ伏した。私とも目を合わせようとせず、何の一言もない。挨拶すらなかった。クラスメイト達も教室に入ってきた彼を見ようとも話しかけようともしない。完全に無視していた。


「ね、ねえ……勇悟……だよね?」


「…………」


私が話しかけても、聞こえていないかのように机に突っ伏したままだ。頭を腕の中に埋めていて表情もわからない。私の頭の中は疑問符で一杯だ。なんで。どうして彼がここにいるの。どうして私を見てくれないの。


「ねえ、勇悟ったら……」


思わず手を出して、彼の肩を揺すってみる。何回か揺すると、彼は億劫そうに顔を上げて、やっと私の顔を見た。しかし、そこに期待していた表情はない。私を見る目は暗く、胡乱げな表情だ。


「……放っておいてくれよ。僕に構うな。」


これは。


これは、あの時の彼だ。


交通事故に遭う直前の彼を思い出した。だが、その時よりも更に強硬になっている気がしてならない。あの時の彼は風理を見捨ててしまった自分への罰として、ああいう態度を取っていたはずだ。私には、まだ幼なじみとして接してくれていた。


しかし、今の彼はもはや私の事すら『外部』として切り捨てている態度だ。無気力というか、諦観というか、得体の知れない感情が彼を支配しているように見えた。私の知らない彼の表情がそこにはあった。


私は理解できない。彼は私と向き合ってくれた。私の事を大切だと言ってくれた。


「なん……で……? 勇悟は、私の——」


そこで気が付いた。


彼との魂のつながりが、感じられなくなっている。


昨日の夜、彼と話したはずだ。彼の温かみを感じる事ができたはずだ。


「う……そ……」


彼はうっとうしげに私の手を振り払うと、再び顔を腕の中に埋めてしまった。自分の殻に閉じこもるように。すべてを拒絶するように。


私は、何も話しかける事ができなかった。




授業中も休み時間も、彼の様子は一向に変わらない。ずっと暗い表情のまま。誰とも目を合わせない。誰とも話そうとしない。私が話しかけても反応してくれない。完全に無視、または煩わしそうに顔をしかめるだけだ。


彼をいじめていた主犯格の男子達も、彼にからもうとはしなかった。彼がいないかのように振る舞っている。私の友人達ですら、隣の席にいるはずの彼の事には一切触れようとしない。彼の名前を出すと、途端に気まずそうな顔をして話題を変えられてしまう。


誰も見ない。誰も触れない。


彼はまるで幽霊のように、ただ教室にいるだけだ。



放課後になると、彼はすぐに鞄を持ち上げて教室を早足で出て行く。私は彼の背中を追いかけた。しかし、そんな私に気が付いているのか、全く足を止める気配はなく、むしろどんどんと速くなる。最終的には小走りになった。


私は通学路の途中で彼に追いついて、肩を掴んで呼び止めた。強化されたステータスのお陰で、以前より足が速くなった。


「勇悟! ちょっと待ってよ!」


「…………」


彼は鬱陶しそうな視線を私に投げた。その表情は私を傷つける。


「なんで、なんで勇悟がここにいるの? 勇悟は『スタジオーネ』にいるはずでしょ!? 勇悟はもうここでは死んだじゃない!」


彼は私の言葉に何の反応も示さない。


「……離してよ。」


「離さないよ! 勇悟は私と離れたくないって言ってくれたじゃない!」


「…………」


彼は無言で肩から私の手を引き剥がし、再び歩き出した。私の手は宙に浮いたまま、彼の背中を追いかける。



おかしい。おかしいよ。


これじゃあ、まるで。



耐えきれずに、ぽろぽろと私は泣き出してしまう。限界だった。私の知っている勇悟ではない。スタジオーネで別れた彼とは別人に思えた。


「なんでよぉ……ゆうごぉ……」


彼はちらりと泣き出した私を一瞥したが、何も言わずに歩いて行く。



いや。いやだよ。


これじゃあ、わたし。


わたし。



諦めきれずに泣きながら、手で涙を拭いながら、彼のあとを追いかける。道行く人達がぎょっとした表情で振り返る。形振り構ってなどいられなかった。


すると彼は、ぴたりと立ち止まった。



なんだやっぱり。


彼はわたしを。



勇悟はゆっくりと私を振り返ると、口を開いた。


「いい加減にしろよ。鬱陶しいんだよ。」



ピシリ。


心にヒビが入る音がした。



「何度言えばわかるんだ。しつこいんだよ。」


「僕に構うなって言ってるだろ。」


「泣きながらついてくるなんて迷惑なんだよ。」


彼が口を開く度、私の心にどんどんヒビが増えていく。



やめて。やめてよ。



「僕は君の事なんか」



いやだ。



「嫌いなんだ。」



いやああああああああああああああ!!



私の心は、粉々に砕け散った。




きっとこれは夢だ。悪い夢なんだ。


私は何度も何度もそうつぶやきながら、家に帰った。脱いだ靴を揃えもせず、制服を着替えることもなく、鞄を乱雑に放り出して、声を殺して泣きながらベッドにうつぶせになった。頭には先ほどの彼の言葉がぐるぐると消えない。


「ひっく……うぇ……どうして……なんでよぉ……」


悪い夢よ、早く醒めてくれ。何度も願う。


しかし、いつまで経っても悪夢が終わる気配はない。


「やだ、やだよ……勇悟が私の事……」


止めどなく溢れる涙がじんわりと枕を濡らしていく。私を見る勇悟の冷たい目がちらついて離れない。それは悪魔になった時の彼に向けられた殺意よりも、今の彼の外見が普段の彼であるが故に、私をより傷つけた。


「識音ー? 帰ってるのー?」


扉の外から母の声が聞こえる。しかし私は返事をする事ができない。


ガチャリ、と扉が開く音がした。


「識音……? 識音、あなた一体どうしたの……?」


「ママ……う、うううう、わたし……ああああ……わたし……」


「ちょ、ちょっと、何があったの? 識音!」


「勇悟があ……勇悟が……」


すると、それを聞いた母は沈痛な面持ちになる。


「識音……。あなた一体いつまであの子を……。あの子の事はもう忘れなさい。それがあなたのためなのよ。」


「忘れるって……」


彼の現状を一切気にせずに生きろというのか。あまりに残酷な母の発言に私はショックを隠せない。


「あなたが、あの子のせいで傷つくの、もう見ていられないわ。……そうね、どうしてもダメなら、別の学校に転校し——」


「だ、ダメ!」


「識音?」


「大丈夫だから! 今の学校にいさせて!」


冗談じゃない。転校なんかしたら、ますます彼に近づけなくなる。学校でますます彼が孤立してしまう。


「……そう。でもね、識音。仁木さんも引っ越すって仰ってるし——」


「え? 引っ越す?」


そんな。


彼がこの街からいなくなる?


もう会えなくなる?


「ええ、そうよ。今月中にでも、と仰ってたわね。」


もう数日しかないじゃない。


嫌だ。


いてもたってもいられず、私はベッドを飛び出した。母の制止の声も聞かずに部屋を出て、そのまま玄関で靴を履いて外に飛び出す。


勇悟に会わなくてはいけない。




勇悟の家は昨日と変わらずそこにあった。仁木という表札も出ている。


昔、よく遊びに来ていた。懐かしさで一瞬、用件を忘れる。しかし、今はそれどころではない。彼に話を聞かなくては。一体、何が起こっているのか。


チャイムを鳴らすと、しばらくして玄関の扉がガチャリと開いた。


「はい。……あら、識音ちゃん。」


そこには、彼の母が立っていた。彼の葬儀で見た以来だ。彼にそっくりな優しい目を泣き腫らしていたのを思い出した。今は化粧もしておらず、疲れたような顔をしている。


「こんにちは、お久しぶりです。」


「ええ……どうしたの?」


「あの、勇悟に会わせて下さい。」


「……そう。どうぞ、上がって。」


私が用件を告げると、彼女は目を伏せて辛そうな表情になる。学校での彼の現状を知っているのだろうか。恐らく、彼は親ですら拒絶しているのだろう。


私はお邪魔します、と言いながら靴を脱いで玄関を上がり、そのまま2階の勇悟の部屋に向かおうとする。すると、母親が私に声を掛けた。


「そっちじゃないわ。勇悟はこっちよ。」


どうやら彼はリビングにいるらしい。彼の家はごくありふれた間取りだ。キッチンとダイニングとリビングがつながっていて、対面キッチンになっている。私は母親の後ろについて、リビングへと向かった。



彼は、確かにそこにいた。


リビングの端っこで、体育座りになっている。親指を噛みながら、ぶつぶつと何かをつぶやいている。その血走った目はどこも捉えてはいない。


私は彼へと近づいていく。母親は何も言わずに後ろに立ったままだ。彼の明らかに異常な様子を目の当たりにして心が大きく揺れた。


私が近づいても勇悟は何の反応も見せない。彼のすぐ側にしゃがみ込んだ。


「ゆ、勇悟……私だよ。勇悟。」


すると、彼はピタリと呟くのをやめて、こちらを睨み付ける。


「いい加減にしろよ……! 家にまで押し掛けてくるなんて!」


彼の苛ついた声とあからさまな敵意が私にぶつけられる。


「学校でも家でも、僕につきまといやがって! なんなんだよ! そんなに僕を追い詰めて楽しいのか!? ああ、そうだよ! 僕は人殺しなんだ!!」


人殺し?


それは、彼が悪魔になっていた時の事を言っているのだろうか。もし彼がスタジオーネにいた時の記憶を持っているなら、彼がこうなってしまった原因は悪魔の時の記憶にあるのだろうか。しかし彼はその時、悪魔と和解していたはずだ。


よく見ると彼の目には隈ができている。ぎらついた目が私を睨み付ける。彼の言動といい、彼の精神状態がまともではない事は確かだった。


「勇悟……勇悟は人殺しなんかじゃ……」


「うるさい! 黙れ! くそっ! なんなんだよ! 人を殺した僕に死ねって言いたいのか! ……あああ!! もうわかったよ! こうなったらもう! 死んでやる!! 僕なんかどうせ生きてる資格がないんだ!! 最初から! 生まれてきたのが間違いだった! 死んでやる!」


彼は血走った目でそう叫ぶと、止める間もなくキッチンの方へと駆けだした。


なんで。なんでそんな事を言うの。死んでやるなんて。


彼の母親も戸惑った表情をしている。



キッチンに辿り着いた彼は、まな板の上に置きっぱなしになっていた包丁を手に取ると、震える手で自分の首に包丁をつきつける。



「もう僕なんか! 僕なんか!!」



だめ。


やめて。



【瞬動】で近づこうとしたが一歩遅かった。


彼は包丁を自分の首に突き刺した。


噴水のように血が噴き出す。


私の視界が鮮やかな赤色で覆われる。



いや。


いやだ。


これは夢だ。


嘘だ。



どくどくと血が溢れ出し、彼は崩れ落ちる。



ありえない。


なんで。



「いや……いやああああああああああああ!!」



私は必死に彼へと縋り付き、血が止まらない首元を押さえる。しかし、一向に血が止まる気配は無い。私の両手は生暖かい血で真っ赤に染まっていく。


私には彼を回復する術はない。スキルも魔法も。私は役立たずだ。



悲鳴を上げ続ける私。


絶望が私の心を支配する。


地球でひとりで生きていく覚悟が、根元からへし折られた。


生きる希望が失われた。




その時。



——やはり、耐えぬか。



どこからともなく、その声が聞こえてきた。



——お前を、救済してやろう。



その声は男のようでもあり、女のようでもある。


若いようでもあり、老いているようでもある。


なんの感情も込められていない。平坦だ。



「きゅう……さい……」



——そうだ。お前をこの世界から解放してやろうではないか。



その言葉は甘美なものだ。これは悪い夢なのだから。


夢から早く醒めなくてはいけない。



私は、その言葉にうなずこうとした。



『ダメよっ!! 識音ちゃん!!』


突如、全く別の声が頭の中に響いてくる。女性の声だ。


私には、その声に聞き覚えがあった。



『識音ちゃん! それは幻覚なの! 勇悟君はまだスタジオーネで生きてる!』


その言葉に。


いつの間にか霞がかっていた私の思考がハッキリとクリアになる。


そうだ。勇悟が死ぬはずない。勇悟はまだ生きている。



——救済の邪魔をするな。


『いい加減にしなさい! あなたがやっている事は救済なんかじゃないわ!』



2つの声が言い争いを始める。


そうしていると、段々と視界も開けてきた。倒れていた勇悟が徐々に薄くなっていく。まるで最初から存在しなかったかのように。



——そうはさせない。


その声が聞こえると同時に、消えかかっていた勇悟の身体に黒い煙が混じっていく。薄くなっていたはずが、どんどんと実体を取り戻す。首から流れていた血が逆再生のように引っ込んでいく。


そして、完全に元通りになった勇悟はのそりと立ち上がった。


しかし表情は一変している。瞳が赤くなり、目の白い部分が真っ黒になっている。その眼光は鋭く私を睨み付けている。私を見てニヤリと残忍な笑みを浮かべた。


「識音ぇ。僕はさ。お前に言いたい事があるんだ。」


勇悟の声のはずなのに、全くの別人のように聞こえる。いや、これは幻覚だ。目の前の勇悟は本当の勇悟ではないのだ。


「僕はお前の事が昔っから大嫌いだった。」


グサリ。勇悟の顔をした彼から、勇悟の声で発せられる言葉は、私の胸を大きくえぐり取る。わかっているのに。彼ではないのに。


「お前は昔から僕につきまとってきて、いい加減鬱陶しかったんだ。」


やめて。勇悟の声でそんな事を言わないで。


幻覚だとわかっていても。どうしても。彼が本当にそう思っているんじゃないか、という恐怖が私を縛り付ける。



違う。違うよ。これは勇悟じゃない。


いやだ。聞きたくない。



また絶望しかけた私の胸の中に、ふと熱くなっているものがあった。


それは、今までもずっとそこにあったはずのもの。


感じられなかったけど、確かに存在していたのだ。



(勇悟、たすけて……)



私は心の中に呼び掛けた。


読んで頂きありがとうございます!

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