ありがとう:表・前編
「ディーナ……」
そう言って、僕は目の前の彼女をしっかりと抱きしめた。
もう離れない。
何分、何時間、そうしていただろうか。
「ユーゴさん、ごめんなさい」
僕は彼女から身を離して尋ねる。猫耳がぺたんと萎れている。
「なんで謝るの?」
彼女は俯いて答える。
「だって……私、ユーゴさんの事、信じ切れていませんでした。」
「……え?」
「ユーゴさんが、私達から離れるって言い出した時。私達を護るため、といいつつ、本当は私達が嫌になったんじゃないかって……私、捨てられたんだ、って思ってしまったんです。」
「ディーナ……」
「そうしたら、ユーゴさんの事が急に遠くに感じるようになって。ユーゴさんの後を追いかけようとしたんですけど、もうユーゴさんがどこにいるのか、わからなくなってしまって……。」
ディーナはもはや涙声で話している。
「それでも時々、ぼんやりとユーゴさんの気持ちは伝わってきていました。ユーゴさんはずっと泣いてました。いやだ、やめてくれって苦しんでいました。」
「…………」
「私はずっとユーゴさんに呼びかけていて。でも、全然届かなくて……。最後には、ユーゴさんから大きな悲しみが流れ込んできて……私、どうすればいいのか、わからな……くて……」
ぽろりぽろりと目から零れる涙。僕は、彼女の頬を拭って、彼女をそっと抱き寄せる。彼女のふわふわの頭を撫でる。随分ひさしぶりだ。
「ディーナ……。僕は、怖かった。君を失うのが、何よりも怖かったんだ……。僕の方こそ、君を、エルサを、信じ切れていなかったんだ。」
「……ユーゴ、さん……」
「僕はいつだって臆病で、逃げていた。自分の弱い心に、正面から向き合う事もせずに、ぶつかりあうのを避けていた。……ぶつかりあわなければ、わかり合うこともできないのにね。」
僕が自嘲すると、ディーナは心配そうな目で僕を見上げている。
「ミネルバに言われて、僕は立ち向かうのをあきらめた。ディーナとエルサを傷つける事を選んでしまった。……君を失うぐらいなら、と思ったんだ。……でも、それは間違いだった。」
彼女の瞳をまっすぐと見る。
「僕は、ディーナ達を信じればよかったんだ。ディーナ達を信じて、一緒に立ち向かえばよかった。ついてきてくれるって、信じればよかったんだ。」
彼女は僕の言葉をじっと聞いてくれていた。
あの夜のように。
僕達が、誓いを立てた時のように。
「ありがとう、ディーナ。」
そして、僕達の間に、再びつながりが生まれた。
◆
そんな僕達を見ている存在がいた。
彼女は、いつかと同じように僕の手をひっぱり、僕を深い闇から救い出してくれた。でも、僕はそんな彼女を、この手に掛けようとしていたのだ。
彼女と向き合うのは恐ろしい。
彼女を殺そうとした、自分の中の闇と向き合うのは恐ろしい。
だけど、今は僕の隣に、僕を支えてくれる存在がいる。怖がる僕の背中を押してくれる存在がいる。
「識音……」
僕が声を掛けると、俯いていた識音は目元を拭ってから顔を上げた。
「泣いてるの?」
「っ……ち、違うの。目にゴミが入って……」
「ここにはゴミなんてないと思うんだけど……」
「う……あ、あはは……」
思わずツッコミを入れてしまった僕に、識音は照れ笑いを浮かべた。なんだか、小学生の頃のやりとりのようで、僕の心に暖かいものが広がった。
僕は目を腫らした彼女と正面から向き合う。
「……識音、ごめん。」
「うぇっ!? な、なにが?」
「僕は君を……この手で……」
「っ! 違う! 違うよ! 勇悟は悪くないよ!」
手をばたばたさせる識音。身体は中学生で大人になったのに、動きは小学生の頃の識音のままだ。
「あれは悪い夢だったの! あれは勇悟じゃない! 正気じゃなかったの!」
「……いや、それは違うよ。識音。」
「ゆ、勇悟……」
「あれは、紛れもない僕の一部だ。僕の弱い心が起こした事なんだ。」
「…………」
「風理と向き合う事から逃げ、風理の言うがままになった、僕の罪だ。」
「そんな……」
僕の言葉に瞳を揺らす識音。そんな僕達を心配そうに見ているディーナからの視線を感じる。
「これから、彼女と向き合おうと思う。」
僕の決意を伝える。
「でもその前に。」
そして、僕は識音を柔らかく抱擁する。
横からディーナの慌てる声が聞こえるが、今は聞こえないふりだ。ごめん、ディーナ。
「うぇええ!? ゆ、勇悟!? な、なにを——」
「ありがとう、識音。」
慌てる彼女を優しく抱き留める。
「僕の事を救ってくれて。……僕はいつも、識音に救われてばかりだね。」
彼女の目を見ながら柔らかく微笑む。
「うう……わ、私はただ、勇悟に恩を返そうと……」
「恩? ……ああ、あの事故の事か。あはは、いいんだよあれは。あの後、僕はミネルバに助け出されて、こうして今でも生きてるんだから。それに、僕は識音を護れた事が嬉しいよ。」
「ゆ、勇悟」
彼女の頬が真っ赤になっている。
「識音、ごめんね。ずいぶんと心配、かけちゃったよね。」
彼女の手を拒み、彼女から逃げるようにして地球を離れてしまった。その事をいつも悔やんでいた。この異世界で隣にいる人を見つけて、僕は地球でもひとりじゃなかったと初めて気づいた。
「識音はいつだって、僕を護ってくれていたよね。僕は識音を護ってるつもりが、いつのまにか君に護られていた。僕の隣にいてくれていたのに。僕はそれに気が付かずに、識音の手を拒んだ。」
懺悔するように彼女に向き合う。
「謝っても許してもらえないかもしれないけど、僕はここ『スタジオーネ』に来て、ディーナとエルサに出会って、初めて義務感ではなく自分の意思で『護りたい』と思う事ができた。そう思っていた。」
でもね、と続ける。
「本当は違うんだ。僕が一番最初に、自分の意思で『護りたい』って思ったのは、識音だったんだ。」
そうなのだ。僕がまだ本当に小さかった頃。父親の背中を見て『護る』という事を学び始めた頃。僕の目に映ったのは、近所に住む女の子だった。
ポニーテールを揺らして家の前を通る彼女を、窓からこっそりと覗いていた。幼心から彼女と仲良くなりたいな、と思っていたが、引っ込み思案な僕には、なかなかきっかけがなかった。訓練を言い訳にして彼女から逃げていた。
そんな時、公園で黒い犬に襲われる彼女を見て。犬の前でへたり込んでしまった彼女を見て。僕は確かに『護りたい』と思ったのだ。
「識音がいつも側にいてくれたから、僕はここまで歩いてこれた。識音が救ってくれたから、僕はまだ自分でいられる。全部、識音のおかげだ。」
「ゆ、うご……」
「僕には大事な人がいる。」
ちらりとディーナを見る。彼女は僕達を見守る事に決めたようだ。僕を見て柔らかく微笑んだ。
「でも、僕にとっては、君も同じくらい大事な存在なんだ。」
「……う……うう……」
「今までありがとう、識音。そして、もし君が、君が許してくれるなら。もし君が僕と同じ気持ちなら——」
そして、僕はその一言を口にする。
「僕と【結魂】してほしい。」
識音はその言葉を聞いて、ぽろぽろと涙をこぼした。
そして、涙を流しながら、笑顔になって言う。
「あはは。いきなり結婚なんて、勇悟は気が早いね。……でも、嬉しいな。」
勘違いした彼女の笑顔は、とても可愛かった。
◆
ディーナと識音、どちらも僕にとっては大切な存在だ。
どちらかを選べと言われても難しい。
僕は最低の優柔不断野郎だけど、それで良いと思えた。
ディーナは、識音の事を認めてくれた。
何度も謝ったが彼女は首を振って、笑ってくれた。
そして、衝撃の事実を口にする。
「ユーゴさん、何かおかしいと思ってましたけど……もしかして、ユーゴさんの世界では男女が一組で夫婦になるのが当たり前なんですか?」
「ん? そりゃあそうだね。」
「スタジオーネでは一夫多妻制が常識ですよ。ユーゴさんぐらい腕の立つ方なら、妻が4、5人いてもおかしくないですし、妾がいてもいいぐらいです。というか、ユーゴさんの妻が1人だけなんて、もったいないですよ。」
「……え……えええ?」
「というわけでユーゴさん、好きな人はどんどん娶っちゃいましょう!」
開いた口がふさがらないというか、なんというか。
とにかく、ディーナの了承も得られたので、識音と儀式をする事にした。
識音と向き合って立つ。
今回の見届け人はエンリコさんではなく、ディーナだ。
「識音……じゃあ、はじめるね。」
「う、うん……まさか、スキルの事だったなんて……恥ずかしい……」
顔を別の意味で赤くした彼女。
「あはは、ごめんね、ちゃんと説明しなくて。でも、別にそっちの意味で受け取ってもらってもいいよ。」
「え? ええええ?」
「識音は良いお母さんになってくれそうだしね。」
「あああ」
耳まで真っ赤になった彼女。
識音の目まぐるしく変わる表情は、いつでも僕の心を楽しませた。
僕は識音の手をそっと掴む。
「識音……」
識音の黒い瞳が僕をまっすぐ捉える。ああ、いつもの笑顔だ。
「勇悟……」
そして、スキルを発動させる。
「『結魂』」
すると、識音の僕に対する気持ちが、大きくて暖かい想いが僕の胸の中いっぱいに広がる。ディーナのものとは別の種類の暖かさだ。
僕の識音への想いも伝わったようで、識音は目を白黒している。想いを直接感じるのは初めてだろう。彼女はうっとりした表情を見せている。
僕と識音の間には、たしかにつながりが生まれていた。
僕と識音、お互いに今ここでやりたい事を理解する。
僕と識音は一歩近づき、僕達の距離がなくなっていく。
彼女の黒い瞳と、僕の黒い瞳がぶつかりあう。
鼻と鼻を合わせると、くすぐったい。
そして、僕達はそのまま——
僕はまた一人、大切な人を見つけたのだ。
読んで頂きありがとうございます!
後編に続きます。




