悪魔の手:表
——ドクン
その時、黒い雲に覆われた彼女の体内から、脈動が聞こえた。
——ドクン
「こ、これ! 勇悟、まずいよ! ミネルバさんが『魔神』になっちゃう!」
識音が慌てている。
——ドクン
「ミネルバさんが魔神になったら……魔神になったら、ユーピテルさん達と殺し合いになっちゃう!」
なんだって?
——ドクン
「ユーピテルさん、ミネルバさんの事を娘みたいなものだって言ってたのに! このままじゃ親子で……! いや! いやぁ!」
親子で。
僕の脳裏には父親の顔が浮かんでいた。
厳格だった父。憧れだった父。ボディーガードだった父。
仕事を続けられなくなって荒れた父。
それでも。それでも僕は父を嫌いにはなれなかった。
親子だから。
親子で殺し合いなんて。
——ドクン
「ああ……ミネルバさんの姿が……変わっちゃう……このままじゃ、戻れなくなっちゃうよぉ……」
ミネルバがどんどん変身していく。
黒い肌。黒い髪。背中の羽根。頭の角。
彼女の身体は僕と同じように悪魔になろうとしていた。
次に脳裏に浮かんだのは、悪魔の僕が起こした所業。
それを何も出来ずに、見る事しか出来ない僕。
あの時の絶望は、もう二度と味わいたくない。
——ドクン
彼女は、ミネルバは、見守ってほしい、と僕に言った。
弱い自分と向き合うのは本当に勇気が要る事だ。僕も、一人では絶対に無理だった。識音に救い出され、ディーナに支えられ、そこで初めて向き合う事が出来たのだ。一人で立ち続けるのは、本当に大変だ。
彼女の肩の上にいるはずのフクロウ、ソフィアは今はいない。彼女の父親みたいなユーピテルも同様だ。今、彼女はひとりぼっち。救い出す人もいなければ、支える人もいない。
黒い雲、穢れ、愛の力。この負の感情の奔流は、あっという間に人を溺れさせる。人の心の奥底に眠る、弱い自分を呼び覚まし、刺激し、さらけ出す。それに立ち向かうには、誰かの助けが必要なのだ。
うん。
そうだ。
僕は、彼女を護ろう。
彼女をひとりぼっちにはしたくない。
そう考えた時。
僕の左手が輝きはじめた。
握力のなくなった左手が。
僕の排斥の原因となった左手が。
過去の罪の象徴である左手が。
エルサとつないだ左手が。
識音にひっぱりだされた左手が。
彼と握手をした左手が。
七色の光を放ち、熱くなっている。
僕の手だったはずのその手が。
赤黒い色。
鋭い爪。
筋張ってゴツゴツとしている。
流線型の模様が浮かび上がっている。
圧倒的な質量の力を秘めている。
これは、彼の手だ。
そして、僕の手でもある。
彼が力を貸してくれている。
そう思った。
それに気づいた時、僕はゆっくりとミネルバに近づいていく。ミネルバは黒い雲に覆われ、脈動する身体を抑えるように、歯を食いしばり、自分の身をよじりながら、へたり込んでいる。
黒い雲はもはやほとんど彼女の体内に取り込まれていた。雲の表面に浮かんだ苦悶の表情が、僕に罵声を浴びせかける。
僕は構わずに彼女の側にひざまずく。彼女は焦点の合わない目で中空を見ている。綺麗な碧色だった瞳は、深紅に染まりつつある。
僕は、左手を、彼女の身体に差し込んだ。
血は出ない。
悪魔の手は、七色の光を放ちながら女神の身体に吸い込まれていく。
確信していた。
この手は、彼女を傷つけるためのものではない。彼女を護るためのものだ。
七色の光を浴びた黒い雲は、浮かび上がっていた苦悶の表情をさらに歪ませて、悲鳴をあげている。
彼女の身体から七色の光が放たれ始める。
「きれい……」
識音ののんきな感想が聞こえてくる。
悪魔の手から放たれた七色の光は、ミネルバの体内に巣くっていた穢れを祓っていく。黒かった穢れがシューシューと音を立てて白くなっていく。苦悶の顔に満ちていた黒い雲は、安堵の表情に変わっていく。
ミネルバの身体は、まるで逆再生のように元の姿へと戻っていく。
黒かった肌は、元の白磁のような肌に。
黒かった髪は、サラサラとした金髪に。
鱗に覆われていた手足は、すべすべとした肌を顕わに。
牙も、角も、背中の羽根も、全てが逆再生のように消えていく。
赤くなりかけていた瞳が、透き通った碧色に戻り、その眼には光が灯っている。
苦しげだった表情は、安心しきった子供のようだ。
やがて、黒い雲は白くなって霧散し、元の姿のミネルバが残された。
◆
「……ん……」
ミネルバが意識を取り戻した。
「……ここ、は……私は……」
「おはよう、ミネルバ。大丈夫?」
僕が声を掛けると、焦点の合ってなかった瞳が揺れる。そろりそろりと動き、そして僕の姿を捉えた。
「勇悟……君……私……」
「黒い雲なら僕が取り払ったよ。君の体内に入った分もきちんと。」
「え……?」
ミネルバは身を起こして、自分の身体を確認している。
「危ないところだったけど、悪魔の僕が助けてくれたみたいだ。」
「……悪魔の僕?」
ミネルバが訝しげに首を傾げたので、僕は彼女に左手を見せた。
七色の光は収まっているが、僕の左手は悪魔の手のままだ。握力もあるし、自在に動かせる。というか、悪魔だった時の力がそのまま振るえるようだ。
左手だけSTRが万を超えているような状態なので、握力がないどころの話ではない。ありすぎだ。
それだけではない、一部のスキルや、魔法まで扱えるようだ。魔力を操る術を自然と再現できる。知識かスキルが足りないのか、悪魔だった時のような複合属性や超級魔法は扱えないが、それでも十分に強力すぎる力だった。
ミネルバは、僕の手を見て絶句している。
「ゆ、勇悟君……これ、あの時の……大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。危なくないよ。僕は、悪魔だった僕と和解したんだ。だから、これは彼が力を貸してくれているんだと思う。」
「そ、そうなの。」
ミネルバはホッと安堵のため息をついた。
「とにかく、これでもう安心だと思う。」
そう言って笑いかけると、彼女も微笑みを返した。
「ありがとう……勇悟君。」
◆
それから、僕と識音とミネルバで話し合った。
僕は【起死回生】によって人間の身体を取り戻したらしい。識音が僕を殺しかけた事を謝った。悪魔の僕は【万物破壊】の力で殺された。しかし、彼女は僕を救うためにその力を振るったため害意がなく、害意に反応する【自動防御】は反応しなかったのだろう。
【万物破壊】は、僕の肉体に致命的なダメージを与えた。【自然回復】も及ばない。本来は、その時点で【起死回生】が発動するはずが、僕はその時に既に絶望しきっていて、回復を無意識に拒んでいたのだろう。
識音は謝っているが、僕を助けようとしてやった事だ。むしろ、彼女にそんな辛い事をさせてしまったのが心苦しかった。
なぜか全裸だったため、今は識音に外套を借りて身に纏っている。僕が裸である事に気づいて赤面しながら身を隠していると、識音もまた顔を真っ赤にしながら外套を渡してくれた。
悪魔の左手は【擬態】のスキルを持っていたため、今は元通りの僕の手の形に擬態している。しかし、性能はそのままだ。ミネルバを護れた事に改めて安堵し、心の中の彼にお礼を言った。
僕達はお互いを慰めあい、謝りあった。
そして、これからの事を話し合う。
「私は神界に戻るわ。ユーピテル様やソフィアにも謝らないといけないし、たくさん心配かけちゃっただろうから……」
「うん! それがいいと思うよ!」
識音がパァッと笑顔になった。彼女はユーピテルという神の頼みで僕を救い出しに来たらしい。娘のように思っているミネルバが無事に戻れば、ユーピテルも喜ぶだろう。
まあ、恐らく今も『アカシックレコード』とやらで僕達の事を見ているんだろうけど……貴様、見ているな! とか思いたくなるよね。
それにしても、識音には頭が上がらない。いくら神の頼みとはいえ、僕なんかのために世界を超えてやってきてくれるなんて。彼女の僕への気持ちがわかった今でも信じられない。もし、もしだけど、彼女と家庭を持ったら、きっと亭主関白なんて夢のまた夢だろうな。
しかし、実際には彼女に聞いておかなければならない事がある。
「識音……識音は、どうする?」
「う……」
そう。識音は別に転生してこの世界にやってきたわけではない。あくまで、ユーピテルからの頼みで、地球から『スタジオーネ』に転移してやってきただけなのだ。だから、彼女は本来、地球に帰らなくてはいけない。
「家族や友達も、きっと識音の事を待ってるよ。」
「うう……」
「でも……正直に言えば、僕は識音と離れたくないな。」
「ゆ、勇悟。」
「あはは、識音を困らせたくないんだけどね。僕は彼と約束したから。もっと正直に生きる事にしたんだ。」
僕の中には多少の変化があった。抑圧し、押し殺した気持ちが、悪魔の僕を生み出した。だからもう偽らない。自分を出して、嫌なことは嫌という事にした。
「勇悟が、そういうなら……」
「ううん。識音が決めるべきだよ。それに、こちらに残るとしても、けじめは付けるべきだと思う。」
「けじめ?」
「うん。ちゃんとユーピテル様にお願いしないとダメだよ。」
「あ……」
話を聞いた限り、彼は厳格な性格のようだ。きっと識音の滞在はルール違反だと告げるだろう。でも、彼だってミネルバを娘のように思うような、人と同じ心は持っている。識音がもし真剣にお願いするなら、今回のお礼もあって、願いを聞いてくれるかもしれない。
「そっか……。そうだね。」
「家族と友達にも、何も言わないで来たんだろ? とても心配してるよ。」
「うう……ごめんなさい……」
「いや、ありがとう。僕の為に急いで来てくれたんだよね。ああ、嬉しいなあ。識音がこんなに僕の事を想ってくれて。」
「ゆ、勇悟ぉ……」
彼女は耳まで真っ赤にして照れている。そんな彼女もたまらなく愛おしい。
ミネルバは、そんな僕達の様子をニコニコしながら見ていた。
彼女の見守ってほしい、というお願いには既に了承を伝えた。その代わり、もし困った事があったら僕に頼ってほしい、と僕からもお願いを伝えた。
神界に戻れば、きっとユーピテルやソフィアが彼女を支えてくれるだろう。でも、助ける手は多い方がいい。
彼女を護ると決めた、と伝えると彼女は真っ赤になって嬉しそうにしていた。彼女の僕への思いには答えられないが、今はこの距離が心地よい。
しばらく話していると、僕のすぐ側に突如として光が現れた。
識音とミネルバは、すわ敵襲か、と身構えていたが、僕はその正体に気づいていて思わず口元が緩んでしまった。
光は何度か瞬き、徐々に大きくなっていく。
「な、なにこの光は!」
「あはは、大丈夫だよ。」
どんどん大きくなった光は、徐々に形を変えていく。最後には、人の形になる。
僕は、その光の中の人物を迎える。
「ただいま、ディーナ。」
すると、光の中から現れたディーナは、微笑みながら返した。
「おかえりなさい、ユーゴさん!」
ふと見ると、ディーナの影に隠れてエルサもそこにいた。
「あ、エルサも一緒なんだ。」
「……ん、久し、ぶり。」
「うん、久しぶり、エルサ。」
相変わらずの無表情で、途切れ途切れ言った彼女は、少し顔を青くしているように感じる。初めての転移に驚いたのか、それとも僕の周りに他にも人がいたから怖がっているのか。
僕は無言でディーナに近づくと彼女を抱きしめた。彼女も僕をしっかりと抱きしめ返してくれる。彼女のふわふわの髪は相変わらず刺激的な魅力を放っている。思わず顔をうずめて堪能してしまう。
「うぅ……ユーゴさん、はずかしいです……みんな見てますよ」
「いいんだ。僕は正直に生きる事にしたから。……今はディーナとこうしていたいんだ。」
識音は指をくわえて僕達を見ている。
ミネルバは微笑みながら僕達を祝福してくれている。
エルサは相変わらずの無表情だ。
『スタジオーネ』にやってきた時、ひとりぼっちだった僕。
今では僕の周りに、たくさんの大事な人ができた。
あの時、風理を護れなかった僕だけど。
今は彼女達を護っていきたい。
護れなかった僕が、彼女達を護っていく。
そうやって、前に進んでいくんだ。
読んで頂きありがとうございました!




