ありがとう:裏・後編
彼女が『シミ』とともに私の中に流れ込んできた時、彼女の勇悟君に対する強い思いに共感し、それが自分の望みであると悟った。
叶わないはずだった恋が、彼女のおかげで魂を得て、肉体を得て、彼と触れ合って愛し合えるようになった。
だけど、それは許されない恋。神としても、人としても。
神として、人と愛し合い、交わる事は許されない。
人として、既に大事な人のいる彼を奪い取る事は許されない。
我慢すべきだった。でも、私の中にいる醜い私が背中を押し、黒い感情に身を任せてしまった。彼を独占して、彼と愛し合った。
快感だった。自由だった。幸福だった。
しかし、それはただのまやかし。夢から覚めて、私は現実と向き合わなくてはいけない。私が引き起こしてしまった事の責任を取らなくてはならない。
◆
目の前には、涙を流す識音と、そして勇悟がいた。
風理が私の中から旅立っていった。きっと彼女の魂はユーピテル様に拾われ、地球の循環の中へと還っていくだろう。
私の姿はすでに風理のものではなく、ミネルバのものに戻っている。風理の魂と肉体を失った私は、永くは地上にいるべきではない。
「ごめん……なさい……」
私はポツリと謝罪の言葉を漏らした。
「ごめんなさい、私……」
この程度で許されるほどの罪ではないとわかっていても。
もはや私は神ではない。しかし人でもないだろう。私は中途半端な存在で、私のいるべき場所はどこにもない。ユーピテル様とソフィアに合わせる顔もない。そして、勇悟の隣にいる資格もなければ、勇悟の前に立つ資格もない。
もう、消えるしかない。
神には魂がない。寿命もない。死の概念もない。神が消える時、それは自分自身を否定した時。私はもう、自分を肯定などできない。私の行いに対する償いは、私自身の消滅だけだろう。
「ごめんなさい……勇悟君……」
そして私は彼に向けて贖罪の言葉を紡ぐ。
「いっぱい、いっぱい、迷惑をかけて……あなたを苦しめて……」
彼を傷つけ、彼の周りの人々を傷つけた。
「償うことなんて、できそうに、ない。」
それは、あまりにも、あまりにも重すぎるから。
「……だから、私の存在をもって……私の消滅をもって、償わせて——」
パシン。
ジンジンと頬が熱を持っている。目の前にはチカチカと星が瞬いた。
「ふざけるな」
勇悟君がギリッと歯を鳴らす。
そうよね。私が消滅したぐらいで、償いになるわけない。彼の怒りがその程度で収まるわけがない。
「違う。僕が怒ってるのは、あなたが自分の消滅なんて言い出したからだ。」
え?
「確かに僕はあなたに色々と迷惑をかけられた。いっぱい傷ついたし、仲間と別れるハメになったのは何よりも辛かった。人もたくさん殺してしまった。……識音ですら、この手に掛けようとした。」
「うう……ごめん……なさい……」
「でも。それは元はと言えば、僕の弱さが招いた事だ。あなたに責任が無いとは言わないけど、僕にはあなたを責める資格もないし、そんなつもりもない。」
「そ、そんなこと」
「それでも、あなたは、僕以外のたくさんの人に謝らなきゃいけない。償わなきゃいけない。でも、それは決して自分の消滅なんて安易な道ではないはずだ。」
「…………」
「僕も、自分の弱さが招いた事を受け入れる。どんな事をしても償うつもりだ。だから、あなたも。勇気を持ってほしいんだ。」
「ゆ、うご、くん……」
彼は強い。
私はとても耐えられそうにない。醜い自分を、弱い自分を受け入れる勇気。
神が全知全能だなんて大嘘だ。神だって心は持っている。人と同じ心だ。心がある限り、悩むし、苦しむ。でも、心があるからこそ、喜びを感じる事もできる。
勇悟の隣に識音が立っている。彼女もまた自分の足で地面に立っている。
彼女もまた強い女性だ。ひとりで勇悟を助けるために、異世界までやってきた。彼への思いの強さは、私と比ぶべくもない。
どうして、この人たちは、こんなにも強く在れるのだろうか。
その答えは、先ほど風理が教えてくれたものだ。
人は一人じゃ生きられない。神もまた、同じなのか。
自分の弱い心に立ち向かうには、他の誰かの助けがいる。
風理が私の中に置いていった想いが、反省が、私を一歩踏み出させてくれた。
「……勇悟君。私は……私は。」
勇悟はじっと私を見て、私の言葉を聞いている。
「私は、あなたが。……あなたの事が、好きだったの。」
勇悟が目を見開く。識音が大きく口を開けた。
「でも、私は女神で、あなたは人間だから。……私達が決して結ばれない事もわかってた。だから、この気持ちには蓋をして、見ないフリをしてた。そんな押し殺していた気持ちが、今回の事を引き起こしたの。」
恥ずかしいけど、とても恥ずかしいけど、目は逸らさない。
「別にあなたが私を好きになってくれなくてもいい。あなたは優しいから、私が想いを伝えると、受け入れようとするかもしれない。でも、それはいらない。あなたに、私の気持ちを知ってもらうだけでいいの。」
彼は真剣な表情で私の話を聞いてくれる。
「勇気を持ってほしいって言ったよね。うん、私、がんばってみる。がんばって、弱い自分と向き合って、いっぱいいっぱい償いもしてみる。」
識音は柔らかい笑みを浮かべている。
「だから。だから。私を見守ってください。」
私はペコリと彼に頭を下げた。
◆
私が彼に頭を下げた、その時。
——許さない。
どこからか声が聞こえた。
——自分だけ逃げるのか。
——俺たちを追い出しておいて。
——憎い。ずるい。
見ると、先ほど私の身体から出ていった黒い煙が、玄関ホールの天井近くに集まっている。黒煙はもくもくと蠢き、様々な怨嗟の声が聞こえてくる。
「なっ……あれは!?」
「穢れだよ!……たぶん、循環から外れた魂たち。長い間、循環から外れると、魂はどんどん汚れてしまうって……言ってた。」
勇悟の驚きの声に、識音が説明する。
黒い煙は雲のように成長していく。天井を埋め尽くすかのように広がっていく。雲の表面にはいくつもの人の顔が象られ、苦悶の表情を浮かべている。
穢れと呼ばれたその正体は、魂の循環から外れてしまった魂たち。彼らを受け入れていた私にはわかる。彼らは地球で、疎外され、迫害され、排斥された人たちのなれの果て。
クラスから排斥を受けていた勇悟も、あの中の一人になっていたのかもしれない。そう思うと、全身に悪寒が走る。
呆然と見ていると、黒い雲が突如動き出し、渦を巻いて私の元に向かってくる。
「きゃああああ!!」
慌てて神力で防ごうとするが間に合わず、私は黒い雲に取り込まれてしまう。
「ミネルバ!!」「ミネルバさん!!」
勇悟と識音の声が雲の向こうから聞こえる。
ああ、あああ。
雲は、私の口や耳から、私の体内へと侵入してくる。
私の中の奥深くまで、染み渡っていく。
私の意識が。黒く、黒くなっていく。
薄れていたはずの感情が、再び蘇ってくる。
「いけない! このままじゃまた!」
識音の慌てる声が聞こえる。
「くっ! でも、彼女を傷つけるわけには……」
勇悟の苦悶の声が聞こえる。
ああ、またか。
また、私は。
もう私は。
私なんか。
その時。
——ドクン
私の身体の中から脈動が。
——ドクン、ドクン
彼の身体から聞こえた、あの脈動が。
——ドクン、ドクン、ドクン
いやだ。私は。
肌が浅黒くなっていく。
手足が鱗で覆われていく。
金髪だった髪は黒くなっていく。
ダメ。ダメだ。助けて。
ミシミシと身体中から音がする。
口の中で牙が生えているのが分かる。
背中からは黒い羽根、頭からは角が生えてきた。
——助けて、勇悟君。
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