ごめんね:間
勇悟が風理から身を離し、近づいてくる。
その瞳からは、先ほど見せていた彼の意識が完全に失われていた。黒い力が風理から彼の体内へと口移しで注ぎ込まれるのを見ていた。恐らく、あれが穢れなのだろう。彼はもう、黒い意識に支配されつつあるようだった。
彼は迷いを振り切るように、一歩一歩、私へと近づいてくる。その目はしっかりと私を捉え、一挙手一投足を見逃さないように、獲物を狩る狩人のように、私を縛り付けた。
私はそんな彼の表情を見て、言葉を失っていた。
そして、勇悟は私の目の前で立ち止まる。学校で再会した時よりも伸びた身長に見上げるようになる。
彼の赤くなった相貌が、鋭い視線を私にぶつけてくる。もはや、そこに私への絆はみじんも感じられなかった。
「ゆう……ご……」
思わず、彼の名前を口にする。
彼はピクリと身体を震わせるが、その手は徐々に私の首に向かってくる。断頭台のように、絞首台のように。
「ありが……とう……」
口をついて出た言葉。それは、彼への感謝。
涙が自然と溢れ出す。
あの時、私を護ってくれた彼。
いつも、私を護ってくれた彼。
私はまだ恩返ししていない。
彼を救い出していない。
その時、私の脳裏には、ユーピテルとの会話が思い出されていた。
◆
「彼の身体から穢れを取り去ることは難しいだろう。彼はもう……人ではいられない。」
ユーピテルの声がそう言った。私はその言葉に動揺を隠せない。
悪魔のような姿。彼はもうその姿でしか生きられないのだ。
例え心を取り戻しても、きっと彼はその姿に苦しむだろう。
人々から排斥され、傷つけられ、心を病んでしまう。
身も心も堕とした彼。
私は、もしそうなったとしても、彼の隣に居続ける事を決めていた。
「しかし、もしかしたら——」
可能性。
「——もしかしたら、彼を救えるかもしれない。」
「っ! それは! それはどんな方法ですか!」
彼を救い出せるなら。彼に恩を返せるなら。
私は彼のためなら、何でもするつもりだった。
そして、ユーピテルはその内容を口にする。その余りにも残酷な内容を。
「仁木勇悟を、殺すんだ。」
私は開いた口がふさがらない。
彼を救おうとしているのに、彼を殺す。
「な……なにを、いって……」
「いいかい、よく聞きなさい。」
ユーピテルは落ち着く声色で私に話しかける。
「彼には、私の加護である【大神ユーピテルの庇護】を与えたんだ。」
加護という耳慣れない単語にたじろぐ。
「その効果は、【起死回生】。」
私は心を落ち着かせながら、ユーピテルの話を聞いた。
◆
【起死回生】。
彼の肉体に致命的なダメージを与える事で発動する。
肉体を凍結し、時間を巻き戻し、回復を促す。
それは、肉体のみならず、魂にまで影響を与える。
この、『時間を巻き戻す』というのがくせ者だ。
どこまで巻き戻すか、それは、彼自身が『正常だと考えている状態』まで。
つまり、彼が『魔神』へと変異を遂げようとしている肉体を『正常』であると受け入れている時、彼に与えたダメージが回復するのみ。
風理との愛に溺れ、風理が肯定した姿が、彼の中で『正常』であるという可能性はかなり高いだろう。もう彼は、昔の自分を忘れているかもしれない。
だが、もし彼が、彼が以前の自分を覚えているなら——
細い、細い可能性だが、そこには賭ける価値があった。
「だが、今の仁木勇悟君は非常に強力だ。もはや世界中のどんな存在でも、彼に致命的なダメージを与えることは難しいだろう。」
「サポートするとは言ったが、『スタジオーネ』は私が管理する世界ではない。世界に大きく干渉する事はできない。」
「だから、君に力を与えるのが精一杯だ。君の魂が受け入れられるスキルと、君の肉体が耐えられるステータス。その程度になる。」
「今の彼に傷をつけられるようなスキルはほとんどない。」
——その中で、君に合うスキルは、ひとつだけ。
それは、全てを破壊する力。
それは、どんな物でも破壊する力。
矛盾の矛を体現したような最強の力。
ただし、布一枚、貫けない。
ちょっと遮るだけで、簡単に防がれてしまう。
そんな最弱の力でもある。
その力は、【万物破壊】。
◆
私は、静かにその力を自分の右手に宿らせる。
勇悟の手が、私の首に掛かり、徐々に締められていく。
彼を救いたい。
彼を殺したくはない。
救うために殺す。
それは、ミネルバが彼につきつけた選択肢のように私を切り裂く。
「ごめ……んね……」
思わず、贖罪の言葉が口をついて出る。
同時に、彼にやっと恩返しできる事。
それを嬉しく思う自分も確かに存在していた。
そして——
私はそっと、自分の右手を、彼の胸に突き刺した。
ほとんど裸の彼は、上半身に布一枚もまとっておらず、遮る物は何もない。
私の手は容易に彼の肉体の鎧を突き破った。
彼の肉体が、【万物破壊】によって破壊される。
「ごめんね……勇悟。」
彼が崩れ落ちる。風理が駆け寄る。
私は、その様子を無言で眺めていた。
私は勇悟を。
命を救ってくれた勇悟を。
勇悟を、殺した。
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