月光:裏
引き続き、R-15表現があります。ご注意ください。
生まれた時から、私は活字に囲まれて育った。
稀覯本収集が趣味の父は、稀覯本のみならず、世界中の名作と呼ばれる作品を書斎に納めていた。その分野は多岐に渡り、私は本の世界に魅せられた。
しかし、その代償として、私は人と関わる事が少なかった。
人と話すよりも、本を読んだ方が楽しかったから。
幼稚園の時から活字を読み続けた私は、小学生になった時、周りの皆と話を合わせる事ができなかった。
はしゃぎ声を上げて走り回る彼らが、自分とは異質なものに見えた。
私は、彼らとコミュニケーションを取るのを、あきらめた。
私はクラスの中で孤立し、誰も私に話しかけるものはいなかった。
それは二年生になっても変わらず、先生はそんな私に戸惑いの目を向けた。
先生は私の両親に話を通したらしい。
三年生になった時、転校する事になった。
「ねえ、風理。あなたが本を好きなのはわかってるわ。」
母が優しく語りかける。
「でもね。他の人と話すのをあきらめてはダメよ。」
どうして、とは聞かなかった。母の気持ちも理解できたからだ。
「本の中に物語があるように、人それぞれにも物語があるのよ。」
その言葉は、私の胸を打った。
私は本の中の人物にばかり目を向けていた。
しかし、それは虚構のもの。そこにいる人々に厚みは無い。紙の薄さだ。
現実の人々の物語には、限りがない。
一人一人、別の物語が、生きている間ずっと続くのだ。
私は、人の物語も好きになろうと決めた。
◆
転校先で、識音という少女と勇悟という少年と出会った。
識音は私とは違って明るく社交的、弾むような笑顔で、私を惹きつけた。
そして、勇悟。
初めて出会った時、彼はその優しそうな相貌で笑顔を浮かべていた。
いっぺんに、恋に落ちた。
一目惚れだったと思う。
私の心は甘酸っぱい初恋に浮かれ、彼が口を開くたびに大いに揺れた。
小さい頃から読んでいた恋愛小説の登場人物の気持ちが、初めて理解できた。
学校で話したり、図書館に行ったり。
本よりも好きになった彼の側にいる時間が、何よりも幸せだった。
彼が本を好きになってくれた時、私の事を理解してくれた気がした。
しかし、そんな彼の隣には、別の存在がいた。
彼の幼なじみ。
識音は、彼の事をどう思ってるのだろうか。
彼女にこっそり聞いてみた事がある。
「ねえ、識音ちゃん。」
「ん? なあに?」
「識音ちゃんって、仁木君の事、好きなの?」
すると、彼女は顔を真っ赤にして慌てだした。
「え、えええ、そ、そんな事、そんな事ないよお。」
その顔を見れば、答えは一目瞭然だった。
私は、彼の事が好きだ。でも、識音は私の親友だ。
彼の隣に小さい頃からいたのは、彼女だ。
私は、身を引くことに決めた。
◆
心の奥に、淡い恋心を押し込めてから数日。
それは、起こった。
「おい、ブス。何読んでるんだよ。」
その男の子は私から本を奪い、そして、平和も奪った。
「おい、見ろよ! 仁木とブスが付き合ってんぞ!」
彼と話していた時、そんな幼稚な罵声が浴びせかけられる。
私は、自分の外見に特に思うところはなかった。
そんな事よりも、『付き合っている』という言葉が、例え私たちをからかうためのものだとわかっていても、私の心に大きな波を立てた。
しかし勇悟は、そんな彼らの言葉にヘラヘラしながら立ち上がる。
「べ、べつに」
やめて。
「こんな、ブ、ブス、なんか——」
言わないで。
「——好きじゃないよ」
ああ。
その言葉は、鋭い槍となり、私の心を抉った。
大きな穴が空いた私の心は、ヒューヒューと音を立てていた。
それから彼は、私に近づいてくる事はなかった。
◆
彼らの圧力は日に日に増していたが、私は学校へ行くのをやめなかった。
識音がいたから。
彼女は、私の代わりに怒り、私の代わりに抗い、私の代わりに泣いた。
私はそんな彼女に、何も返す事ができていない。
彼女が望むなら、せめて学校には行こうと思った。
しかし、ついに識音も彼らの標的になってしまう。
友達に話しかけても無視され、落ち込む彼女を見て、私は決意した。
「識音ちゃん……私とはもう、仲良くしない方が良いと思うの。」
「か、風理ちゃん?」
「私は、識音ちゃんまで巻き込まれるの、耐えられないよ。」
「や、やだよ。私は、風理ちゃんから離れないよ!」
しかし、私は首を横に振った。
このまま彼女の好意に甘えていてはダメだ。
私が強くならなくちゃ。
私は識音も遠ざけて、ひとりになった。
どうせ、一年生の時から一人だったのだ。
その頃の事を思い出せば良い。
私はまた、本の世界に閉じこもった。
◆
そして、その時を迎える。
部屋で本を読んでいると、突然、声が響いた。
——かわいそうに。お前はひとりになってばかりだな。
聞き慣れない声に驚き、部屋の中を見回す。
「誰っ!?」
しかし、誰の姿もない。
——お前を、『救済』してやろう。
その声は、私の頭の中に直接語りかけているようだった。
「きゅう、さい? どういう、こと?」
——お前の魂を肉体から解放し、自由にしてやるのだ。
「えっ……それって……」
——さあ、行くがよい。
その言葉を最後に、私の肉体の意識は途切れた。
◆
長い間、さまよっていた。
私の意識は中空を漂い、暗い海に沈んでいた。
そこには、大勢の人々が同じようにいた。
ある者は、戸惑い。
ある者は、嘆き。
ある者は、怒り。
ある者は、恨み。
共通していたのは、強い負の感情。
彼らは世界から疎外され、迫害され、排斥された人々。
私も、そんな彼らの一人として、漂っていた。
例外はないように。
定められていたように。
私も、強い負の感情に囚われていた。
それは、愛憎。
どうして、あの時、私を見捨てたのか。
どうして、あの時、私を裏切ったのか。
私の中にあった暗い気持ちが、増幅されていった。
憎い。彼が憎い。
私を見捨て、裏切った彼が。
私を見ずに、愛してくれなかった彼が。
でも、愛しい。
彼が愛しい。彼に私を見て欲しい。彼に私を愛してほしい。
彼がほしい。
彼とつながりたい。
彼と一緒になりたい。
私の中で、彼への思いはどんどん大きくなっていく。
もはや、識音という存在は、私の意識から完全に消えていた。
私が我慢することなんかない。
私は——
そして、その空間に、穴がひとつ開いた。
空間の中にいた人々が、一斉に穴へと大挙する。
私も当然、穴へと向かった。
穴の先には、懐かしい気配と、親しんだ感情があった。
ああ、彼女も。
彼女も、私と一緒なんだ。
彼女も、彼の事が。
そして、私と彼女は、ひとつになったのだ。
◆
ミネルバであり、風理でもある。それが私。
私は、勇悟の成長した身体を抱きしめた。
彼は私を受け入れてくれている。
ゆっくりと顔を近づけていく。
ああ、久しぶりに見る彼の顔は、相変わらず。
優しくて、かっこよくて。
好き。
大好き。
私の心に彼への思いが溢れ出し、もう歯止めが効かない。
彼の乾いた唇に、唇を重ねる。
彼とつながった気がした。
彼の口の中に舌を差し込む。
彼は一切抵抗しない。私の舌を受け入れてくれる。
次第に、クチュクチュと音が大きくなる。
彼の舌に、私の舌を絡める。
超、おいしい。
同時に、彼に魔法を発動する。
それは『魅了』。そして『隷属』。
口を通して、彼に私の『愛の力』を流し込む。
彼はもう抵抗できない。
彼のそばには、もう誰もいない。
彼の体内に、私の『愛の力』が流し込まれていく。
彼の中が、私で満たされていく。
口を離して、彼を見つめる。彼は頬を上気させて私を見てくれている。
「もう、見捨てないでね。勇悟。」
私は、彼に呪縛をかけた。
「ああ……わかったよ。」
彼が私を抱きしめ返してくれる。
ああ、嬉しい。
やっと。
やっと一緒になれた。
彼は私の耳元で囁いた。
「君を、君だけを護るよ。風理。」
そして、私たちは、ひとつになった。
読んで頂きありがとうございました!




