月光:表
R-15表現が含まれます。ご注意ください。
何もわからない。
何も聞きたくない。
何も見たくない。
僕は王都を出て、ふらふらと街道を歩き続けている。
辺りは既に暗くなり、視界は闇に支配されている。
すべて、失ってしまった。
右手も、左手も。
空っぽになった手を振りながら、闇雲に歩き続けている。
もう、どうでもいい。
僕にはもはや、護るものがなくなっていた。
僕を支えていた何かが、音を立てて崩れてしまった。
何も考えずに街道を歩いて行く。
時折、街道の脇からゴブリンが飛び出してくる。
【自動防御】は意識して切ってあった。
僕の身体を、ゴブリン達の剣が、槍が、傷をつける。
しかし、【自然回復】によって数秒で回復してしまう。
痛みは感じなかった。
ゴブリン達は何をやっても通じない事を悟ると離れていった。
僕は、もう痛みも感じない。死ぬ事もできない。
忘れていた『むなしさ』が、『孤独』が、僕の心を支配する。
悲しみに染まった二人の表情が、僕に『贖罪』の気持ちを思い出させる。
もう、僕の手を握る存在はいない。僕の手をひっぱる存在もいない。
僕は、ひとりだ。
◆
街道をひたすら歩き続けていると、前方にぼんやりとした光が見えた。
その光は、どこか暖かく、どこか寒々しい。まるで月光のようだった。
光に近づくと、その中心には誰かの人影があった。
しかし、僕はなんの興味も持てない。
俯きながら、光を素通りしようとした。
「……仁木、君……」
僕の苗字を呼ぶ声が聞こえた。聞き慣れない声だ。
僕は思わず立ち止まり、光を振り返る。
そこには、裸の少女が立っていた。
「……仁木君、私のこと、覚えてる?」
少女が、僕を見ながら声を出す。
少女は、肩までの黒髪を三つ編みにしている。
茶色がかった黒眼の垂れ目が僕をじっと見ている。
小柄だが、僕と同い年か少し下ぐらいだろうか。
歳にしては大きめの胸と、ほっそりとした身体が対比している。
「……誰?」
僕には心当たりがなかった。
「……そう。……これなら、わかるかな……?」
そう言って、彼女はどこからともなくメガネを取りだした。
黒縁で、少し野暮ったい印象を受けるメガネだ。
彼女はそれを装着すると、メガネ越しに僕を見つめる。
その顔には、見覚えがあった。
「う、そだ……」
思わず声が震える。
「ふふ、思い出した?」
彼女は少しだけ微笑む。その柔らかい微笑みが、僕の記憶を蘇らせる。
「なん、で……きみが……ここに……」
その顔から目が離せない。
「私にも、わからないよ。」
鼓動が激しくなる。あり得ない。だが、確かに彼女はそこにいた。
「久しぶり、仁木君。」
その少女は、僕が見捨てて、失踪したはずのクラスメイトだった。
◆
月野風理。
僕が小学3年生の時、彼女は転校してきた。
「はじめまして、皆さん。月野風理と言います。」
ペコリとお辞儀する彼女の第一印象は、『なんだか暗そう』だった。
野暮ったい眼鏡を掛け、黒髪の三つ編み。小柄で少しぽっちゃりしている。小さい声は『大人しい』というよりも暗い印象を与えた。
クラスメイト達から転校生として質問攻めを受ける彼女の受け答えはしっかりとしていて、大人を相手に会話しているようだった。
質問が落ち着くと、彼女は本を取り出して読み出す。静かに読書する彼女の姿は、侵してはならない神聖な気配が漂っていた。
しかし、そんな聖域に侵入する不心得者が一人。
「やっほー、風理ちゃん! 何読んでるの?」
識音だった。
僕の幼なじみの遠慮の無い質問に、風理は微笑むと本を閉じてブックカバーを外して表紙を見せる。それは、決して小学3年生の読むようなものではない、純文学小説だった。
「わあ、難しそう! 風理ちゃんって大人だね。」
識音の手放しの賞賛に、少し恥ずかしそうにしつつ、そんな事ないよ、と言った彼女は可愛かった。僕は、そんな二人を少し離れた席からぼんやりと見ていた。
「勇悟! 勇悟ってば! こっちに来て風理ちゃんとお話しよっ!」
識音から名前を呼ばれてビクッとしながらも、渋々と立ち上がる。
風理と識音に近づき、風理に挨拶する。
「……やあ、月野さん。僕は仁木。仁木勇悟だよ。」
「ふふ、初めまして、仁木君。よろしくね。」
彼女の柔らかい微笑みが、印象的だった。
◆
それから、僕は風理と時々遊ぶようになった。
彼女は博識で、僕の知らない事をいくつも知っていた。
「——うん、月の裏側は地球からじゃ絶対見えないの。」
「へ、でも月って地球の周りを回ってるんだよね?」
「そうだよ。でも、いつも表側を見せるように回ってるの。」
「うーん……?」
「月は、自転と公転の周期が等しいんだって。」
彼女の言葉は、小学3年生の僕には難解で、まだ理解できない部分もあった。僕の知らない世界が見えている彼女がうらやましくて、彼女を見習って本をよく読むようになった。
識音と三人で図書館に行くこともあった。彼女に面白い本を聞くと、ファンタジー小説を薦めてくれた。指輪を巡る壮大な世界。衣装ダンスの向こうの世界。精霊の異世界が重なった世界。様々な物語が、僕の世界を広げてくれた。
いつだったか、彼女に聞いてみた事がある。
「月野さんはどうしてそんなに色々知ってるの?」
すると、彼女はこう答えるのだ。
「知らない事を知るのが嬉しくて。今までわからなかった事が、わかるようになるのって、素敵だと思うんだ。」
彼女は目を閉じて続ける。
「本ってね、言ってみれば昔の人の知恵とか、歴史とか、考えた事がつまっているものでしょ? それを知らずにいるのは、もったいないよね。」
そう言って、柔和な笑みを浮かべた彼女に、僕は魅了されたのだ。
◆
しかし、そんな日々は長くは続かなかった。
「おい、ブス。何読んでるんだよ。」
クラス一の乱暴者が、風理の読んでいた本を取り上げる。
「っ!」
風理は驚いた顔で、乱暴者を見上げた。
「……なんだこれ、読めねー」
それは、日本文学の短編小説で、難解漢字の果物の名前を持つ本だった。
「それはね、『レモン』って読むんだよ。」
と、いつもの柔らかい笑みを浮かべる風理。
乱暴者には、そんな彼女の笑みが、彼を馬鹿にしているように映ったらしい。顔を赤くして、本を放り投げる。
「馬鹿にすんじゃねーよ! ブス!」
風理は放り投げられ、床に落ちた本を悲しそうな表情で見た。
風理は黙って立ち上がると、本を拾い上げて埃を払う。
「っ! 無視すんなっ!」
彼は、ますます憤慨すると、風理に近づこうとした。
「待ちなさいよ!」
しかし、その前に識音が立ちふさがる。
「うるせー! そこどけよ!」
「どくわけないじゃない!」
二人が言い合っていると、先生が教室に入ってきた。
乱暴者は舌打ちすると、自分の席に戻っていく。
識音も風理に声を掛けつつ、席に戻る。
風理は本を大事そうに抱えていた。
その日から、彼女への攻撃が始まった。
◆
最初は、乱暴者だけだった。
しかし、乱暴者は力で周りを強引に巻き込んでいく。
徐々に彼女への排斥の輪が広がっていく。
彼女と話していると、乱暴者が声を上げた。
「おい、見ろよ! 仁木とブスが付き合ってんぞ!」
僕はその声を無視していたが、風理は少し顔を赤くしていた。
「仁木ってあんなブスが好みなのかよ!」
「マジでー?」
ゲラゲラと笑い合う男子達。
僕はついに耐えきれなくなり、反応してしまう。
「べ、べつに」
ヘラヘラと笑いながら答えてしまう。
「こんな、ブ、ブス、なんか——」
震えを抑えながら、その言葉を。
「——好きじゃないよ」
そう言って、僕は彼女から離れた。
僕は、最後まで彼女の顔を見る事はできなかった。
◆
男子達から女子達にも広がり、ついには識音もターゲットになりはじめた。
風理は識音からも離れるようになり、ついに彼女はひとりになった。
それから風理は、あの柔らかい笑顔を浮かべる事もなくなった。
孤独の中、彼女はどういう気持ちでいるのだろう。
僕の事、恨んでいるだろうか。
僕の事、憎んでいるだろうか。
家でひとり、悶々と考える。
しかし、彼女を護るつもりはなかった。
僕はもはや、あきらめていたから。
そして翌日、彼女は学校から消えた。
◆
「久しぶり、仁木君。」
柔らかい笑顔を浮かべる目の前の女性。
「月野、さん……」
すると、彼女は嬉しそうに笑った。
「ふふ、思い出してくれたんだ。よかった。」
彼女は、間違いなく月野風理だった。
「でも、こうして会えたんだから、名前で呼んでほしいな?」
上目遣いで言う彼女。
「えっ?」
彼女は拗ねたような表情になる。
「私の名前。覚えてないの?」
「い、いや。覚えてるよ。……風理さん」
「さん付けもやめて?」
「う……か、風理……ちゃん」
「呼び捨てが、いいな。」
クスリと笑う彼女に逆らえそうにない。
「か、風理」
すると、風理は僕に近づいてくる。
今思い直せば、彼女は全裸だった。僕は目のやりどころに困ってしまう。
目を逸らした僕の前に、立つ彼女。
失踪当時の彼女の姿ではない。僕と同じように成長している。
ぽっちゃりとしていた体型も顔も、今はすっきりとスリムになっている。
ぎゅっ。
柔らかい感触が、僕を包み込んだ。
「ええっ!?」
全く予想していなかった展開に、僕の頭は真っ白になる。
【高速思考】で加速していたはずの思考が、全て停止する。
「……勇悟。」
僕の名前を呼び捨てにする彼女。
「私の事、見捨てたよね。」
ビクリ。
彼女の言葉に身を震わせた。
「いじめられてたのに。寂しかったな。」
一番言われたくなかった言葉が、彼女の口から零れた。
「ねえ、勇悟。」
彼女の顔が、僕の顔の目の前に。
そして、彼女はそっと僕の唇に唇を重ねた。
数秒間か。
それとも数時間か。
僕の頭は完全に麻痺している。
口の中に、彼女の舌が入り込んでくる。
僕は抵抗できないまま、それを受け入れる。
水音が、夜の街道に響き渡る。
ようやく口を離した彼女は、僕を見つめて笑顔を浮かべる。
「もう、見捨てないでね。勇悟。」
僕はもう、彼女の顔から目が離せなかった。
読んで頂いてありがとうございました!




