理由:表
僕は、その光景をアルテアの目を通して見ていた。
吸血鬼だと聞いていた。だから僕は油断してしまったのだ。奴に接触しなければ大丈夫。血を吸われなければ大丈夫だと。アルテアには、奴が部屋に入ってきたら襲いかかるように指示していた。
エルサが男の呼び掛けに答えた途端、彼女の雰囲気が一変した。短かった白い髪がするすると長くなっていく。あっという間に腰まで伸びた。小柄な身体がギシリと音を立てて成長していく。僕よりも頭1つ分小さかった身体が、僕と同じぐらいまでになった。小さかったバストも身体に合わせて大きめに成長している。
女の子と言っても良かった外見が、立派な女性のものへと変わった。小さい服に収まりきらず、黒い布からところどころ彼女の白い肌が垣間見える。
扉が軋んだ音を立てて開いていく。
「……王子様?」
エルサがぽつりとつぶやいた。目隠しをされて見えないはずなのに。
部屋の外には、あの男が立っている。カイゼル髭をくゆらせながら、口元を歪ませている。笑っている男の顔が僕の神経を逆なでする。
「ふむ……上手くいったようだな。」
そう言いながら部屋に入ってこようとした男は、ピタリと足を止める。くんくんと鼻を鳴らしている。
「……獣臭いな。……鳥の類か。」
グリンと首を回してアルテアのいる場所を見る。
(なっ!? アルテア! 逃げろ!)
(えっ!?)
男の目がキラッと赤く瞬いた。あの魔眼だ。
(ぎゃっ!? ……あ、あれ!? マスター! 動けねえ!)
(くそっ! 魔眼だ!)
男はアルテアの方へつかつかと歩み寄る。そのまま、アルテアを掴んで持ち上げて顔を近づける。アルテアは一切の抵抗が出来ずにいる。
「ほう、珍しいな。使い魔か。やれやれ、既に屋敷に入られているとはな。」
(アルテア、何とか逃げ出せないか!?)
(だ、ダメだ、マスター……。影に潜らないと……。)
部屋の中は暗闇で満たされているので、アルテアならどこにでも潜れる。しかし、あくまで『影』なのでどこかの平面に接地しなくてはならない。床でも壁でもいいが、奴の手の中にいる状況では潜る事はできない。
男はアルテアを脇に抱えたまま、エルサへと近づいていく。おもむろに彼女の拘束を解き、目隠しを外す。彼女の少し大人びた顔が露わになった。そして、男は彼女の名前を呼んだ。
「……エルサよ。」
横になったまま男をぼーっと見上げていたエルサは、名前を呼ばれた途端ぶるりと身を震わせて、スイッチが入ったように目を瞬かせた。そして、にこりと微笑んだ。あのエルサが、無表情が代名詞であるような彼女が、笑ったのだ。
「なぁに?」
いつものたどたどしい口調ではない。どちらかと言えば舌足らずな印象だ。
「この使い魔は、あのユーゴという男のものか?」
「そうだよぉ! アルテアはユーゴの使い魔だもぉん!」
にこにこと笑いながら、身を起こして嬉しそうに答えるエルサ。
「ほう。アルテアというのか、この黒い鳥は。カラス、ではないよな?」
(カラスじゃないのに!)
いつもなら怒って反応するアルテアも、この時は一言も発することができない。念話で僕に文句を言うことしかできない。
「黒ワシなんだぁ!」
「ふむ……。ただの鳥にしては、魔力が高いようだが……。」
男はジロジロとアルテアを観察している。
僕は、いま目で見た事を信じられずにいる。エルサの男に対する態度は、まるで。
「まあいい。この鳥はお前が持っていろ。それと、ユーゴがそろそろここに着く頃だろう。私と迎えてやるのだ。」
「うん! わかったぁ! 王子様ぁ……」
「む? なんだそれは? 私は王子などではないぞ?」
「えへへ、いいのぉ……私の王子様だからぁ……」
エルサはうっとりと頬を上気させて男を見ている。その表情は、今までの彼女では考えられなかったもの。彼女の中の『女の子』がそのまま飛び出してきたような。
男が固まっているアルテアをエルサに手渡すと、エルサはにこりと笑って受け取った。もし彼女に犬のしっぽが生えていれば、ぶんぶんと振るわれているような人懐こい笑顔だった。そのままギュッとアルテアを抱くように持つ。
そして二人は並んで部屋を出て行く。
エルサは男の左手をしっかりと握っていた。
◆
「エル……サ……」
一連の様子を見ていた僕は思わず彼女の名前を口にして、立ち止まってしまう。
「おっと、どうしたユーゴ? ……お前、顔色が悪いぞ」
慌てて立ち止まったジョットさんが僕の顔を見て驚いた顔をする。同じくグローリアも立ち止まって僕の顔を見た。
僕は放心していた。
エルサの幸せそうな笑顔。
あの男に向けた親愛の感情。
わかっている。わかってるんだ。あれは彼女の本心なんかじゃない。吸血鬼に心が惑わされているだけなんだ。彼女は吸血鬼になる事を望んだりしていない。
でも。
あの表情は。
「ニキ殿……早く向かわねば、エルサ殿が危ないのではないのか。」
「……うん……でも……」
今でもアルテアの視界の中では、エルサが男と会話している。
とろけるような目で男を見上げている。
僕といた時の無表情は影も形も無い。
彼女は今、間違いなく幸せそうだった。
僕に、彼女の幸せを奪う権利があるんだろうか。
「どうしたというんだ……」
「エルサは……僕といて、幸せなんだろうか。」
ぽろりと。
本音がこぼれた。
彼女を助けるためにここまで来た。
でも、今の彼女を見ていると、『助ける』必要があるのか、と考えてしまう。
幸せそうに笑う彼女は、僕と、僕なんかと一緒にいるよりもよっぽど。
「エルサはお前についていきたい、って言ったんじゃないのか?」
「うん……だけど、僕は彼女の『特別』にはなれないし……」
彼女は彼女だけの『特別』を見つけたんじゃないだろうか。
彼女の勇者様を。
それは、僕にはなれないもの。
エルサの幸せって一体なんだろう。
僕は俯いたままエルサの様子を見ていた。
僕の中の彼も、今はじっとしている。僕の中にあった怒りや焦りが吹き飛んでしまっていた。どうして僕はエルサを助けにいこうとしていたんだっけ。彼女は僕に助けを求めている? いや、今の彼女は僕なんか必要なさそうだ。
思えば、僕はエルサの事を初めから見ていなかった。あくまでも特別はディーナ。そして識音。エルサの事は縁があって助けたし、目の前で弱っているのを見たら護りたいと思った、でもそれだけだ。確かに彼女の事は好きだし魅力的だと思う。だけど、やっぱり彼女の気持ちには答えられない。一度は求めに応じてしまったが、それこそ彼女を傷つけていたのではないだろうか。
僕の彼女に対する態度というのは、不誠実でおおよそ人として最低のものだった。僕とディーナの仲を見せつけるように振る舞っていた。彼女はいつも無表情だったけど、何を思って僕達の事を見ていたのだろう。手に入れたいものが目の前にあるのに、決して届かない。そんな状況で、人は何を感じるのだろう。
きっとエルサは僕の事が嫌になってしまったのだ。
だから黙って出て行った。さらわれたのは違いないだろうが、しかし彼女は僕の元を離れようとしていたのだ。僕なんか必要ない。僕ではない、他の誰かを求めたのだ。今の彼女の笑顔がどうしても作り物には思えなかった。彼女は潜在的に僕以外の誰かを求めていたんじゃないのか。彼女を無理に助けるのは、彼女がやっと見つけた存在を奪う事になるのではないのか。
心がすっと冷え込んでいく。
忘れていた『むなしさ』と『孤独』が心に忍び込んでくる。
そうか。
彼女はもう僕を必要としていないのか。
足が、自然と。
くるりと、180度。
「お、おい、ユーゴ! どこ行くんだ!」
「……帰ります。エルサに助けは必要なさそうだから……。」
なんだか、疲れた。
焦っていたのが、馬鹿みたいだ。
家に帰って、ディーナと二人で早く寝よう。
そこで、【自動防御】が反応した。
思わず回避行動を取った僕。顔の前を拳がうなりを上げて通り過ぎていった。
「グローリア様……何を、するんですか。」
「やはり躱したか。しかし、貴様の事は見損なった。」
グローリアは冷たい目で僕を見ている。
僕は彼女の視線に耐えられず、目をそらしてしまう。
「何だと言うんですか。僕とエルサの事もろくに知らないくせに。」
「ああ。知らんな。吸血鬼に捕らわれた女を見捨てて帰ろうとする男など。」
「……でも……彼女は今幸せそうだから」
「腑抜けめ! 幸せそうだと!? 馬鹿な事を言うな! そんな物は偽りだ!」
グローリアの思わぬ剣幕と罵倒に、僕はついカッとなってしまう。
「うるさいな! 言われなくてもわかってる! わかってるんだそんな事!」
「……わかっているなら、なぜ助けないのだ?」
「だって、だって彼女は……! 笑っているんだ! 見た事もないような笑顔で笑ってる! 僕と一緒じゃ、彼女は幸せにはなれない! 彼女は僕から離れたんだ! 僕が助けたら、きっと彼女は僕を……!」
「……それが理由か?」
「…………」
「だとすれば、やはり貴様は阿呆だな。」
「なっ!?」
グローリアはふぅとため息をひとつつくと、剣を抜いた。そして剣を掲げてみせる。天にかざすように、剣を仰ぎ見る。
「私はこの剣に誓っている。王国を守り抜くと。王のために、国民のために、戦い抜くと。例えこの身が砕けようとも、引き裂かれようとも。」
ヒュッと音を鳴らして剣を振り、僕に剣を向ける。
「なぜなら、それが私の誇りであり、幸福だからだ。」
グローリアは僕の目をじっと睨んでいる。今度は僕も目を逸らすことができない。
「貴様は、何を護り、何のために戦っている?」
僕は答える事ができない。
護りたいもの、それは僕の大切な人達。
何のため、それは大切な人達を護るため。
循環した理由が、まるで無限ループのように。
僕の脳内はプログラムに紛れ込んだバグのように、フリーズしてしまう。
「……答えられぬか。ふっ。まさか信念も無い輩に遅れを取っていたとはな。」
グローリアの嘲るような笑いに、うめき声が漏れる。
「う……い、いや、僕は大切な人達を護るために戦っている。」
「ほう。大切な人達か。それで、なぜその者達を護りたいのだ?」
「だ、だからそれは……彼女たちが、大切だから……他に理由なんて……」
「そうだろう。」
思わぬグローリアの肯定に目を白黒させる。
「大切だと思う事に理由などいらぬ。貴様がその者達を護りたいのなら、大切だと思うのなら、そうすればよい。そんな事に理由など必要ないのだ。私も、王国を護る事に理由など持たない。護りたいからそうしているのだ。そうする事が私の幸福であり、誇りへとつながるのだから。」
グローリアの視線がまっすぐと僕を貫く。視界の端で、僕達の様子を伺っていたジョットさんが頷いたのがわかった。
「では問おう。貴様にとってエルサ殿は、『大切な人』ではないのか?」
「それは……」
「あの時、私と王都で出会った時の貴様の様子は尋常ではなかった。貴様は私にこう言ったな。『左手がさらわれた』と。それはつまり、貴様はエルサ殿を左手のように思っているという事なのだろう?」
僕はその事をはっきりとは覚えていない。
「エルサ殿の幸福のため? 貴様にとって『左手』はその程度のものなのか? 他人の幸せのために、身を差し出す。ああ、美しいな。聞こえが良い。しかし、それで貴様は良いのか? 本当に後悔はしないのか?」
いつの間にか、僕の中の彼が再び暴れ出している。
我慢できない。離れたくない。失いたくない。
そうだった。
僕は彼女を、エルサを護りたいと思ったんだ。そこに理由なんてなかった。
彼女は僕の左手だった。
彼女の幸せなんて関係なかった。ただ僕は、彼女を護ろうと思ったのだ。
彼女が僕の元から離れるなんて。
かけがえのない左手を失うなんて。
そんなのは。
「いや……だ……。僕は……エルサを、失いたく……ない……」
僕の口から零れたのは、確かに僕の心から漏れ出たものだった。
「ふっ……。やっと本音を吐いたか。面倒な奴め。……だが、しかし、それでこそ『人間』なのかもしれんな。」
笑ったグローリアは、なぜか僕に対して頭を下げた。
「謝ろう。私は貴様の事を本当に『魔王』だと思っていた。貴様と初めて相まみえた時から。貴様のあの手を見た時には確信を持った。」
「ええっ!?」
ジョットさんが驚きの声をあげた。僕もまた、彼女の告白めいた言葉に動揺した。なぜなら、僕が『魔王』である事は紛れもなく事実だからだ。
「だがな。貴様が真に『魔王』であれば、そんなにも迷うはずがない。悩むはずがないのだ。それは貴様が『人間』である事の証左。」
意外な指摘に僕は声を出すことができない。
「良いではないか。悩み傷ついて。それでも前に進むのが人間というものだ。私はそういう奴は……その……嫌いではない。」
グローリアは、少し頬を赤くしながらそう言った。
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